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赤い小箱が皆無の衒い

 銭湯からの帰り道、路地裏の、電信柱が一本しかない暗い小道に赤い小箱が落ちていた。その前に突っ立った私は長いことそれを見つめた。見つめている間、夜風が吹いて髪が揺れたり、大きな鳥がゆっくり頭上を通ったりもした。

 それは牛乳石鹸の赤い小箱だった。持ってみると中身は空で、なのに箱の輪郭はしっかりと強いまま、「箱」であること、それだけでしかなくて格好良く思った。ホテルに持ち帰ると、窓のところに置いて、私はその小箱を目標に、したつもりはなかったんだけどそうなっていった。

 遅刻していた。急いで原付に乗って事務所に行く。富ヶ谷の交差点のところで見知らぬおばあさんが転んだのが見えた。一旦原付を脇に留めて手を貸す。周りをたくさんの若者が通っていたけど誰もが知らんぷりをしていてムカつく。
 おばあさんは毛糸で編んだ手提げの中から飴を取り出すと、「ありがとうね」とくれた。パイナップル味だった。また原付に乗って風を切った。信号待ちの時にその飴を舐めるとそれは甘くて優しい酸味だった。

 事務所は幡ヶ谷にあって、甲州街道から左に曲がって、すぐにもう一度左に曲がると着く。薄緑色した寂れたビルの最上階だった。その二回目の左折をした瞬間、パトカーが見えた。三台。停まっている。ブレーキにかけていた四本の指をそっと離して、頭は高速で回転していた。
 どうすれば関係なく見える? 速度は? 視線は? 姿勢は?
 答えが見つからないまま、時速二十キロか三十キロか、路地裏に見合ってそうなスピードで左を全く見ずに通り過ぎた。顔は動かさずに視線だけをバックミラーにやると、みんながパトカーに乗せられているのが見えた。
 私はそのまま左折してまた甲州街道に戻り、アクセルを全力で捻った。地震で揺れるコーヒーカップのように原動機がカタカタと音を立て始める。大原の交差点を過ぎてそろそろ明大前、ぐらいの時に、左の路肩に停まっていたタクシーが急に発進して目の前に現れた。慌ててハンドルを右に切ると、後輪が高い音を出しながらスリップして、猛スピードで左の脛がタクシーのハザードランプを掠める。体勢を元に戻す糸口を掴みかけたのも束の間、後ろから透明の巨人に小突かれた私は宙に浮かび上がって、東京の曇り空を仰向けで見ていた。手を伸ばしたら雲に触れそうなぐらい近かった。

 河瀬くんは何の病気か知らないけど、確かに様子がおかしい時が多々あって、私が帰ってくると食器が全部割れていたり、十二時間ぐらいトイレから出てこなかったり、そういう感じだった。
 休みの日には一緒にでっかいジャスコに行ってフードコートで水を飲んだり、大衆向けのクソつまらない恋愛映画を観たり、夜中にコンビニまで一緒に歩いてその途中にいる野良犬に話しかけたりもした。ジャスコに行った時に「これ誰が履くんだよ」の靴ばっかりが並んでる一階の、店員さんたちからも見放されたようなスニーカーコーナーで、あのビルの外観と同じ薄緑色したスニーカーを「買ってやるよ」と、買ってくれたことがある。「いらねえよ」とどんだけ言ってもなぜか頑なに「いや、買う」と譲らなくて、めんどくさかったから貰った。帰り道に「これで速く走れるね」と嬉しそうに言われて、「走んねえんだよ別に」と私もちょっと不機嫌になって言った。直接的な優しさに出会う場面が今まで少なすぎたせいでどう立ち振る舞えば良いのかわからずに、でも河瀬くんにとっては私がどうとかよりも、「自分が靴を買ってあげた」という事実の方が大きくて、私の不機嫌になんかお構いなしにずっとニコニコしていた。だから一緒にいられたんだと思う。

 事故のあと、私は一ヶ月近い昏睡状態に陥って、目が覚めた時には意味がわからなかった。
 病院の前には幅の広い川があって、夜中になるとその川べりで水面のキラキラを眺めていた。
 いつかの夕方、病院のロビーで大暴れしている男がいて、それが河瀬くんだった。私は毎日ほうれん草ばっかり食わされることにいよいよ堪忍袋の緒が切れて、文句を言うためにエレベーターで一階に降りた。意味のわからない、言葉のような、言葉じゃないような、アラビア語みたいなわけのわからない羅列を大声で叫ぶ男と、それを取り押さえようとする医者や看護師。なんなら患者までもが鎮静することを願っていて、私は無視して、受付に一人だけいた不安げな顔で喧騒を眺めているナースに「すいませーん」と言った。ナースは不思議そうに「はい?」とハテナマークをつけた。そのハテナマークは「え、今?」という意味なのも簡単にわかった。「ほうれん草ばっかりでブチギレそうなんですけど」と言う。後ろでは叫び声や物音が、ドタドタ、ドタドタ、どんがらがっしゃーん、ぽよぽよぽよぽよ、ドガーン。
「ほうれん草ばっかりでブチギレそうなんですけど」
 もう一回言った。
 ナースは「え、あ、はい、ちょっと待ってくださいね……」と言うと、加勢する決意を固めたようで、受付から出て行った。私は後ろを振り向いて、めんどくさ、と言った。騒いでいる男は明らかに興奮していて、でもどこかそのことに本人が一番苦しそうにも見えた。みんなが彼に「落ち着いて下さい」と言うたびに男はますます盛り上がっていく。私はその男の前まで歩いて、医者や看護師たちの間に割り込み、男の目を見て「ねえ牛乳石鹸どっち派!? 赤!? 青!? わたし赤!!!」とめちゃめちゃデカい声で言った。急に別の論理が持ち込まれたことで男は落ち着いたのか、叫ぶのをやめて私の目をじっと見つめると、肩で息をしながら「……青」と言った。
「あー、そう!!!いいね!!!」とまた大声で言うと、男の目から涙がこぼれて、「……うん」と言った。エレベーターに戻ると、舌打ちしながら『閉』のボタンを握り拳で叩いて、ほうれん草やめろよ、と思いながら自分の病室に戻った。

 またフードコートで、いつも水しか飲まないけど今日はたこ焼きを食おうと、六個入りを半分こしていたら、ライトオンの方から警察が歩いてくるのが見えた。今日か。やっと、なんか、落ち着いてきたのにな、寂しいな、と思いながら、河瀬くんに「詐欺やってたのね、昔」と言った。河瀬くんはたこ焼きをもぐもぐ食いながら元気に「うん!」と言って、「うん!」じゃねーよ、と思って私はちょっと笑った。
「逮捕状出てんのよ」
「うん!」
 いや違う、そんなことじゃない。時間がないんだから今聞くべきことを絞らなきゃいけない。なんだろう。私は落ち着いて深呼吸すると、「ねえしばらく一人でも大丈夫そう?」と聞いた。
「わかんない。でもジンちゃんのおかげで最近調子良いよ」
「そう。じゃあ良かった」
「うん」
「私今から走って逃げるね」
「え、なんで?」
「ごめん。でも、ほら」
 と、その日もあの買ってくれた靴を履いていたから、左足を上げて薄緑色のそれを見せる。
「速く走れるから」
 河瀬くんは何も言わなかった。
 私は立ち上がると、後ろに向かって全力疾走した。放課後の高校生たちや主婦の群れの合間を逆行してエスカレーターに行くと、途中で下のエスカレーターへと飛び降りる動作を繰り返して一階まで降りた。自動ドアにちょっと詰まりながら外に出ると、パトカーが見えたから、慌てて右に走る。確かにちょっと走りやすくて笑った。

 病気で全部諦めていた人がコンビニでバイトするようになったのを私は見た。あの、病院のロビーで叫んでいた人が。いてくれるおかげで調子が良くなったのは私の方だった。あー、それを言いそびれたな、と思いながら、夕方の国道を走っていた。

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