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Every Body feat.フランケンシュタイン

ちょっと追記しました(10/18朝)

見終わった後に、友達と怖かったね、怖かったねぇ、と仕切りに口にして、いろいろ確認しながら感想を話した。『はなればなれたち』といつ高のファイナル(縫われたぐるみととぶ)を一緒に観に行った友達。
もしかしたらロロじゃなかったら、殊更に怖かったなって感想にならなかったかもだけど、ロロだったから怖かったって感想になったね、とか言っていた。

観ている最中や観終わった直後の感想としては、『四角い2つのさみしい窓』の中で奇妙でちょっと気持ち悪くても希望の形として現れていた物事が、ぐるりと暗転して別の角度から照らし出され、暗い方向に倒れていったように感じた。暗澹たる気持ちにちょっとなる。
四角い…、では、境界線が溶けていくこと、境界線を行き来すること、それを演じることで行うこと、が希望として描かれていたとわたしは思っている。細かくはnoteに書いた。

でも観ている間、まだ何かわたしは捉えこぼしているような、まだまだ咀嚼途中の感覚だったので、脚本を買ってゆっくりまた読み直した。
その上で、この作品は、当事者性についての見つめ直し、語りの暴力性についての話。だったのかも、と思った。というか他者の話か。全然まとまりっこないので、ずるずると、あーうーと言いながら、観て思ったことを書いた。

四角い〜、からの暗転を感じた理由は、境界線の揺らぎがネガティブな意味を帯びるストーリーラインだったからだ。
例えば、それは怪物自身。怪物たちは3人の人物が混ざり合った存在で、確かに3人ではあるが、「それ」と呼ばれる怪物として3人のことを無視して成立している。スカート、ペイジ、シーナの3人は『虹の彼方』を聴いたことがあるが、怪物は知らないし、3人は言葉を知っているが、それは話せない。つまり、怪物は境界線が解けることそれ自体である。そして怪物は、四角い〜、で印象的であった生と死の境界を行き来するものである。彼らは死者であるが、動き、学習し、発話する。生きているようだ。

しかしそれを作り出したライカの一部には、ぞっとする部分もある。舞台上でも確かに、不気味なものとして現れていたと思う。
怪物を構成する3人の回想の中には、それぞれライカのどろりとした部分が現れる。スカートの回想の中では、ライカは音を取ることを優先して死にかけの小鳥を見殺しにしてしまう。ペイジの記憶の中ではライカは母の燃える音に腹を空かせ、シーナは死体利用をするライカへ自らNoを突きつける。
そのグロテスクさの延長線上に怪物は存在していて、希望のある融合の形とは言い難かったし、そもそもそれを作り出したライカは、ラストシーンで首を吊っていることを思わせるポーズで現れる。どこか重たさを連れている。

この作品では、境界はドアという形で表現される。
例えば土の下に死者を埋めるとき、死者は地面に向けられたドアの下に埋められる。また、怪物とハナタバはいつも扉で隔てられその境界を越えることには大きな意味がある。最後のシーンでも、あのドアはきっと死者と生者を隔てている(なのでわたしはライカは死んだと思っているし、ハナタバは実体のある生者と考える)。

その扉を開ける、鍵を開けることを得意とするブランチは、救うんだといいながら、それはあからさまには盗むという意味づけもされる。スカートは閉まっているのが怖いから、カバンを開け放ちそのまま歩く。しかし通行人はその鞄から勝手に物を盗んでいく。境界を行き来できるように扉を開くということは、必ずしもいい意味ばかりではなく、負の意味も負うのである(でも、ブランチが盗み出すのは時計と椅子で、あからさまに彼が昔逃した少年少女なので、良い面も温存されていると思う)。

ライカは、「歌が死ぬ」ことに抗いたくて録音を始める。奇しくも、その歌の歌詞は「あなた」であり、あなた、が死ぬということの悲しさとも、少しつながっている香りがする。
とにかく、ライカは瞬間を焼き付けることに躍起だ。「ライカローリングストーン」のライカだと命名の経緯が作中で説明されるが、有名なカメラの名前も彷彿とさせるなぁ、なんてことも思う。戻り得ないたった一つの瞬間を保存することに駆り立てられるのにぴったりの名前だ。

スカートの回想の中では「壊れた音を繋ぎ合わせ続けて、永遠に続く残響を作る」と言っていた、と言われ、ライカ自身も「いつまでも消えない歌」を歌っていたことを振り返るが、母が死んだのち、「消えていく音をつかまえるだけじゃなくて、もう消えてしまった、もう聞こえなくなってしまった音たち」を集めるようになる。
それは、死んだペイジの声を聞くこと、として舞台上に現れ、それをきっかけにライカとパジャマは「死者たちの声を聞くために、死体を集めて繋げて」いくことになる。

この、切り取って残そうとする行為は私の頭の中では完全に、創作とつながっている。何か強烈な喜び、悲しみ、怒り、そう言う感情を残すことと創作は分かち難く結びついていると思ってしまうからである(人によると思うが)。
そんな時、ライカは現実のあらゆる物事を「サンプリング」し、「パッチワーク」させる創作者のように見える。

そこで、ぐぐ、と刺さってくるのはシーナの言葉だ。

ライカ「今生きてるぼくたちのこの世界と、廃墟に満ちた世界を重ね合わせられたら、生者も死者も一緒に暮らせるっておもうんだ」
シーナ「自分の都合に相手巻き込んでんじゃねえよ」
ライカ「ぼくの都合?」
シーナ「お前が忘れるか忘れないかなんて他人はどうでもいいんだよ。甘えんなよ」
ライカ「人は忘れるんだよ。忘れちゃうんだよ。だから、残さなくちゃ。シーナに見せてあげるよ、ちょっと待ってて」(p23)

シーナはソテーの死体が、ライカに使われているのに気づいて、こう言う。
ライカはペイジの九相図の前で、死んだペイジと会話をする中で、こんな会話をする。

ペイジ「一つさ、お願いがあるんだ。俺の死体、部屋にまだ残ってて、ライカに処分してほしい」
ライカ「どうやって?」
ペイジ「任せるよ。焼いてもいいし、土に埋めてもいいし」
ライカ「じゃあ、もらってもいい? ペイジの死体」
ペイジ「え?」
ライカ「いや?」
ペイジ「いいよ、ライカの好きにしていい」

消えて、聞こえなくなったペイジの声を、ライカが自分の都合で聞いているように思った。シーナが指摘したように、ライカが最終的に収集していたのは、物言わぬ他人の死体だ。

ペイジは身体を鍛えている理由を問われ「重いと生きてる気がする」と言ってさらに付け加え「あと……自分の体を、自分のものにするためだ」と言う。ペイジは、父のことを「息子を使って祖父に復讐したがっている」と表現している。彼の父は弱音を吐くことを肯定する、ある意味現代では歓迎されそうな価値観だが、ペイジにとっては彼が父の道具でしかないということによって突き放されていて、その回復にペイジとダンベルや重さとの関係がある。

この作品の中で一番最初にヒュッとした恐怖に吹かれたのは、ペイジの父と同じ俳優が演ずる家具の男のシーンだ。彼は人を家具にしようとする。ものと人との揺らぎはこの作品の中では様々に起きているが、しかし、この家具男が「椅子ってこんな風に曲がったりしないよね」と男の子の腕が曲がったことに文句をつけるのを聞くと、背筋が凍らざるを得ない。彼は他人を使って自分の願望を叶えようとする。

この男を気絶させたパジャマは、自分の行いの対価をきっちりとお金で回収するし、自分の体重を自分でコントロールすることで、自分の体を自分のものとして取り返しているように思うし、スクラップキャンディークラブの考え方もまた、自分の体を取り戻すことと言えそうだ。

ライカ「人間っていうのもひとつの洋服なんだ。人間っていう洋服が似合わない時、僕たちは死にたくなる。だから、脱いじゃえばいいんだよ。大事なのは自分に合う洋服を見つけること。ソテーは、何が着てみたい?」
ソテー「私の友達ぬいぐるみしかいなくて。ずっと、この子たちに近づきたいっておもってたんです」

しかしながら、シーナがスクラップキャンディークラブには馴染めず、ソテーのことは大好きだ、と感じる。スクラップキャンディークラブには胡散臭さがある。それはソテーの詩に対する「うーん、ソテーは言葉に囚われすぎかな」の言葉の中に現れている雄叫びやオノマトペという意味の乗りにくい音の賛美と、言葉の伝わりを軽んじる態度にあるような気がする。それは相手の不在だろう。
(あと、家具の男と、ペイジの父と同じ人が、ライカの右腕的なドロップであるというのもまた、スクラップキャンディークラブの性格を思わせる)

窓ではなく、扉がモチーフの中心となり、そして「ノック」がそこにある、というのは、溶け合いの賛美よりも前の、自他の明確な境界線の位置に重心があるのではないだろうか。
ノックは耳を傾けることであり、相手を他者として受け入れている。

ソテー「……まずはノックから始めること。あなたの声を待つために、鳴らすノックはすべてが祈り。私は全身であなたを待っている。胸の鼓動、ふらつく足取り、ささいな相槌。どくどく、とんとん、うんうんうん。どくどく、とんとん、うんうんうん……」

シーナは、ノックの思い出を振り返って、「静寂と言葉の間にはノックがなくちゃいけないって。愛情も怒りも悲しみもノックしてからじゃないと伝えられないんだって」と、言う。

舞台の上では、地面に眠り朽ちて溶け合う全てに対してノックをするように足踏みしていたのが、その音はいつしか銃声に変わり、挨拶もなく怪物は若い男に打たれてしまう。男たちは口ぐちに、怪物の見た目のグロテスクさに言及して、怪物と会話することなく、怪物を攻撃した。

この物語において、視覚というのは、大きな意味を持っている。怪物の体液が滲み出た水溜りを飲んだ生物たちは、死んだ、と表現されずに「眠ったまま地面と混ざり合って、いつしか地面そのものになった」と表現され、「地面になりてぇな」というシーナの願望に対して「目を瞑る」ことを選択する。
ペイジが父から「目じゃなくて、音とか味とかの方がアイデアが湧くって言ってたろ」と言われているのもどこか印象的だ。

そして何より、ハナタバは、ずっと怪物と扉ごしに話、ノックから始め、目をつむってハグをし、最後の最後に怪物を見る。
彼女は、見えないものを見る人で、見えないことをものともしない。ライカが聞こえない音を聞くために壊れた楽器を奏でたように、ハナタバも聞こえない音を聞く。彼女は何も無いところに、それを見聞きする。そこにいる怪物たちに対しては、ノックをして、扉ごしに会い続ける。
ハナタバが怪物を見た時、実はト書きには「ハナタバ、怪物を見て、恐怖に包まれる」とある。しかし、ハナタバは怪物を撃った若者たちのようなことはしない。

まずはノックから始める、は、まずはもしもしから始める、でもあると思う。

ライカ「もしもしで始まるから電話が好きで、もしもについて話すみたいで電話が好きで、だから受話器で音を集めるようになった。もしもし、ぼくのもしもは聞こえてる? ぼくのもしもは残ってる?」

怪物の声は実体から発せられるものから、電話の音へと変わっていく。ライカは死体を集めて死者の声を聞き始めた時から、見えるものから聞こえないものを聞こうとしていた。それが、つなぎ合わされた死体ではなくて、受話器の中に怪物の声が帰っていった、と思った。
ライカは、ソテーの詩にいたく心を打たれて、「ソテーの読んだあの詩のような眼光で」死者を見続けなくてはならない、と言い、朽ちゆくものを(死んでいく音のように)残そうとする。しかし、この詩は朽ちていった後に、その対象がなくなり、眼光だけが残ることを言っている。
受話器に声が帰ることは、この対象がライカの中で朽ちていくということでもある。

あなたへの釘付けが消えて、彼方への口づけは朽ちていく。何もかもが果てしなく朽ち果てたあと、私の月明かりの眼光はきっと何も照らさない。私の眼光は何かを照らすためじゃなく、ただただ光るために存在してる。その美しさにきづいてくれる人はもうどこにもいない。その暖かさを感じるあなたはもうどこにもいない。誰も知らないまま、どこも照らさないまま、光れ、光れ、私の眼光

この作品の中で、印象的な表現には時間の経過もある。
怪物たちが雨が降った時間や、目をつむった時間を口ぐちに言い募ること、怪物が誕生してから、創造主に再開するまでの時間軸の中に過去の時間軸が挟み込まれることによって、想像主が生まれる前から、想像主が怪物と再開するまでの時間の経過も追えること、そしてまた想像主自らも自身のことをその成長とともに振り返ること。時間の経過、が伸び縮みしながら存在している。
ペイジが取り憑かれていた九相図もまた、時間の経過を示すものだ(パジャマの体重の記録も一代記と称され、九相図となるし、ボブディランのライカローリングストーンみたいに落ちぶれる人の人生の流れ、なんかもたぶんそれ)。
そして、ペイジが苦戦するのはその経過の中でも一番最後の焼相である。「ない、って描くのが一番難しいんですよね」という。

だから、ライカは眼光だけを残せず、死体を使うことに至ったのだ、と思う。難しかったのだ。ライカは創作者のようだと思った、と書いたが、創作にそれを当て嵌めるならば、当事者性についての見つめ直し、語りの暴力性を考える、となるだろうな、と思った。この作品は、第三者の視点ではなく、いつも誰かの語りによって、語られていることもまた、それの感覚を底で支えている。

ブランチの扉を開けることや、スカートがリュックを開けることの、良し悪しの両面は、観ていた時はネガティブな方向への揺れに殊更目がいっていたが、辿り直してみて、その揺れ全体へと広がっていった感じがしている。

今なぜこの作品か、ということがすごく、じんわりきている。2020年を経た後だな〜と思った。四角い〜は、2020年2月だから。
分断が可視化された、なんてことがしきりに言われたが、たしかにユートピア的に溶け合うことへの絶望、を嫌というほど感じる日々だったと思う。分断だけでなく、感染という現象は人と人とが否応なしに繋がっていることを思い出させ、それ自体のしんどさみたいなことも感じさせられたし。
ライカがスカートに「咳き込む音さえミュージック」と言うが、しかし、そんなことに構わず、スカートはまもなく死んでいく。その「咳き込む音さえミュージック」みたいな虚しさを経由した先にある『Every Body feat. フランケンシュタイン』なのかも、と思った。

(蛇足:四角い…の、サンセビとユビワは境界線を行き来するキャラクターだったけれど、今回のライカとパジャマにも同じことを感じるなどしたのも、四角いの裏返し感なんだよな〜と思った。)
(あと、夜中に駆け抜けるようにして書いていて、明らかに読み直しとか足りていないので誤っているところとか多発してそうですすみません。)

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