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一昆虫学者の見たペレストロイカ:レニングラード編

 「(ソ連型) 社会主義 」 というのは 、1917年のロシア革命から1991 年のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)崩壊に至るまで 、大きなエネルギーを使いながら人類が試みた挑戦であった 。わたしはたまたまその最後に近い 1990 年にソ連に滞在した 。当時わたしが勤めていた大阪市立大学はレニングラード大学と姉妹校で 、毎年何人かの教員を1カ月から1カ月半の間交換する学術交流プログラムがあった 。わたしがもっとも力を入れてきた昆虫の光周性(生きものが日の長さに反応する性質)の研究は 、レニングラード大学のダニレフスキーによる 1940年代の終わりから 1960 年代の初めにかけての研究が先駆けであった 。しかし 、わたしが論文で名前を知っていたソ連の学者たちは国際会議に参加せず 、謎に包まれていたので 、レニングラード大学を訪れることはわたしにとっての夢であった 。
 この学術交流プログラムに採択され、レニングラード大学に 1990 年 6 月 3 日から 7 月 18 日まで滞在した 。そのうち 、初めと終わりの約1週間はレニングラードに滞在し 、間の約4週間はレニングラードから1000 km 以上離れたベルゴロド州の実験所に滞在した 。当時は 、ゴルバチョフ大統領が 、 ペレストロイカという改革を進めており 、併せて進めていたグラスノスチ(情報公開)とともに 、それまでの閉鎖的 、独裁的な体制をソ連という枠の中で民主化しようとしている時期であった 。すでに言論の自由は広く認められていたが 、経済的にはきわめて苦しい状態にあった 。滞在中に会った人たちからは 「 ペレストロイカの前は食べるものが十分あった 」という言葉も聞かれた 。
 1990年にはダニレフスキーも 、その後継者であるティシチェンコもすでに亡くなっており 、わたしの受け入れ教授はステコルニコフであった 。彼はわたしとは分野の異なる昆虫分類学者で 、英語を話せなかった 。そのせいもあり 、レニングラードで 、気が合ってよく話をしたのは 、チェルニシュというわたしより少し年上の昆虫生理学者だった 。
 チェルニシュはダニレフスキー自身からは研究指導を受けていないが、その学問的な影響のもとで 、かつては昆虫の光周性の研究をしていた 。しかし 、1990 年には 、すでに異なる分野に転じていた 。それは昆虫の作り出す有用物質を利用する応用的側面の強いものであった 。
「 ダニレフスキー以来の伝統あるレニングラード大学で 、 なぜ光周性の研究を続けなかったのか 」と尋ねたところ 、以下のような答えが返ってきた 。「 経済的にうまくいっている日本のような国の学者はあなたのように自分の興味だけに基づいて研究してもよいだろう 。しかし 、わたしの国は今や経済的に崩壊する危機にある 。わたしは少しでも役に立つ研究をしてこの国の立ち直りに貢献したい 」 。わたしは彼の気持ちもわかったが 、経済的苦境にもかかわらず自分の興味に基づいて研究することも重要ではないかとも思った 。
 1990年のレニングラードでは 、市の名称をロシア帝国時代のサンクトペテルブルクに戻すべきかどうかという議論がなされていた 。チェルニシュは 「 名前を戻さない方がよい 。なぜなら 、今は市内各地にある看板を書き換えるお金すら節約すべき状況だから 」と言っていた 。しかし 、彼のように考える人よりも 、ロシア革命を起こしたレーニンという名前がついていることに反感を持つ人の方が上回っていたのだろう 、翌 1991 年には住民投票によりサンクトペテルブルクに戻った 。
 チェルニシュはその後、昆虫の有用物質生産の研究を発展させて 、昆虫由来の医薬品の工業化に貢献し 、フランスのホフマンと自然免疫に関する共同研究を行って彼の 2011 年ノーベル生理学医学賞の受賞対象課題にもかかわった 。また 、わたしがレニングラード大学に滞在したのと同じプログラムで 、1991 年と 1994 年の2回大阪市立大学に滞在した 。彼が 2020 年に交通事故による外傷の合併症で亡くなったのは残念でならない 。日本のおみやげにポッキーをたくさん買って 、「 帰ったらこれでパーティをする 」 と言ったときのうれしそうな顔を今も思い出す 。

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