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フラメンコ学 Vol.5 カンテの黄金の鍵ってなに?

「カンテの黄金の鍵」という言葉を聞いたことはありますか?これは、文字通り「黄金の鍵」で、「歴史上最も優れた歌い手」に代々贈られてきた名誉ある賞です。この賞が創設された1868年から現在に至るまで、この名誉を手にしてきたのはたった5人の歌い手たちです。受賞者の選定方法が明確に定まっているわけではないため、これまでに幾度も物議をよんできた賞ではありますが、これまで栄誉に輝いたトマス·エル·ニトリ、マヌエル·バジェーホ、アントニオ·マイレーナ、カマロン·デ·ラ·イスラ、フォスフォリートは、間違いなくカンテ·フラメンコの歴史に大きな足跡を残してきたアーティストといって間違いないでしょう。今回は、このカンテの黄金の鍵にまつわる歴史と、その受賞者たちについて深掘りしていきます。

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「カンテの黄金の鍵」の表彰では、その名の通り、受賞者に黄金の「鍵」が授与されます。

1962年アントニオ·マイレーナに授与された鍵
画像:Wikipediaより


2000年にカマロン·デ·ラ·イスラに授与された鍵
画像:Wikipediaより


正式なルールはないものの、基本的に「カンテの黄金の鍵」は同時に二人の歌い手が保持できず、授与されると生涯その栄誉を保持できることになっています。

まずは、歴代の5人の受賞者を確認してみましょう。

🔑 トマス·エル·ニトリ (1868年授与)
🔑 マヌエル·バジェーホ (1926年授与)
🔑 アントニオ·マイレーナ(1962年授与)
🔑 カマロン·デ·ラ·イスラ(2000年授与)
🔑 フォスフォリート(2005年授与)←現在の鍵の保持者

フラメンコ愛好家の皆様なら、もしかするとここである大きな疑問をお持ちになられるかもしれません。「あれ?カマロンへの授与は2000年?彼が亡くなったのは1992年じゃなかったっけ?」

そうなのです。カマロンへの授与は彼の死後8年も経ってからのことなのです。そして、その直前の鍵の保持者マイレーナが亡くなったのは1983年のことですから、1983年~2000年の17年間、黄金の鍵は誰にも受け継がれていなかったことになります。このあたりの、よく言えば「気まぐれさ」辛口に言えば「いい加減さ」が、この賞がこれまで様々な物議を醸し出してきた大きな理由のひとつです。

それでは、ここからこの5つの受賞を詳しく見ていきましょう。


🔑トマス·エル·ニトリ (第1回)

トマス·エル·ニトリはカディス県のプエルト·デ·サンタ·マリアに生まれた歌い手でしたが、39歳の若さでこの世を去ってしまいます。当時最大の実力と人気を誇ったシルベリオ·フランコネッティ(1830-1889)の唯一のライバルと目された人物でした。

この第1回目の「カンテの黄金の鍵」の授与については、詳しくはわかっておらず、彼が1868年マラガのカフェ·シン·テチョで鍵を授与されたという記録が残るくらいです。カフェ·シン·テチョとはマラガでもっとも古いとされるカフェ·カンタンテ(現在でいうタブラオのようなお店)です。当初からこの鍵は次の世代に引き継いでいく、という明確な目的をもって創設された栄誉ではなく、それゆえ、この「カンテの黄金の鍵」が授与された当時は「第1回」と呼ばれてはいませんでした。


トマス·エル·ニトリ (1838-1877)
画像:Wikipediaより


🔑 マヌエル·バジェーホ (第2回)

第2回の「カンテの黄金の鍵」の授与は波乱万丈の受賞となりました。この授与に先立つ1922年、グラナダでカンテ·ホンドのコンクールが開催されました。ロルカとファリャが中心となり開催されたこの史上初のコンクールは、商業化するフラメンコに歯止めをかけ、純粋なカンテ·ホンド(深い歌)を重視し、その価値を再評価するのが目的でした。残念ながら勢いにのった商業化を止めることはできなかったため、当初の目的は果たせなかったと言わざるを得ませんが、このコンクールの開催そのものは、歴史に大きな爪痕を残し、その後の「純粋なフラメンコ」を復興していこうとする人々を勇気づけるものとなりました。

こうした流れを利用し、1925年にマドリードのパボン劇場の経営者は「パボン杯」と呼ばれる賞を創設しました。この年行われた最初の「パボン杯」の決勝戦では、マヌエル·バジェーホが圧倒的な実力を見せ優勝します。ところが翌年1926年の第2回「パボン杯」では、初年度優勝者のマヌエル·バジェーホを破り、マヌエル·センテーノが勝者となります。これが論争を呼び、アントニオ·チャコン率いるアーティストたちが、マヌエル·バジェーホに別の形で何らかの章を与えようと考え、思いついたのが、かつて伝説の歌い手トマス·エル·ニトリが授与された「カンテの黄金の鍵」です。授賞式では歌い手のマヌエル·トーレがこの第2回「カンテの黄金の鍵」をバジェホに授与する形で、格式が与えられました。ここからこの「カンテの黄金の鍵」を受け継いでいこうとする流れが生まれます。


マヌエル·バジェーホ(1891-1960)
画像:Wikipediaより


🔑 アントニオ·マイレーナ(第3回)
第2回カンテ黄金の鍵を保持していた、マヌエル·バジェーホが1960年に亡くなると、コルドバのフラメンコ·コンクール主催者たちは第3回「カンテ黄金の鍵」に相応しいカンタオールを決定するために、特別なコンクールを開催することになり、1962年に当時としては破格の10万ペセタの賞金も授与されるという歴史的なイベントを開催しました。このコンクールには、現代にも名の残る名だたるカンタオールたちが参加しました。

  • フォスフォリート

  • エル·チョコラテ

  • フアン·バレア

  • ペリコン·デ·カディス

  • プラテロ·デ·アルカラ

  • アントニオ·マイレーナ


結果、アントニオ·マイレーナが満場一致で第3回「カンテ黄金の鍵」を勝ち取り、授賞式では踊り手のアントニオ·エル·バイラリンが鍵を授与しました。


アントニオ·マイレーナに授与された第3回「カンテ黄金の鍵」
画像:Wikipediaより

ただ、この鍵の授与を目的とするコンクールに、ニーニャ·デ·ロス·ペイネスマノロ·カラコルは出場しませんでした。当時すでに巨匠とされていた二人はすでに確固たる地位を確立しており「コンクール」に出場するような地位にはなかったのですが、この二人が「除外」されたことが原因となり、このコンクールは、マイレーナに鍵を授与するための出来レースだったという指摘もありました。


アントニオ·マイレーナ(1909-1983)
画像提供:マイレーナ·デル·アルコール市役所


🔑 カマロン·デ·ラ·イスラ(第4回)

2000年、カマロン·デ·ラ·イスラの生誕50周年を記念して、カディス県議会は、第4回「カンテ黄金の鍵」をカマロンに授与するようにアンダルシア州政府に要請しました。この要請には、実に多くのフラメンコのアーティストたちが名を連ねました。きっと一度は目にしたことのある名前が多いと思います。

  • サラ·バラス

  • モライート

  • ランカピーノ

  • フアン·ビジャール

  • マヌエル·モネオ

  • パコ·セペーロ

  • マヌエラ·カラスコ

  • マリアナ·コルネホ

  • ディエゴ·カラスコ

  • ニーニャ·パストーリ

  • エル·トルタ

カマロンは1992年に亡くなっていましたが、第4回「カンテ黄金の鍵」は死後追贈することが決定し、カマロンの未亡人であるチスパさん(ドローレス·モントーヤ)に授与しました。カマロンのフラメンコ界への多大な貢献を讃えるための授賞でしたが、すでに亡くなったアーティストへの授与ということが新たな論争を引き起こしたことも事実です。

カマロン·デ·ラ·イスラ(1950-1992)
画像:Wikipediaより


🔑 フォスフォリート(第5回)

カマロンへの死後追贈の実現から5年後、2005年にマラガ県議会は、アンダルシア州政府にフォスフォリートへの「カンテの黄金の鍵」の授与を要請します。この要請には、マラガだけでなく、セビーリャ、グラナダ、コルドバの県議会も賛同し、アンダルシアにある150以上のペーニャ(愛好会)や、数え切れないほどのフラメンコアーティストが名を連ね、後押ししました。

フォスフォリートに授与された第5回「カンテ黄金の鍵」画像:Wikipediaより


フォスフォリート(1932-)
画像:Wikipediaより


初の女性への授与なるか

これまでみてきたように、「カンテの黄金の鍵」は、第1回目~第5回目まで男性のカンタオールに授与されてきました。まだ一度も女性のカンタオーラが受賞していないことは、昨今の多様化の時代に相応しくないという意見が多く出るようになりました。

また前述の通り、アントニオ·マイレーナが1962年に第3回「カンテの黄金の鍵」を受賞した際に、当時最大の歌い手とされていたニーニャ·デ·ロス·ペイネスが無視されたと感じた人が多かったことが、60年経った現在もまだ傷跡として残っており、この歴史上偉大な女性歌手にこの名誉を授けようというムーブメントが2021年にわき起こりました。この署名運動は世界的な広がりを見せ、スペインだけでなく、NY、アルゼンチン、シンガポール、オーストラリア、メキシコ、ウルグアイ、フランス、カナダなどの愛好家たちも名を連ねました。かつてカマロンに死後追贈が実現したように、ニーニャ·デ·ロス·ペイネス(1969年没)に第6回「カンテ黄金の鍵」の受賞を要請するものでした。

2024年現在、まだこの第6回「カンテ黄金の鍵」の授与は実現していません。フォスフォリートが存命中に「カンテ黄金の鍵」を他のアーティストに授与するころが可能か否かについての公式な規定はないのですが、過去の事例を考慮すると、この賞の授与には慎重な判断が求められているのは確かでしょう。

この鍵は、たった5名の歌い手にしか授与されていないため、鍵を保有したことのない立派なカンタオール、カンタオーラが数多くいることは言うまでもありません。ただ、この5名のカンタオールたちがフラメンコの発展に大きく寄与してきたことは間違いなく、その意味では「カンテの黄金の鍵」の歴史を知ることはカンテの世界を深掘りする大きな一歩となるでしょう。




小倉真理子さんによる「スペイン語」や「スペイン文化」に関する発信は、「まりこのスペイン語」YouTube
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