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Vol.3 ロマ族の歴史とフラメンコの成立

小倉真理子の「Flamencología: Puente al Conocimiento del Flamenco (フラメンコ学: フラメンコの知識に向かう橋)」

Baile(踊り)であれ、Cante(歌)であれ、Toque(ギター)であれ、あるいは単に鑑賞専門であったとしても、何らかの形でフラメンコに携わる私たちは、フラメンコが「ロマ族の固有の伝統とアンダルシアのフォルクローレが絶妙に融合して生まれた芸能」だということを、どこかで耳にしたことがあるでしょう。フラメンコが、現在私たちが知る形で「成立」したと考えられるのは、18世紀後半のことと言われています。しかし、スペインの歴史を紐解いてみると、ロマ族がイベリア半島に最初に到達したのは15世紀前半のことだったことが、残されている文献から明らかになっています。それでは、なぜ3世紀半という空白の時間があるのか?フラメンコが生まれるきっかけになった出来事は何だったのか?今回はスペインの歴史の観点から、その謎に迫っていきましょう。 


スペインでは、長い間、ロマ族はエジプト出身だと考えられてきました。ロマ族自身も自分たちの祖先はエジプトからやってきたと信じていたくらいです。実際、スペイン語でロマ族をさすヒターノ《gitano》という語は、エヒプターノ《egiptano》即ち「エジプト人」に語源があることも明らかになっています。

しかし、とても興味深いことに、言語学の研究からロマ族固有の言語であるロマ語と、サンスクリット語の間には多くの共通点があることが発見されました。とはいえ、世界中に散らばるロマ族が共通の「ロマ語」を話していた(いる)わけではなく、それぞれの滞在国で使われる言語からの借用語を含めて独自の発展を遂げてきています。スペイン(とポルトガル)のロマ族が話すロマ語は、カロ《caló》と呼ばれます。

この事実に基づき、また彼らの身体的な特徴からも、ロマ族は北インドを出発して放浪の旅をしながら、西へ西へと進み、ヨーロッパ最西端のイベリア半島にやってきたというのが、現在の一応の結論です。とはいえ、文字を持たないロマ族については、残されている文献も少なくその全貌を明らかにするのはおそらく不可能に近いかもしれません。

とはいえ、数少ない文献を辿っていくと、スペイン(イベリア半島)でロマ族(ジプシー)の存在が最初に確認されるのは、1425年に発行された通行許可証でした。

アラゴン王アルフォンソ5世による通行許可証
1425年1月12日発行で、有効期限は発行日から3ヶ月間と記されている
画像提供:スペイン文化省

この通行許可証をうけたのは、フアン・エヒプト・メノールという人物とその一行で、ピレネー山脈を超えカタルーニャに入り、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼をしていたとされています。その後もロマ族の通行はあったはずですが、現存するその次の通行許可証は1447年のもので、それ以降は数多くの通行許可証の記録が残っています。


さて、最初のロマ族がイベリア半島にやってきた正確な日付はさておき、いずれにせよ15世紀にはこの地にロマ族は存在したはずですが、それではなぜフラメンコの成立は15世紀ではなく、18世紀まで待たねばならなかったのでしょうか?

それは、イベリア半島内におけるロマ族の迫害の歴史を抜きに考えることはできません。最初のロマ族がやってきてから半世紀と少したった1499年には、カトリック両王(イサベル1世とフェルナンド2世)によって、最初の「ロマ族追放令」が出されます。これは、わずか2ヶ月の間に住居を定めて仕事につかないロマ族は、永久追放されるという厳しい内容でした。その後、1539年にカルロス1世、1560年にフェリペ2世によって、定住をしないものは罰として6年間ガレー船に送り込まれることも明記された勅令が出されました。1619年フェリペ3世の時代には、ついに違反するものは死刑という厳しい内容でこの頃までには、ある程度のロマ族の居住地が出来始めます。グラナダのサクロモンテ地区にロマ族が住み始めたとされるのも17世紀のことで、これとも一致します。国王が変わっても次々に出し続けられたこれらの勅令の記録からも、スペイン宮廷がロマ族の扱いに手を焼いていたことは明らかでしょう。

一方同じ頃、1613年に発表されたセルバンテスの小説『ラ・ヒタニーリャ』(ロマ族の娘)では、主人公でロマ族の娘プレシオサが、美しい踊りや詩を披露する様子が生き生きと描かれています。

セルバンテス『ラ・ヒタニーリャ』の冒頭
1613年初版のデジタル複製
画像提供:スペイン国立図書館

文豪セルバンテスの残したこの作品は、17世紀初めのスペインにおいて、ロマ族たちがすでに歌や踊りの名手であったことを裏付ける貴重な資料とも言えます。ただし、ここでひとつ注意しなければいけないのは、この作品を通じて「フラメンコ」という言葉は一度も使われていないこと、そして描かれる風景は現在私たちがこんにち認識する「フラメンコ」とはまだかけ離れたものであるという点です。

カルロス2世でハプスブルク家が途絶え、スペイン王朝がブルボン家になってからも、ロマ族への迫害はとどまるところを知りません。ブルボン朝初代スペイン王フェリペ5世は、1717年の勅令でスペイン全国に41のロマ族居住地区を設け、ロマ族は許可なしにその地区から外に出てはいけないとします。

1747年の王室勅令
画像提供:Fundación Secretariado Gitano (ロマ族事務財団)

フェルナンド6世が出した1749年の有名なロマ族追放の勅令では、ロマ語(カロ)の使用禁止のほか、彼らがこれまで生業としてきた鍛冶屋の仕事や馬の売買、占い、家畜の世話などありとあらゆる仕事を禁じ、居住区からは出ることも認めず、放浪する者は死刑という、とても厳しい内容でした。

このように1499年の勅令以降合計270以上も出された勅令や布告から、ロマ族が迫害の歴史を辿ってきたことは明らかです。そして、1783年カルロス3世によって、ようやくこの「迫害の歴史」に終止符が打たれることになるのです。

カルロス3世による1783年の勅令
画像: Wikipediaより

カルロス3世による勅令の内容を簡潔にまとめると、ロマ族にそのほかのスペイン人と同じ「人権」を与えるというものでした。これからは好きなところに住み、好きな仕事に就き、仮に犯罪を犯した場合も裁判で罪が裁かれる、といったこれまでの勅令とは真逆の、寛大な内容であると同時に定住を強く促すものでした。

これによって、ロマ族の定住化が一気に進んでいくこととなります。それまでに少しずつ作られてきたロマ族居住地区の人口は急増加していくことになります。例えばヘレスのサンティアゴ地区グラナダのサクロモンテ地区セビーリャのトゥリアーナ地区など、私たちに馴染みのあるフラメンコのメッカは、ロマ族の代表的な居住地区でした。こうした主にアンダルシアの各地の居住地区のロマ族人口が増えることにより、彼らがその地に伝わる民謡や舞踊を吸収していったことは想像に難くありません。

ロマ族の定住を厳しくも穏やかに促したカルロス3世の勅令(1783年)こそが、フラメンコの成立が「18世紀後半」と語られる所以といって良いでしょう。スペイン史において、カルロス3世は、政治的手腕はさておき、文化芸能に大変造形の深かった王として知られています。現在のマドリードの街並み(プラド通りやアルカラ門など)が作られたのも彼の治世で、プエルタ・デル・ソル(太陽の門)には、立派なカルロス3世騎馬像が建っています。次回マドリードを訪れる際には、フラメンコの成立に大きく寄与してくれたカルロス3世に感謝をこめて、ぜひこの騎馬像を拝んでみるのもひとつの旅の思い出になるかもしれません。

プエルタ・デル・ソルのカルロス3世騎馬像
小倉真理子撮影

小倉真理子さんによる「スペイン語」や「スペイン文化」に関する発信は、「まりこのスペイン語」YouTube https://www.youtube.com/@MarikoSpanish/about  twitter https://twitter.com/MarikoSpanish  から最新情報をご覧いただけます。


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