夏季休暇自殺考【創作】

息をするにも何をするにも菊尾暁という人間は下手な人間である。夏季休暇ですこし休もうと思っていても、実家の家族の諍いに死を望む。

身体を満足に身綺麗にもできない。
ムダ毛の処理ですら忘れる。
化粧をするのも怖い。
そんな菊尾に、ある女は「菊尾、それはマナーだ。マナーなのになぜお前はそれをしない。せめて人間らしく身を整えるのが筋ではないか。」
と問い詰めた。

それはそうであろう。
化粧ができないのも、何もかも、その他全てできていない菊尾の責任だ。
それぐらいの思慮は持ち合わせている。だから思う。菊尾は生きている資格すらないのではないか。そう思う。極端であろう、分かっている。分かっているがどうにも仕様がない。こんな極端な思考をしてしまうのは菊尾自身の人間の問題であることも、周りがそうさせた部分があることも、そしてそれを改善しようとしてもがいてもがいてもがいて最期に死を選びそうな自分が選択肢として残されていることも、菊尾は分かりきっていた。

そして、かの女は続けた。
「綺麗になったら、気分も上がるよ。鬱々とも、しなくなるよ。ちゃんとメイクして、スタバに行って、何か飲んで、それで課題すればいいじゃん。」と。

羨ましい。
心底、菊尾はそう思った。
無条件に身だしなみを整え、それだけで笑える、かの女が羨ましい。
身だしなみを整えたくないわけではないのだ。
整えたいが、怖いのだ。
キラキラした他の大学生たちを見て、羨ましいと思う。自分もああなりたい。そう思わないわけではない。
だが、自分にそれがふさわしい人間だろうか?
みんなのように、綺麗に、楽しく、いられるのだろうか?
そう思う。だが、ネットの海を泳ぐ、汚い言葉を使う人間たち。
彼らのようにも、またなりたくないのだ。

だが、それは同時に、菊尾暁自身が一番人間を位で見ているように見える。そんな菊尾を、一番嫌っているのは菊尾暁本人である。人間は、何かしら、汚い。それは頭では分かっていても菊尾暁自身が菊尾暁自身の汚れを希死念慮以外によって受容し、『仕方ないよね、私だって人間だもの』と許容するには、あまりにも高い壁であった。ゆえに、彼女の頭の中では絶えずこの言葉が流れている。

『こんな自分は、あまりに浅ましいのではないだろうか?』

ずっと、宙ぶらりんのままで、そう考える。
今思えば、菊尾暁は、生まれた時から宙ぶらりんであった。
自分の顔が嫌いなわけでも、好きなわけでもない。だから、好きだと自信満々に言える人間の芯の強さにも、自信がなくて死にたがったり綺麗な人間を恨む人間の恐怖にも共感できない。どちらにもつけない菊尾は絶えず恐ろしさを感じた。自分の顔は好きでも嫌いでもない。それ故、菊尾は周りから「かわいいね」と言われてもありきたりに「ありがとう」としか返せない。逆に「お前はダサいな」「地味だな」と言われれば、「そうなのか」と思う反面、頬には涙が伝った。人並みに、悲しみを感じることは出来る。だが、自らの顔の醜さを美人を傷つける道具とするのは気が引けた。
であるから、菊尾はストレスでポツポツと出来上がったニキビを見つめながら、泣きじゃくる他ないのである。

泣きながら、菊尾は考え続けた。
どうすれば、周りの人間のように生きられるだろうか。

自分の好きなコスメをつけて、好きなように、自分のなりたいように、化粧をして、香水をつけて、ウキウキと街へ出られるだろうか。喫茶店でのんびりと紅茶を嗜んで、好きな作家の本を読む。勉強をする、そんなことがどうしたらできるだろう。何度もそう考えた。それをできない自分を呪った。

菊尾暁は同時に、菊尾が綺麗であることで満足する、周りや自身の存在も自覚していた。
だが、それはそ周りが思う、望んでいる菊尾暁だろうか?そう思ってしまう。本当は菊尾暁はもうただの化粧っ気のない、地味な、野暮な田舎娘でいた方が世界が回るのではないか。本当は、もっと大人っぽく、可愛らしい服だって着てみたい。だが、それを見て周りは「菊尾なんかが」と思わないだろうか。自己肯定感という言葉を生まれたときから辞書に持たぬ菊尾は、もはや自分の自己肯定感が高いのか低いのかですら判断する力を失っていた。


嗚呼、山奥で、花に囲まれて、そのまま死にたい。

そんな、決して叶うわけのない夢を見て、

そして次の日にはまた生きようとする己を自覚し、

菊尾は目を閉じた。


結局、

死のうとしようが生きるし、

生きようとすれば死にたくなるのである。

菊尾暁は、宙ぶらりんのまま、今日も延命する。

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