耐え忍ぶ宝石

 つるりとした母の皮膚からは、綺麗な琥珀が採れた。
 
 樹木は落雷や害虫などに傷付けられると、その部分を守るために粘性の樹脂を分泌する。その樹脂が地中で何千万年もの歳月をかけて化石化すると、琥珀となる。人間に置き換えると、けがをしたときに傷から血液や体液が乾燥して固まり、かさぶたができるのと似たような仕組みである。
 
「お前、舌を出してごらん」
 母は自分の皮膚にできた琥珀をか細い指先で丁寧に剥がし、右手の薬指にのせ、幼いわたしの口元にそっと運ぶ。わたしは小さな舌をちろりと出して、その上に琥珀を受け取る。宝石のように大切に、琥珀を口の中でころころともてあそぶ。夏には冷たく、冬には暖かいそれをわたしはよく舐めた。母はとても美しい人だった。
 
 家族としてのすべての機能が停止していた。日が傾き始めるのに比例して、父の機嫌も悪くなる。昼間から、大きく岩のような手で紙パックをつかみ、安酒をあおっていた。理由は些細なことだろうが、パニックを起こすことがよくあった。父はわたしをトイレにひきずり、内側からは開けられないようにドアに物干し竿を立てかけ、わたしをトイレに閉じ込める。父が足で床を踏み鳴らす音が遠のく。しばらくすると、鈍い音と母の泣き叫ぶ声が交互に聞こえ始める。殴る、ける、もしくはそれ以上のことをして母を傷つけている。わたしは耐える。体を丸めて、耳をふさぎ、静けさが戻るまでじっと耐える。
 母からいくらかの金を奪い取った父の姿を借りた化け物は出かけて行った。母は急いでトイレに立てかけられた物干し竿を外し、ドアを開ける。窓から差し込む夕日が、黄金色が、血液やら涙やらでぐしゃぐしゃになった母の顔を照らす。父は、母は、どんな顔をしていただろうか。
 
 わたしは父親に似ていなかった。成長してもいつまでもなまっちろいままのわたしにも父は暴力をふるうようになった。母も、自分自身も、守ることができなかった。無力な自分。こんな家にいるくらいなら、野垂れ死んだほうがましだ。やりたいことも、なりたい職業もなかった。ただ、誰も自分のことを知らないところで、自分の力で生きてみたかった。
 高校を中退して家を出てからは、一度も帰っていない。声を荒げる顔のない父親と、父の暴力により出来たかさぶたを食べさせようとする母親の指の細さしかもう思い出せない。最初はあった母への申し訳なさも、薄れていった。あれから何十年が過ぎただろう。中卒だろうが、なんだろうが、生きるため、なんでもやった。生きるため、がむしゃらに働いてきた。いくつめかの会社で上の人にえらく気に入られてからは運良くトントンと出世していった。もしも神様から与えられた人生の運の量がみな同じならば、相当の貯金があったのだろう。ずいぶんと遠いところまで来てしまった、とわたしは思う。
 
 室温程度の温度のブランデーが注がれたグラスの底を、手のひらで包み込み温める。ブランデーは香りを楽しむお酒だと言われるが、温めることでより香りが引き立つ。主に白ワインを蒸留して作られるブランデーは、概して黄色のような茶色のような、琥珀色をしている。グラスのふちに口をつけ、ちりちりと舐めるようにして味わう。樽で十数年熟成され、飲まれる時をじっと待ち続けるブランデーに、トイレで耳をふさいでいたありし日の自分と、母親の夕日に輝く傷跡を重ねる。
 
 わたしは今、十分幸せだ。幸せだから、幸せだから、と自分に言い聞かせているうちに、涙がこぼれていた。何のために泣いているのか、誰のために泣いているのか。わたしにはわからなかった。


大学OB有志小説集より

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