2024年8月中旬「オタクの言う教養」
twitter壁打ち第一回
twitter壁打ちとは、twitterで議論が紛糾した出来事について、レスバの世界を離れて自分なりの考えを整理する場である。
本日の議題は「オタクの言う教養」について。
結論ファースト
・「教養」は「品位」と「知識」を意味する多義語である
・教養(知識)自慢ツイートはその教養(品位)の無さが批判ポイントとなり、実際にTwitterの一部の人々の反感を買っている
・しかし、批判する人々は教養=知識という自慢ツイートの前提を継承してしまうため、教養とされる知識の低レベルさを批判する形式をとってしまい、本質的な品位の批判に至らないことが多い
→結果として教養と呼べるラインの知識は何か、という不毛な議論に終始する
本題
議論の背景
twitterでは以前から、オタクがしばしば「教養」として知識を称揚してきたが、それらが大抵義務教育などの範囲に収まる内容であり、それを冷笑する風潮が醸成されてきた。直近ではコミケにおける耳なし芳一のコスプレを一目見て耳なし芳一と看破することが教養と称され、それに賛否様々な意見が述べられている。
教養とは?
まずは辞書を引いてみよう。ここではニッコクを引くこととする。(第三版の発売楽しみですね)
現代に於いて顧みられているのは(2)の用法であり、今回は(1)と(3)は顧慮しない。
こうしてみると、教養という一語は、
①知識に伴って獲得した品位、あるいは
②ある文化に於いて共有される知識
といった二つの意味を持った多義的な言葉と総括することができるだろう。
この多義性が問題の発生源となっているのだ。
日常会話における教養
では、実際にどのように教養という語が用いられているか、例文と共に考えたい。国語学や言語学の世界ではこういう際に取るべきアプローチや用いるべき術語があるかもしれないが、そういったものは知らないので我流で失礼する。
A.おとぎ話という社会的な教養
B.最低限の教養くらい身に着けろ
C.「エヴァ」はオタクの教養だ
おおよそすべて成立する文章であろう。ABCとも皆な「知識」の意味であるが、Bは「品位」の意味も兼ねていると言える。また、
D.彼は教養のある人だ
E.教養ある家庭で育った
などというと、この「教養」は「品位」と「知識」とを併せ持った意味となる。
またそれと同時に、ここでは「知識」がある程度高いことをも示している。「お金を持っている」が「裕福」を意味するのと同じであろう。
つまり、日常会話で「教養」といった場合その意味は特定されがたく、大抵の場合は「(一般的な)知識」と交換可能な意味合いであるが、「教養がある」というコロケーションの場合は「品位」かつ「高尚な知識」ということを意味しているのである。
余談:高い「教養」と「専門」
大学における講義は「一般教養科目」と「専門科目」に分かれている。一般教養で知る内容は、しかし一般社会で通用する教養ではなく、いわゆる“高い”教養となっている。
大学では一般教養科目で獲得した知見(知識)を武器に、自身の専門性(研究)を獲得していくという流れを考えれば、一般教養科目で指導されるのは特定の専門分野における「広く共有された」知識であり、専門科目によってそれを鍛えて研究の末に見つかるのは自分や周辺の人物だけが理解できる「狭い」知識である。
「舌きりすずめ」を知っていることは日本という広い社会における「おとぎ話」という教養を獲得している人であり、そこから『宇治拾遺物語』などの話ができる人は日本文学における高い「教養のある」人であり、その中の特定の話がインドの説話に由来していてそれが原語版とどう相違しておりチベットではどのように変化しているか語れる人は「専門家」であるのだ。
教養は行き過ぎる(マニアックな知識になる)と教養ではなくなるのである。
「オタクの言う教養」の総括
余談を挟んでしまったが、つまり、義務教育レベルの知識を教養とする人たちは、高低を特定しない広い意味の、そして「知識」を「教養」としているのであり、それに対して冷笑する人間は該当ツイートが単に「教養」とだけ言っていたとしても、頑なに「教養のある」という表現を念頭に置いて発言しているため、「教養」は高尚なものであるということを前提としており、議論がかみ合っていないのである。
※マジで義務教育レベルの内容を高い教養とするツイートがあった場合ご一報ください。
例えば、今回の「耳なし芳一」よりも数日前に投稿された以下のツイートは、「教養」を「教養がある」の意味で使うべき「高尚なもの」と限定しているために起こった冷笑と言える。
しかし、冷笑する側は高い「教養」の水準をどこまで釣り上げるつもりであろう。例えば、今回のコミケに関連する教養ツイートとして次の例を見たい。
「免罪符は教養である。」
これは当然成立する。そして
「免罪符は高い教養である」
もまた、成立する可能性を孕んでいる。
免罪符(贖宥状)やルターの改革に出会うのはおそらく高校世界史、高校倫理、つまり義務教育を脱した後期中等教育の選択科目の世界である。果たして、「高校の選択科目」の知識はどの程度まで高度な教養といえるだろうか。学のある両親のもとで育ち、進学校に通っており、同質の高レベルな知的環境で過ごし続けているとわからないかもしれないが、日本人で(免罪符という言葉は知っていても)贖宥状とルターについてきちんと知る人間はそう多くもない(≒社会的に広く認知されているとはいいがたい)のではないだろうか。
さらに「免罪符のネタを共有できる日本の教育は素晴らしい」もおそらく成立する可能性が高そうなラインである。
つまり、このツイートが「贖宥状を知っているなんて、すごく教養がある」と言っているならまだしも、そうも言っていないこのツイートには特段非難ポイントは見出せず、冷笑することは難しい。しかし、次のような引用ツイートもある。
立派な冷笑である。おそらく中等教育程度の知識は教養と認めない立場に立っているのだろう(山月記も高校で取り扱われる)。
しかし冷笑する側は「教養がある」レベルを提示することはない。これは一方的な冷笑を可能にしており、非対称的であり、「冷笑したもん勝ち」の状況を生んでいる。
これは「耳なし芳一」を高い教養と位置付ける試みだが、現実には絵本やお話会、児童向け漫画での引用やオマージュなどによって知る機会が十分に担保されており、ちょっと苦しいだろう。
真の論点ー品位について
直近で話題になった「耳なし芳一」のツイートを見てみる。
まず、「耳なし芳一は教養である」という議題については、上で教養の定義を考えたように、「日本に於いて広く認知されている説話」であるから、成立する。また、このツイートは、「耳なし芳一」を知っている人は「教養がある人」だ、ということを主張していないため、その点もクリアしている。
しかし、このツイートにはその他に
・日本人はすごい
・教養の勝利だ
という論点が含まれていることがわかる。
「教養の勝利」が何を意味するかは分かりづらいが、仮にここでは
耳なし芳一が瞬時にわかるほど日本の教養レベルは高度なものである
という意味で解釈した。つまり、「他国一般と比べて日本の文化的な程度は高い」という意見と同じとみてよいのではないだろうか。
率直に言えば、これは正しいだろう。日本の就学率やOECDの初等教育・中等教育の学力調査を見てみれば、日本の義務教育は他国に比べてそこそこ成功している、あるいはかなり成功していると言ってよい。(適切なデータを引用しなさーい!)(しかるねこ)
結局、このツイートが紛糾した真の論点は
耳なし芳一という特別高等でもない教養(知識)を取り上げて日本を称揚するのはいかがなものか。
という点に集約される。
これは(左右の立場を置いておいて)「この程度のことを誇るのは品位がない」という意識が冷笑側に通底していると言えるだろう。
先に引用した『日本国語大辞典』も
としており、真っ先に「品位」に言及している。つまり、
教養(知識)があるという事実を指摘する行為は教養(品位)を欠く
という状態が発生しているのである。
付随する問題―ギャグがつまらない
さて、教養の問題はしばしば話題になっていることは既に述べたが、Twitterにいるオタクは文化の守護者を自任することが多いため、教養を擁護・称揚する傾向にある。その際に、「なぜ教養が必要なのか」という問いを立て、「面白いギャグがわかるからだ」という回答を見せる。
しかし、端的に言って面白くはない。(引用するまでもない)
面白くないことを面白いと語ることへの反発
もっと言えば、
一部Twitterユーザーの手垢のついたネタを繰り返し続ける/RTし続けるノリへの呆れ
も、この問題が勃興する初期からずっと通底していると思う。
更に言えば、冷笑する人々も、それらつまらない教養賛美ツイートは自分から探しに行っているわけではなく、たいてい「おすすめ」タブに流れてくるか、誰かが引用RTで冷笑しているのを目にする形で発見しているはずである。ということは、そのツイートはある程度話題になっており、ある程度「いいね」が付けられているはずである。端的に言えば、「こんなつまらないツイートが受け入れられるtwitterの世論への反発」も冷笑を招来しているといってよいだろう。
結論
結局、この問題の根底には
教養を誇ることへの反発
が原動力として存在しているのである。そこに
教養の高低への認識のズレ
も手伝って、冷笑が激化していると言えよう。
また、「オタクの教養を冷笑する」という態度が冷笑側のスタンダードにあるため、本質が「教養を誇る」「浅はかなナショナリズム」、つまり「品位のなさ」にあったとしてもそれが見過ごされ、「教養」という点に拘泥してしまうのである。
先ほど一見穴がないという意味合いで引用した贖宥状のツイートも、「品位」という問題軸を導入すれば、そこは批判ポイントにできる。
しかし、多くの人々が「知識の高低を冷笑する」というレイヤーに囚われている為、その問題点を外した冷笑が行われているのである。
以上、オタクの言う教養とその冷笑について考えた。
ここからは全くもって私見というか、勝手に教養に変な定義をするのでスルーしてほしいのだが、私は知識を持っているだけの状態はあくまで「物知り」であり、「教養がある」状態ではないと考えている。
「教養がある」と言われるためには、その知識を使った類推が行えることが重要と考える。つまり、同じ系統に属する事象A,B,C,D,Eを知っているときに、それらA,B,C,D,Eそのものやそのパロディがわかる状態は単なる「物知り」であり、そこからさらに未知のFに出会った時、A~Eの知識を用いてFを解釈できるのが「教養のある」人なのではないだろうか。
そう考えると、Twitterで称揚される教養の大半は依然として「物知り」の次元に留まっていると言える。
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