美しさ

美しい理論は世の真理と考えられてきた。完璧な円を描くほど、それは美しい。だけどそれは表面的な見せかけで、その形は変化する。そもそも日常的にそんなものに気がつくことは少ない。

美しいとされてきた中にもさまざまな異和感を抱える。それは、線が曲がったり、途切れたりしたとき。それでも、止まらず進み続けることは美しい。不完全であることの美しさは、完璧な美しさを凌駕する。生きることそのもの。

まる、さんかく、しかく
いろんな形があるのがこの世界。
走り始めた線は、いつか元へ戻す。
どんな形を描いても、戻ってくるように。
同じではないけど、同じ場所。

モノには与えられた枠、キャパシティというのがある。その枠から超えてしまうと、戻って来れなくなる。

お腹が空いたらご飯を食べる。
食べたらエネルギーが補充される。
エネルギーを消費したらお腹が空く。
運動の原動力はエネルギーである。

これを生まれてから死ぬまで繰り返す。

なぜって、キャパシティはそれぞれ決まっているからだ。キャパのリミットカットは物理的に不可能である。生命はそもそも限られたキャパの中で循環させて持続するような設計となっている。

自然の営みも、同じ仕組みで回っている。
生物の営みは全て、自然の循環により成り立っている。

こんな当たり前のことは誰でも知っていることで、だけど今の時代の人々が全員このことを理解して生きているとは思えないような社会であることが、美しくないのである。

循環しないモノがあったとしたら、それは近代以降に人が作ったもの。循環しないモノを作り出してしまったから、与えられた枠を越えちゃったから、美しいまるどころか、いびつなまるですら描けない。

美しさってなんだ?

富国幸民と言った人がいる。
国を豊かに、民に幸福を。
豊かってなに?

民間人で宇宙に行ったって!すごいね!
だけど、”あんな暮らし” 絶対嫌だと思った。一ミリも豊かだと思えない。

美しい大地、美しい水、美しいそら
私たちが生きていけるのは、この奇跡の惑星が回っているから。そなかで多様な生命の営みが循環しているから。

でしょ。

美しく生きたいと思うほどに高い壁が立ちはだかる時代である。無知の知とは良く言うが、中途半端に知るくらいなら、知らずに狭い籠の中に収まっていた方が幸せかもしれない。

知らないこと探求して、その先に光が差すのだろうか。モノは捉え様、考え様、美しさも多様にあるのだろうし、自分らしさを描いて生きていくしかない。

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