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フラメンコ学 Vol.4 スペイン最古のフラメンコの情景

小倉真理子の「Flamencología: Puente al Conocimiento del Flamenco (フラメンコ学: フラメンコの知識に向かう橋)」


前回(Vol.3)の「ロマ族の歴史とフラメンコの成立」で、こんにち私たちが知る形の「フラメンコ」が成立する間接的なきっかけとなったのは、スペイン王カルロス3世による勅令(1783年)ということがわかりました。18世紀後半にフラメンコの有史時代が始まったと位置付けてよいでしょう。

それでは、初期の頃のフラメンコをとりまく状況はどのようなものだったのでしょうか?まだ録音はおろか、写真さえもない時代のこと。私たちに残された手がかりのひとつは、文字によって記された文学作品です。

マラガ出身の作家で詩人、歴史家でもあったセラフィン・エステバネス・カルデロンの『アンダルシアの情景』(1847年)に描かれた生き生きとした情景は、当時の様子を伝える、数少ないとても貴重な資料です。今回は、この本にフラメンコがどのように描かれているのか、一緒に見ていきましょう。

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セラフィン・エステバネス・カルデロン(1799-1867)の肖像画
マラガ生まれの文筆家で「エル・ソリタリオ」というペンネームでも活動していた


セラフィン・エステバネス・カルデロン
は、「孤独の人」という意味のエル・ソリタリオ《El Solitario》というペンネームでも知られる文筆家でした。フラメンコ研究家の先駆け的存在といってよいでしょう。もっとも、VOL.1 「フラメンコロヒーアの誕生」でご紹介したとおり、フラメンコロヒーア(フラメンコ学)が誕生するのは、20世紀半ばのことですから、この時代にはまだ学問として成立していたわけではありませんでした。

とはいえ、彼の著した『アンダルシアの情景』は、読み物として面白い文学作品という範疇を超えた資料といえます。エステバネス・カルデロンが音楽に造詣が深かったおかげで、この本に描かれる情景は、そのまま当時の音楽や踊りについての貴重な歴史的、音楽的資料となりました。もちろん、ここに全く誇張がなかったとは言いきれませんが、それを差し引いても、フラメンコ研究には欠かせない基本書のひとつとなっています。
 


セラフィン・エステバネス・カルデロン『アンダルシアの情景』
1847年の初版表紙
画像提供:スペイン国立図書館

この本は、マドリードの新聞(エル・エラルド)やバルセロナの新聞(エル・コンスティトゥシオナル)に掲載された記事をまとめて出版したもので、特に有名な「トゥリアーナでの踊りの集い」という章は1842年に新聞に掲載されたものでした。トゥリアーナは、セビーリャにある地区の名前で、フラメンコのメッカとされる地のひとつにあげられます。『アンダルシアの情景』の1847年の初版には、D.F. レメイェールによる125枚の素描画が挿入されています。
 


『アンダルシアの情景』に使われたD.F. Lemeyerの挿絵


絶版になって久しい20世紀の終わりに、新たな版が別の出版社から出ていますが、こちらでは初版を飾ったレメイェールの美しい挿絵は省略されてしまっています。どうしても初版を見てみたいと駆り立てられ、あちこち探しましたが、さすがに200年前の本は古本屋などで気軽に手に入る種類のものではなく、スペイン版メルカリサイトで一度だけでみかけたことがありましたが、なんと1,000ユーロ近くもするヴィンテージ価格で取引されていました。これでは手がでない!
 
その後、この初版はスペイン国立図書館に保管され、デジタル化していることがわかりました。すぐに必要な手続きを経て、デジタル版(PDF)を入手することができました!ページをめくるごとに出てくる繊細な挿絵は、エステバネス・カルデロンの文章を引き立て、情景をよりリアルなものにしてくれます。これまでに何度も目にしてきた、最古のカンタオールとされるエル・プラネタの絵(下記写真中央)もありました。出典はこの本だったのですね。
 

セラフィン・エステバネス・カルデロン『アンダルシアの情景』の挿絵
画像提供:スペイン国立図書館


「アンダルシアでは、腕の動きなしに踊ることはありません。全身の優雅さと魅力的な挑発、腰のしなやかさ、腰の動き、リズムの活発さと情熱が、穏やかな動きと対照をなすのです。」
 
こんな調子で「トゥリアーナの踊りの集い」は始まります。
 
「...スペイン全体の中でも、セビリアはこの種の記憶の宝庫であり、古い踊りが新たに形作られ、変幻し、生まれ変わる、いわば ”工房” です。また、アンダルシアの踊りの真似できない優雅さ、無限の魅力、甘美な姿勢、華やかな回転、繊細な動きを学べる地でもあります。」
 
そして、いくつかのロマンセが語られています。ロマンセとは、詩の形式を指します。
この章を通じて登場するレパートリーを書き出してみると、
 
·  ラ・カーニャ
·  エル・ポロ
·  ロンデーニャ
·  グラナイーナ
·  カルセレーラ
·  ロマンセ
·  トナーダ
·  オレ
·  ティラーナ

 
私たちにも馴染みのあるものから、あまり聞いたことがないものまで様々です。フラメンコに慣れ親しんでおられる方からは、あれ?ソレアは?シギリージャは?ブレリアは?という声が聞こえてきそうです。実はまだこの時代にはこれらの形式は成立しておらず、ソレアの前身であるラ・カーニャやエル・ポロなどが盛んに演奏されていました。
 
さらに驚くことには、この章を通じて「フラメンコ」という用語そのものも登場していないことです。エステバネス・カルデロンが描く情景はまさにフラメンコの集いそのものといって間違いないのですが、現在までの研究では、「フラメンコ」という語が最初に登場するのは、1847年の新聞記事とされています(1847年は『アンダルシアの情景』が出版された年ですが、文章が書かれたのはその5年前でしたね)。この新聞記事が「発見」されたのは2012年のことで、音楽学者でフラメンコ研究家のファウスティーノ・ヌニェス氏による研究成果です。


マドリードの新聞『エル・エスペクタドール』1847年6月6日の記事

「フラメンコ」という語についての彼の研究の詳細は、スペイン語のみになりますが、こちらのリンクからアクセスできます。
https://elafinadordenoticias.blogspot.com/2012/06/lazaro-quintana-con-dolores-la-gitana.html


さて、最後にもうひとつお話ししておきたいことがあります。この本で使われているスペイン語についてです。1840年代といえば日本では江戸時代後期で、近世日本語が用いられていました。私たちの使う現代日本語とはかなり違うので、古文の授業などで扱われるようなやや難解な日本語です。この時代のスペイン語も同じように難解かと思いきや、現在のスペイン語と比べると、多少語彙や文法に差はあるものの、ほぼ難なく読むことができます。

さらに遡ること200年、つまり今から400年前にあたる17世紀はじめに出版されたセルバンテスの『ドン・キホーテ』のスペイン語も、現在のスペイン語の知識の範囲で十分に読むことができます。セルバンテスと同時代に活躍したシェークスピアの英語は現代の英語力だけでは読みきれないことを考えると、スペイン語は本当にありがたい言語だという気がします。
 
エステバネス・カルデロンの『アンダルシアの情景』が日本語訳されていないのはとても残念ですが、もし、ご興味ある方がいらしたらぜひスペイン語で読んでみてください。こちらのアンダルシア・バーチャル図書館のサイトからデジタルコピーにアクセスできます(こちらは残念ながら初版ではなく、挿絵は載っていないのですが...)

https://www.bibliotecavirtualdeandalucia.es/catalogo/es/catalogo_imagenes/grupo.do?path=87462



小倉真理子さんによる「スペイン語」や「スペイン文化」に関する発信は、「まりこのスペイン語」YouTube
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