また騙されて

「嗚呼、あなたをとても愛しているわ!」と女は歓喜に満ちた表情で叫ぶ。

私はステージに立っていることに気づく。口元に手を添えると、私の口がつらつらと何か愛の台詞を喋っている。「君のいない世界に意味など何もないよ!」

「あなたは私だけのものよ、私だけを見て!」

誰かの雑多な想像のなぞり書きとはいえ、相手の表情には、その言葉に含まれる感情を読み取れるような気がする。私の気分は段々と高揚する。身は引き締まり、私の言葉にも感情がこもりだす。

いつしか錯覚を起こした私は有頂天になり、彼女の感情に呼応する。台本にはない、私の本心を洗いざらい叫ぶ。牧師の説教のような昂揚と、素面ではとても口にできないような淫乱な言葉の掛け合いが続き、遂にクライマックスへと突入する。

観客の大歓声と、耳の潰れるように鈍くいかめしい拍手を浴びながら幕を閉じる。蓋をしていた感情がドッと漏れ出す。私は女に恋をしてしまったのだ。

私は演出家や主催者からの激励をあしらって楽屋へと戻る。用途も想像につかない小道具が無造作に積み上げられた細い廊下をおぼつかない足取りで歩いていると、彼女が対向からやってくる。

私は、「お疲れ様です。ステージでのことですが...」と笑顔で話しかけるが、冷め切った表情の彼女はその目線を微動させることもなく、私の横をさっさと通り過ぎる。私の存在というものが、彼女の中では認識されてすらいなかったようだ。

私は、頬に筋肉が引き上がった余韻を感じながら振り返る。 彼女の向かう先にはロングコートを着た背の高い男がいる。男がその長い両手を広げると、歓喜の声と共に、彼女は吸われるようにその男の胸の中へと消えてゆく。

私は肩をすくめ、廊下にくしゃみのようにばら撒いてしまった言葉の破片をひとつひとつ惨めに拾い、物が散乱した楽屋に戻る。横に長く伸びた鏡の前に立ち尽くし、自分と対面する。なんとも間抜けな顔で、厚塗りのファンデーションで硬化した肌には、腑抜けた表情が残る。

隙間から光が漏れる薄いドア越しに、スタッフの小話が聞こえてくる。私が1人で舞い上がっていた様を嘲笑しているのだ。

私は腹が煮えくりかえると同時に、ひどく赤面する。あるはずのない尊厳故に、私はその場から消えてなくなりたい、いや、そもそも私という存在は初めからなかったことにしたい衝動に駆られる。 胃から何やら重い液が搾り出されるのを感じ、胸はゆっくりと、確実に締め上げられてゆく。

即座に頭の中で、自分が自分に殴られ、胸を滅多刺しにされる空想が走り出す。断続的な、野太く濁った断末魔が聞こえる。私は空想の中で自傷行為に走ることで、脆く醜態に満ちた、誰も気にもとめやしないちっぽけな名誉を守ろうとする。

しかし同時に、惨めな自己防衛の最中にも私は洒脱であろうと努める。そうですよ。私はサッドでピエロのような薄っぺらい存在なのですよと、理性に救いを求めようとする。「いい歳して何をしているんだ。誰も私のことを気にかけるわけないじゃないか」といつもの訓戒を続ける。

しかし、どうも今回の醜態には耐えられそうになかった。"大勢の人に見られていた"からだ。

刹那、私はガラスに映る自分に拳を飛ばし、割れた粗いガラスの破片を握りしめると、首の頸動脈を強く、擦り付けるように何度も切り刻む。 野太くもどこか途切れ途切れで儚い、濁音をふんだんに含んだ断末魔が喉から鳴る。こんな声が出るものかと、興奮を覚える。鋭い痛みと逃げ場のない苦しみ、謎の安堵が交互に訪れる。

即座にその衝動故の自傷を後悔するも虚しく、私は霧に包まれる。重力に引っ張られながら意識が落ちていく中、私は悩める頭の中で、こんな愚行に走らなければこの先どんな人生を歩んでいたのか、さまざまな可能性を検討する。

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