努力至上主義
「努力不足だった。」「努力が実った。」スポーツや勉強など結果が出る世界において、「努力」は必須で、更に“使い勝手“がいいものでもあると思う。
しかしこの「努力」という言葉で、結果までの過程を適切に評価できるかと言われれば微妙だと思う。
過去の反省や評価として、「単なる努力量の大小」のみを判断材料にするのは少し無責任とも言える。
自分はまさにこの便利そうで曖味な言葉に翻弄され苦しめられてきたと思う。
中学の駅伝ではアンカーを任されたが期待されるような結果を出せず、部活では真面目に練習をしてるのに、試合ではそれに見合わない成果。なんなら自分よりサボりがちな部員が大事な場面で活躍する。勉強は苦手な数学を克服できず、奨学金を貰えなかった。
これは少しの例に過ぎないが、これまでの人生でよくある話だった。
おそらくこの「真面目にがむしゃらに熱心に」で成果を残そうとする考え方の基盤には、スポーツアニメの影響が大きい。素直というか単純な性格でもあるので、
〜主人公とそのチームメイトが毎日部活のことだけを考えがむしゃらに努力し、試合でピンチに追い込まれた時は今までの努力をヒントに力を発揮する。〜
このような定番の流れが、現実の自分にも起きるのではと期待していた部分はある。笑
まずキャラクターと自身の競技レベルも次元も違うし、大半が成功を最終シナリオとするアニメ漫画で上手くいっているだけで、あんな都合の良い話が現実世界でそうあるわけではない。恥ずかしながらそれに気づいたのは最近の話であり、これまでの挫折経験から反発的にアニメで起こる成功プロセスは現実では絶対に、少なくとも自分自身には起こり得ないのだと悲観主義にもなったりした。
話を少し戻すと、自分はこれまでの失敗経験を「努力不足だった」と思い自分をひたすら責めていた。実際自分と同じような境遇と反省で終わる人は少なくないと思う。
しかしだからと言って、この反省が今後に活かせる訳ではない。なぜなら抽象度が高すぎるからだ。今後どうするかと聞かれた時、「悔しいので、」「気合いが足りなかったのでもっと努力する」「〜の方法を試してみる」で本当に次は結果を残せるのか。残せたら結果オーライだが、残せなかった時にはまた単なる挫折のみ残って失敗したなりの成長はほぼ残らない。
しかし今まではずっと意味のない反省で終わり、特に高校時代の部活では技術や知識は成長したという実感はあったが、心の成長がした気がしなかった。もちろんきつい練習に休まずついていく根性もついたけど、大事な場面に自分の支えとなる思考や軸が定まっておらず、成果を発揮できるかどうかはその日の調子や運任せ
だった。そしてそんな浮き足だった状態で望んだ引退試合は怪我をして終了。結局大事なところでは活躍できないんじゃないかという挫折をした。そしてこの精神的弱さを克服できていない故の挫折は、人生でまた繰り返す気がした。
大学でも部活を続けた理由は、まさにこの弱さを克服したい、克服するには絶対努力なんていう言葉だけで向き合っちゃいけないと強く思ったことがある。
そして技術も身体も成長した大学。最終学年の上位リーグを賭けた試合で同じような大事な場面がきたが、これも自分のシュートミスで負けた。
またか。またこれかと。本当に向き合いたくない現実だった。でもこの心底最悪な挫折があってやっと本質に向き合えたと思う。
なんでミスをしたか。言わば自分の失敗の慰めのために原因を挙げまくった。
1.土壇場の勝負強さが足りない?
他の大事な試合では何度か決めてるわけだから、土壇場の勝負強さがないというわけではない。仮に勝負強さの欠如が原因としても、この短期間、更に努力という曖昧なものでは克服できない。
2.外した時はどんな状況か。
その状況に慣れているほどの経験値はあったのか。今まで自分が要求されてこなかった役割を果たそうとしてること、それ故の段違いなプレッシャーにより雑念が多かった。自分の得意なタイミングではなく打たされていた。
3.ー、4.ー…
そうやって冷静に考えると自分の思考が整理され、客観的に分析できるようになった。
そこで初めて現段階の実力とやろうとしていた目標が見合ってないなどの失敗原因が見えてきた。
この時初めて無意味で曖味な自己批判をせずに済んだと思う。現段階の実力ではしょうがない部分と、次の試合まで期間で改善できる要素を適切な「努力」で克服しようと気づけた。初めてのまともな自己評価だと思う。
この経験から結果を残すため、もしくは次失敗だとしても次につながるような思考プロセスを踏むためには以下のことを前提に置く必要があると感じた。
1.前提努力なんて言葉は曖昧で、様々な成功要因の一部分でしかない。
2.無思考な努力は無価値。(努力量<効率)
3. 成長のための要因を因数分解できるか。
適正(才能を発揮できる分野かどうか)×がむしゃら努力(反復練習)×効率×自身の弱点理解と克服のための思考×経験値…等々、
上記を理解することで、より的を得た分析や成長ができるのではないか。
それを「努力が足りない」の一言だと、何とも無責任な気がする。
この言葉についてより深掘ると、人によって努力量の限界があると思う。(そもそも努力の定量化が難しい。)限界の努力値を超えると他の生活に支障をきたす場合だってあるし、限界を超えて努力できる「努力の天才」とは一種の才能だと思う。
実際がむしゃらな努力で結果を残せなかった自分の結論は、一流から見たらただの言い訳に聞こえるかもしれない。
でももしかしたら、限界の努力値を越えようとする努力だってベクトルがズレてる可能性もあり、少なくともそれを修正する分析が必要なはずだ。
がむしゃらな努力により得られるものとは、例えば反復練習により体が動きを覚える事、努力量によって得られる自信及び精神的支柱作りなどがあるだろう。だが個人的な体感では、やはりこれだけでは試合で活躍できない。だからこそ様々な要因を探し出すことが必要と感じる。
リーグ戦での敗北当初はやけくそになって努力なんて全く必要ない、運だの才能だのと開き直っていた。努力は結局必要だと分かってはいたが、こうして開き直っていた過程も決して間違いではなかったと思う。そこから努力以外に結果を残す方法を考えるようになった。
こんな偉そうに語ったが、結局は自己成長に向けた分析と戦略が必要ということ。しかし、これまでの自分はその戦略と努力というのを別に考えてしまっていた。
そして降格か残留かの最後の大事な大事な引退試合において、前回の失敗に対する分析のおかげで結果を残せたと実感、そして無事残留することができた。
たった一試合の成果だけど、今までの挫折が報われた気がした。
こんな自分の素人紛いな思考プロセスなんてまだまだ甘いと重々承知している。正直どれだけ分析しようが、その日の調子の良し悪しやメンタルも含めた運だってあるから同じミスをしたってしょうがないんだ!!と言い聞かせた部分もある。
しかしプロスポーツの世界を見ると、体の構造や使い方など、運なんて通用しないレベルで分析している。まじですごい。(WBCとか)
自分の今回の分析と成果も実は直結してないかもしれないし自分の思い込みかもしれない。
けれど、今までのような曖昧な「努力」に惑わされないことが理解できただけ大きな成長だと思うし、どの場面でも大事な話だと思う。
P.S
11月の部活動の引退から感じたことをずっっと後回しにした結果、社会人になってしまいました笑
投稿の時差がエグいけど、どこでも活かせることだと思うので投稿。
下手すぎる文章だけどご容赦下さい🤲
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