スリル・ミーについて

スリル・ミー@サンケイホールブリーゼ覚書です。

腹に溜まる重さの芝居、役者二人とピアノが「共犯」、男と男の関係の芝居なれど、それはBLだの腐向けだのの括りにいれるにはあまりにも粘度が高く、容れる器が試された。

とまあぐだぐだ抽象的な言葉を並べてるんですけれども、サンケイホールブリーゼで成河×福士誠治、松下洸平×柿澤勇人両方観てました。とても今更ですが今年の記録として感想を記します。

舞台美術はすべて黒、一見すると無機質に見える装置ですが、その中に渦巻くどろどろした彩りと温度の変化から見える「ここで光がさしていいのか?」の兼ね合い、そしてさした光を「光と捉えていいのか」と自問自答しながら結末のわかっているストーリーを追うことは結構高負荷でしたね…
「私」と「彼」は口づけをしているけれど、二人は互いの愛を得るために刺激的な犯罪に手を染めていくけれど、果たして求めていたのは愛だったのか、なんだったのか、お互いはお互いに何を見ていたのか…

観劇して一年弱経ってから感想文書こうとするなんてそもそも間が悪いものだけど、振り返ると
「深淵を覗くとき深淵もまたお前を覗いているのだ」
という言葉を思い出した。

自分の中の悪意や悪意に惹かれる衝動、そしてそれはいけないことだと分かっていて封じているがそれでも尚惹かれてしまうということ、その引き出しが観劇を通じて開けられては急いで仕舞う。自分の中のそれ、認めたくないからね。

…計画犯は「彼」で「私」は「彼」の望むことなら何でもやる、そして「彼」は「私」をいいように搾取するこのヒリヒリ感。サイコパスじゃねえか…でもそれが共依存で愛の形をしていた。
終盤に向かってそれは逆転し、計画・実行は「彼」で準備は「私」になるのだけれど、なんというかここで諸々崩れていくのが分かってやってたんじゃないかなあ…などと。

史実のレオポルド&ローブ事件がどうだったかはさておき、若さゆえの衝動と知能が高いがゆえに終わりまで読めていたが終わりの過程まで読め切っていなかった、だから崩壊して最後つかまっちゃったのかなと解釈しました。
その中に見え隠れする「無意識の悪意」は何よりもゾクゾクするけれど、それを消費する自分の中の悪意にも向き合おうなとかそんな感じです。

あ、松下洸平×柿澤勇人ペアはなんつうかエモい、成河×福士誠治は成河さんの無邪気さに「私」のこわさが際立っていたなと思います。
そして、メリバというよりかは限りなくハッピーエンドだと…

できるなら女子ペアでのスリル・ミー観たいけどまあ色々難しいやろな、ということでお終い。2019年に観れてよかったです。


目に留めていただき、読んで頂き有難うございます! この文章から何か感じるものがあればうれしく思います。