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ニーアオートマタの感想+種運命/AGE/FFについて思ったこと(⚠️ネタバレあり)

こないだ、ニーアオートマタをクリアした。
エンディングEを見たときは、もう本当にいい意味でしんどすぎて倒れるかと思った。

まず、推しの話から言ってしまうと、2Bと9Sのカップリングがとにかく好き。
FF13シリーズで好きなカプの一つがホプライなんだけど、ちょっと性格はそういう感じだし、見た目がFF15のノクルナ(歳の差4歳)くらいの経度のオネショタ(?)なのもかわいい。

簡単に設定を言うと、地球はエイリアンと彼らが作った機械生命体に占領されていて、主人公たちは人類が地球を取り返すために作った「アンドロイド」。
機械生命体と戦うために地球に送られた9Sと2Bは、エイリアンはアダムとイヴという機械生命体の手によって既に絶滅していることを知る。
また、パスカルという平和を望む機械生命体に統治されている、平和に暮らそうとする機械生命体の村が存在することも知る。

もう一つ大事な登場人物(?)は9Sと2Bをアシストする二人のロボット、「ポッド」たち。

①ストーリー

色々あって、エンディングAとB(ほぼ同じだけどAは2B目線でBは9S目線)では兄さんであるアダムを失って暴走したイヴを倒す過程でウイルスに感染しちゃった9Sを、感染が広めるわけにはいかないから2Bが止むを得ず殺すということになる。けど、9Sは自分のデータをなんとか他のところに移して助かる。

しかし実は、2週目(9S目線)でプレイしてる時にわかることだけど、彼は人類がとっくの昔に既に滅んでいることを知ってしまっていた。
パスカルたちが戦うのをやめたのは、仲間を失っていくのが辛すぎたのと、もう命令を出す存在も消えたからなのもあった。
なら、アンドロイドたちはいったいなんのために戦ってるんだろう?

3週目はエンディングAとBの後の話になる。
3週目の最初の方で、2Bと9Sが属している「ヨルハ部隊」はデータを同期化していなかった二人を除き全員ウィルスに感染しちゃって、2Bと9Sは逃げて、暴走してる機会生命体と戦うために地上に降りる。
しかし、地上で2Bがウィルスに感染してしまい、彼女はA2という、ヨルハより前の部隊に属していたけど今は脱走して機会生命体を倒して生きているアンドロイドに、自我がなくなり他のアンドロイドを感染させる前に殺してほしいという。
それでA2は、2Bを殺し、それを目にした9Sは機会生命体を殲滅しA2を殺すと決意する。
ここで、ラストダンジョンになる大きな白い塔が現れる。

まあまた色々あって、A2はパスカルに出会う。
機会生命体なんか殲滅すべき存在だと思っていた彼女だが、パスカルの村に行って、そこの子供達のおねだりを聞いてあげたりすることになる。
しかし、その後パスカルの村の住民たちが暴走しお互いを食い始める事件が発生する。
パスカルはA2に助けを求め、二人は村の子供達を廃工場の中まで連れて行く。
だが、そこでエンゲルス型の機械生命体が攻めてきて、パスカルは子供たちを守るために平和主義の思想を一度やめて戦うことに決める。
なんとかA2とパスカルは勝つが、工場に戻ってみると惨劇が待っていた;子供たちが恐怖のあまり自分のコアを貫き自殺してしまっていたのだ。
そしてここで、パスカルはつらさのあまり、自分の記憶を消して欲しいとA2にお願いする。

この間に9Sは、白い塔に入るために3つのサブユニットに向かう。
その過程で、色々と新しい発見がある。
まず、アンドロイドと機械生命体は同じコアを使っている。
更に、元々アンドロイドたちが完全に機械生命体をやっつけることはできないように現在の世界のシステムは作られていて、戦争のサイクルのようになっていて各サイクルでアンドロイドは論理ウィルスで破壊されて新しいヨルハ部隊が作られる循環になっている。
月面の人類というのは、士気をあげるためにヨルハプロジェクトによって作られていた嘘で、それを隠蔽するための最後の計画が機械生命体のネットワークからウィルスがヨルハ部隊に侵入できるようにすることだったのだ。
その後は、もっと強いアンドロイドが作られて、真実を知らずに戦いを続けることになる計画だったのだ。

その間に、A2も塔へと向かう。
そして、「赤い少女」に出会う。
どうやら、全てはこの、AIプログラムのような、赤い少女の仕業だったらしい。
赤い少女とは、機械生命体のネットワークそのもので、無限の続く戦いの連鎖の中でアンドロイドと機械生命体がエイリアンに抗えるくらい進化させるために動いていた張本人。
しかしエイリアンの死後、彼女たちは自分たちは機械であり、自我がなく「敵を倒せ」という命令しか残っていないことに気づく。
だから、自分たちの生きる目的を消させないために、ずっと戦いの連鎖を維持してきたのだ。

復讐したいという欲求で狂っている9Sに、A2はまた一つ、残酷な真実を話す。
2Bは実は2Bではなく、2E(executioner)であることを。
つまり、9Sが真実を知るたびに彼を「殺し」リセットさせる役割をずっと果たしてきていて、それでずっと苦しんでいたわけ。
この話を聞いた9Sは、すでにかなり壊れていたけど、さらに怒り、A2と死闘をすることにする。

ここで、エンディングが分岐する。
エンディングCでは、A2が9Sの精神の中に入り、彼を治そうとする。
そして、自分のポッドに彼を連れて去れと言う。
そして彼女は、塔を破壊する。
崩れていく塔の中で彼女は、世界の美しさを今まで知らなかったと言い、みんなのところに行くと言う。

エンディングDでは、9SとA2どちらも死ぬことになる。
ここで実は「塔」は、機械生命体とデータを宇宙に発射するために作られたものだということがわかる。地球以外のどこかの星に定着できるように…
ここで9Sは彼らとともに行くか、残るかを選べる。残った場合はいなくなるけど2Bにまた会えることを喜ぶ。

エンディングEは、Dから分岐する。
Dのあとに、ポッドたちはヨルハプロジェクトが示しているように、アンドロイドたちのデータを全部消そうとしている。
けれど、不思議にも、彼らの戦いをずっと見てきたポッドたちには、自我のようなものが芽生えていた。
ポッドたちは、このまま終わらせたくないと思い、2B、9S、A2のデータを保存することを選び、パーツを集めて彼らの体を作り直す。
その過程で、アンドロイドと機械生命体はまた同じことを繰り返すかも知れないけど、別の未来を選び生きていくこともできるかも知れないという会話がある。

②テーマ

では、この物語のテーマはなんでしょう。
それは、「生きる」こと。

エンディングDの名前は、「childhooD’s end」つまり、「幼少期の終わり」。
自我が芽生えた、という意味とも受け取れる。
なぜかって、確かにこのエンディングだけだと3人のアンドロイドは皆死亡するけれど、塔の働きによって宇宙へと新しい未来を探しに行く他の機械たちは、創造主たちとその命令によって定められた、永遠の血塗られた運命から脱することができた。

しかし、エンディングDのままだと、まだ、縛られている者たちがいる。
戦いの連鎖のシステムに巻き込まれて死んでしまった3人のアンドロイド、そして、彼らのポッドたち。

そこで、自我を得たポッドたちは思ったのだ。
このままでは、納得いかないと。
なぜ、こんなくだらない理由で彼らが死ななきゃいけない?
意味のない、押し付けられた「運命」に一度抗ってみることもできずに。
ちゃんと考えて、感じて、必死に生きようとし、愛する者への気持ちに溺れて戦っていた彼らが、やっと解放されたと言うのに、「幼少期の終わり」の先がないのは、どうして?

実際、ニーアオートマタはSFではあるけど、ファンタジーでもある。
そう、いつの間にか、まるで神話の付喪神のように、機械たちには「魂」が宿っていたのだ。
これは、AIに魂が宿るような設定の.hackシリーズとの共通点でもある。

「生きたい」
魂を持つ彼らは、そう願っていたのだろう。
そして、彼らは気づいていなかったかも知れないけど、すでに「自分」になっていたのだ。

では、なぜそれがわかるのか。
元々はDLCだった追加のイベントのエンディング(ここではエンディング△と呼ぼう)では、工場で人形のことが好きになってしまった、機能が衰えている機械生命体プラトンの話。
結局、任務遂行の妨害になるから、人形たちは皆破壊され、例の機械も破壊される。
そして、このエンディングで流れる「命にふさわしい」という曲の歌詞にその答えがハッキリと書いてある。

「そんなに悲しむことなんて、なかったのにな
心さえ 心さえ 心さえ、なかったなら
心さえ 心さえ 心さえ、なかったなら」

これは一見、プラトンの話に聞こえるけど、実はこのゲームで自我が芽生えている機械たち全員の話とも解釈できるのだ。

子供たちを愛したパスカルと、戦いたくないと思って、平和を選んだ彼の村。
罪を償いたいと思った、キャンプ付近の巨大ロボ。
創始者たちから自由になりたいと思った、赤い少女たち。
アダムを亡くして暴走したイヴ。
同じ機種が犯した罪で苦しんでいた、デボルとポポル。
命令で仲間を殺して、苦しすぎて記憶を失くしたアンドロイド。
兄弟と再び会いたいと思った機会生命体。
ネットワークから切り離されたショックと悲しみで、狂ってしまった機械たち。
家族を失い、恐ろしい敵が攻めてきてるという恐怖で、自殺した機械の子供達。
司令部に裏切られ仲間たちを失ったことで、怒りを感じ苦しんでいたA2。
そして、2Bを失った悲しみと怒りで狂っていった9S。
みんな、心があって、だからこそ「生きたくて」苦しんだ。

実は、このゲームのイベントの多くは後味がとても悪い。
命令で仲間を殺してつらくてその記憶を失くしたアンドロイドが、仲間を殺した犯人を探してくれと依頼してくるイベが一つの例だ。
しかも、戦うためだけに作られたことで苦しんで、自殺したロボたちもいた。
命令する存在が消えたから戦うことをやめてちゃんと「生きて」いたパスカルの村のロボたちですら、残酷な運命を迎えてしまった。
森の奥の城では、武器のバックストーリーを読めるけど、かなり後味の悪いものが多い。
ぶっちゃけダークさの極み。
世界、そして人々の残酷さをそのまま曝け出している。

けれど、それがこの世界なのだ。
そして「生きる」ということは、この世界の重さを背負うということ。
心で感じ、自分で考え、選ぶということ。
もちろん、それはとても苦しいこと。
けれど、それを理由に、永遠に自我のないまま息をするのも、抗っても見ずに死を選ぶのも、「生きる」ことではないのだ。

③幼少期の終わり

「幼少期の終わり」や、「心の中の子供・無垢な童心」対「世界の重さ・自由と責任・残酷な運命」などは、このゲームで何度も使われてるモチーフなのだ。
自我が確立しないまま、創造者の命令通りに動くだけの機械として存在することは、ある意味ではすごく楽なのだろう。
自分で考える必要がない。言われることだけやればそれでいい。
用済みになったら廃棄されるか、ほったらかしにされるけど。
「心さえなかったら」、別にそれでも良かろう。
だが、機械たちは、心を持つ存在だった。
だから、戦うこと以外目的がないと思った機械たちが、生きることに意味がないと苦しみ、死を選んだイベントもあったわけだ。
まあただ、心を持っていても、「自分」にならずに生きて死にゆくことは、一見とても楽に、ある意味幸せに見えるかもしれない。
なぜかって、この世界は残酷だから。心というものにはとても荷が重いから。

このゲームで、遊園地廃墟に初めて行った時、わたしはとても不思議な感情に襲われた。
そこでは、平和を願う機械生命体たちがパレードをしていた。
まるで、廃墟となってしまった心の中の遊園地を復活させようとするかのように。
その光景を見ていて、わたしも全てを忘れ彼らと共に、永遠に遊園地の中で幸せでいたいと思ってしまっていた。

実際、色んな意味で、永遠に子供でいたいと願ったことがある人は、多いだろう。
世界の残酷さから目を逸らし、脆くて純粋な心が傷つかないように、考えることはせず。
けれど、それでは、自分がしたいことはできない。
戦えと言われたら戦い、死ねと言われたら死ぬしかない。
2Bのように、大切なものを殺せと言われたら、遂行しなければならない。
けれど彼女はとても苦しんでいた。心があるから。
心があるから、子供のように全てを委ね、何も知らずにただ存在し続けようとしても、この世界の残酷さのせいで、我々、そして我々の中の子供は、苦しみを感じることになるのだ。

そう。
子供のままでいたい、時間を止めたいと願い、そうしていても、結局それは叶わぬ願い。
苦しみを感じれば感じるほど、そこに留まりたいと願うけど、そこに留まっていては絶望が続いた場合は結局心の中のその遊園地廃墟の破壊へと繋がってしまうのだ。
簡単にいうと、狂ってしまう。
実際ゲームの後半では、平和を願って遊園地で踊っていたロボたちは皆、赤い少女らに必要ない存在とされ、狂わされてしまう。
大事にしようとしていた童心や純粋さですら、この世界は潰そうとする、とも受け取れる。

エンディング△の話も少ししよう。このイベントの主人公プラトンは、人形に恋をする。
その人形もまた、子供の心や純粋な感情の象徴とも言える。
任務遂行の邪魔になるから、人形たちは皆破壊されてしまう。
けれどプラトンはずっと守ろうとしていた。
遊園地のロボたちのように。

結局、純粋さや、自分の中の子供を大事にすることもまた、「自分」である証であるのだ。
心があるという証であり、生きることの一部なのだ。
だからそれを守ろうとしていたプラトンも、平和を願ったパスカルの村や遊園地のロボたちも、ちゃんと「自分」になっていて、心を持っていたのだ。
しかしながら子供のままでずっと留まっているままでは、私たちは「生きて」いけない。

プラトンが自分が殺されるくらいにまで人形を守ろうとするのは、そういう葛藤を表しているのだとも解釈できる。
幼き心(人形)への憧れに囚われたまま、プラトンは世界の残酷さに足掻いていた。
そんな「くだらない」物のために、命令された通りに動くのを拒んだ彼を、世界は容赦なく処断した。
平和を大事にしようとしていた遊園地のロボたちのように。

もちろん幼き心を大事にするのは、彼が彼であるという証の一つだし、その純粋さを失くしてしまったら、自分ではなくなると同時にこの世界の残酷さの一部になってしまう。
けれど、それに囚われたままだと、この残酷な世界で「自分」として生きることは許されない。
その心を大事にしつつ、私たちは本当の意味での明日、つまり自分で選ぶ明日を掴むために、前へと進むべきなのだ。
そうしないと、残酷な運命にその純粋さを殺せと命じられてしまうから。

世界の残酷さに疲れた時は、少しの間だけ、自分の中の遊園地廃墟に戻るのはいい。
それもまた、自分の一部だし、自分の優しさを失くさぬための癒しにもなるから。
ただ悲しいからって世界から目を背けずっと中に留まろうとすれば、やがては自分として生きていけなくなり、絶望が続けば続くほど、その場所自体の破壊へと繋がってしまうのだ。

④心、そして世界の重さ

確かにこの世界は残酷だけど、エンディングCの最後でA2が言っていたように、この世界は美しくもあるのだ。
その美しさを感じ、それを見て喜べるのもまた、心があるから。
心というものが自分のアイデンティティの一部で、その純粋さと脆さに対してこの世界が残酷だということも受け入れつつ、それでも、そのような運命に影響されず、自分が本当にどうしたいかを認識し、選ぶことで、私たちは生きていけるし、世界の美しさを感じることができるということなのだ。

実は、エンディングE「End of Yorha」(ヨルハの終わり)をみる前にプレイヤー/ポッドたちは、赤い少女たちの意識の残骸になのか世界(ゲーム自体)のクリエイターになのかはわからないけど、いくつか質問を聞かれるのだ。
簡単に言うと「こんな世界には、意味がないと思いますか?」みたいな内容。

もちろん、Eを見るためには意味はあると答えるべきだ。
こんな残酷な世界でも、心でその重さまで背負い、屈せずに、「自分」として進むこと。
運命や、世界の残酷さを理由にせず、自分で選ぶこと。
それが、機械たちが必死にしようとしていた、「生きる」と言うことだから。
そして「世界の重さ」は、このゲームのサントラで、テーマソングのような曲の曲名でもある:「Weight of the World」。

要するに、「自分」になったポッドたちは、自分の心の声を聞き、「生きる」ことを選んだのだ。
例え同じ結果になる可能性があるとしても、定められた「運命」に、一度抗ってみることを選んだのだ。
自分の心で選んだことかどうかに、意味があるから。
だからこそ彼らは、「自分」になったアンドロイドたちのアイデンティティを消さないことを選んだ。

ポッドたちは思ったのだろう、「自分」になっているのにもかかわらず無限に循環する残酷な運命から解放されぬまま「生きたい」と願ってきたアンドロイドたちの存在を消したくないと。
世界は確かに重たいけど、それでもちゃんと生きるべきだと。
世界は、美しいから。
彼らが定められた虚無すぎる運命通りに消えるのも、心のある自分たちが「生き」ずに命令通りに動くのも、いけないと思ったのだ。
それは両者にとって、「生きる」ことではないから。
たとえどんな結末であれ、運命によるものではなく、自分で選んだ道を歩むことで、「生きる」べき、ということなのだ。

★種運命について思ったこと

ニーアオートマタをプレイして、わたしは改めて、種運命という作品が完成するためには、レイは生きる術さえあれば生きていくべきだと思った。

ステラを助けるシンを手伝ったのも、ギルやラウを家族のように慕っていたのも、シンやルナと友達として過ごしていたことも、全て彼が彼という証で、彼の心の姿だったのだ。
彼の存在自体が、世界の残酷さが生み出したものだったというのに。
彼の運命は、遺伝子によって決められていたというのに。
世界の残酷さを散々感じてきた彼は、その残酷さを消すためには、デスティニープランという、ニーアオートマタで言ったら機械たちを作り命令をした物たちのような存在、つまり人類全員の運命を決めてしまうシステムを作るべきだと考えたのだろう。
そうすれば確かに、人々は自我もなく、世界の残酷さから目を逸らしたまま平和に過ごしてられる。
けれどそれは、人の心や、「個人」と、その願いを否定するようなことになってしまう。
心があるから、レイは苦しんだ。けど、心があるから、彼は優しかった。
彼が「レイ」だから、クルーゼのようにはならなかった。
キラも、「最強のコーディネイター」である以前に、「キラ・ヤマト」だったのだ。
デスティニープランは、その全てを否定することになるのだ。

だが、レイがメサイアに残ることを選んだ大きな理由の一つは、遺伝子という名の運命だった。
遺伝子(ウンメイ)に囚われてはいけないという内容の作品なのに。
まずは、なんとか生きていく方法を探してみないといけないでしょう。
抗ってもみないことは、ニーアオートマタの機械たちが、命令通りに動いてずっと殺し合うという運命に全てを委ねてしまうようなこと。
自分ではない誰かからの命令がないと、自分の生きる意味を失ったまま、その苦しみに潰されるようなこと。
ポッドたちが、自分の心の叫びを無視し、命令通りに、9Sと2BとA2たちの魂を消してしまうようなこと。
世界が残酷だからって、楽になりたいからって、目を逸らし、永遠に自我のない赤ん坊のまま…

けれど、私たちは知っている。
そのままだと、私たちには心があるから、残酷すぎる運命に屈して苦しみのあまり狂っていってしまうか、「自分」であることをやめて心をなくし、ただの機械のようになってしまう。
ずっと「生きたい」と願ってきて、自分の心は他の誰でもなく「自分」のものであると知ったレイが、あのまま要塞に残ると、種運命のテーマ的に大きな矛盾になってしまうのだ。
彼は、「自分」というものがなんなのかを知り、選ぶことこそが「明日」だと知り、世界の残酷さを他の誰よりもよく認識した上で、明日を望んだ人から。

彼には心があるから、一人の人間として生きたいと、そうするべきだと、分かったのだろう。
そうしないと、ニーアオートマタの多くの機械たちのように心をなくし自分でなくなることを選ぶか、それか心が望むことが許されないからってプラトンとか、命令されたからって仲間を殺して記憶を失くしたアンドロイドのように狂ってしまうことになる。
そして、もし命令がもう出されないようになったら、生きる意味を見失って狂うか、死んでしまうだろう。
生きる意味なんて、見つけていくものだというのに。

実際、レイが親代わりでもあったギルを撃ったのは、ニーアオートマタのエンディングDのように、「幼少期の終わり」と表現できる。
たとえ、世界の残酷さから目を逸らし、平和な遊園地廃墟に留まることができるとしても、それは自分であることを諦めることになり、いずれは心を破壊してしまうことになるから。
二度と、夢を追いかけることなど叶わなくなるから。
苦しみを感じるのは確かに心があるからだけど、夢を見て愛をするのもまた、心があるからなのだ。
「自分」を全部否定しながら生きることって、結局は今感じる苦しみ以上に悲しくて残酷なことなんだと、レイは悟ったのだろう。

そんな彼なのに、あのまま要塞に残る流れはあまりにも不自然なのだ。
ポッドたちは言っていた。
たとえ同じ結果になる可能性があるとしても、違う結果になる可能性もあるから、3人のアンドロイドを生かしたいと。
それはまるで、キラが言っていた「そう(戦争だらけの残酷な未来)ならないことを選ぶこともできる」という言葉にも似ている。
なら、どう考えても、世界の全てを分かった上で、「生きる」ことを選んだレイは一度抗ってみるべきなのだ。
遺伝子問題を解決する術が絶対にないという証明が出てるわけでもなかろう。
(それに実際、以前の記事でも書いたように、理論的にはレイが生きていく術はあるので、余計そう思う)
あのままだと種運命は、エンディングEというトゥルーエンドのない、未完成のニーアオートマタになってしまうわけだ。
だから私は、小説でレイを救済したのだ。

実際クルーゼが狂ってしまったのは、世界が残酷ではあるけど、それを感じられるのは自分が自分であり、心があるからで、それが「生きる」ことに含まれるということを受け入れられなかったからだろうと考えている。
彼は世界が美しいということを、最後まで、本当の意味で気づくことはなかった。
見る機会もあまりなかったのだろう。
彼は運命に囚われたままずっと苦しんでるまま生き、死んでいった。
まるで、周りの残酷さに絶望し全員を攻撃し始めたプラトンのよう。
ニーアオートマタはある意味、デスティニープランのようなものが反映されたら、人間がいずれどうなるかを比喩的に見せてくれているようなものでもある。
1984や、現実で言ったら北朝鮮とかが似ている。
この世界は心を苦しめるけど、それと同時に優しく包んでもくれるということがわかっていれば、クルーゼはもしかするとその残酷さを受け入れた上で一人の人間として「生きる」ことができたのかもしれない。運命のせいで全てを投げ出したりせずに。
彼と同じ遺伝子のレイまで、戦場でいなくなってしまったら、それはあまりにも絶望的すぎる上おかしいことだと思っている。
レイは彼とは違うという作品のメッセージもあり、レイはしかも自分の手で明日を選んだから。
全てから目を逸らして自分で考えることを諦めると楽になれるかもしれないけど、やがてそれはもっと大きな苦しみを呼び寄せることになるから。
「自分」として生きられずに、機械になってどんな馬鹿げた命令でも遂行するか、命令されなくなったり絶望が続くと死ぬか、無理矢理心を否定し続けたせいで狂ってしまう結末なんて、納得できるわけない。

世界は残酷で、この心を苦しめるけど、それでもあたたかくて優しい世界を見るためには、その残酷さを受け入れた上でそれに囚われず心の夢を追いかけるべき、だということだ。
というわけで、レイは生きていかんとな。

★AGEについて思ったこと

イゼルカント様は言っていた。
火星の人たちは、人として生きられてないと。
なぜかって、心を完全に殺してないと、辛さのあまり狂ってしまうだろうから。
心さえなかったら、こんなに苦しむことなんてなかっただろうからそうしていたのだろう。
まさに、それは、生きることじゃない。
結局人間は無理して心を殺すことなんて無茶だし、それは自分が「自分」だからってことを、種運命のレイは認識してそんな世界は嫌だと思ったのだろう。
だから、ゼハートたちはなんとしてでもエデンに行きたいと願ってしまったのだろう。
それもまた、心があるから。

更に、AGEの世界では、火星人と地球人は100年も争っている。
これは、ニーアオートマタのアンドロイドと機械生命体の長い長い戦争にも似ている。
ゲームの中で、私たちにはわかるのだ。アンドロイドと機械生命体は本質的にはそんなに違くないと。
それは、同じ人間である、AGEでの火星と地球の人々の話にも似ている。
以前誰かがそういう戦いを始めたから、そのままずっと戦い続ける。
それが運命だから。そう言われたから。
それにあのまま続けてると、いつかはニーアオートマタの機械たちのように壊れた世界で生きることになるだろう。
では問おう。それは、ちゃんと選んだことか?
違う。なら、「生きている」とは言えないのだ。
自分で考え、なぜ戦わなきゃいけないと疑問に思ったキオくんは、ちゃんと皆に人として生きていってほしいと思ったのだろう。
彼のおかげで、人類は選べたのだ。「明日」を。

★FFについて思ったこと

FFはかなり、運命を断ち切るというのがテーマになっている場合が多い。

FF9の場合、命令してくれる存在を失って死ぬつもりでいたミコトに、ジタンは言うのだ。
生きる意味なんて、これから見つけていくものだと。
それは、戦うために作られたからといって絶望するニーアオートマタの機械たちに対しても言えることなのだ。
また、その辛すぎる運命に囚われSEEDのクルーゼのように狂ってしまったクジャも、まるでニーアオートマタで狂っていった機械たちにも似ている。
それでも、似たような存在であるジタンには、キラのように、守りたい世界があったんだ。
たとえ創造者にそれを破壊しろと言われても、ジタンは絶対に嫌だと、ちゃんと自分として生きることを選んだのだ。
それがどれだけ険しい道であっても。

FF13シリーズの場合、三つ目のゲームLRFF13を見てみよう。
世界はカオスによって、時間が止まっていて、そろそろ滅亡する危機にある。
神は人間が辛い思いをする理由は死んだ者の記憶だと言い、新しい世界が「汚れない」ために、死者の魂を消し去るという。
それも、ヴァニラという司祭の命と引き換えに。
また、一個前のゲームで、別の神は、ユールという少女を何人も作り、未来を見る能力を与える代わりに10代に死んでしまうという運命を与えていた。
けれど、ノエルは最後のユールに言われた「また会える」という言葉の可能性にかけて、彼女の運命を変えた。
そして同じ魂でも、別人だから、最後のユールは今までのユールたちと違って、ノエルに恋をしたのだった。
その上、神はホープを利用し、死者の魂を消し去るという目的のために、ライトニングをコントロールしようとする。
この物語で、一つ大事なのは、「ルミナ」という、少女の姿をした人物。
ルミナとユールはライトニングに、彼女がまず自分を救わないと誰も救えないと言う。
ルミナは実はライトニングが残酷な世界で生きて行くために封印してきた幼き自分なのだ。
それを受け入れないと、前へは進めないということなのだろう。
後半で、世界の終わりを招いたカオスを、神は消そうとしてるけど、人は誰しも自分の心の中にカオスを抱えて生きていて、それは人々を繋ぎ強くしてくれるから、それを消してはいけないとライトニングは悟る。
カオスの中に、セラの魂もきっとあるのだろうと。
結局ライトニングは、自分の幼き心を受け入れた上で神のいうことに屈せず仲間と協力し戦うことで、人類が前へと進めるようにする。
そしてノエルは、何百年も運命に屈せず可能性を信じ、最後のユールを神が押しつけた運命から救うことができる。
これらは、ニーアオートマタのエンディングEでのポッドたちの選択にも似ているのだ。

FF15の場合は、ゲームだけだと、エンディングEのないニーアオートマタになってしまう。
会社の事情により作られなかったトゥルーエンドは、「Dawn of the Future」という小説として出版された。
これでやっと、FF15の物語は完成したのだ。
ゲームのままだと、主人公は神に与えられた運命通りに生き、死ぬことで世界を救う。
けれど小説では、ヒロインのルナフレーナがその結末と、神話で神が世界を壊そうとしたことを知り、疑問を持ち始める。
そして最後には、死ぬ運命だった主人公ノクトが、神を倒し、ルナフレーナに共に生きたいという願いを言うことで、生きて、いや、「生きて」いけるようになる。
とても険しい道であっただろう。
実際、楽なのは神の定めた運命通りに生きる方だったのかもしれない。
けど、ノクトとルーナには心があった。ニーアオートマタの機械たちのように。
だから、辛いと思った。一緒に生きたいと願った。
だから、険しい道でも、抗ってみることを選んだのだ。
そして、「生きる」ことで、幸せを勝ち取れた。
小説のないFF15もまた、エンディングEのないニーアオートマタであり、レイが要塞から脱出しないままの種運命なのだ。
最後に、生きたいと願った彼らを友として助けたゲンティアナもまた、ポッドたちのように考えていたのだろう。
「生きたい」、「生きて」欲しい、と。

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