無常と無情

そのときがいつなのかは誰にもわからない。いつでも今でもなのだ。楽しい時もあれば悲しい時もある。常に移り変わる世界。人は遥か昔からその本質を理解して生きてきた。


祇園精舎ぎおんしょうじゃかねこえ 諸行無常しょぎょうむじょうひびきあり

沙羅双樹さらそうじゅはないろ 盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらはす

おごれるひとひさしからず 唯春ただはるゆめのごとし

たけきものついにはほろびぬ ひとえかぜまえちりおなじ 


鐘の音は鳴り響いた瞬間から絶えず変化して、そして消える。

花はよく女性に例えられるが、生まれてから美しく生き、そして帰っていく。

平家物語の冒頭は、同じことを違う表現で4回も繰り返している。

聴覚、視覚、知覚、触覚を用いた感覚的かつ理性的な言葉の表現である。秀逸すぎてやばい。

導入の言葉でさまざまな体験から得た記憶を呼び起こされ、それと同時に感情をも引っ張り出される。

諸行無常というのは有名な言葉だが、常に移り変わる様を俯瞰した形容であると何かで読んだ。確かにそうだ。そこに感情は入っていない。

「無常と無情」を「無常観と無情感」と置いて比較しているのがわかりやすくて納得できた。

冷静に物事を捉えて、ありのままを受け入れよと。そうありたいものだ。さまざまな想いはその事実に対峙した人々が生み出すものだ。

信じがたい出来事も、それはこの世の真理に準ずるものであることは理解できる。

しかし、そうは言っても自分はたくさんの感動をもらったのだ。幸せだと思える時間が蘇ってくる。それは心の声だ。そして寂しい。切ない。悲しい。

ただただ安らかに。心穏やかに。

愛を、感謝を!小西英理へ

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