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チェコの夏学校 1997年 4

学校生活

 学生寮はフラチャニ地区の西側にあった。講義は旧市街広場近くの校舎で行われていたので通学はバスでDejvickáへ行き、地下鉄に乗り換えるのが基本だった。ただ、寮から旧市街広場へは下りだったこともあり、僕は朝は校舎まで歩いて行くのが好きだった。プラハ城へは入らずに横を下り、カレル橋を渡って旧市街広場まで歩く、当時も今ほどではないが観光客は多く、特にカレル橋は日中も夜も人混みが常だったのだが、早朝は人影もまばらで朝霧の中を歩いているとヨーロッパに来ているという実感だけではなくて自分も中世の街に迷い込んだようなそんな感覚になれた。帰りは登り坂の上に授業後に遊んでいたこともあって歩くことはほとんどなかったが。

朝のカレル橋、プラハ城側から旧市街側を望む

 お昼は朝にもらったランチボックス(パン、スプレッド、フルーツ(大抵はリンゴ)が紙袋に入ったもの)を旧市街広場のフス像の階段で座って食べるのが好きで、特に誘われたりしなければ、そうしていた。10年後に再訪したときには周囲に柵が巡らされていて座れなくなっていて驚いた。ランチボックスが物足りないと感じるときには朝食はビュッフェ形式だったので、ロフリークにチーズとハムを挟んで簡単なサンドイッチを追加することもあった。
 午後からは何かしらのイベントがあったが、参加は自由だった。簡単なガイドツアーや文化交流のようなものが基本だったような気がしているが、ほとんど記憶に残っていない。ビロード革命からさほど経過していない頃で、京産時代の抑圧の記憶は強いものがあるのだな、と感じたことは確かだ。

憧れの人

 韓国からの参加者で上級クラスにとても綺麗な女性がいた。大学4年か大学院生と言っていたと思うので僕よりも少しだけ年上になる。もちろん彼女の名前は覚えているがここでは仮名でヨンヒさんと呼ばせてもらおう。ヨンヒさんとの最初の出会いははっきり覚えていないが、何度か韓国グループの食事に呼ばれているうちに知り合ったと思う。彼女はなんというか、僕にとってはいわゆる韓国美人という印象だった。実は一緒に撮った写真もあるのだが、ここに載せるのは控えておこう。僕はキム君たちとの会話でヨンヒさんはすごい綺麗な人だと話していたこともあり、クラスメイトが色々とセッティングしてくれたのかもしれない。彼女からあとから聞いたところでは彼女も僕のことが少し気になっていたらしいが、お世辞だったのかもしれない。
 彼女とは何度か出かけたり食事を一緒にしたりして今でも良い思い出になっている。本当に付き合いたいと思ったこともないわけではなかったが、お互いに夏の間だけという暗黙の了解のようなものはあって、具体的なことは何もなかった。
 いくつか印象に残っているなかで、一緒にピザを食べたときにかなりの量のタバスコをかけていて、彼女しかしらないのに韓国の人はやっぱり辛いものが好きなんだと思ったことがある。ある朝、一緒に寮から学校まで歩いていったことも良い思い出だ。僕は歩くのが好きで朝はよく歩いて学校へ行っていたのだけど、そんなことをしているのはほんの数名だけで、彼女にも何故わざわざ歩いて行くのかと驚かれた。それでも一緒に歩いてみたいと言ってくれて、早朝の朝霧に煙るプラハ城からカレル橋をわたり旧市街広場までを一緒に歩いたことはとても良い思い出になっている。夏の終わりに彼女から手紙をもらったが、彼女も同じように感じてくれていたようなことを書いてくれていて嬉しかった。
 彼女とは帰国後も数回やりとりがあったが、彼女が就職して忙しくなるという便りが最後になった。僕もちょうど大学院への進学やその後の進路変更などがあり疎遠になってしまった。今でも彼女は元気にしていてくれると嬉しいのだが。

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