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アメリカのおいしい食べ物

日本のベーグルはダメだ!あんなに軟らかかったらただのロールパンじゃないか!マフィンもドーナツもパイも小さすぎる。軽すぎる。シナモンロールのアイシングが少なすぎる。もっと下が見えないくらい真っ白くもったりとのせなければ!チョコチップクッキーは噛んだ時ねちっとしなきゃいけないのに、日本のクッキーはまるでせんべいのようだ。日本のブラウニーはブラウニーの名をかたってはいけない。あれはただのチョコレート味のカステラだ。
―とまあ、これがアメリカのおいしい食べ物に対する私のリスペクトの気持ち。ほんとうに、アメリカにいても日本にいても、よくもこれだけ食べ物に対する文句を思いつくものだと、われながらあきれる。でもしょうがない。食べることが大好きなのだ。しょうがない。
 
アメリカは、小麦粉で作ったものがおいしいと私は思う。先に食パンについてあれだけ言っておきながらよく言うと思われるだろうが、それはちがう。アメリカの小麦粉ものは文化そのものだ。その中で日本のような食パンが必要なかったから作られなかっただけのことだろう。さすが小麦王国。その種類も食べ方も私などが知る以上に豊富なのに違いない。ためしにスーパーに小麦粉を買いに行ってみるといい。ものすごい種類に目が回りそうになる。
アメリカのパンのすごさは、たとえば、「デリ」という類の店に行ってサンドイッチを作ってもらうとよくわかる。ショーケースには名前のよくわからないパンやチーズやハムや野菜などがどっさりと並んでいて、その中から選んで自分だけのオリジナルサンドイッチを作ってもらう。日本に進出したサブウェイがそのスタイルだが、めんどくささはあんなもんじゃない。たとえばターキーサンドイッチ。七面鳥の肉など全然なじみがなかったけれど、あのしっとりして軟らかい真っ白な肉は一度食べたら忘れられない。だけど、「ターキーサンドイッチをください」と注文したが最後、パンはどれにするのか、バターをぬるか、マヨネーズをぬるか、マスタードはどれ、チーズはどれ、野菜は、ピクルスは、ソースは、と矢継ぎ早に聞かれ、それをぱっぱと答えるには相当の英語力と食材の知識が必要とされることに気がつく。というか、それを知っていたからなかなか行くのに勇気が出なかったのだが、ある日アメリカ人と一緒に行ってみて、「彼女と同じに」を繰り返したら、ものすごくおいしいものができた。それ以来、勇気はいるが時々無性に食べたくなってがんばっていくようになった。困ったら「あなたはどれをすすめますか?」と聞くことにして。
パンはいかにも硬そうだ。ターキーは薄くスライスしたものが幾重にも重なっている。ところどころ穴の開いたオレンジ色のチーズ、トマト、レタス、玉ねぎなどの野菜、ピクルス、マスタード・……。あーあ、そんなにバンバン入れちゃって大丈夫なの、と不安になる。だけど全く心配には及ばない。それらは手際よくひとつにまとめられ、きっちりかっちり厚い紙にくるまれる。その包みの重量感は相当なものだ。ボンッと渡されると、「サンキュー」と言って金を払い、それを抱えて公園のベンチに座る。なぜかこのサンドイッチは外で食べるのがおいしい。飲み物はコーヒーよりもコーラとかの冷たいソーダ類が合う(と私は思う)。あとは、サンドイッチを厳重にくるんだ紙を端から少し破って、ただ「あぐっ」と行くだけだ。あれほど硬そうに見えたパンも全く抵抗なく噛みちぎることができるから不思議だ。噛みしめていくうちに、脳の中に予想外の感動が押し寄せる。なんという調和。「混然一体」という言葉はこのサンドイッチのためにあるのではないか。歯ごたえのあるパン、ターキーのやわらかさ、クセのあるチーズの風味、パンチの効いたピクルスやソース、そしてシャキシャキとした新鮮な野菜。まさにプロの仕事だ。そしてまもなくゴングが鳴り響き、私とこのサンドイッチの戦いが始まる。これを食べるには、よそ見などしている暇はない。誰に見られているとか、口の周りが汚れるとかそんなことはどうでもいいのだ。大切なことは、ただ気持ちをそこに集中させてしっかりと噛むこと、味わうこと。そしてときどき、キリっと冷たい炭酸系の飲みものをごくごくやってすっきりとリセットしたら、またサンドイッチとの戦いに挑む。それを何度も繰り返す。そうやって続いた長く熱い戦いが終わると、しばしそのおいしさの感動に浸る時間がやってくる。すばらしい食べ物だ。人類が発明した究極のサバイバル食品だと思う。このひと包みがあれば、人は苦境の中でも強く優しくなれるだろう。私はそんな風にまで考えてしまう。そしてやっとそこで気がつく。あの大量の具材を包むのには、しっかりとした丈夫なパンでなければだめなのだ。日本のヤワなパンではこれほどの重みに耐えられないのだと。
 
アメリカの小麦粉を使った食べ物には重みがある。パンもクッキーもケーキも材料を惜しげもなく使っている。ただひたすら食べる人の心身を満足させることだけを考えて作られているような、そんな懐の大きさを感じる。実質的にも重いけど、歴史的な重みも感じる。小麦粉でさまざまなものを作り、心も体も養ってきた西洋の人々の心意気を感じるのだ。それはアジア人にとっての米と似たようなものかもしれないが、良いにつけ悪いにつけ、世界中を股にかけた戦いを繰り広げてきた人たちの食べ物は、やはりパワーがちがうと感じる。私はそんな文化の中で若い時期を少しだけ過ごした人間として、今でも何かがんばらなきゃいけないとき、または疲れ果てたとき、このアメリカのどっしりとした小麦粉ものが食べたいと思うのだ。
ああ、またあのベーグルが食べたくなった。横にはみ出るほどたっぷりぬったクリームチーズとスモークサーモンをはさんだ大きくて重いベーグル。それひとつあれば、朝から午後の授業までじゅうぶん力を蓄えることができたあの時代を思い出しながら。

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