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THE 日記(2/15〜3/2)

二月十五日
 夜の新宿西口は風が冷たくて路面が黒い。すぐに雑多なネオンサインたちが交差する。交差すりゃいいと思っとる。
 こんな感じだったっけ。新宿にはなかなかの思いやりがあって、というのも大学四年から映画館でアルバイトをやっていた。そこで出会った人たちのことをずっと大好きだし、毎日希望を持っていたから何のストレスもなく働いていた。だけどそれは主に東口から先での出来事で、西口には何の思いやりもないはずなのに西口にいる時の方がやたらにあの青春時代を思い出す。それはそうかもしれない。核心に触れるよりもその周辺をうろうろしている方がやたらにそれを意識するのは自然だ。
 入口に設置されたフロアガイドをじっくり眺めるとエレベーターに向かった。知らないサラリーマンと二人きりでその箱に乗る。どんな奇跡だよと思う。このサラリーマンと俺がこの時間この場所で同じエレベーターに乗る確率。DENONのワイヤレスイヤホンを突発的に買い、店の前ですぐに開封するも、充電してからじゃないと使えないらしく、そりゃそうだよなと簡単に諦める。黒にしとけばよかったかもしれない。
 朝まで落合とファーストパーソン・シューティングゲームに精を出し、渋々眠りに就くと、青い空がゆっくりと時間をかけて金色に変わっていき、ヘリコプターがぶるぶる震えながら遠い点になって飛んで行った。目が覚めた彼は救急車のサイレンの音を聴きながら母親に電話する。余裕がない余裕がないと連呼する重大な任務を果たすと重たい体を持ち上げて外に出る。
 今からちょうど百年前に日本で一冊の本が発売された。それはジェイムズ・ジョイスというアイルランド人が書いた『ユリシーズ』という長編小説で、今ではすっかり立派な古典文学の一つだ。新宿の紀伊國屋書店ではその百周年を記念して、小さいスペースではあるがユリシーズが面出しされていた。その前で立ち止まり、真顔で見下ろす。長いこと。大学生の時に一度読もうとしたものの、あまりにも意味がわからずに断念したことがあった。ワイヤレスイヤホンから「ぺけぽん」というような音が鳴る。充電がもうすぐ切れる合図だ。早い。こんなすぐ切れるのか。その文庫本は表紙がかっこいい。青、橙、赤、緑、という四冊。彼は第二巻の橙を手に取るとレジに持って行った。
 喫茶店で第一巻の青の続きを読んでいると、両隣に座っている人々の話し声が読書を遮り、意識は1904年6月16日のダブリンと2022年2月15日の新宿を行ったり来たりで三半規管が無茶苦茶になる。すぐに本を閉じてはセブンスターをがばがば吸い、何の拘りもない熱さだけが取り柄のコーヒーを飲んではせめて「休んでいる」という体感だけは獲得したい。
 丸ノ内線に乗るために駅の階段を降りているとZARAの紙袋が隅の方に捨ててあるのを見つけた。中には服が入っており、捨てることになった経緯を想像しながら赤い車両に乗り込む。置き忘れ。もしくはお小水で汚れた。ありきたりや。もっとドラマチックなZARAの紙袋はないかな。服の中に覚せい剤が入れてあってあそこで受け渡す。安易に極端すぎる。ちょうどいいバランスの。なんだろう。洋服が不要になる状況をまず考えよう。突発的に汚れる。着古していていつか捨てようと思っていた。この二つがベタなら、その次はなんだ? 捨てる洋服に愛着があるとおもろいかも。そうなるとやっぱり受け渡しかな。もしくは知らない誰かが拾ってくれると願う。いや、良いの思いついた。明日どうせそこをまた通るから、明日の自分がそれをピックする。だからあのZARAの紙袋は不要な洋服じゃなかった。明日、インナーだけを着た人がそこを通り、中に入っていたジャケットのようなものを羽織って用事へと向かう。「これって家に持って帰る必要なくね? だって明日また新宿来るじゃん」と、どっかの誰かが思った。
 電車の中は混んでいた。隣に立っていた白いダウンジャケットを着た女の人がスマホで何かの動画を観ていた。バレないように横目でこっそりと液晶画面を覗くと、その中には長い茶髪をたなびかせている女が映っており、『手袋を使わず簡単に染める方法』というテロップが出ていた。とうとう人間は髪を染める時の手袋にすら面倒くささを感じているのか、と驚愕すると、「実は止まってます」と言われても疑いようのないぐらい真っ暗な空間を電車は進んだ。
 それからの日々は書いた短歌が好評だったり戦争が始まったりセブンイレブンのアーモンドチョコパイがおいしかった。
 『味方の証明』を時たま書いては自分の中に溢れるこの言いようもない切ない感じがもはや物語を介して伝わる気がしなく、諦めそうにもなる。しかし体中を駆け巡る九州男児の血液がぐらぐらと沸き返り、泡立ちながら揺れる。ぶちかます、と思う。
 そういう言いようもない切なさは主にDTN3BRの配信を観続けることによって産まれていた。フルパでヴァロラントをやっていた朝の六時に、叶くんと釈迦さんが眠すぎてボドカさんが代わりのメンバーを二人探すことになった。そして最初にギアさんを連れてきた。そしたら釈迦さんが「俺やるよ」と言った。泣きそうになった。嗚呼、本当に、ただただ、ギアさんのこと好きなんだろうな。と思って。
 この人たちの人生をいつも考える。もちろん二千万の腕時計をポンと買えるぐらいだからクソ金持ちではあるんだけど、そういう金持ち状態になったことがあまりにもみんなにとっての希望すぎる。そうなるべきだったし、本当にそうなった。そしてそのことが俺たちを奮い立たせる。
 あくつさんに「年齢重ねるごとにやっぱり友達って減りますか?」と聞いたら、「それはそうなんじゃないかな〜」というようなことを応えてくれた。だから十人ぐらいの軍団について書くことはもうできなくなってしまったけど、四人ぐらいの規模が一番自分にとってピンと来る時代に差し掛かった。いつか一人きりになるだろうか。
 redbullのRASENの最新回で、skaaiくんがかます前にチャット欄で「skaaiかませ〜」とコメントしている人がいた。このヒップホップにおける「かませ」の感覚が無茶苦茶好きで、それは「お前はマジで凄いし、俺はそれを知ってるし、それをみんなに見せつけてやれよ」というのをたった三文字、「かませ」に凝縮させているから好きだった。

三月二日
 昨日か一昨日かにポテサラとランクを回してやたらと盛った。全然違う。会話の通じる相手が一人いるだけでこうも俺のプランがぶっ刺さるのか。
 明け方の台所で『ユリシーズ』の一巻を読み終わる。わけわからん。なんやこれ。気合いでしかない。喧嘩みてえな読書だ。でも他人の内部を見つめるという作業はこのぐらいしんどくて当然だとも思う。
 昼過ぎの下北を歩いていたら、それは住宅街の隙間の小さな路地で、小学生が石を蹴りながら歩いていた。かなり自分の世界に没入しているようで何かぶつぶつ呟きながら入念に蹴っていた。ヘイ、パスパス、という動きをやるも無視される。言えばよかった。ヘイ!!!パスパス!!!フリーフリー!!!アイムフリー!!!レッツゴーフットボール!!!アイアムレジェンド!!!ユーアーベリービューティフォー!!!ハブユーエバーシーン・ニシ・オギ・クボ!?!?
 働き終えた帰り道に思いついたシーン。びっくりドンキーで摘子、澄ちゃん、五郎の三人でハンバーグを食っていたら、伝ちゃんのモノマネを澄ちゃんが始めて、みんなで笑っていたら澄が泣き始める。「こういう時に伝はこう言う」という想定ができる他人ができた、という涙だった。身振り手振りやイントネーションを頭の中で再生できる他人ができた。「私はだから、伝のことを知ってるんだよ」「いやみんな知っとるわ」
 小雨が降ってきた。それでも男は疲れた疲れたと言いながら重たい体を移動させて、残りの移動はバスに任せる。雨がiPhoneの液晶画面に滴り落ち、その一粒一粒にフリック入力が反応しえかへむしまうなけきたきのにみぁかママが噛まなくのきもこのにも、お構いなく、、、書くの「のをやめない

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