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私にとって暴力とは何か

落としたスマホが手元に返ってくるほどの治安の良さと、まさにこれから国を発展させていくんだという熱気と、素朴で人懐っこい笑顔が共存する場所 – 「ミャンマーってどんなところ?」と聞かれるたび、答えてきた説明だ。今、この言葉の冒頭に、「かつて」をつけなければならなくなるかもしれないという恐怖と共に、この文章を書いている。

2月1日にクーデターが起きてから3週間ずっと、現地に暮らす友人たちと連絡を取り合いながら、日に日に悪化する情勢を追いながら、怒りや絶望や疲労、それでもなんとか立ち上がろうとする励ましの投稿で埋め尽くされたSNSのタイムラインを眺めながら、自分に何ができるのか、何をすればよいのか、考えていた。

「暴動を起こせば、軍に鎮圧の口実を与えてしまう。それでは彼らの思うつぼだ」。そう言って、やりきれない思いをギリギリのところで抑えながら、人々はなんとか平和的な手段で国際社会の耳目を集めようと必死に努力している。

一番つらい思いをしているミャンマーの人たちがこらえているのだから、外国人である私が過度に感情的になってはいけないと思う。思うのだが、しかし、ただ「Freedom from Fear 恐怖からの自由がほしい」と街を歩く友人たちの叫びに、銃声が応答するのである。

「今日は実弾が使われた」「家族が暴行に巻き込まれたかもしれない」「ついに死者が出た、20歳の女の子だ」「怖くて一晩中眠れなかった」「インターネットが遮断される、今後連絡がとれなくなるかもしれない」– この3週間で私が直接受け取ったメッセージの一部だ。

現地にいない私がこうなのだから、今まさに現地にいて、毎晩街じゅうに響きわたる鍋を叩く抗議の音や、夜中に不審者を追って走りまわる自警団の足音、民主主義を求める渾身の叫びと発砲音にじかに晒されている私の友人たちがどれほど心をかき乱されているかは、察するに余りある。

人々は必死の思いで平和的な手段を貫いているが、その思いが切実であればあるほど、様々な事情からデモやボイコットに積極参加しない人々への圧力も高まっており、既にSNS上でも、些細な一言による仲間内での分裂や疑心暗鬼、中立的な発言さえ許されない緊迫した空気が日常化している。およそ全ての「公式情報」にカッコがついてしまう状況下では、フェイクニュースの拡散も、それによる混乱の拡大も早い。「自分たちの身は自分たちで守らなければ」と不眠の警備にあたる人々の目が見つめるのは、文字通り生死の問題である。

昨日、第二都市マンダレーでは、新たに2名のデモ参加者が治安部隊により殺害された。怪我人と身柄を拘束された人々の数は増え続けている。

すべてが、本当に、ギリギリのところにある。

この状況下で、私が個人的な感情を綴ることに何か意味があるとも思えない。だからこれを公開することは、ほとんど自分のためのセラピーに等しい。

けれど、もしかしたら、誰か一人でも、私の友人、ミャンマーについて何も知らない私の日本の友人がこの投稿に目を止めて、読んでくれるかもしれない。あなたが読んでくれるかもしれない。

見知らぬ国で起きた政治の話には興味が持てなくても、知り合いのnoteにいつになく物騒な単語が並んでいる様子にびっくりして、ほんの少しだけでも時間を割いてミャンマーに関心を寄せてくれるかもしれない。その数分が、あるいは何かを変えるかもしれない。そんな祈りにも似た気持ちがある。


2021年2月1日、ミャンマーで国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問、ウィンミン大統領をはじめとする現政権の幹部が拘束された。それがどういうことなのか、概要はこちらのイラストがわかりやすい。

より多角的な背景の分析は工藤年博先生の論考朝日新聞論座の記事が示唆に富んでおり、クーデター発生後の経過は長田紀之先生のレポートに詳しい。一般市民に対する軍の武力行使は絶対に許されるべきではないが、軍には軍の言い分があり、政権強奪に至った背景がある。

文字より動画が得意な人は、こちらの1分半の動画を見てほしい。きっと想いが伝わると思う。

日本にいるミャンマー人たちの抗議活動を見かけることがあったら、この記事を思い出してくれたら嬉しい。私たちは皆それぞれの事情によって切実であり、それはそれぞれに尊重されるべきものだ。

「国際社会」を構成する最小単位はいつだって個人だ。たった一人の小さな声が変化を起こすと信じることこそが、民主主義だったはずだ。


[ 追記 ] - 2/21 21:42 JST
Change.orgで署名活動が始まりました。是非お読みいただき、賛同いただけたらご協力をお願いします。


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