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THE 日記(11/19〜11/25)

十一月十九日
 五百三十四人。最多。
 起きて、ストファイ。結構負ける。昨日作った寄せ鍋を食って、巨峰を食って、出る。トロワシャンブルで『デッドライン』を読む。おもしろい。おもしろすぎる。小籔さんがすべらない話に初めて出てきた時のことを思った。スノボの話とか蕎麦の話とか。フリが効いてるとか構成がしっかりしてるとかじゃなくて語り口一本勝負でその場を掌握していることが、中学生ながらに「この人かっこよすぎない?」と思っていた。何を言うかよりもどう言うかがもの凄く重要なのは小説で、どう言うかよりも何を言うかが重要なのが脚本、という実感が強まる。相互作用なのは確かだけど、内容よりも言い方が手前にあるから、まずはそっちをどうにかしないといけない。俺は自分の小説とかこの日記を読み返すことが結構あるけど、それは何か業務的な態度で取り組んでいるというよりかは、単純に楽しみたくて読んでいる。自分に一番フィットする話し方をしてくれるのが自分なのは当然だった。アイスコーヒーとジタンとサムウィルクスのベースでバチバチにキマッていた。
 落合くんから『影分身と饅頭』の感想が来ていて、長いその文章を読んでとにかく幸せな気持ちだった。
 働く。帰って、恋人と巨峰を食って、『ウディ・アレンの6つの危ない物語』の続きを観る。おもろい。吹き替えで観てるけど、吹き替えの人たちが凄い。多分これ吹き替えで観る方がおもろい。寝る。

十一月二十日
 恋人が「遅刻だ」と慌てて出て行った。灰色の空気に包まれたまま今年一回も切ってない伸びきった髪を後ろにまとめて起き上がろうかもう少し寝てようか迷って、そうしているうちにまた眠っていた。起きた。お〜いお茶を飲んでバスに乗った。幡ヶ谷で降りる。ガストに入ってチキンの何かを食べる。一人席がたくさんあってかなり静かで、思っていたようなガストと違った。たくさんの人がパソコン仕事をしていた。歩いているとゴルフの打ちっぱなしがあって驚く。え、幡ヶ谷でゴルフできんの。曇り。だけど暖かい。オシャレなパン屋の前に停まったトラックから、運転手のおじさんが何か荷物を取り出して、パン屋のお姉さんが「何か持ちますか?」と尋ねた。おじさんは「いい」とだけ応えていた。もっと優しく会話しなよと思いながらさらに歩いていると、綺麗な雑貨屋や定食屋やギャラリーなんかが並んでいて、幡ヶ谷ってこんな感じなんだと思う。青いビニールシートの上に柔らかそうな、馬の毛並みみたいな色をした土がこんもり乗っていて、若者作業員が三人、それをひたすら空き地の窪みに落としていた。向かいにはピカピカのセブンイレブンがあって、最近オープンしたんだな、と思う。パドラーズに着いて、コーヒーを飲んだ。おいしい。『失われた時を求めて』を読んだけどあんまり入ってこないので、バートランド・ラッセル『哲学入門』に切り替える。おもしろい。出る。初台まで歩いてくまざわ書店に入る。『戦争と平和』を買うために岩波文庫ゾーンの前に行くと、ほとんどの岩波文庫の背が焼けていて、なんだかそれが良かった。買った。ドトールに入る。トイレかと思って開けたドアの中は事務所で、知らないおじさんが事務仕事をしていてうわトイレじゃないんかい、と思う。小説を書き始めた。出て、働く。めちゃめちゃ落ち込む出来事があって、だけどあくつさんが励ましてくれたおかげでどうにか大丈夫になって、ビールをガブガブ飲みながら初台の駅に向かうと、京王新線が事故で全く来ない。駅員のおっさんに「もう新宿行きって来ないんですか?」と聞くと、「来ますよ。二番線で待ってて下さい」とテキトーに流される。来ない。新宿に行ったとて中央線の終電は待ってくれてるのか、と思ってもう一回それを聞くために階段を上ってさっきのおっさんに聞くと「いや待ってない。新宿までですよ」と、当然みたいな顔で言ってくる。なんなんだよ。やばいな今日。しばらく甲州街道に沿って歩く。ラーメン屋に入る。まずい。なんなんだよ。まずいラーメン出してんじゃねえぞ。タクシーに乗る。運転手のおっさんに「こんばんは」と言ったらシカトされた。挨拶ができないおっさんって死ねばいいと思う。楽しくないんだったらタクシーの運転すんのやめろ。馬鹿が。人に「こんばんは」の一言も言えないぐらいの気持ち自体はわからんじゃないけど、それを職場で実践する気持ちは全くわからない。わからないというか、クソだと思う。「あの歩道橋の下で降ります」と言ったら、何故か植え込みにベタ付けで停まりやがった。その少し先に植え込みの切れ目が見えてるのに。しんどい……と思いながら家に入ると、リュックが掃除機にひっかかって倒れる。その音で恋人が起きる。イライラする。寝付きの悪い人だから起こしたくなかった。イライラしながらシャワーを浴びて、全裸で換気扇の下にいる。今。この日記を書いている。煙草を吸って寝るもう。クソが。タクシーの運転手もおっさん、駅員もおっさん、ラーメン屋もおっさん。おっさん、おっさん、おっさん。総理大臣も政治家もおっさん。おっさんばっかり。おっさん全員死ねばいい。誰も悲しまない。お前が死んだらお前の親族も手叩いて喜ぶぞ。爆笑に次ぐ爆笑。みんながお前の死体をつま先で蹴って笑う。

十一月二十一日
 五百三十九人。最多。
 恋人と『ウディ・アレンの6つの危ない物語』を観終わる。めっちゃおもろかった。吹き替えで観るのがいいです。働いた。疲れた。

十一月二十二日
 トロワシャンブルに行ったら満席だった。違うところに行く。ベトナムコーヒーを飲む。整骨院。また右足首がぶっこわれてたからくっつけてもらった。くっついてんな〜と思いながらボーナストラックに。働く。忙し。疲労困憊。帰宅して風呂にゆっくり浸かったら少し楽になったかも。すぐに寝る。

十一月二十三日
 新宿。紀伊國屋。『ブルースだってただの唄』『物語の構造分析』『千の扉』を買って、一階に降りて、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の新訳が出てて、一番良いところというか出入り口前のところに高く積んであって、パラパラと読んだら、読みやすすぎて「本当かよ」と思って、また三階に上がって、『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』を読んだ。まぁだいたい一緒だけど、やっぱりこっちのがなんか読みたいなと思って買った。全集を八巻から買う男になった。大戸屋でからあげ定食を食った。タイムスに入ろうと思ったら混んでた。路地裏で煙草を吸った。ブルーボトルも混んでたからおとなしく家に帰ることにする。昔格闘ゲームで活躍していたおじさん達が(現役プロじゃない人たち)集って戦う『おじリーグ』が始まったので、それを観ながら帰る。視聴者が一万七千人集まっていた。mildamで観てきた動画配信の中で最多な気がする。帰宅。おじリーグを観ながらストファイ。まぁまぁ。恋人と電話で喧嘩、そしてわかりあって、切った。『哲学探究』を読む。おもろくて結構がぶがぶ読み進める。言葉について普段から考えてるからか割とスッと入ってくる。風呂。ネクターが飲みたくて近所の自販機まで歩く。過去の乃木坂工事中を観ながら寝る。

十一月二十四日
 コタローがツイートしていた音楽が良かった。https://music.apple.com/jp/album/crappy-love-song-audiotree-live-version/1365396422?i=1365396589
良い音楽はコタローとぺっちゃんが教えてくれる。
 甲本ヒロトと菅田将暉のやつを観る。ヒロトは好きだけど、いつからかテレビの形態がずっと「サブい」から、やっぱり微妙だった。『NO NO NO』一発聴く方が二兆倍の感動とおもしろさがある。その白々しさが持ち込んだのか、「書くの頑張ろう」と思う。
 バスが来るのを待っている間、そういう、うだうだした細かな蓄積を一撃でぶっとばしたい、と思った。めんどくさい。だけど、そのためだけに文字を書き始めたら全てが終わることもとっくにわかっていたから、別個のものとして処理しようと、バスに乗った。下北に着いて、王将でごはん。トロワシャンブル。M-1の準々決勝を観てたら、大好きなDr.ハインリッヒが2012年にTHE MANZAIでやってたネタをやっていて、涙が出てきた。ラストイヤーに原点回帰。めちゃくちゃウケていて、こんなウケてんのに落ちるんだ、と思った。『哲学探究』を読む。おもろい。働きに向かう。途中にある自販機でネクターを買って飲みながら歩いた。寒い。笹井賞の結果が発表されていた。大賞にも個人賞にも入ってなかった。最終選考にすら残らなかったかも。まだ連絡は来てないからわからないけど。結構落ち込む。まぁでも仕方ない。脚本を書き出した二十歳か二十一歳ぐらいから、もう何度目だろうか。賞の結果に一喜一憂させられるの。長い。疲れる。

十一月二十五日
 整骨院。この人とは会話のテンポとか空気感がなんか合わないな、という人が施術をしてくれて、やっぱり全然何か検討外れなところを指で懸命に押されている感じがして、そういう治療なのかもしれないけど、不思議なもんだなと思っていた。一押しされるたびに体が本能的に「触んないで」というような信号を発していたから。いつもやってくれてる人の時も、「痛い」と「耐えろ(なぜならその痛みを通過することによって喜びがあるから)」が拮抗する瞬間はあって、そういう時に理性と本能がぶつかりあってんなと思うんだけど、だからいつもは体を触られること自体をかなり受け入れていた。でも今日は本能が「痛いっていうか、は? 触んないでくれる?」て言ってて、理性が「え、え、本能、え、どした?」となっていた。そうなると押されるたびにどんどん退行していく感覚というか、凝りが深まっていくイメージが実践されていって、なんかもうほぼセックスだなと思った。何も知らない&知られたくない人と肉体を触れ合うことの不気味さを初めてきちんと実感した気がする。じゃあ「知ってる」ってなんなんだ。出会って四秒でフィーリングが合いますね、の人もいれば、ずっとなんだかなという人もいて、ゆっくり「イイネ」になっていく人もおる。触れ合ってもわかりあえないなんて結構な絶望だ。人と人はじゃあ何を交わしているのか。俺は小説でも脚本でも短歌でも、仲良しの複数の若者の話を書くことが多い。『東京オリンピックまでにどうにかしたい七個のこと』も『デリケート』も『影分身と饅頭』も『誰かの日記』もそうだった。彼彼女らを書いていると、交わされているのは言葉でも身振りでもなくて、実は「時間」とか「匂い」とか「空気」とか、そういう一種オカルトめいた拓けた感じを持っている何かな気がしてくる。言葉や表情や接触はその微調整のために行われていることであって、決定的な何かになることはあんまりないと思う。俺は。好きな奴が何か、冷静な時には言わなかったであろうことを言った時(無意識レベルにある差別意識なんかが漏れてしまった時とか)に「あ、間違えたな」とわかる。それは言葉が微調整レベルで扱う領域に留まっているからで、だから嫌いな人がそういう間違いを露呈した時にはその微調整が、微調整じゃなくてメインに繰り上げられる。最初に掴むべき何かが掴めていないから。そうなると言葉単体で嫌いになる。「嫌い」という極端な例を出しているのはわかりやすくするためなだけであって、それが「微妙だな」とか「なんだかな」という、まぁいずれにせよネガティブなことではあるんだけど。でもその微調整の力も舐めちゃいけない。例えばポテサラとかぺっちゃんのことを今から嫌いになることなんてとても難しい気がするけど、言葉ひとつでどうにかなるもんなのか。決定的に嫌なことを言われる瞬間が来るのか。きっと「なんでそんな嫌なこと言うん?」と言う。だから、それが言えるってことは嫌いにならないと思う。どうなんだろう。一体何を見て、というか、何を受け取って、他人のことを見ているんだ。わからない。それで、一押し一押しがどんどん俺の気分を滅入らせていって、うつ伏せになっていた。初めて「何も気持ち良くなかったな……わかんないけど……効いてるのかもしんないけど……」と思いながらまたトロワシャンブルに向かった。『哲学探究』。おもろい。働く。寒い。あくつさんにその整骨院の話をしたら、あくつさんもその同じ人から何度か施術を受けたことがあるらしく、「なんか段々とクセになってくるよ」というようなことを言って、意外とそういうもんかもな確かに、と思って、今俺は下北のホームにいる。二十四時二十五分発新宿行きの小田急を待っている。ウメさんのラジオを聴きながら歩いていて、ストファイやる時間を減らしていこうと思った。プラチナなんかになってんじゃねえよ。文字を書け。読め。隣人を愛せ。向き合え。考えろ。笑え。踊れ。そしてそれを繰り返せ。何度も。

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