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三十歳の日記(4/23-5/1)

四月二十三日
 昨日はそういえば家に帰る途中に図書館に寄ってトルストイの日記を読んだんだ、僕。十九歳の時点で強固な論理を展開していて大変そうだった。二十七歳の時はギャンブルにハマって全然書けなくなっていて、トルストイでもそんな感じだ。三十五歳の時は結婚して家庭を持って書く時間がなくてしんどい、みたいなことがいっぱい書かれていて、トルストイでもそんな感じだ。ちょっとだけ元気をもらう。受付の近くに「梅毒が流行ってます」のポスターが掲示されていて、そうなんだ、と思う。梅毒が流行ってんの今。もうなんか無茶苦茶だな。やりたい放題だ。
『血の収穫』を明け方まで読んでいた。ハードボイルドミステリの主人公としてはフィリップ・マーロウよりもソリッドでフィジカルが強くて自分の感情を大事にしている。というかほぼ犯罪者。どちらにも共通しているのはタフであること。一日中動き回って、あんまり寝ない。好みの人物造形だった。そのあと寝る前の羽毛布団の中で、マーロウの方が後発だと知る。『血の収穫』は色んな人がちゃんと突然発砲してくるのが良い。ガチで殺しに来てる。子どもの頃に特撮戦隊モノとかウルトラマンとかを見て、戦う前のたらたら喋ってるタイミングで「今やれよ」とよく思っていたが、まさにダシール・ハメットの小説は今やってくれる。周りの人間が形式に囚われずに確実に主人公を殺しに来る。
 たっぷり寝て夕方に起きた。途中何度か起きて、見た夢がおもろくて使えそうだったのでiPhoneにメモった。今見たら「下半身が亀の女」と書かれていた。使わん!!!

四月二十四日
 水筒にコーヒーを入れて家を出る。手帳とペンも持って。バスに乗る。手帳にうにょうにょと文字を書いていたら、ふと、三万字ぐらい書いてきたこれらの話をフリにして、これのラストシーンをファーストシーンにして新たに書き始めた方がいいんじゃないか? と思い付く。しかしこういう突発的な思い付きに引っ張られていたらいつまでも終わらないことを知っているので、一個の簡単な提案として受け止めて、その場合のプロットを書いていく。
 働く。『デリケート』がめっちゃ良くて、93年生まれの人に会ったら渡してます、と言ってもらって嬉しくなる。
 帰宅。scrivenerでプロットの整理。プロットポイントの切り替わりを光太郎のギターの習得に沿って進ませていたが、抽象的すぎてよくわからないのでもうちょっとズームさせて具体的な出来事を書いていく。手帳を開いて検討する。ここまでの三万字がおもんなかったら消すのはアリだが、これはこれでおもろいので消すのはナシだ。恋人とか落合とかに読んでもらったら「最初のが良かった」とか言われそうなのがイメージできた。手帳に書いた分のプロットは単に後ろにくっつけて、そしてラストシーンまで固まったが、あまりにも絶望的な終わり方というか、こんな破滅的な話を書くってことは元気ないんだろうな、と自分に思う。自分の作る物語が自分の状態を映す鏡であることを血で知っているので、そうか、と思う。あれだけバッドエンドのアンチだったのに、凄まじいバッドエンドの話を書いていた。しかし自分からどういうアイデアが湧いてくるか、という泉の部分に関しては意図が介入できないのでどうしようもない。書いてたらどうせまた結末なんて簡単に変わるだろうけど。インフルに罹患した一月末からメンタルが終わり気味で、最近はちょっと戻りつつあると思っていたけど、やっぱりまだダメなようだ。というか抜け出せそうにもない。正直どうすればいいかわからない。地味にずっと苦しめな日々を送っている。原因はずっと「生きる意味」だ。これって何のためにプレイされてるゲームなの? と冷めてしまっている。冷めてからが本番なのはわかっているが、習熟の果ての良い意味での弛緩なのか諦念からの無気力なのか判別がつかない。どちらもある。

四月二十五日
 高校を卒業する直前になって成績が悪すぎたので高二の四月からやり直しさせられる夢を見て、焦って起きる。そして自分に確認する。おれ高校卒業してるよね? と。当たり前だ。もうすぐ三十一歳だぞ。
 出前館で頼んだカレーが届かずに返金してもらった。どこに行ったんだろう俺のカレーは。そしてこういう場合のお店への支払いは出前館がやるんだろうか。意味わからんな。今もどこかの空中で俺の頼んだカレーが漂っている。
『血の復讐』を読む。なんか、本当にいちいちおもろい。少年ジャンプとかのバトル系の漫画のセオリーって全部1929年にこの人がやってたんだな、と思う。主人公が途中、味方を電話で呼び寄せるが、その展開、ハードボイルドミステリで主人公側の探偵が一人から三人になるだけでまずワクワクするし、来た二人の味方の探偵が太ったチビと痩せたノッポの組み合わせで、そういう感覚とか、今ではベタだけどだいぶ先進的だったのかなこの時は。知らんけど。そしてドンパチやりまくっている色んなワルたちが一同に介して和平条約を結ぼうとするのとかも、週刊少年ジャンプ的展開というか、今ではよく見るUターンだけど百年前にこれやってるのは凄い。とにかく起きる出来事の量がパンパンすぎてダシール・ハメット本人すら筆が追いついてない様子でそれも凄い。ダシール・ハメットの中で事実を転写しているだけの状態のような、ほとんどノンフィクションを書いている時と同じテンションというか、出来事が体の芯から染み付いていないとできない。
 働き、帰宅すると、非常階段を上がった全然関係ないところに俺の頼んだカレーが置いてあった。は? どこに置いてんの? 気付くわけないだろ。悲しい気持ちで処分した。もったいな。
 湯船さんに誘われて久しぶりのApex。最近はみんな人生に忙しくもうあんまりやらなくなっていて、しかしゲームを通して出会ったみんなが散り散りになっていくのはやはり寂しく、三十年生きてると関わる人たちの循環、その代謝の速度をなんとなくわかるから、嗚呼きっとまたこの人たちとじわじわ疎遠になっていくと思うとそれは私の人生でも一二を争う苦痛だった。孤独。精算できる人間関係なんかない。だけど物理的に離れていても心では繋ぎ止めてくれている人たちの方がきっと貴重だ。無責任にも「湯船さんには続けてほしいなあ」などと言い、それは俺よりもしっかり社会人をやりながらその余白の時間で一個のことにガチで取り組む姿勢からいつも勇気をもらっていたからだった。孤独ぶってすぐにナヨる俺なんかとは違って一人きりになっても変わらず撃ち続けていく姿はそれだけでプレデターよりも価値のあることだと思う。Apexがなかったとしても何か本気で仕留めたいものが現れたら湯船さんは、ちりにきは、スリンキーは、そのような姿勢で取り組むということが俺にはわかるよ。でも、それだけだと思うんだよな。それさえありゃ大丈夫だと思うんだよね俺。それさえあれば、ずっとシルバーでもいいじゃん。まぁそれがある奴はシルバーで留まらないんだけどね。湯船さんとちりにきとコンスタントにランク回して三人でダイヤ行った時、俺がちりにきにラインが揃ってない話をして、ちりにきが「いや前がどんぐらいキツいのかわからない」て言われたの、大切なお守りみたいな記憶になってる。「いやノリっしょ、こんなんセンスっしょ」みたいなの、嫌いだから、毎回言葉を交わして具体的にフィードバックするのが一番だから、まあそれも疲れるしマジで大変なんだけど、やっぱりそれが一番だから、そういう部分を馬鹿にしないみんなに会えて良かったよ。

四月二十六日
 それで今日はちりにきから誘われたから二人でランクに行ったが、ちりにきも二ヶ月ぶりとかで俺も三週間ぶりとかで、「本気で人生捧げてやるか、全くやらないかなんだよな。100か0か」とちりにきは言った。わかる気がした。
 風呂に浸かって『血の収穫』を読み終わる。凄かった。田口さんの翻訳もやはりナイスワークだった。解説を読みながらほうほうと思っていると、落合から電話がかかってきた。三十三分と三十五秒間喋った。「もう情熱とかないけどね、俺」と言った。

四月二十七日
 ダシール・ハメットはもともと探偵をやっていたが第一次世界大戦で肺病に罹り、体力的に探偵が続けられなくなった。二十八歳から小説を書き始めて、1929年から1934年のここの五年間しか長編は書いていない。この五年で六作。すごいハイペースだ。六作ともクソ売れて映画化もされまくった。そのあとは政治活動をやったり、第二次世界大戦に参加するも肺病で除隊されたり、短編をちまちま発表したり。世間一般から「印税をいっぱいもらって創作意欲が衰えた」と思われていたらしいが、実際はずっと書いていたけど完成まで行けない毎日だったらしい。苦しすぎる。その長編一冊目が『血の収穫』で、二冊目が『デイン家の呪い』だった。なので順番通りデイン家に突入。『血の収穫』の余韻にもうちょっと浸りたい気持ちと、どんどんダシール・ハメットを読みたい気持ちの相剋を抱えたまま読み進めていた。最初っからとにかくおもろい。

四月二十八日
 夕方に起きて早稲田松竹のホームページを見る。ずっと満席で、このあとの回もすぐ埋まりそうで諦めた。部屋の掃除。米を炊く。scrivenerとワードを行き来しながら小説を進める。風呂に浸かりながら、なんも楽しくねえな、と思う。小説書いてもゲームやってもギター弾いても。飽きてきてる? 慣れてきてる? ここに来て? ゲド戦記〜慣れとの戦い〜? 慣れた空港?(成田空港) もうあんま考えねえ。ガチ同じこと書いてるやんずっと俺の日記って。意味不。

四月二十九日
 働き終え、中央線へと向かう通路、じゃあもう、どうせ全部つまんねえ、つまんねえ命なら、書いてる方がまだ生産的でまだマシなんじゃない? 何もしないのよりかは。と返ってくる。なんで俺はもう何万回もやってきて答えがわかりきってる押し問答をまた開始しちゃうわけ? 意味不。考えないのってマジで無理だな。
 帰宅してもりもり書く。と言っても二千字ぐらい。でも聞いてくれよ、小説での二千字は日記での一万二千字ぐらいのカロリーなんだよ。日記は既に起きた出来事を文字でガリガリおがくずをこぼしながら彫っていく作業だけど小説はまず彫るためのこの図太い丸太を作るところからやらなきゃいけないのね。そしてこの丸太は太ければ太いほどいいのね。焦ってまだ痩せ細っている木から女の像を作ろうとすると太ももんところを分厚くしてえのに木の直径が足りなくてもうどうしようもなくなったりするのね。
 風呂に入りながら『デイン家の呪い』を読む。おもろすぎて長風呂になる。風呂から上がったあとも読み続ける。『血の収穫』と同じぐらいの序盤のタイミング、文庫本だと百ページ前後ぐらいで大クライマックスのような、問題が全て解決する段階が来る。この速さがちょうどいい。普通の作家はこの事件だけで一冊まるまるやり切る。しかしダシール・ハメットは早々に片付ける。この無頓着さはさっきの例えで言うところの半端なく図太い丸太があるので、どんどん遠慮なく削りまくって大丈夫という、金持ちが湯水んごた札束ばばっしゃばっしゃ使うとに似とる。『血の収穫』と『デイン家の呪い』は同じ1929年に書かれた同じ主人公の話で、ハメットのこの時期はこういう、ゴールのその先を見たい&見せたい時期だったのかもしれない。おもろすきで朝の六時まで読んでいたが、本当は田口さんの翻訳で読みたい。逆に言うと旧仮名遣いで翻訳されている古本でもダシール・ハメットのヤバさは貫通してくる。とにかくこの世の小説は全て田口俊樹のフィルターを通してください。それはどう考えても言い過ぎだが、そのぐらい田口さんの翻訳を信頼していた。

四月三十日
 あまりにも昼夜逆転なので頑張って昼の十二時に起きた。眠い。起床即Amazonプライムで『DUNE 砂の惑星』を再生させた。なんで? カーテンを開けると日の光がたっぷり入ってきて、それが吐き気を催す。日光を浴びると具合が悪くなる。なのでカーテンをすぐに閉めて、観た。いつか、何かの話の流れで恋人に「男の人の顔でこん人好きとかあると?」と聞くと「ティモシー・シャラメ」と応えていておもろかった。それからなんだか俺も好きになっているというか、もともと好きだけど、シャラメ〜! がんばれ〜! という気持ちで観ていた。シャラメを最初に認識したのは『レディ・バード』だったので、『DUNE 砂の惑星』を観ているのに『レディ・バード』が観たくなってくる。なんか哲学っぽい本をテラス席で読んでいた性格の悪いベーシストが今では西暦10000なんたら年のお偉い王子様になっとった。監督がドゥニ・ヴィルヌーヴなので『メッセージ』もちらつく。シャラメが砂の民に「お前とは会ったことがある」と言われたり、保水スーツをなぜか完璧に着ていたりするシーンで。ドゥビ・ドゥビドゥービ監督はこういう大胆な時系列の跨ぎ方に快楽を覚えてびくびく痙攣しちゃうのかもしれない。ヴィク・ヴィクヴィーク監督なのかもしれない。ヴィム・ヴェンダース監督なのかもしれない。半分ぐらい観て、働きに。真夜中帰宅。生ゴミみたいなメシを食って、割れるんじゃないかという勢いで食器をシンクに放り投げて、風呂に入り、上がり、部屋を真っ暗にしてDUNEの残り半分を見た。一時間半ぐらいあったはずなのに、体感二十分ぐらいでびっくりした。めっちゃおもろかったわけでもないけど、こういう、部屋を真っ暗にして映画を観る、みたいな時間がないと多分生きていけないんだろうな思った。

五月一日
 重たく憂鬱。消えてなくなりたい。意味がない。全てがクソである。年齢を重ねれば精神力というのは自然と強くなっていくものと思っていたがそれは勘違いだったようだ。年々転げ落ちていく。どんどん転げ落ちていく。あまりこういうことを気軽に言うべきではないのなんかとうにわかりきっているが、生きている未来が見えない。このままだと無理だ。
 働き、帰路、本当に書けなくなったなと思う。何もかも投げ打って毎日物理的には書いているけど。じゃあ書いてるじゃん。なんだろう。文字数は積み上がっていくけど、クリーンヒットの感覚というか、脳みそが燃えない。何やっても脳みそが燃えない。困った。ただ雨降って寒くて低気圧のせいでこうなってるだけであることを祈る。最近気持ちのアップダウンが激しくてよくわからない。地方の、安くて、平日は誰もいない、周囲を乱雑に生い茂った草木が取り囲む、汚い遊園地の、錆びついて壊れかけたフリーフォールかよ。どうしてそんなことになるまで放置したんだろう。でも、そうじゃん。気付いたらそうなってるんだよね。俺はグラデーションで堕ちていくんだよね。全ての変化がアハ体験だから逆に不自然な凝視のやり方をしないと気付けないよ。コミュニケーションの取り方が終わってるやばいおじさんを見かけたり、誰かからそういう人の話を聞くたびに「なんでそうなるんだよ、やばいだろ」と思っていたが、最近では自分もいつかそうなるとしか思えない。

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