透明な決意

紆余曲折と生きてきて、うつ病という形で自分を振り返る機会を得た。もちろんそうせざるを得ない程の状況だったり、これまでの教えが通用しなかったり何かしらの違和感を感じた時、それに従ったおかげで今こうして文章にしている。

正直「ようやく」「今更」というレベルで現状を、自分を分析している。
自分の知能が低かったとか言い訳はいくらでも出来るが、言い訳して前進できたならここにはいない。

とりあえず書き残したい事がある。無様で迷いの多い人生を歩んだことではなくて(もちろん後悔はあるけれど)、こうして文章を読む、書くとは一体どういうことなのだろうか、ということだ。


こうしたコラムや記事を読む人は、とてもまじめながんばり屋さんなのではないか。一人で抱え込んだり、調べたり知見を得たい人がささやかに事態を好転する何かを求めて探しているのではないか。


そんな予想をした。自分がそうだからだ。
相談相手に恵まれなかったり、本当に弱っている時は体を起こすことも出来ない。動けないなりに何か有益なことをしないといけない。

そんな人の何かしら、ささやかでも助力になれたらと考えが至った。気晴らしでも、気づきでも何でもいい。

この予想が的外れかもしれない。それか、もうすでにそうしたことは市場ではすでに出尽くされて価値は無いのかも知れない。これもやっぱり自分の至らなさだけれど、至らないなりに勉強して次に繋げられることもある。


あんまり強気になったり、前向きになれるほどの余裕はない。生活は困窮を極めているし、そんな中でほのぼのと日常の幸せをつまびらかに残せる程の心の余裕ももっていない。
ただ、意志表明というか、現実に向き合うぞという覚悟を決めたり、無価値なりに足跡を残してやるという覚悟を残しておきたかった。

きっと多分、価値観は色々あっていいはず。
その中で人間の根底にある動かないものを見つめたいと思っている。
なんせ自分には日本語と、拙い絵と、迷いまくった過去しかない。
こんな武器しかなくてもやっていけると、多様性という言葉を希望に頑張ってみてもいいじゃないか。そう思う。

もったいないんで他の方に使ってください