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ミュージカル「アルジャーノンに花束を」

全部で3回見ました。観劇記録です。観劇の感想というかこの作品を見て私が感じたこと、思ったことのまとめになってしまった。あいかわらず長いです。3回見たけど、大阪が目の前が舞台のせきだったので、そこで見た印象を中心に書いています。

ミュージカル「アルジャーノンに花束を」は初見です。前に浦井さんがやってたときは私はまだ彼の存在を知らない時で、でも彼のファンをしてきた中でこの作品が、役が、大切なものだってのは知識としては知っていました。正直、見れる日がくるとは思っていませんでした。

アルジャーノンに花束をの物語自体は、子供の頃にドラマを一生懸命見ていたので印象に残っていました。ユースケ・サンタマリア版。パン屋とか、妹のこととか、頭が良くなって、で、悪くなっていく過程とか、そういうのを結構覚えています。子供ながらにこんなにも覚えてるって名作なんだろうね。なので、話の大筋は知ってました。

なんだろうな、私は教育に携わる仕事をしているので、チャーリイのような…いや、チャーリイまで明確じゃなかったとしても、同じように個性を持つ子どもと関わることもあるし、親の愛情不足の子どもは結構いたりする。

家族のことを思い出すとこは結構しんどくて。お母さんや妹のシーン。いい子でいないといけない、賢くならないと愛してもらえないと子どもが思わなきゃいけないことのしんどさ。
ぶたれる、ぶってしまう、自分のことを見てほしい、嫌ってしまう。なんとも言えない、こういうご家庭にありがちな?いや、どんなご家庭でも大なり小なり存在する閉塞感が苦しかった。

後半の犯人探しのところ、きつかった。くるしかった。家族みんなはチャーリイに刃物を突きつけるのと同時に、自分にも刃物をつきつけてる。それが大きな傷として現代にも残ってる。でもチャーリイは?チャーリイは自分にしか刃物を突きつけない。

知能が高くなって、いろんなことをわかるようになったチャーリイはどんな気持ちで過ごした?しかも、友達はいない(いなくなった)、理解してくれる人も、いない(マリアはちょっとちがう)。ずっとひとりずっと孤独。でもチャーリイは誰にも刃物を向けない。傷つけない。手術の前に、性格も重要なんだと言ってたけど、チャーリイの性格だからこうなったんだよね、なれたんだなと思う。チャーリイは心は思春期の子どものようだったけど、すごい人格者。

観てみたくて、でもそんなこと敵わないと諦めてた浦井さんのチャーリイ。手術の前の動き、言葉、全てが発達障がいを抱える方の特徴にしか見えなくて。ナチュラルに存在していて、月並みな言葉だけれど、すごかった。この時期の笑顔がまた最高で。この子の持っている能力は「笑顔」なんだなと思っちゃうわけです。これがあればなんだっていいじゃない。でもこれは他人だから思えること。

アルジャーノン、素晴らしかった。かわいくて、ちょっと反抗的な白ネズミ。最高でした。チャーリイの唯一の理解者であり、もうひとりのチャーリイ。ダンスが素晴らしいのは存じていましたが、表現力っていうのかな、引き込まれました。あと、衣装と髪型がかわいい。耳も。

役替りしまくるキャストさんも素晴らしかった。これ、配役もちゃんとしっくりくるように関係性で考えられてるのね(当たり前か)。違和感なく研究室のシーンからパン屋にかわる。素晴らしかった。
フェイちゃんすきだなー。フェイちゃんかわいい。フェイちゃんも、なにかしらの能力をもっていて、社会で生きていくには息苦しい子。きっと大人から型にはまれと言われてきた過去があるんだろうな。そういう子がそばにいてくれてよかったね。好きって言ってくれてよかったね(フェイちゃんには申し訳ないけど)。「家中の本を燃やして、その火の中で踊るの♪」このセリフすき。フェイちゃんすっごく性格よかったよね。彼女も人格者だわ…。

パン屋の大人たちを見ると、自分はどうなのかな、と不安になります。自分より出来ない誰かを見下すことが人間の精神の安定剤となる。あいつよりはマシと思うことで生きていける。人間誰しもそう思う。だから人間ははるか昔から身分制度を作ったり、奴隷をつくったりするわけですよ(突然どうした)。じゃあ自分はどう?チャーリイに寄り添った目線で物語を見ると同時に、自分はパン屋の人たちを責められる資格を持つに値する人間なのだろうか、とも思います。最後、知能がもとにもどったチャーリイをパン屋の仲間が笑顔で受け入れる。ちょっともやっとしてしまう。でもこの気持ちも正解かな?

でもドナーさんはいつも一緒に思う。ドナーさんはクビにはするけど、いつだってありのままのチャーリイを愛してくれてる気がする。そうあってほしい。ちなみに、身も蓋もないこと突然言うけど、ドナーさんのときも、教授のときも、東山さんのイケてるオーラがものすごかった(笑)

この舞台は私的楽日に1列目それもセンターで見させてもらって。私の人生にこんな幸せなことが起こっていいのだろうか、と思うほどの、私なんかがこんな席で見せてもらっちゃって申し訳ないの思うほどの席で。今までは後ろの方の、肉眼では表情までは厳しい席で見ていたので、表情が見えるってすごいなって改めて思った。後ろでは分からなかったこと、感じられなかったことがすごい情報量で押し寄せる。やはり役者さんが目の前で演じてくれるって幸せです。手を伸ばしたら届きそうな距離。(いや、伸ばしはしないけど)この上なく幸せでした。しかもこの演目での特等席。ほんとうにありがとうございました。

正直、1回目見たときは、後方席ってこともあったのか、いや、期待のしすぎか、良かったんだけど、「こんな感じか〜」と冷静で冷めてる自分もいて。でも、大阪は席のおかげか、それても役者の熱量か、私の物語を理解する能力があがったのか、なんだかわからないけど、圧倒されました。ものすごく、良かった。

チャーリイがいつも思っていた「かしこくなりたい」。かしこくなったら、友達ができる。みんなの仲間になれる。そして、(仲間として、ひとりの人間として、家族として)認めてもらえる。それは、賢くなってからも変わらない気持ちで。
この、「認めてもらう」ってのはなんとも厄介な感情で、シンプルな子供から大人まで持ち得る欲求なんだけど、行き過ぎると、他人を傷つけることだってできる。(最近、他者からの「認めてほしい」がこじれて傷つけられた記憶が新しい筆者です)ナイフを自分に向けながら静かに「認めてほしい」と言ったチャーリイが頭から離れません。

SFなんだけど、SFじゃない。物語なんだけど、どこが現実的。それを支えたのはやはり役者のみなさんの力だなと思うわけです。私は浦井健治のファンってやつを細々とですが、やっているので、こういうことに現実味を持たせる役者である彼が好きなんですが、そんな彼を見てきたからそれが当たり前になってることもあって。
でも、今回、嬉しいことにお隣の席の方が幕間に声をかけてくださって。(いつもひとりで無言で観劇して、特に感想を共有する友達もおらず、無言でnoteを打っているので笑)しかもその時は一般で取ってたので、浦井さんのファンの方ではなくて。別のミュージカル俳優さんのファンの素敵なマダムで、「けんちゃんのファンなの?わたしも昔から結構好きなのよ〜」とかおっしゃってくれて。で、舞台が終わったあと、「最後の台詞、グッとくるのは彼の力よね」と言っていただき、幸せな気分になりました。ファンとしては、最後の台詞も、物語の意図的にも、演出の意図的にも、ああなるのが当たり前で。それが、役者の彼への信頼でもあるのだけれど。でもなんか、わたし、浦井健治のおかげで目が超えてんだなあ〜とのんきに思ったりしたファンバカでした。

浦井チャーリイを見られた喜びを噛み締めて。いい思い出をありがとう。ずっと忘れたくない思い出になりました。

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