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死ぬ為に、書く

──私にとって書くこととは、死ぬことである。


「死ぬ為に書く」、この言葉自体は異質だろう。なぜなら、逆の「生きる為に書く」、この言葉が非常にポピュラーな言葉だからだ。特に作家とか、始終「生きる為に書く」ことを念頭に置いている。だからこそ、続く職業だし、文学は不朽なのであろう。こうした世間だからこそ、余計私のこんな言葉の理解は苦しいのではないだろうか。だが、私にとって書くことは、死ぬことでしかない。今回は、その真意について書き記しておきたい。


さて、特にこのnoteというサイトに掲載しているの記事の多くは、私自身の人生の欠片を切り離して、文章にして、カタチ作っているものだ。そして私は、常日頃いろんなことを考えて生きている。人と話をしている時以外は常に考え事をしている。きっと、画面の先のあなたが思っているのより何倍かは。そうして考えて考えて考えた先に、私は文章という形で私の考えたことを表現する。それが楽しいと同時に、自分の体を切り裂いているような気がするのだ。そして私自身のレッテル───例えば希死念慮、過去の苦しみ、などのこれら全てをひっくるめて文章を書いている。書くことで、この時の私の苦しみを自分自身で肯定する。それが楽しく、また非常に恐ろしい。この真意は、私自身が文章を紡ぐことというのが、私自身の人生の大掃除であり、過去を忘れない為であり、私の慰みであり、私の苦労の供養であるということに尽きるであろう。それは、私自身の人生の一部を無理矢理にでもエンタメ化し、遊んでもらい、身を擦り切ることで苦しみから救われたいからだ。だから私はTwitterでも愉快なオタクを演じている。これは、決して私の本質ではない。勿論、推しが大好きで仕方ない。それは紛うことなく事実であり、私が発してきた言葉に偽りはない。だが、限りなく「フローリスト」「蛍草」ではあるが、本名を名乗る私ではなく、その「私」のあくまで「一部」なのだ。言わなくてもわかると言われそうだが、もう一度忠告しておきたい。

ちなみに、noteに書いた話はいくつかある。推しと出会えた時の話、好きな本の話、大好きな祖父母の話、私の過去の話。書いている時は息が詰まりそうになることもあるし、逆にノリノリで書いていることもある。ちなみに今は前者。なぜならこの文章を書き終わった後、私はこれから先、生きていけるか分からない謎の不安を感じているからである。或る作家の「ぼんやりとした不安」よりは軽いと信じたいが、まあある種お馴染みになってしまった希死念慮というやつである。

ただ、この希死念慮ですら私は文章の題材にする。そういえば、私の大好きな或る私小説作家は家族をモデルに小説を書くことを云々と書いてあって非常に共感した。そして同時に、彼が書き残した「遺書として小説を書き始めたら道がひらけてきた」という言葉を読んで、嗚呼、この人は弱いけれど芯がある人だなと思った。矛盾をかかえて、鋭い感性で生きているけれど、その文章はどこかユーモラス。そんな彼の足跡をたどりたい。そうやって今も、鋭い感性を巧く使いながら愚直に生きた彼の生き様を私は追いかけている。そこに、自分が生きるヒントがあると信じて。

嗚呼、すごく死にたくなっていたけど、やっぱり彼の話をしていたら彼と同じ歳まで生きたくなってしまった。でもこの端末を閉じれば、私はまた死ぬことを考えて、きっと何度か校正作業という名の文章の読み返しを繰り返したのちに、noteの投稿ボタンを押すだろう。


私にとって書くこととは、自己の整理、ひいては触れた文化芸術を自分なりに受容した上での己の感情の発露以上の何者でもない。そして、その感情の発露が一切なくなった時、私は生きている意味を見出せず死ぬであろう。そういう創作欲における欲望が消えていくという意味でも、私は死ぬ為に書いているし、こういう人間が生きたという証を作るためにも、私は今を生き、死ぬ為に書くのである。


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