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【神保町の生活史 #1(後編)】この土地の人たちがいいと思ってくれてるっていうことが、直接身に染みて嬉しいと思う

__最初にインタビューを申し込むときは、スムーズに行く感じだったんですか?

 最初は全然。岩波ブックセンター信山社(現:神保町ブックセンター)の柴田信社長に取材しようと思って。でもちょっと1回媒体出したぐらいのことで「お前なんか知らん」みたいな感じで。最初の頃なんか本当に全然相手にされてなかったので。

全然知り合いがいなかったので困っていたら、その当時私が勤めてた製版会社の社長さんが「洋食屋『ランチョン』の店主だったら町内のつながりで知り合いだから、行ってみれば」って紹介してくれて。
でもそんな新参者が取材に来るなんて、みたいな感じで。

「石川っつーのが来てるけど大丈夫なのか、あれは」って店主の方が知り合いに問い合わせして(笑)。

そしたら「おうおう…なんかいい事やってるらしいじゃないか」と(笑)。
私本当に忘れられない。あの時それで2時間ぐらいランチョンで泣いてて。

__結局は「おさんぽ神保町」の良さが伝わったんですね。


 どうでしょう。私はとっても生意気なので、嫌われる人には嫌われるんですよ。ああいう昔からやられているお店の方とかからすると、とっても生意気に映ったと思うので。

神保町ってところは都心のど真ん中だけど村社会だから。神田村。そんなに簡単に新しいことを受け入れない。

ランチョンの店主の方は、知り合いに聞いて大丈夫だっていうのが分かったから、納得してくれてたんだけど。

私、泣き止まなくて(笑)。だから最後はなんかもう肩を抱いたまま「元気だせよ」みたいな。「神保町で困ったらいつでも声をかけて」とか言ってくれて。「困ってるのは今ですけど」って思ったけど(笑)。

今では笑い話ですけど、最初はそんな感じ。

__その後はどうでしたか。

 「おさんぽ神保町22号」は夏目漱石が没後百周年の年に出した号で、「漱石フェス」っていうイベントを実はしたことがあるんですよ。でも、それは岩波書店が関わってくれないと話にならないので。漱石の話と漱石がこの辺で過ごした青春時代の話と、あと岩波書店の話で構成したページがあって。

そのときに岩波ブックセンターの柴田さんに10年ぶりぐらいに取材に行ったら、もう満面の笑みで「やっと俺んとこ来たか」みたいな。多分(怒ったのを)忘れたんだと思うんですね(笑)。

「こんな媒体」って言われてたんだけど、最初はほんと「こんな媒体」でしたよ。そりゃそうでした。柴田さんおっしゃる通りだったんですけど。
なんか本当にめちゃめちゃに言われてたんですよ、うちの媒体、うん。

その22号ぐらいの時はやっと、信用してもらえるようになって。「神保町ブックフェスティバル」は柴田さんが発起人でやり始めたことなので、そういうのもずっと一緒に手伝ってやってきたし。まあ、そろそろ話聞いてもらえるかなと思ってたら、お褒めの言葉までいただいて。


柴田さん、「おさんぽ神保町22号」の時に、うちのインタビューが最後で亡くなっちゃったんですよ。86歳で。もう柴田さんが亡くなったなんて信じられないって。あの、その時関わってた人は、ほんとみんなびっくりしちゃったんだけど。

ブックフェス出店社に対する全体説明会の日の前の日に電話がかかってきて。珍しくちょっと弱々しい声で
「石川さん、私、あの具合悪いから一回しか言わないから聞いてくれ」って言って。
「私が出てる号あるだろ、それを「フェスティバルの全体説明会でみんなで見てもらいたい。中央経済社まで届けてくれ」って言われて電話を切られて。それで実行委員会に届けに行って。

次の日が説明会だったんだけど、その説明会の途中で柴田さんが亡くなったっていうニュースが飛び込んできて。みんなもう騒然としてしまって。

だから本当、最後の最後に取材したのがうちの媒体なんです。
それまでずっと私嫌われてると思ってたんだけど、実はそうじゃなかったことを後で知りました。

創刊した時に、「おさんぽ神保町」っていう媒体ができたことを、実は柴田さんが喜んでくれたんだっていうことを、あとで人から聞いて。

なんで生きてる時によく言ってくれなかったんだよって思う(笑)。だけど叱咤激励というか、いい媒体になるまで見守ってくれてたんだろうなって後になって思いますけど。柴田さん、私、ギリギリ間に合った?って。

だからすごく本当に忘れられない、私にとっては。岩波ブックセンターもその柴田さんが亡くなって、まもなく閉店することになっちゃって。

2年後に跡地に神保町ブックセンターができた時にも、そこに「おさんぽ神保町」22号をお届けしました。たくさん柴田さんを慕ってくる方がいたのでその人たちに読んでもらいましたね。

何人もの尊敬する先輩の中で、柴田さんが印象的だったというか、本当の人生の目標というふうに思っています。

亡くなったその年の神保町ブックフェスティバルで柴田さんの祭壇が、受付の所に作られていたんですけど。
私も本当こうありたいなと思って。人生最後まで生涯現役で、ブックフェスティバルで祭壇作ってもらうってそこが目標です(笑)。

こういう媒体を私が作るなかで、ものすごい雲の上のような人とかいろんな人に恩を受けてるから、どういうふうに恩を返したらいいかわからないなと思っていた時、「石川さんは恩を返そうと思わなくていい。そうじゃなくて、この後、あなたのところにたくさん来るであろう、若い人たちに何か力になってあげられる時があったら、その時に力を貸してあげてください」ってある人に言われて。(すずらんまつりを立ち上げた)版元の労働組合の人でしたけど。

恩を返すのは、その人に返せばそれで終わりかもしれない。でも、その時はそんな実力もなかったし。だから後に来た人に力を貸せば、続いて行くわけじゃない?それはすごくそのようにしたいなと思って、今もずっといます。

__よく軌道に乗るとかいうじゃないですか。軌道に乗ったなっていうのはいつあたりですか?感覚として。

 まあ読んでもらっても恥ずかしくないかなって思える媒体としては、確かに(柴田さんの載った)22号以降かもしれないですね。
特集ページとか、そういうのに余裕ができるようになったのが、それぐらいかな。

__22号以降っていうのはすごい長いじゃないですか。走り続けられたのがすごい。

 いや、でも本当に私目が覚めると泣いてたみたいな日が良くあったよ。あのプレッシャーも結構あったんだと思うね。4万部、神保町で読まれているかと思うと、それもプレッシャーだし、

__4万部ですか!?

 最初5000部刷って、その後1万ぐらい刷った。第1号はそれぐらいだったんだけど。

でも第1号は、すずらん通り商店街が出資を代表してくださったんですけど。2号以降は自分たちで広告も集めてやってくださいねって話になって。で、広告を取るんだったら4万部からじゃないっていうふうに、当初発行人をして下さっていた東京堂書店の大橋信夫社長(当時)からアドバイスがあって。そこからずっと守っています。

__一番失敗したなと思う事例と一番やってよかったなと思うことをお聞きしたいです。

 一番失敗…失敗しかしてないんじゃない?

最近やってて良かったなと思うのは、私の娘は今小学校6年生なんですけど、同級生が(「おさんぽ神保町」の事務所を兼ねた)自分の家に遊びに来てくれるんです。

その子たちがうちに来た時に「おさんぽ神保町ここで作ってんだ!」みたいな感じで。「私これすごい好きで。お父さんお母さんも読んでて、あのー、持って帰っていいですか?バックナンバー」って言ってくれたんですよ。

__小学生が…さすが神保町!

 次の世代に伝えたいなと思ってて。あの幼い子達がそういうふうに思って、ましてや家族で読んでくれてるっていうのは、いや本当にやってて良かったなって思いました。

全国紙ではないですけど、本当にこのエリアの中で出してるものですけど。世代を超えて一番若い読者人口にまで届いているっていうのは、涙が出る程嬉しかった。やってて良かったなって。

この土地の人たちがいいと思ってくれてるっていうことが、直接身に染みて嬉しいと思う。

長年やってる編集者の人たちだって、自分の本が東京堂とかに並んでて、読者の人が買ってるのを見かけたら、やっぱりそのことは嬉しいもので。

私の場合、もっと読者が近くて、家で布団を干そうかなと思うと、家の前に置いてある台から「おさんぽ神保町」を読者の人が持っていくのが見えるんだよね。
読んでくれてる人も、直に声かけてくれることがとても多いので、それは本当にあの励みになることですね。嬉しいし。
一番単純で、一番純粋で、やっぱりそのことがずっと自分を支えてくれてます。


聞き手:蒲大輝、魚住明日香、三尾真子

編集:蒲大輝、魚住明日香



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