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三十歳の日記(4/8-4/14)

四月八日
 それで帰宅してすぐに風呂を溜め、その間にゲーミングPC周りを片付ける。もうしばらくゲームはやらないだろうから、iMac周りを充実させるための移行作業。LANケーブルをiMacに移し、ゲーミングPCに繋いだデバイスたちも全部抜いて片付けていく。しかしコンセントとスピーカーが厄介で、電源タップはこのゲーム用の机の脚に釘を打ってそこに引っ掛けてあった。一旦この机ごと片付けたかったが、まあそぎゃん焦らんでよかど、というところで今日はここまで。パスタを茹でてペペロンチーノのソースをかけて食い、風呂に入り、髪を乾かし、小説の続き。光太郎がジャズマスターを買った日から仕事に復帰するまでの間の日々を埋めていく。しかしあまりこう何かが乗ってない。なんだ? と思う。とりあえず時間の経過の描写を欲しがっているみたいだ。じゃあ一行で済ませよそんなの、と思う。「五日が経った」だけでいいだろ。おもろいこと以外書くな。はい。しかし本当にそうか? とも思い始めている。これは前までは思わなかった。ワンシーンが短い、とよく指摘されてきて、「おもろいからもっとここの場面読みたいのにすぐ終わっちゃう」みたいなのをみんなが言ってくれたから出てきた疑問かもしれない。それでだから、昔みたいにぶつ切りでどんどん行くことに抵抗感がある。なので、何も思いついていないがフリースタイルでとりあえず分量を埋めておく、という作戦を取ることにした。そして推敲のタイミングでそこを消すんじゃなくて、別の出来事に差し替える、ということをやってみよう、と。もっとおもろいのがあるはずだから、それまでは一旦おもんない場面でジョイントの役割だけやっといてもらう。そしてそういう部分にはワードのコメント機能で「いる?」と記しておいた。
 二時間ぐらい書き、午前四時、羽毛布団に入る。イ・チャンドン『ペパーミント・キャンディー』を観る。観終わったらすぐに寝た。

四月九日
 起きたらWi-Fiの調子が凄まじく悪く、インターネットマシン(あの機械なんて言うの)を再起動させたりするものの、全く治らない。それでエントランスまで降りてチラシで溢れかえった郵便ポストをいじくり回すと、あった。料金未納なので止めますね、の通知ハガキ。コンビニに行って払い、家に戻ってしばらくすると復活した。
 働きに向かうバスの中で小説の続きを書く。プロットが決まってないことによって出てくるアイデアの新鮮な輝きと、プロットが決まっていることによって出てくる躍動感とがあり、そのどちらもが大切だ。だからこの話もきっと全てを書いたあとに全てを消してまた一から書き始めることになるかもしれない。

四月十日
 朝のミーティングを終えて家の契約更新の書類にサインをして印鑑を押し、封をして、それを持って出る。途中のポストに放り込む。スーパーに入る。テキトーに色々買う。
 ニラと白菜と舞茸と豚肉を切って鍋に放り込み味噌汁にした。キャベツをざっくりと切ってボウルに入れて塩をかける。ピーラーで人参と生姜を薄くスライスしてこちらもボウルにやって塩をかける。洗濯機を回す。めっさんがマイクラをやっている配信をずっと聴きながら。キャベツの水分を絞って白出汁と醤油をかけてホーローの容器にぶちこんで冷蔵庫。人参と生姜の水分も絞ってブラックペッパーとクミンのラペにしてこれもホーローにぶちこんで冷蔵庫。味噌汁と米を食い、洗濯物を干す。インスタに上げる用の短歌の画像を整えてアップ。Scrivenerでプロットを書く。suiuに『怒り、尊び、踊って笑え』をアップ。一時間だけ寝る。起き、働きに。
 帰路、歩きながら『通り過ぎゆく者』を読んだが、危ない。当たり前だ。本は止まって読むものだ。
 風呂に浸かりながら読む。死んだばあちゃんちの地下から金貨出てくるところの描写がいい。

 水道管を一度に二本ずつ運んでドアのすぐ内側に積むと車のトランクを閉めまた部屋に入りドアを閉めて鍵をかけた。床に坐り手にしたロッキングプライヤーの口を開いて水道管の両端のキャップをくわえさせスクリューを回して口の締め具合を調節し二つのプライヤーを水道管に対して九十度の角度でとりつける。水道管をカーペットの上に置き片方のプライヤーを足で踏んで前にかがみもう片方のプライヤーを両手でつかんで上半身の体重をかける。プライヤーが滑りキャップの嚙まれた部分が錆を落とされて新鮮な金属の光を放った。プライヤーの締めを強くしてはさみ直し体重をかけると今度はキャップがゆっくりと回りだした。ネジ山から乾いた白鉛がくるくると螺旋状に剥がれた。プライヤーを床に押しつけ一旦キャップからはずしてからもう一度はさんだ。何度か回してキャップがかなりゆるくなった感触を得ると水道管をまっすぐに立てプライヤーを手の力だけで回しキャップをはずしてプライヤーを床に置き水道管を上下逆さにして両手で握って振った。
 カーペットの上にばらばら落ちたのは両手で四摑みほどの米国造幣局発行ダブルイーグル二十ドル金貨であり鋳造された日と同じように光り輝いていた。

コーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者』

 どういう器具を使ってどういう作業をやっているのかがまるでわからない。しかしそれと同時にとってもよくわかる。

四月十一日
 昼前に起きるはずだったのに目が覚めたら十六時だった。着替えてすぐに家を出て渋谷に。Googleマップに「郵便局」と入れて凝視しながら歩いていたらいつまでも地上に出れず、東京に住み始めて十年経つのにまだこんな感じなんだな、と呆れながらようやく出れた。このあともっと無茶苦茶になるともつゆ知らず。
 ようやく出れた地上は宮益坂らへんの知らんところだった。どこやここと思いながら宮益坂の郵便局を目指すが、このあとBunkamuraル・シネマとジュンク堂に行きたいのでここら辺は全く関係なく、むしろ遠ざかっていく動きだった(この認識がまず間違えている)。宮益坂の郵便局ATMはまず手前にコンビニがあって、だから一回コンビニの店内を通過しないといけないのがあまりにも変。それで、あれ、ここ一回来たことあるぞ、と思い、なんだっけ、と思いながらATMを操作していた。思い出した。十年前ぐらいに渋谷のLUSHでよくライブしていた時にここで金を下ろしたことがあった。それで『デリケート』の製作費全てを振り込んだ。こんな高い金額を操作したのは人生で初めてだった。
 近くにあったエクセルシオールカフェでパスタを食いカフェオレを飲み、としていると、幼児を連れたお母様が隣の席に来た。俺は四つ並びのカウンター席の一番左に座っていて、右隣は空いていて、その右隣にはサラリーマンが座っていて、一番右は空いていた。つまり数で言うと四席中二席は埋まっているが、俺とサラリーマンが隣を空けた状態で座っているのでお母さんと幼児は隣同士で座れない。それでお母さんの取った行動は、一番右の席の椅子を持ってきて、俺の右隣にぶちこみ、無理矢理ここを二席にしようという作戦で、しかし俺はパスタを啜りながら「いや、なんか言えば?」と思っていた。俺とサラリーマンに「ここいいですか?」とかなんか言えば、それに伴ってこちらも動くし、サラリーマンもサラリーマンで、お前は右の椅子を取られた時点で「あ、じゃあ僕こっち行きますよ」って言えばいいじゃん。お母さんはイラつきながら雑に椅子をガンガンねじ込んで、注文するために一度一階に下りていった。戻ってきたら俺が一番右に行って、ここ二人でどうぞって言うか、と思っていたら、戻ってこなかった。下で二人で座れる席を見つけたんだろう。じゃあ無茶苦茶になったこの椅子二つは誰が戻すの? 昔だったら俺が戻してた。でももうやんない。カフェオレを飲み終わって、下に降りるとその親子は対面のテーブル席で楽しそうに飲み物を飲んでおり、わけわかんね、と思いながら出た。
 さあそれではジュンク堂に行ってそのあとル・シネマでチケット買ったらちょうどいいやろ、ということで109の方に向かって歩き(知ってる人は「違う違う、違う、引き返せ」と思っていることでしょう)、109の横を通り過ぎて奥渋方面に向かってぐんぐん歩くが、景色がいつもと違ってやたら空が見える。あれ、と思う。ビルごとなくなっとるやんけ。マジで? と思い、safariくんに「渋谷 ジュンク堂」と入れると、二〇二三年の一月末に更地になっていた。一年以上前になくなってたのに俺知らんかったと? と思いながら、まあチケットだけ買うか、と隣のBunkamuraに行くがこちらもなくなっていた。いやこっちは知ってた。知ってたはずなのに、なんか忘れていた。あ〜そうだル・シネマどっか行ったんだ、と思い、調べる。宮益坂のところに行っていた。さっきいたじゃん。というかなんなら『パストライブス』の看板もしっかり視認していて、「あ、へ〜、ここの映画館でもやってんだ〜、まあ僕はル・シネマで見るんですけどね」などと思っており、ここはここで確か別の映画館だったはずで、だから俺は五年前ぐらいの記憶のまま今の渋谷を歩いている愚者 〜ザ・フール〜 だった。それで宮益坂方面に戻る。チケットを買う。最近かなり目が悪くなっていて、うーん、ここら辺でいいのかなぁ、と思いながら座席指定をしたが結果的にこの位置も間違えていた。もっと前の方が良かった。映画館で働いていた時にスクリーンまでの距離をお客さんからよく聞かれていて、なんと答えればいいのかわからずなんかフィーリングでぼんやりした会話をしていたが、今になって聞く気持ちがわかる。
 開場まで一時間ぐらいあるので渋谷の本屋について調べる。近くのスクランブルスクエアの十一階に蔦屋書店があると言うので行ってみる。しかしそこにあったのはスタバのコーヒーを求める行列と大量の放課後の女子高生女子大生たち。小さな本棚が二つぐらいで、これで本屋って言うのはダメだろ、と思いながら店内を見回す。テーブル席の奥の本棚に一応申し訳程度に本が並んでいるが売るつもりが一切なく、むしろこの景観を保ちたいから買わないでほしいという気持ちすら垣間見える。なんなんこれ、俺んちの方が本あるやん、と思いながらすぐに下に降りる。一階の外、エスカレーターのそば、通路の隅っこに立ったままずっとこの日記を書いた。
 開場の時間になったのでル・シネマの九階にエレベーターで上がって、指定した座席に座る。あ、やば、遠いかも、と思う。とりあえず始まるまで日記を書く。映画泥棒が流れて客電が落ちる。DCPにプログラムを組んでいた作業を思い出す。客電が落ちながらカットマスクがこのままということはビスタサイズの映画だ。嬉しいな、と思う。『パストライブス』が始まった。
 ラストカットまでそんなつもり全くなかったのに、そのラストカットが終わりエンドロールに入った瞬間自分でもびっくりというか、え、うわ、めちゃめちゃ泣いてるわ、という感じで涙がどんどん溢れていく。
 夜の渋谷に出る。映画を観たあとに街がいつもと違って見える感覚が懐かしい。フィルマークスを見ると、割とコンスタントに、年に三百本とか四百本とか観てたのは二〇一八年までだった。そっから小説になったみたいだ。渋谷は外国人ばかりで日本人の方がもはや少なく見える。スクランブル交差点を渡る時にみんながiPhoneを高く掲げて録画しながら歩いていて、え、なになに、と思ったがそれもみんな外国の人たちだった。啓文堂書店に入る。不思議な品揃えでおもろい。当たり前だけど本屋さんによって置く本が違いすぎる。
 帰宅。ギターの弦を張り替える。アーニーボールからリチャードココへ。前よりもテキパキとした手つきでできた。味噌汁をあっためてキャベツの漬物と一緒に食い、そのあとはアイスクリームを食いながらTWICEの動画を見た。『One Spark』の振り付けを覚えるまでの記録で、MV撮影前に五日間まるまる練習していた。初日はまず全体の大まかな動きと立ち位置とかを覚えていく日で、始まる前にまずみんなでモニターの前に集まってお手本の動画を見上げる。そのあとはノンストップで五時間ずっとやっていた。ポジションがおかしい部分があって、それの修正案をみんながどんどん出していく。ジヒョがぐいぐい指示を出すけども発言権が特定の複数人にだけ与えられてるわけでもなく、完全に九人がイーブンな印象で不思議だ。五時間が経ってよし最後まで覚えた、となり、最初から最後まで通そう、と開始の位置に九人が着く。音楽が鳴り、九人が踊り始める。鳥肌が立つ。これを見てる我々はもう既に『One Spark』の完璧な踊りを至る所で見てきてるから、知ってるあの完全な状態にどんどん近付いていく過程を見せられるのは鍛錬の快楽を共にする行為だった。胸がスッとした。大まかな動きが入ったあとはディティールを詰めていく作業で、こっからが凄かった。マジでみんながどんどんアイデアを出すし、しかもそれが別に全採用にならない。ナヨンが「こうするのは?」とみんなに聞くが、みんなのリアクションを見て「あんま良くないか」と自ら引く。このチームがなぜ強いのかがわかる。みんなが意見を言うことに何の障壁も感じていない。しかし出された意見についての良し悪しは最速で判断されて、それについて落ち込んだり喜んだりとかがない。最後のポーズだけ九人で決めてくれ、と言われていて、みんながどんどんアイデアを出して、二つのパターンに絞った。しかしどちらも決め手に欠けていた。パターン①の花火を印象づける爆発の動きと、パターン②の顔の横で手を動かす動きを合体させてどっちもやるのはどうか、とサナが言い、それをやってみるものの何かが足りない。撮った映像をみんなで囲んで見ている時にチェヨンが一人ふらっと群れから離れて、「あ、思いついた」みたいにピクッと動いて、「最後に手を心臓に持って行くのは?」と言うと、一瞬みんなが黙る。そしてすぐに「え、それめっちゃいいんじゃね?」となる。やってみる。見てる方からしたら、知ってるから、その動き、そうやって終わるのを知ってるから、TWICEがそれを最初にみんなでやる瞬間を見て山口慎太朗はアイスクリームを食べながら「うわー! それやん!」と絶叫する。みんなガシガシアイデアを出すが、ジョンヨンとミナとツウィは結構黙っていて、でも別にそれもそれでなんか色々考え抜かれた上であんま喋んないようにしてるのがなんとなく伝わる。最初の頃は言ってたかもしれない。しかし自分の中で「こういうアイデアは通る」とか「こういうアイデアは通らない。言っても時間の無駄になる」みたいなのが蓄積されていくと言う言わないの判断の精度も上がる。それを経た上での無言に感じた。だから別に通るアイデアが出てきたら全然言うだろう。チームプレイあるあるが詰まっていた。しかし普通だったら色々と引っ掛かったり揉めたりする部分でこの九人はありえないぐらいすらすらと進む。それも長いことやってるのもあるだろうね。最初の頃はここで結構喧嘩っぽい空気になったりもあったのかもしれない。

四月十二日
 好きだから触りたいって思うのが、人間愛なのか異性愛なのかわからんくて、もうわけわからんくなる、と言いながらダムが決壊する映像みたいに泣いた。俺が女の子だったらよかったね、と言うと、恋人は誰よりも悲しい顔をして、うん、そうだね、と言って俯いた。一緒に歩いている時に腕を組みたい。手を繋ぎたい。でも触られるの嫌だろうなと思うと、どんどん自分が否定されている気分が強まっていく。それがしんどい。長い話し合いの果てにどちらも悪くない、そして会わないよりも会ってる方がまだマシなんじゃないか、という答えになったが、よくわからないまま、今日もごめんと思いながら彼女の背中に埋もれて目を閉じていた。

四月十三日
 寝不足の翌朝、一人ぼっちで歩く甲州街道で不安になる。会わないより会ってる方がまだマシなんじゃないか、となったが、本当にそうなんだろうか。わからない。
 働き、帰宅、すぐ寝る。二十一時ぐらいに布団に入り、

四月十四日
 十四時に起きた。すごい寝る。タバコをやめてから寝るのが気持ち良すぎてがぶがぶ寝てしまう。
 出前館で頼んだカレーを食い、コーヒーを淹れる。飲みながらラップスタアの最新回を見る。サイファーの審査。多分見てたみんな同じだろうけど、KohjiyaとTOKYO世界の二人が良かった。「昭和歌謡がbro 千恵子倍賞でシコる(skrrrr)」でぶち上がる。審査員もみんな上がっていて最高な気分だった。物語を作るというのは素直な感情の発露を受け入れてもらうためにあるパッケージングの行為なのかもしれない、と思う。昭和歌謡が好きで、しかもかなり好きで、それを最速且つ確実に伝えるためには何を言うべきかと考えて「倍賞千恵子でシコってます」と言うことは、素直であることを保ちながら取捨選択をかなり計略的にやらないといけない。ハンターハンターに喰らったのも、素直で大胆な思いを伝えるために綿密な計画が敷かれているからだった。強い情熱と無駄を削ぐ冷静さのどっちもが要る。そしてプレイヤーが並列にされた時に頭ひとつ抜けるためには色んな要素で八十点出せる丸い奴よりも歪でもいいから一点突破できる絶対に折れないアイスピックな部分を持っとる奴のが強いのかもしれない。
 Scrivenerでプロットを書く。結末で迷う。二つのパターンを用意した。だけどどちらも結末に持ってくるには弱い答えな気がしてきた。
 働きに向かうバスの中で、ただずっと考える。日記のように淡々と着実な牛歩で時間が進む書き方、小説でやるのは俺には向いてないというか、このオーセンティックさはあまり自分の長所ではない気がしてきた。しかし今書いている小説はまさにそれをやろうとしているもので、主人公が日々ちょっとずつギターが上手くなっていく話だった。今までの経験上、跳躍する瞬間(時系列の話だけじゃなく、文体や展開や感情も)に喜んでもらえることの方が多くて、そっちを伸ばした方がいいのではないか、という迷い。しかし物語は一度それで走り始めたらそれでゴールしないといけない。微調整じゃ済まない。ゼロからになる。当たり前だ。何万字書いてようと語り方を変えたいのなら全部消して最初からやり直す必要がある。そんな決まりはないが、その混合を成立させるには事前の計画とそれ相応の複雑な手続きを経てからじゃないとできない。引っ掛かってるのは更地からまた書き始める労力ではなく、単にどちらの語り方を選ぶか、という選択の正しさだけだった。
 このまえ下北の喫茶店で落合にその相談をした。どう思う? と。ギターの細かい部分についてぐだぐだと論理的に述べて説明していくところ。この日記で言うと渋谷で迷子になっている俺の状況の説明や、TWICEのダンスレッスンの説明などの部分である。「日記にもようあるやん、ゲームの詳細についてとか、説明をたらたらやっとる部分、ああいうところどう思う?」と聞くと、「読み飛ばしてる。読み飛ばしてるけど、必要だと思う」と落合は言った。こういう時に極端な例で考えないことが肝心だ。だから物語がゆっくり進むところと急速で進むところの調和だ。落合が言っている「必要」というのは調和での話で、そればっかりの一辺倒だと不要になる。だからとにかく抽象的に考えるのではなく具体的に今書いている部分を良くすることにまず集中して一回書き切ることだ、と鳩のいる公園のベンチに座ってぼーっとしながら思った。
 働き、帰路、小説を書く。やはり窮屈。なんだか息が苦しい。短歌は書けば書くほど肺を酸素が循環して息がしやすくなる感覚だけど小説は書けば書くほど呼吸が浅くなっていく。性質が違うだけ? いや、そうではないと思う。これは重要なお知らせだと思う。腰の重たさがそこにあるのなら取り除いた方がいい。なぜならその腰の重さは読んでる人に伝わる。しかしとにかく書く。書いていると、ふと、ぽろん、と瘡蓋が剥がれ落ちるみたいに、ズビャッと、何の予兆もなく急に、物語が大きな鎌で切り裂かれて推進する一節を書けた。この手応え、と思う。
 しかしその場面も風呂に浸かりながら「本当にあれでいいのか?」と迷う。そしてそのように進むことを知っている。何の明かりもない暗いトンネルを手を前にやって空中を攪拌して確認し、一歩だけ前に出す。そのようにじわじわ進むことしかできない、と誰かが言っていた気がするが、本当にそうだね。

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