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「死」の先に「生」はあるのか?

「夜に駆ける」は良い曲だ。とっても,とっても,よい。声,演奏,メロディーは,「初めてあった日から ぼくの心の全てを奪った」。

電車での通勤時間に何度も聞いている。音楽の専門家ではないので細かいことはわからないが,疾走感があって心地よい。ヴィジュアルでビビッドな歌詞とその展開の中で,途中から,ピアノが現実世界の接点であるかのように疾走する。

曲を聴いてから,元になる小説「タナトスの誘惑」も読んだ。どちらも面白い。先にどちら,という向きもあろうが,どちらでも良い気がする。

生と死は大きなテーマでおもしろい。「死」があるから「生」がある,あるいは,「生」があるから「死」がある。ただ,ここではっきりしているのは,概念的な違いがあるのはわかっているが,「死」は誰も知らない。「死」は体験できても,その体験を伝えることができない。だから「死」については単なる観念世界の産物でしかなく,生きている側には何の実感も伴わない。想像の産物である。

しかし,「死」は「生」が終わった後に訪れる。「死」は「終わり」「終焉」に繋がる。辛いことが続くとき,その「終わり」はとてつもなく魅力的だ。どんな終わりであろうとも誘惑される。終わりたいけど終われない,終わりにしたいけど終わらせてくれない,この焦燥感は,疾走感に似ている。

「夜に駆ける」は終わりに向かう曲でもある。「いつだってチックタックとなる世界で何度だってさ」という辺りは焦燥感を駆り立てる。現実世界は,ほんとに苛立たせるところがあるよな,と思う。でも,この曲は聴いていてイラッとはしない。なぜかホッとしながら,聴いている。そう,そう,と共感している。「駆け出してく」というのが「死」を超えたどこかに向かう感じがして,少し「生」を感じる。ピアノが連れていってくれている感じがする。だからラストでとっても安心する。一人じゃないし。

こんな曲がある現実世界は,捨てたものではない,かもしれない。

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