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私にとっての禅とは。

新コロナウィルス感染拡大防止のための外出禁止が全イタリアで解かれる日を目前に、私が住んでいるトスカーナ州は5月1日から、散歩に出るための外出許可が出ました。公園などはまだ閉まっていますが、近所の丘と散歩道を開拓して(初めて通った道がありました)、小一時間の散歩をして来ました。

これまでは近所の生鮮市場や商店に買い物に行ったり、ゴミ捨てに外に出るくらいで、必要な買い出しにもかかわらず、何か後ろめたい気持ちでそそくさ用事を済ませては家に戻るという生活でした。

今日は家から5分ほどのところにある少し高台の場所から久しぶりに「生の」大聖堂を見ることができてちょっとウルっとくるものがありました。さすがに散歩で中心地までは行く気がしませんでしたが、遠くからでも愛しいフィレンツェの街並みが見られてホッとした時間でした。

さらに丘を登って、庭付き豪邸ゾーンへ(笑) 中心地や住宅密集地と違い、門があって大きな敷地の中に邸宅がある家が点在するゾーンへ続く道へ足を延ばしました。植物もテラスでできる植木ではなく、糸杉、松、オリーブ畑がある大きな邸宅ゾーンは私道ではないけれど車がやっと通れるほどの幅の小道。それでも今日は散歩をする人達が結構たくさんいました。皆、本当に外に出たかったのだということです。マスクをしながら、私も彼と一緒に散歩を楽しみました。

ちょっとタイトルに関係ないんじゃ、と読んでいる方は思うかもしれませんが、「慌てない慌てない、一休み一休み」という訳で、繋げますのでお待ちください。今日散歩で楽しんだのは、外の空気と緑豊かな自然の木々や花々を見ながら歩いたことです。スポーツ的なウォーキングとはちょっと違います。

遠くから眺めるフィレンツェの街並みにも感動しつつも、今日歩いたゾーンは閑静で自然がたくさん見られる街並みで、いつもは仕事のツアーでフィレンツェ郊外に行っていた時(田園に囲まれた中世の街の素晴らしい景色でまた魅力はありますが)とはまた異なった世界でした。近くにあるけれど見逃していた自然です。それもとても愛おしく感じました。葉や花々の細かさ、色、香、爽やかさ、ささやかではありますがキラキラして見えて、本当に美しかったのです。

私にとってはこれが「禅」です。

結論を唐突に持ってきたので、「?」という感じかもしれませんね。昨年末に京都を訪れた時に坐禅体験に勝林寺(東福寺塔頭)に行きました。坐禅会の締め括りに住職の方のお言葉で、「悟りとは何か」ということを「坐禅の後、外の庭をふっと見た時に美しいと感じることです」と説明されていました。

「禅」の「侘び寂び」の「侘」の字はもともと「詫びる」から来ているそうです。この侘び自体が「隠者生活」を示しています。にんべんに宅、=家ですよね。このウ冠の下の部分、人が横向いて坐禅をしている姿なんだそうです。確かにそう見えます。詫びるということから来ていると先に書きましたが、人間は何に詫びなければいけないのかということです。私達は食べて生きていますので、お肉やお魚を食べたら、殺生していることになります。野菜も果物も食べていますので、この世に生を受けたモノから栄養を分けていただいているのです。だから、感謝と詫びてこの生を続けているということになります。そのありがたみ、美しさや儚さに気付いて意識するのが「悟り」であり、それを意識して努めていくのが「禅」であると理解しています。

禅という字も「しめすへん」に単。しめすへんは神を祭るための壇を表しています。横に単、つまり一人で行う神事。「禅」です。「悟り」を意識するための御努めが「禅」ということです。

ちょうど外出禁止自体がこの「禅」に当たりました。自己を見直して自分の置かれている世界眺める、自己に向き合う時間。外に出たらこのような美しい自然が見られるというありがたみを感じました。

投稿の写真に載せた茶筅と大徳寺511世立花大亀和尚(故人)著の「利久に帰れ」。この本は、京都の本屋さんで買ったものを外出禁止中に読み、この投稿の鍵にもなった言葉が書かれています。御抹茶を点てる時に心の落ち着かせるように精神を集中するのは、まさに「禅」の時間です。



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