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ノラカドウ_発見28 境目に「杜撰や適当」が有るみたい。

週末実家田舎暮らしで発見の物件です。裏庭中の刈り取った草木をせっせと集めて積み上げてるんですが、この小山のようなものに境界はあるのか?って話ですね。集めては見たものの、この積み上がったものと地面の境目がよくわかりません。でもって境目がわからないのに小山を認知できるってどういうことなんだろ?みたいな事を考えてしまいました。なんだかね、近寄るとわからなくなるれど、離れると周りから逸脱した形でそれは小山に見えるのですね。ああ、距離ってことが大事なのね。目に映る要素とそれらの関係は距離によって違うからね〜。なんて独りごちてみたわけです。でまあ、積み上げたという人為が景色の中で何らかの存在感を持ったカタチになっているということで、これはノラカドウ認定しても良いのかな?なんて思うわけです。

ところで、自然相手の田舎暮らしでは、絶えず自然と人の手がかかった部分との境界線をどう引くか?という問題に遭遇するのですよ。そもそも自然にはハッキリとした境界なんてなくて、連続的に「様」が連なっているのです。でも田畑なんかは、もうこれは人工的な様相を呈している。明らかに田畑の耕し手のキャラクターが透けて見えるような感じです。となれば田畑を巨大なノラカドウとして眺めてみるのも一興かもしれません。特に自然との境目に、その傾向が表れるんじゃないだろうか?そんな想像をしつつ、田舎の農道をほっつき歩くのです。

耕し手が描く境界とは、耕し手の自然との距離の取り方・付き合い方を表してるなんてね〜。 で、まあ翻って我が実家の有り様を鑑賞すると、その境界の有様に「杜撰」とか「適当」なんて言葉が浮かび上がります。それは私の性分でありますね。判ってますよ。それは治りません!申し訳ないが治らないのです。


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