【小説】彼女とKとどん兵衛と(幼馴染の推しが炎上した話)
インターホンが鳴ったのは、夕食のどん兵衛にお湯を注いだときだった。僕はまずいな、と思った。どん兵衛の調理所要時間は5分だ。メーカーが5分と言っているのだから5分なのである。しかし来客によってはその規定時間をオーバーすることになるかもしれない。
来客、どうか宅配であれ。あるいはすぐに断れる宗教の勧誘とかでもいい。僕はそういうのを断るのをためらわないタチだ。NHKの集金人でもかまわない。なにせ僕の1Kにはテレビがないので、やりとりはたったの一往復で終わる。「テレビはございますか?」「ありません」これだけだ。しかし僕がここに越してきてもう5年になるわけで、さすがにもうNHKは来ないだろう。
立ち上がり、受話器を取る。「はい」「わたし」答えはそれだけだった。それだけでわかって、僕はため息をつく。少なくとも宅配ではないし、宗教の勧誘でもない。僕に対して「わたし」なんて一言でドアを開けてもらおうとするのは一人しかいない。僕は「今開ける」とだけ言って、エントランスのオートロックドアを開閉するボタンを押した。
彼女がここに来る理由はさまざまだ。いいことがあったから。悪いことがあったから。前者ならいい。僕は心置きなく5分後には(もう4分後だ!)どん兵衛を食べられる。しかし後者なら、僕はどん兵衛をあきらめなくてはならないだろう。前者であることを願いつつ、僕は玄関の鍵を開けた。
1分ほどして、ドアの開く音が聞こえる。それと同時に冷たい外気が忍びこんできて、僕は思わず身震いした。もう冬だ。
「いらっしゃい」
足音に振り向きながら言って、それから心の中でどん兵衛に別れを告げた。彼女の目元は真っ赤に腫れていたのである。
彼女は何も言わなかった。ただコートと鞄を床に置くと、重そうなコンビニの袋をどん、とどん兵衛の隣に置いた。それから空いている床にすとんと座る。すん、と小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。
「こたつ、出さないの」
彼女の第一声はそれだった。僕ははらはらしながら「めんどくさくて」と答えた。彼女はそう、と呟いて膝を抱えた。会社帰りらしい小綺麗な格好をしていたが、化粧はぼろぼろだった。
「今日はどうしたんだよ」
僕はちらと壁掛け時計を見ながら言う。どん兵衛にお湯を注いでから3分が過ぎている。普通に考えればあと2分なのだが、さる情報筋によるとどん兵衛は10分でもおいしくいただけるらしい。メーカーが5分と言っているのだから僕としては5分でいただきたいのだが、この際10分を試してみるのも悪くはないかもしれない。となれば、あと7分で彼女をいい感じに言いくるめる、もとい、慰めなくてはならない。僕が突然どん兵衛をすすりだしてもおかしくない、そんな雰囲気に、だ。
彼女は僕の葛藤も知らず、眉をひそめて顔を伏せた。そのまま何も言わない。上司に嫌味を言われた。仕事でミスをした。年下の同僚が結婚した。あれやこれやと考えを巡らせながら、僕は彼女が何か言うのを待った。
どん兵衛は熱湯に抱かれ、だしに身をゆだねながら何を思っただろう。早く食べて、という声なき声が聞こえてくるようだった。僕だって食べてやりたい。不思議だよな、僕はこんなにどん兵衛を想っているし、どん兵衛も僕に食べられるのを心待ちにしている。何せ食べられるために生まれてきたんだからそうに決まってる。僕らはお互い想い合ってるのに、彼女という障壁が僕らの逢瀬に破りがたい壁となって立ちはだかっているのだ。僕とどん兵衛、そして彼女。僕は彼女のことだって別に憎んじゃあいない。それどころか。だのにどん兵衛を目の前にすると、僕はどうも彼女を恨めしく思わずにはいられないのだ。
残り1分になったころ、彼女は肩を震わせた。
「炎上したの」
ああ、僕のどん兵衛よ。僕に食べられるためにお湯を注がれたきみ、さようなら。僕はどうもきみを幸せにしてやることができないらしい。
「お前の推しが?」
「そう。K、がね、炎上したの」
彼女の推しは間違ってもそんな夏目漱石の『こころ』に出てくる某男のような名前ではなかったと思ったが、今下手に指摘して彼女を刺激したくなかった。僕は「そう」と言った。
「熱愛報道が出て」
「ああ、また」
「そう、また」
すん、ともう一度鼻をすする音が聞こえた。僕はそっとティッシュの箱を差し出してやる。彼女はそれを取って目頭にあてた。マスカラがはげるのが、僕の位置からでも見えた。
はっきり言って彼女の推しは自制心がないほうで、おまけに無防備だった。これまでにも女性といるところをすっぱ抜かれたことがある。そんなアイドル推すのやめちまえと僕は何度も言ったが、そのたびに彼女の答えはひとつだった。「でも好きなの」
リアコ、というのとは違うらしい。別に付き合いたいとも結婚したいとも思わないんだよ、とは彼女の言である。それなら熱愛報道が出ても気にするなよと言いたいが、そういう問題ではないという。難解なものだ。
「お前も厄介な男に引っかかったよな。でも好きなんだろ」
「今回は違うの」
「は?」
小さく、彼女が唇を震わせた。何か言ったらしい。僕には聞こえなかったから、もう一度「は?」と言った。すると彼女はわっと顔を覆いながら叫んだ。
「不倫なのおぉ」
僕が人生で聞きうる中で最も情けなく悲哀に満ちた声だった。今地球上でそんな声を出しうるのは、彼女か、彼女のようにK(Kではない)に裏切られた津々浦々の女の子たちか、僕から捨てられたどん兵衛くらいなものだろう。少なくとも僕には無理だ。
不倫、と言ったが、彼女の推しは独身のはずだ。つまり相手の女性が既婚者なのだろう。どのみち人道にもとる行為であることは間違いない。僕は不倫はどちらもが平等に罰せられるべきだと思う。相手が既婚者だと知って通じていたなら、それはたしかに罪なのだ。
と、もちろん彼女の前で言うことはない。僕はただ、「おおん」と言った。犬だってもうちょっと上手く吠える。
彼女はゆっくり顔を上げると、コンビニの袋の中からビールの缶を取り出してプルタブを開けた。それからそれを一気にかたむけて、しばらく。僕が急性アルコール中毒を心配しだしたころ、やっと口を離してげっぷをひとつした。
「わ、わたし、わたしね、熱愛は我慢できた。Kは情熱的だし、まっすぐだから、自分に嘘がつけないの。隠すこともできないの。そういうの、嫌だったけど、でも美徳だと思った。あ、アイドルなんだから、もうちょっと自制心を持てよとか、上手くやれよとか思ったけど、でもそれができないのがあの子なんだと思うとさ、ちょっとかわいいじゃん」
かわいくはないだろ、という言葉も僕はこらえた。代わりに「わん」と吠えてみたけど、彼女はその違和感には気づかないようだった。重症だ。
「でも不倫はだめ。不倫は犯罪でしょ」
「犯罪ではないよ」
「そうなの!?」
「不法行為だけど」
「やっぱり犯罪じゃん!」
彼女はがばりと上げた顔をもう一度わっと伏せる。犯罪と不法行為の違いが彼女にはわからないようだったけど、今は仕方ないと思った。なんせ僕が急に犬になったことにすら気づかないのだ。人間の世界の法律がわかるはずがない。そういう夜もあるだろう。
「信じてたの。信じてたんだよ。優しくていい子だって。全部好きだった。性格も人間性もまるごと好きだったの」
それが「推す」という行為の難しいところだな、と僕は思う。
好きになった理由は様々だろう。顔。歌。ダンス。性格。けれどどこから入ったって、結局ファンはみんな最後には言うのだ。「人間性が好き」だって。
自分が好きになった人が素晴らしい人だと思いたい。素晴らしい人に違いないと思う。だから雑誌やらテレビやらインタビューやら特集やらの論拠をかき集めて「努力家」だの「優しい」だの「頭がいい」だのとはやし立てたりする。
もちろんそれが虚飾だとは思わない。ファンがいい人だと言うのならいい人なのだろう。けれどそもそもこの世界に純度100%の正しい人なんていないのだ。誰だって白と黒のはざまで生きている。僕らの世界はずっとグレーで、まったくの白なんてありえない。間違いもあれば罪もある。誰だってだ。
だからうっかり炎上することだって、もちろんある。
熱愛、不倫に限らない。暴言。差別的言動。ハラスメント。その他諸々。
そういうとき、ファンは裏切られたと思うだろうか。「彼はそんな人じゃないはず」と信じ続けるだろうか。どちらにせよ勝手なことだ。勝手に信じて、勝手に失望する。あるいは信じ続ける。そこにありのままの「彼」なんて存在しない。
人は初めから偶像しか愛せないのだ。ありのままを愛するなんてまやかしにすぎない。なにもアイドルに限った話じゃない。親が子を愛するのだって、夫が妻を愛するのだって、本質的には同じことだ。自分好みの虚像を作り上げること。それを人は愛と呼んだ。
だから裏切られたなんて思うのはお門違いなのだ。ファンが見ていたのはそもそもが虚像なのだから。はじめから約束もないなら裏切りがあるわけもない。ただ人は過ちを犯しうる可能性を誰もが秘めていて、ときに道を踏み外す。それを許せるか、許せないか、それだけ。
と、いう諸々を彼女に言うのは酷だろうと思ったので、僕は「なんかつまみでも出そうか」と言った。彼女は「トリュフ味のポテチ」と低く呟いた。そんなものこの1Kにはない。代わりに僕は湖池屋のプライドポテト(神のり塩)を開けて彼女の前にそっと差し出した。
彼女は何も言わず袋に手を伸ばした。ぱり、と小気味いい音が響く。それから二缶目のビールを開けて、さっきよりゆっくり傾けた。しばらく言葉はなかった。僕はどん兵衛をトイレに流すか、流しにネットを張ってそこに流すか考えていた。
「わたしね、まだKのこと信じたいの」
やがて彼女はそう言った。ティッシュで指先についた塩を拭き取りながら、呟くみたいな声だった。
「でもそれは多分、自分を信じたいからなんだよ。わたしが信じた彼が悪い人のわけないって思いたいの。わたしはただ、自分が馬鹿な男に騙されてたなんて思いたくないだけ」
彼女はまた膝を抱えた。その姿があんまり寂しいから、僕は今度はわんとは言えなかった。
そうか、彼女だってわかっているんだ。愛が独善的であること。自分が虚像を愛していたこと。それを思うと、僕は彼女が哀れで仕方なくなった。悲しみの不当性をわかっているのに悲しみから逃れられない彼女が。信じることの愚かしさを知りながらも信じることをやめられない彼女が。
「誰だってそうだろ。裏切られたって思うのは自分の審美眼が傷つけられたと思うからだ。みんな自分のことで精一杯だよ。お前だけじゃない」
「そうなの?」
「そうだよ」
「わたし、Kを信じてるつもりで本当はただ自分を信じてるだけだったんだよ」
「なあそのKっていうのやめない? 星新一の登場人物みたいで笑っちゃうんだけど」
するとみるみる彼女の瞳に涙が浮かんだ。やばい、と思った頃には彼女はまたティッシュで目頭を抑えていた。
「な、なまえを、呼べないの、呼びたくないの」
「だー! わかった! わかったから! いいよKで」
「わ、わたし、なまえ、もうむり」
ずごーっと音を響かせて彼女が鼻をかんだ。ひっくひっくとしゃくりあげる中にたまにげっぷが混じっている。そのげっぷごとビールで飲み下して、彼女はたん、と軽くなった缶を机に叩きつけた。
「馬鹿な女なの、汚い女なの、結局自分が可愛いだけなの」
叫びながら彼女は悲しきどん兵衛に手を伸ばした。僕が止める間もなく割り箸を割り、あっという間に麺をすする。すすった瞬間咳き込んで、「まずい」と割り箸を投げた。宙を舞った2本の棒切れは僕の顔面に着地する。ささくれが鼻に刺さった。彼女は続ける。
「自分が好きになった人だからいい人に決まってるって、勝手に信じて、それが違ったら裏切られたって勝手に騒ぐの。わかってるんだよこんなの馬鹿だって」
でも、と彼女は叫んだ。両手に顔を埋めて続ける。
「でも信じるのはいけないことなの? 好きになった人のことくらい信じたいよ」
それきり彼女は静かになった。僕はラグの上に落ちた割り箸を拾うのも忘れて、丸まった彼女の背中を見た。かわいそうだと思った。愛おしいとも。
人はありのままを愛せない。勝手に虚像を作り上げて、勝手に信じて、勝手に愛する。
けれどそれが罪のはずがない。
いつだって人は人を好きになる。好きになるのに理由なんてない。そして好きになったなら、その人の何もかもを信じてみたいと思うのもまた当然のことなのだ。それこそを人は愛と呼んだ。その自分勝手でときに虚しい、傲慢な愛こそ人の本然だ。
人は人を信じずには生きていけない。誰だって誰かを信じながら生きている。だから、そうだ。たしかに約束はなかっただろう。裏切りなどではない。でもそこには信頼があった。ならばどうあれ、「裏切られた」と感じるのは、間違いではないのだ。
勝手に信じて、勝手に裏切られる。それを馬鹿なことだと、誰が言えるだろう。それこそが人を愛するということで、愛こそが人の営みなのに。
「そこまでわかってんなら、俺に言えることはなんもないよ」
僕は割り箸を拾って、どん兵衛の上に置いた。彼女は顔を埋めたまま小さく「わかってる」と答える。
彼女の傷を誰も癒せない。時間だけだ。時間だけが、彼女に寄り添うことができる。
僕はやるせなくなって、コンビニの袋からビールの缶を一本取り出した。プルタブを引き、黄金色の液体を喉に流し込む。
ふいに、彼女が呟いた。
「何も言わなくていいから、歌って」
黄金色の液体が僕の喉奥で勢いよく暴れた。僕は汚く咳き込みながら涙目になって彼女を見る。彼女は顔を伏せたままだった。
「なんで?」
「なんでも。あんたの歌が聞きたい」
歌? なんで? カラオケと芸能事務所のオーディション以外で「きみの歌が聞きたい」と言われることがあるだろうか。もしやこれはオーディションなのだろうか。彼女は推しに裏切られた腹いせに、「わたしのかんがえたさいきょうのアーティスト」企画でも立ち上げる気でいるのか。その第一弾が僕?
なんということだろう。僕、20代も後半にしてアーティストデビュー。そう、すべては小さな1Kから始まった。
「どうせあんたの歌に期待なんてしてないんだから早く歌って」
というわけではないらしい。別に悔しくなんてない。
「俺、お前の推しの歌なんて知らないけど」
「やめて、Kの歌は嫌。そうじゃなくてあれ歌ってよ、ラスト・クリスマス」
それは僕の十八番だ。中学生のとき、春でも夏でもカラオケでこの曲を歌っていたら彼女に演奏停止を押されたのは一度や二度ではない。彼女からこの曲をリクエストされたのなんて、初めてのことだった。
「お前、歌詞の意味知ってんの」
「知ってる。あんたがずっと歌うから調べた」
彼女はそこで顔を上げた。真っ赤に腫れ上がった目で、じっと僕を見た。
「歌って」
僕は言葉に詰まって、一度視線をさまよわせた。けれど結局どうすることもできず、Last Criticism、と口ずさみ始める。
去年のクリスマス、僕はきみに心をあげただろ。でもきみはそいつを次の日には別のやつに明け渡してしまったんだ。今年はさ、もう泣かないように、僕はそいつを別のだれか特別な人にあげようと思う。
彼女は缶を傾けたり、プルタブをいじったりしながら僕の歌を聞いていた。僕は一番に挿入されるハッピークリスマス、というウィスパーボイスを再現するかどうか迷って、やめた。どう考えてもハッピーではなかったし、ウィスパーの雰囲気でもなかった。
3缶目を開けたところで、ぽつりと彼女は言った。
「あんたの歌声ね、ちょっとだけKに似てる」
僕はぱたりと歌を止める。彼女はそれを咎めず、ぐびりとビールを飲んだ。
「顔は、似てないんだけど、笑ったときの口の形がちょっと似てるの。それから目元にできるしわも」
彼女の視線が僕をとらえた。それから手が伸びてきて、僕の目元をなでる。かさついた指先だった。酒に酔って、熱い。
「きっかけはそれだった。友だちからKのグループのMV見せてもらったとき、あんたに似てる声の人がいるなと思って、それが気になって」
みょん、と彼女が僕の頬を摘んで伸ばす。僕はだったら、と言おうとした。けれど出た音はふぁっふぁら、で、情けなくていてもたってもいられなくて彼女の手を掴んだ。強く掴んだ。僕の手も負けじと熱かった。
「だったら、俺でいいじゃん」
彼女はぽかんとした顔で僕を見た。それからへにゃりとその顔が緩む。笑った。やっと笑った。彼女が笑ってくれるならなんでもいいやと思った。この後にどんな言葉が待っていても構わない。僕は彼女を笑わせることができた。それで十分だ。
それだけで、20年温めてきたこの恋も報われる。
「わたし、恋人いるから」
前言撤回まで10秒もかからなかった。
「えっ、うそっ、なんで、いつ!? いつから!?」
思わず膝を立てて彼女の両肩をがしりと掴む。彼女はへらへらと笑っていた。
「先週」
「聞いてない!」
「明日大々的に発表してやろうと思ってたの」
「いやお前、だったら恋人のとこ行けよ! 何俺のとこ泣きつきにきてんの? おかしくない?」
「相手、わたしがオタクだって知らないから。アイドル嫌いなんだって」
「そんな相手と付き合うな! 俺でいいじゃん!」
「あんたにはドキドキしないから駄目」
「推しと声も顔もそっくりなのに」
「そっくりなんて言ってないでしょ」
彼女がぺちぺちと僕の頬を手のひらで叩いた。僕は放心して座り込む。あっけなかった、僕の初恋。こんなにも簡単に散るなんて。僕はさっきまで、このどん兵衛よりかわいそうなやつはこの世にいないと思っていた。お湯を注がれたのに捨てられ、挙げ句の果てにまずいと罵られる。なんという不幸だろう、なんという不名誉だろう。そうだ、どん兵衛こそはこの世の不幸を一身に背負った存在だった。けれど今やその不幸さえ僕の前では霞んでしまう。今この瞬間、この世でもっともかわいそうなのは僕だ。僕なんだ。今なら情けない声だって出せる。というかもう出てる。
いまやっとわかった。僕はどん兵衛なんだ。しだいに冷えていく湯に凍えるやわい麺、それこそが僕だ。彼女にまずいと一蹴され、捨てられる哀れな僕。
最上級の親しみをこめてどん兵衛を見つめる僕に、彼女は言った。
「わたし、知ってたよ」
何を、とは言わなかった。それでも僕にはわかったから、「ひでえな」とだけ言った。
そうか、知っていたんだ。僕がきみを好きなこと。二十年近くもずっと、きみだけだったこと。ひどいやつだ。知っていたのに何も言わず、僕の気持ちを利用してことあるごとに僕の部屋へやってきた。泣きたいときも、笑いたいときも、退屈なときも。僕が拒まないのを知っていて。
「嫌いになった?」
彼女は笑っていた。僕は馬鹿らしくてたまらなくて、ビールを思いきり飲んだ。答えは決まっていた。
「お前がたとえ人を殺して泣きついてきたんだとしても、俺はお前を部屋に上げたよ」
ぽろりと、彼女の瞳から一筋涙がこぼれる。その肩が震えて、まばたきと同時にいくつもの涙がすべり落ちた。止まらなかった。
「そう」
「ああ」
「わたしもね、Kが好き。今でも、こんなに」
たとえ犯罪者でも変わらない。一度好きになった気持ちは、裏切られても、切り刻まれても、燃やされても。みじめな灰の姿になってまだ生きている。
それはやっぱり、推しを否定してしまえば彼を信じた過去の自分を否定するとこになるからという打算もあるかもしれない。自分を信じたいから、Kのことを信じたいと思う。上等とも高尚とも、純粋とも言えない愚かな愛。
けれどそれだけで片付けられない、盲目でまっすぐでガラスの破片みたいな感情がある、と思う。鋭くて、研ぎ澄まされていて、誰の言葉も聞き入れない、自分の姿しか映し出さない、そんな感情。一度心臓に刺さったら抜けない。好きだ、という、それだけのひとかけら。愛とさえ呼べない、けれど愛になる前の純粋で単純な火種。
そんなガラスの破片を、彼女は今も引き抜けずにいる。
「嫌いになれない」
彼女が顔を伏せると、涙が雨みたいに直接ラグに降り注いだ。ネイビーのそれが色をさらに濃くするのを、僕はじっと見ていた。どうすることもできなかった。
「あんたならよかったのに」
彼女が顔を上げて、僕らの視線が交わった。ひどい顔をしていた。不細工な顔。たしかに恋人のところに行かなくて正解だったよ。そんな顔見せられるの、僕だけだろ。そんな顔見て可愛いなと思えるのも、今のところ僕だけだと思うよ。
「あんたなら熱愛なんかないでしょ」
「しないよ。これでも一途だから」
「そもそもモテないもんね」
「しばくぞ」
「不倫もしないじゃん。そんな度胸ないし」
「ほめるのかけなすのかどっちかにしろよ」
「けなしてんの」
すっぱり言い切って、彼女はまた涙を流した。
「あんたならよかった。でもあんたじゃなかった」
僕は何と答えるか迷って、けれど結局ありきたりな答えしか思い浮かばなかった。
「当たり前だろ。俺はアイドルじゃないんだから」
彼女は情けなく笑った。それからぐっとビールをあおって、「そうだよね」と答えた。震える声だった。それがなんだか悲しくて、むしょうに抱きしめてやりたい気持ちになったけど、どうにも僕の腕は伸びやしなかった。
僕じゃなかったんだ。彼女の推しにも恋人にもなれなかった僕は、ただの幼馴染で、友だちで、どん兵衛だ。
だから手を伸ばせば届くこの距離で、それでも触れられない。きっとそれが正しい。
しばらく僕らの間に言葉はなかった。ただビールを嚥下する音と、プライドポテトを噛み砕く音だけが響いていた。
「これ、おいしいね」
プライドポテトをつまんで彼女が言った。僕は「そうだろ」と答えた。
「ポテチの中で一番うまいよ」
「トリュフ味のポテチ食べてみなよ。そんなこと言えなくなるよ」
「じゃあ今度来るとき買ってきてくれよ。ポテチパーティーしよう」
「ポテチと言えばさ、中学のとき斉藤が修学旅行にポテチ持ち込んで一日ホテルに軟禁されたの覚えてる?」
僕は笑った。そんなこともあったな。「覚えてるよ」と返して、プライドポテトの袋に手を突っ込む。
「USJ楽しかったのにな」
「ね。馬鹿だよね。わたしあれ好きだった。古代魚のやつ」
「待て。なんだ古代魚のやつって。お前のUSJと俺のUSJは本当に同じ時空にあったのか?」
「あったじゃん、でかい魚にお姉さんが銃ぶっぱなすやつ。なんだっけ? アノマロカリス?」
「ジョーズだよ! お前さてはジュラシックパークと混ざってんな?」
「アノマロカリスじゃなかったっけ」
「サメだよ」
「サメ!」
彼女は腹を抱えて笑った。どうやったらサメとアノマロカリスを間違えるのだろう。ついでに言うとアノマロカリスが生息していたのは古生代カンブリア紀で、恐竜が生息していたのは中生代だからジュラシックパークと混ざるにしても三億年ほどの誤差がある。誤差? 誤差って何? 三億年を誤差の範疇に片づけたら誤差はもうアイデンティティを失うだろ。アイデンティティを失った誤差なんてのびたどん兵衛と同じだ。つまり誤差は僕だったのか。
「そっか、サメね。あのお姉さん面白かったよね」
「サメとアノマロカリスを間違えるお前のほうが面白いよ」
「あとさ、安田が集合時間に間に合わなくて」
「ああ、みんなで探したっけ」
くすくすと笑みをこぼしながら彼女はぽろぽろ語った。思い出をかき集めるみたいだった。それは推しのいない自分の時間を確かめるようでもあり、言ってしまえば推しに依存しない自分の価値を確認したかったのだと思う。推しがいなくても、生きていけるように。推しを愛することだけが自分の生き方ではないと思い出すように。
やがて語りにあくびが混ざって、うとうとと船をこぎ始め、彼女は眠ってしまった。僕は彼女の体を床に横たえて、その上に布団をかけてやる。よく眠っている。明日が休日でよかった。
それから僕はやっと、机の上のどん兵衛に手を伸ばした。すっかり冷たくなってしまったそれを抱えて、トイレまで運んで、一瞥する。
どうしようもなかったよ。僕はわずかに胸の詰まるのを自覚しながら、そいつを便器の中に流した。レバーを引いてしまえばあっけない。くるくると渦を巻きながら、それは便器の奥へ吸い込まれていった。
*
朝日の眩しさで目が覚めた。
体を起こすと、彼女が窓辺で外を眺めている。あまり眺めのいいマンションでもなかったけれど、朝日をとりこむには十分だった。
「おはよう」
声をかけると彼女が振り向く。朝日の中で、彼女は微笑んだ。
食パンを焼いて、ピーナツバターを塗って食べた。いつもの朝食だ。ミネラルウォーターが切れていて、水道水でコーヒーを淹れた。味の違いは僕らにはわからない。コーヒーだって、スーパーで売っている安いインスタントだ。
食パンを全部平らげてしまって、コーヒーのお代わりを淹れたところで、彼女が言った。
「これからも、応援しようと思うの」
ほんのわずかに語尾が震えた。僕はああやっぱりな、と半分はあきらめの気持ちでそれを聞いた。もう半分は、そういう融通のきかないところを好きになったんだよなあという、やっぱりそれもあきらめだったかもしれない。
「降りないの」
「降りない」
「許せんの?」
「許せないよ。許さないの。でもやっぱり、曲も顔も声もダンスも、性格も、好きだから、降りない」
瞳がうるんでいたけれど、彼女は泣かなかった。湖みたいな瞳でまっすぐ僕を見ていた。
「もう信じるのはやめる。期待もしない。許さないし、忘れないし、軽蔑する。でも好き。愛と好きの違いって、たぶんそういうことでしょ」
僕にはそれが正解かどうかはわからなかった。100人いれば、100人が違うことを言っただろう。愛と好きの違いについて。最近ではTwitterで、好きとは花を摘むこと、愛とは花に水をやることだとブッダが言ったとかまことしやかに囁かれていた。仏教では愛とは煩悩の一つだから、ブッダがそんなことを言うはずはない。しかしこの言葉が多くの人の心を動かしたのは間違いないようだった。
愛と好きの違いなんて、どう考えたっていい。だから彼女の言ったことも間違いではないのだろうと思う。愛とは、相手のすべてを受け入れることで、相手のすべてを信じること。それはつまり「私の好きな人」という虚像を作り上げることでもある。対して、好きとはただ心臓に突き刺さったガラスの破片だけをたよりに、信じることも受け入れることもなく愛好すること。
それもひとつの考え方だ。そう思う。
「Kはね、きっと全部を受け入れてほしがるだろうな。許してもらいたいだろうし、信じてもらいたいと思う。でもできないの。わたし、ファン失格かな」
それはたしかに、誰だって許してほしいだろう。ミリエル司教がジャン・バルジャンを許したように、あるひとつの許しが誰かを救うこともある。誰もが罪を犯しうる。ならば誰もに許しを与えるべきだというのは、なるほど人道的じゃあないか。許しはたしかに優しく強く、そして正しい。
けれど人間というのは厄介で、そう簡単にはいかないものだ。「許さない」というのはほとんどの場合正しくは「許せない」で、その強い感情の前には正しさなどなんの意味もない。あるいは「許してはいけない」という義務感がはたらく場合だってある。世の公正のために。自分の信念のために。もしくは傷つけられた見知らぬ誰かのために。いずれにせよ、そういった確固たる姿勢も別に間違いではない。
人間なのだ。どうしてすべてを許すことができるだろう。
「推し方なんて自由だろ。推しの全部を受け入れる必要はないよ」
「そう。そうだね」
弱々しく笑って、彼女はコーヒーに息を吹きかけた。その顔を見ていると、ああ彼女はまた苦しむのだろうな、という予感が胸を焼いた。
愛することなく推す、なんて理想論だ。そのうち愛したくなる。許したくなるし、信じたくなる。その度にまた裏切られるかもしれないという恐怖と戦うことになるのだ。罪を犯した人間を推すということを、虚しく、あるいは恥ずかしく感じることもあるだろう。自分はやっぱり馬鹿な女なんだと自嘲する日もあるかもしれない。
それでも彼女は降りないという。なら僕は、その意志を尊重したい。
「コーヒー飲んだら帰るね」
「今日どうすんの。なんか予定あんのかよ。なんもなかったらつらいだろ。考え事とかしちゃってさ」
「買い物でも行く」
「付き合おうか」
「駄目だよ。わたし恋人いるもん」
そう言った笑顔がなんとなく寂しそうに見えて、やっぱり付き合うよと食い下がりたかったけれどやめた。彼女に余計な心労を増やしたいわけではない。
静かにマグカップを傾けて、やがて底が見える。彼女も同じタイミングでカップを置いた。洗い物くらいしようか、という彼女の申し出を断って鞄とコートを持たせた。マンションのエントランスまで並んで歩いて、僕らは互いに向き合う。
「それじゃ」
「ああ」
冬の朝は澄んでいて冷たい。何かが決定的に変わってしまった、こんな日にぴったりだった。
「いろいろありがとう」
そう言って彼女は身を翻した。ベージュのコートが遠ざかっていく。決然とした足取りに、僕には見えた。
僕は寒さに手を擦り合わせる。冷たかった。今日は冷え込むのだろうか。もうクリスマスだもんな。駅前の並木もじきにライトアップされるだろう。今年はもう、見に行かないけど。
ふとラスト・クリスマスを口ずさんで、エントランスの中に引き返す。郵便受けを覗きながら、今日の夕飯こそどん兵衛にしようと僕は強く心に決めた。
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