哀れなるものとは誰なのか

原題 POOR THINGS、邦題 「哀れなる者たち」という映画を観た。

この物語は一言で言うと、感情の物語とでも言えばいいのか。無垢な心が、色々を見、聞き、身体で感じ、その色々を足掛かりに自分の道を定めていく。つまり普遍的なことを描いているのだが、あのエマストーンがヒップまである黒髪を揺らしながら、ポップで奇妙な衣装を纏い感情冒険の旅に出ているものだから、何か壮大な渦に巻き込まれる感覚がある。
新しい体験に目を見開き、没頭し、執着し、疲弊し、でも尚明るい方を見ようとするエマがたくさん見れる。

映画を見ながら思い出していたことがある。
人生を進める中で、一番怖いと長年感じていたことを思い出していた。私にとっての一番の怖さは、はっと気づいたら自分の意図していないところに流れ着いていること。流れ着いた先は、全てが微妙にしっくりこなくて、完全な不幸ではないけど、安堵と苛立ちが一緒くたになって肌に絡みつくような感じ。でももう、流れ着いちゃったもんだから、帰り道を探そうとしても深い霧が邪魔をして、帰れる気も削がれるようなそんな状況。

毎日を過ごしていると、意図していない方向に促されるようなトラップがそこらじゅうにあるように感じる。しかもトラップだなんて、気付けないこともしばしば。意識していないうちに、自分の中に取り込まれ、少しずつ蓄積されたモヤモヤがエネルギーを持ち始め、舵を取るようになる。その行末は社会の固定概念だったり、親の願望だったり、属しているコミュニテイの中でのだいぶねじ曲がった“正解”だったりする。そんなもの、ただのクソだと(心の中で)中指を立てて言い張っていた。私は決して、そんな哀れで物悲しい大人にはならないのだと。

だがしかし、若さを震わせながら、瑞々しく中指を立てる(心の中で)ことが上手く出来なくなってきた。近頃じわじわと渦巻いている第二の恐怖によるものだと思う。それは、上述した「意図していない島流し」を恐れるあまり、頑なに自分の殻に篭ってしまうこと。どんどん融通の効かない、頑固な人間が出来上がっていく。マーティンスコセッシの映画に出てくる老いぼれたマフィアにただただ共感し始める。彼らは自分の”信念”を貫き続ける(半ば義務的に)ことでどんどん孤独になっていく。理解者を求め、いつだって傷ついている。

孤独が蜜のように感じられるのは、若い時だけなのかもしれない。いくらだって潰しが効くし、孤独に手を変え品を変え、詩的なものに変換できる。でも、孤独が同房のように身体に染み付いてしまった人間は、若さが過ぎてもずっと孤独と歩んでいかなくてはいけない。島流しにあっても、マフィアになっても。それって、どうやってやっていけばいいんだろう。中二病やグランジやパンクという言葉ではもう片付けられないところまで大人になってしまったら。

映画の話に戻るが、英語でPOORとは可哀想なとか哀れな、という意味だが、単なる同情ではなく慈しんでいるようなニュアンスが含まれているように私は思っている。人間の危うさ、傲慢さ、向こう水さ、滑稽さ。それにあきれ苛立ちながらも、どこか見守りたくなるような構図がこの映画にはある。哀れな、愛おしい人間たち。

どうせ人間は哀れで浅はかで滑稽なのだから、無駄な抵抗はせずその時正しいと思える方向になんとなく進み、例え間違ってても結果的に違和感があっても、あの時の自分はPOOR THINGだったねーと、笑って慈しみながら振り返り続けられる大人になりたい。

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