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三十歳の日記(6/18-6/28)

六月十八日
 夕方に起きて無意味の断崖で風を浴びながらまたぼーっとしていた。コタローと西上くんに電話をかけてうちに来てもらった。そこから翌朝七時までYouTubeを見たり話したり。ジャンゴ・フェットがマスター・ウィンドゥに一秒で殺される動画を見て三人でゲラゲラ笑った。

六月二十日
 レヴィナス『全体性と無限』と村上靖彦さんによるレヴィナス解説書『傷の哲学、レヴィナス』を交互に読む。こんなしっかり勉強としての読書は初めてかもしれない。多分もっとちゃんとソクラテスとかプラトンとかから入るべきなんだろうけど、まあとりあえず一旦苦しみながらでも読み切ってみよう、と思う。

六月二十一日
 日記とSNSに色々書きすぎているからチャージされたエネルギーを小説に向けられていないという気付き。どうするかな。まぁどうもせんかな。
 くまざわ書店で『短歌研究』を手に取る。短歌研究新人賞の結果発表。予選通過で二首だけ載っていたが、全然ダメでびっくりした。てんでダメでワロタ。あ、マジで? と思う。とりあえず笹井賞へ。レ・ファキン・ゴウ。いかつい哲学書四冊ぐらい買う。
 働き、帰宅、真夜中、『全体性と無限』と『傷の哲学、レヴィナス』を行き来。セックスレスという事象を俺は舐めてかかっていた。精神的な密着があれば大丈夫っしょ、と。しかし実際はそうではなかった。自分が何に絡めとられて苦しんでいるのかすらわからないぐらい苦しい。今も。そして空気中に浮かぶ塵たちが地道な努力を重ねて一塊の綿ぼこりに向かって形成されるよう積み重なった俺の、彼女をそうさせた男たちへの怒りは、もし目の前に現れたら暴力という接触以外の何ものも許せないぐらいどんどんソリッドになっていく。スキンシップの効用すらも「性欲」という一言に、昔ながらの掃除機の電源コードみたいにボタンひとつで絡めとられるならばもう何も言わない。今を真剣に生きる男たちはそことの戦いにまだまともな言葉を用意できていなことがほとんどだ。俺が彼女に対して抱く「触りたい」という願望は決して生半可且つ原色一色でズドンみたいなものじゃなかった。自分の中にそういうシンプルな性欲が湧く瞬間も当然知っているのでそれがただの性欲とは違うことを知っている。俺は流石に内省の鬼だから。ご覧の通りの内省マン。ロックマンの敵。エリアスチールを起点に光熱斗をボコボコにしたことがある。進撃の巨人十四巻で自分が内省の巨人であることを木の上でエレンにそっと打ち明けたこともある。ただの性欲と違ってもっと、あの時あの河岸で拾った丸い石ころみたいに冷たさを由来としている。冷え切っていても触りたい。むしろこの死人のような冷たさが出発点だと知っている。欲求の彼岸から八万光年離れた孤島で一人叫んでいたが誰にも聞こえていなかった。

愛撫は人間を目指すわけでも、事物を目指すわけでもない。愛撫は、意志を欠いた、抵抗すら欠いた非人称的な夢のようなもののうちに雲散霧消する存在のなかに紛れていく。この存在は、すなわち一つの受動性であり、すでに全面的に死に向かっている、はじめから動物のような、子どものような匿名態である。

エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』

 心の真ん中に刺さっていたアイスキャンディーが溶けた。だから俺は男が男を殺す話を書く必要があった。この苦痛と戦い続ける日々を呑み込む暗い慟哭。彼女と離れている自責の念と実際的な目の前にある労働とのぶつかり稽古。救う⇔救われるの間柄から解き放たれた上であなたを救いたいという叶わない願い。頑張りたいと頑張れないを行き来してここにただそういう全てから解き放たれた今だけが大蛇の群れを横切るナマケモノみたいに進む。別に性欲でもいいと思ってた。でも頑なにそうではないと言い続けないといけなくなった。この読みはあまりにも一般化しすぎた理解かもしれないが、それでもレヴィナスが書いた愛撫についてにとても救われた。接触するというのは言葉がなくともまずそれ単独でコミュニケーションを取ろうとしている意識だった。当たり前だけどあくまでも親愛を交わせる相手との話ね。その権利を剥奪されることがなぜ苦しいのか自分でもよくわからなかったが、つまりコミュニケーションを取るつもりがないと言われているようなもんだった。そう捉えていた。当然彼女はそういうつもりではなかったし、それもわかっているからこちらから「二の腕をたくあんみてえに揉みてえな」と五七五で思うとき、体内で様々な配慮と傲慢さが行き交い、戦い、争い、よくわからないままそれが果たされたり果たされなかったりする。そういう濾過を繰り返していたら全てがわからなくなった。彼女に触れようとする意思に蓋をし始めたら全てに蓋がされて何もわからなくなった。どれぐらいの時間が経っただろうか。もうすぐ二年とかだろうか。大変に苦しい思いをしている。彼女はもっとだが。我々をそのようにさせた犯人を俺はぶち殺さずに生きていけるのだろうか。ぶち殺すことが恋人へのサポートにならないことはわかるが、我慢できる自信がない。何も楽しくない。恋人をどのようにサポートすべきかを考えるためにまずこちらが体力を回復させなきゃいけないのが本当にエグすぎて、我慢できずに書いてしまった。後悔するだろうか。するだろうな。既に後悔していることがたくさんあると言うのに。負けたくない。

六月二十二日
 働きに向かうバスの中でACE COOLの新しいアルバムの最後の曲『明暗』を聴いていたら涙がこぼれてきた。

アルバムの最後
このバースを書き留めてる4年の間毎夜
塗り潰していたノート
ただ答えを探し問うてまた問うた
生き方を
誰も奪ったりできない内に持ってるこの自
尊心
また自分尊く思うそこには一人
自分を超えることで成長てのを実感し数字や物質に囚われないでいたい
過不足がないようバランスをとっては中庸得ていたいわ
調整し失敗しては反省繰り返してる
思考と実践の日々
生活は続いてく
正解に限りなく近く
ただCoolいる冷静
憂鬱この気分に左右されがちだが内側ではなく外に向けていく多くのものに持っていきたい興味
ある種の諦めと生きる知ってく
何見てる
努力の後は天に身任せる
結果出なくとも知らぬ人の人生に影響与えたなら良かったと思える
家族や友に抱く愛を
すべてのものに対し同じ愛を
それいつでも純粋なものでありたいと願った3時頃
まだ暗い外

久々に実家で食卓を囲んでいる時
やばい曲を作っている時
早朝に鳥の囀りを聞いてる時
夕方コンビニ向かってる時
ふと沸き起こる何とも言えぬこの幸福感
胸ん中満たされ
過去や未来とかではなく今だけ
長いこと考え巡らせた幸せが目の前に現れ
そう道端の石に躓いては
その拍子に真理悟った人みたく
一つの答え頭に浮かんできた
「幸福とは望まないこと」なんじゃないか?

その幸福てもの考えずにただ生きていく
この音楽に誠実に打ち込んでいく
雑念てのすべてを打ち消していく
だが胸の奥から聞こえてくる
俺も本当はこいつで売れたい
あの武道館やドームに立ってみたい
皆に尊敬される人間になりたい
そういった部分失うと何故か俺が俺ではないような気がしてくる
だから絶えず欲する自分とひたすら向き合ってく
理性と本能をまた共存させてく
答えはいつも極端なものじゃない
そう昨日と今日帰路つく時も
そう白の裏に黒孕むいつも
ただ自問してる息続く限りは夜を超えまた迎えている朝

ACE COOL『明暗』

 働き終え、帰宅し、明け方までプロットの整理。友人として登場させていた人物たちに必然性が感じられなかったので新たに人間を作る。しかしそのバランスも気にする。全てが必然性だけを元に書かれた話は逆に浅くなるのでそうならないように注意する。説明できる部分と説明できない部分のブレンドのコツは説明できない。

六月二十三日
 起きてすぐに小説に取り掛かり、一万字近く消して一万字近く書いた。長いこと取っ組み合う。休憩でちりニキとなるせさんとApex。それも割とすぐに切り上げ、三時間だけ寝る。起きたら午前三時。散歩。コンビニでアイスのカフェオレを買って雨上がりの真っ暗な公園を歩く。ずっとACE COOLを聴いている。小説二回戦。主人公の友人らの調整とそれに伴う大手術を終え、良い手応え。頭からお尻までしっかり貫通した感覚。
 レヴィナスがプルーストを好きだったことが気になっていた。哲学者と小説家がお互いに相手の言うことを割とちゃんと聞くということは、それはお互いにとって参考に足りうる強度を持った文章を書いていたということだ。つまりどちらにも言いたいことがあり、哲学者はそれをそのまま言い、小説家は物語に置き換えて言う。だから根本は同じ。なのかもしれない。「言いたいこと」のある物語を悪だと思っていたが、そうではなく、言いたいことを伝えるためにどんどん離れていくという努力の仕方があるべき姿だった。誤解していた。今の俺は間違いなく何かを掴んでいる。

六月二十四日
 ずーっと書き続けて、昼。寝るか、とベッドに入るがあまりにも昼過ぎて寝れない。クソ昼。別に無理して寝る必要もないので最近よく見ているにじさんじGTAの葛葉さん視点を垂れ流しながらうとうとする。
 働きに。ラップスタア最新回のHezronがマジ最高だったことを思い出す。みんながPCとかインターフェースとかマイクを持ってきてる中、一人だけキンキンに冷えたヘネシーを持ってきて、到着するなりすぐに中身をプラスチックのカップに移して人差し指でぐるぐる混ぜて飲み「ぶってえヤニ吸いたいっすわ今」とか言う。スタジオにいる同じクルーのLEXは「マジすいません……」みたいな感じで顔を両手で覆い、SEEDAは「こいつクソやべぇ!」と嬉しそうにしていた。それを見ていた俺も爆笑していた。多分見てたみんな笑ってた。でも意外だったのは、リリックを書く時の苦悩のあり方だった。「ちげえんだよな。ここまではいいんだよな。こっからなんだよ。戦いってのは」とぶつぶつ言いながら部屋を歩き回る。レコーディング中も「もっとこう、なんか、ぶわーって、いかねえかな」とか一人でずっと言っている。それが自分と同じすぎてめっちゃ嬉しかった。
 働き、帰宅。小説。五万一千字。明らかにこの物語における全体重がのしかかった、このシーンを書くため、というようなシーン。丹念に書いて消してをクソほど繰り返して形を定めていく。しかし頭が重たくなってきたのと、こういう決めに行く場面はフレッシュな時に書いた方がいいことを知っているので今日はもうやめる。風呂、寝。しかし眠りに落ちない。長いこと目を閉じ、居間に戻っては椅子の上で意味もなく回り、洗濯機を回し、コンビニに行き、なんか菓子でも齧りながらどんどん朝になっていく。まあ別にもういいや、元気だし、寝れないのあんまり気にしない、大丈夫。

六月二十五日
 夕方に起きた。重たい体を引き摺り下ろしてバスに乗る。『全体性と無限』を読む。ガチムズパートに突入している感じがする。十ページ読むのに三日とかかかる。でも今のところおもしろくというか、勉強、という感じで気持ち良く読めている。
 働き、帰路、『全体性と無限』をずっと読む。京王新線のホームでも、電車の中でも、乗り換えの長い通路でも、ずーっと歩きながら読む。東高円寺に到着しても駅の階段を上った路上で突っ立ったまま読む。流石に異常だ、怖い怖い、家で読め、と帰宅。

存在論 ー存在の了解、抱握ー が不可能なのは、ハイデガーが『存在と時間』の最初の数貢で反論しているパスカルが述べていたように、存在についてのいかなる定義もすでに存在の認識を前提としているからではない。存在論が不可能なのは、存在一般の了解が〈他人〉との関係を支配することができないからである。〈他人〉との関係の方が、存在一般の了解をつかさどっているのだ。

エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』

 存在について考えてるお前自体がまず存在してるからそんな存在してるお前が存在についてなんか言っても違くない? ってパスカル老師が言ってたけど、そうじゃなくて、存在論はお前の中にあるんじゃなくて他との関係の中にあるんじゃないの? みたいなことをきっとレヴィナスっちは言っており、この理解が合っとるのかはわからんが、こいつマジ凄いな、と思う。知性という小ぶりの鎌一本でバカでけえトウモロコシ畑をどんどん分け入っている。
 風呂。小説。重要なシーンが固まる。これだな、と思う。ここに向けての全てだから、序盤の場面をいくつかまた微調整する必要がある。それでいい。順調。

六月二十六日
 しかしまた寝れずに朝、わーっはっは!
 そのまま仕事のミーティング、二時間だけ寝てまたミーティング、バスに乗って働きに。流石にきちぃな、と思いながら一番後ろの席でぐったりしていた。耳の中でACE COOLが「決まった時間に散歩! する俺like a カント!」と叫んでいた。ただ一つ恐れているのは俺が俺の苦悩、値しなくなること。挑むことを決してやめない。
 帰宅して、落合とエイトとApex。そのあとスト6のバトルハブに三人で行く。朝七時ぐらいまで楽しくやる。個人で監督から撮影から編集までやって完パケさせたAVをソフトオンデマンドに持ち込んだら採用されてそのままその作品が発売されてクソ売れてる人がいるらしく、その話に対して「ブルーハーブみたいな売れ方だな」と言ったらウケた。

六月二十七日
 働き、帰路、『哲学史入門Ⅰ』を読む。プラトンのイケイケ具合がおもろい。あとソフィストたちがマジョリティでプラトン軍団はマイノリティだったのがおもろい。しかし結果的に何千年経っても文字が残ってこのように西暦2024年の東京を生きる丸メガネ貧乏青年まで届かせることができたのはプラトン側だった。いくら人気だったとは言え目先のちょろちょろに引っ張られてマジを追いかけられなかったソフィストたちフェイクラッパーの言葉は残ってない。というか人間はこんな昔っから、明らかに終わってる都知事候補を支持するような愚行を繰り返していて非常に最悪。古代ギリシャでもこうなのかよ。
 寝床に入ってにじさんじGTAの切り抜きを片っ端から見る。今回のにじさんじGTAで初めて存在を知ったメロコさんは普段の配信ではごりごりの京都弁とペラペラの英語を行き来していてなんか最高だった。いつのまにか寝ていた。

六月二十八日
 雨音。昼過ぎに起き、iPhoneからiMacへ小説を飛ばす。そのまま整形していく。五万四千字。明らかにオーバーしとるけど、まあ良し。とにかく完走を目指す。八割九割ぐらい終わった。あとは微調整。やるよ俺は。地道に。とにかくコツコツやっていく。「自信とはなんですか?」という質問にウメさんが「他人より上手にできるとか持っている技術とかに自信を持つと自分より上手な人が出てきた時にすぐに崩れるから根拠として弱い」というようなことを言っていた。そして「たくさん失敗する自分のことが好きなんだよね」と。それが自信だと。その言葉を今は信じられる。ずっと言ってるが、やるしかない。書くしかない。そこにしかない。だいぶグラついた2024年の前半だったが、今は大丈夫な気がしている。無茶苦茶書いてる。いける。人生で一番書いてるぞ。やってやる。

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