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三十歳の日記(4/15-4/22)

四月十五日
 昼過ぎに起きてカップラーメンを作る。キャベツの漬物と人参生姜ラペをホーローの容器から皿へと移す。それらを食いながらまたラップスタアを見るが、あまりにも昨日のコピペすぎて怖い。今日は実は今日ではなくて昨日なのでは?
 何回見てもKohjiyaが最高だ。TREBLEではなくPRESENCEのツマミがフルテンに回されてる感じの超高音部分がギャンギャンに立っている声だけどそれが耳障りじゃない。LEXの顔を見ているとKohjiyaとTOKYO世界の時だけ痛そうな顔をしていた。「こいつやばっ」てなったら擦り傷に塩を塗られたリアクションになるその感じめっちゃわかる。

決める誰が一番やべえ
Oh no, let me see your G.O.A.T
静かにやるのさ Bitch, I'm a Doubble R
墓まで連れてく霊柩車みたい
恨みっこなしで誰のせいにも出来ないRace
Oh no, let me see your girl friend
お前の彼女も"KJ better one"
この2Bがなくなる頃にはRich
3本の輪ゴムじゃ束ねられねえ
俺のキャリア こんなんじゃ足りない
光る卵さ 俺はキャビア
少しの金やFameだけが足りない
走らせたNoteから乗るぜカリナン
よその環境とか知らねえ
Meekみたいに Dream Chase 覚めるまで
どっかの不幸自慢やビッチとのトラブルより
よく出来たドラマだろKJ裏切らねえ

 Doubble R→霊柩車→Race→カリナン→の車繋がりからミーク・ミルのDream Chaseで夢を走る方に持って行くのが自分のルーツも示せて完璧だし、Oh no, let me see your G.O.A.T(お前の最高傑作を見せてくれ)からOh no, let me see your girl friend(お前の彼女を見せてくれ)に移行して、お前の彼女も"KJ better one"→この2Bがなくなる頃にはRich(2Bの鉛筆がなくなるぐらいリリック書いたら金持ち)→3本の輪ゴムじゃ束ねられねえ(お金を束ねるための輪ゴム。優勝賞金三百万にかけてる)の1→2→3の繋げ方も完璧すぎる。プロの仕事だ。
 俺はすげえ、俺は天才で、こんな金持ちでこんな良い女がいて、と言うのも彼らの仕事のうちだけど、ことラップスタアという同時にたくさんの人数が並列にされる場で、しかもあなたのこと知りません、という状況ではみんなが言ってることを言っても言葉の骸骨が宙に浮かんで通り過ぎるだけの時間になる。小説でも短歌でも同じだ。有名になってからしか書けないことや言えないことはある。いや書けるし言ってもいいんだけど、説得力はない状態で放たれることをわかった上で言うことになる。
 ラッパーはどれだけサグいスタイルの人でもみんな「言葉を精密に扱う」というとっても細かくて地道なことやってるのがかわいい。そしてそのかわいさはあんま見せないようにするのもかわいい。
 見終わったら小説を書き、働きに行き、帰宅し、また明け方まで小説を書いた。

四月十六日
 恋人が作ってくれたスープがおいしかった。

四月十七日
 夕方に起き、春菊と茗荷の和え物を作って、恋人が鍋で炊いてくれた米と一緒に食う。
 新宿に向かう電車の中でたべっこどうぶつグミを一緒に食べた。開封して一撃目で「DOG」が出たので恋人は大喜びしていた。小袋の中に手を入れる。内膜の銀色はぬらぬらしていた。薄紫の柔らかい塊を取る。馬だった。「HORSE」と言う。「いいね」と恋人は言う。二個目を取る。また馬だった。「ホース」とまた言う。二連続で馬が出てきて恋人は笑って喜んでいた。
 駅のホームで恋人の息が浅くなって苦しそうにし始めたので、大丈夫よ、すぐに地上に出るよ、コーヒーを飲んでゆっくりしよう、と声をかけながら地上に出る。基本的に駅のホームはやばいんだろうな、と覚えた。それで恋人が行きたいと言ったパン屋兼コーヒー屋さんみたいなところに入ったが、左隣は美人局まがいの詐欺の計画を話しており、右隣は主婦二人が旦那の不倫についての話をしており、このどちらもが大声で、そしてその内容も込みで今の我々には大変うるさく、恋人が「みんな物騒な話してる……落ち着きたい……」と言ったので、席を移った。しかし移った直後にまた別の老夫婦が狙いをすましていたかのように我々の隣に滑り込んできて、旦那さんがワイフに対してブチギレベースのコミュニケーションを取っていてずっと怒っている。「もうダメや、早く食って出ようか」と言い、すぐに出た。「今日じゃないと話せなかっただろうし、物騒な話ほど公共の場でやった方がいいとかあるもんね」と恋人は呑み込んでいたが、いやそれは確かにそうだし別に誰もルール違反をしているわけではないけど、まるで計画的な犯行かのようなやり口、ジャストタイミングで我々の休息を邪魔するために仕込まれたエキストラかのようなその不運の訪れに悲しくなった。
 西口のブックファーストに行き、本をたっぷり眺めて「なんでん買うたるよ」と言い、穂村さんの『彗星交叉点』をプレゼントした。
 恋人を見送り、帰宅。
 溜まった洗い物を処理して、洗濯を二回戦。『通り過ぎゆく者』の続きを読むが、なんでそっち行くんだろう、という方向に話が進む。本を閉じてただ考える。妹の話と沈んだ船の二本柱で進んでたよね? 今こいつとのダラダラした会話マジで要らないけどなあ、と思う。しかしマッカーシーの中での何か必然性があって残っている。この語るラインの調子っぱずれ感は歌が上手い人がずっとハモリパートを歌い続けてるのと似てる。主旋律歌ってほしい。文字書きを極めすぎるとこんなわけわからん領域に行っちゃうのか。マッカーシー的にはこのリズムが良い感じなのかもしれない。俺はもう一直線の話を求めている。物語に対する忍耐力は年々弱まっているからだいぶきつくなってきた。それで本棚の前でひっきりなしに本を取っ替え引っ替えしていくが、どれもおもんなくて今日はもうそういう日だった。

四月十八日
 働きに向かうバスの中でガルシア・マルケス『悪い時』を読む。
 明大前の駅のホームで三人の中学一年生が横並びに歩いていた。三人ともリュックサックをしており、右から、アウトドア、ベンデイビス、コールマン、だった。三人の後ろを歩きながら、なんとなく友達とメーカー被らないようにしてるんだろうか、と思う。三人とも学ランを着ているけど高校生の割には小さい。なんなら小学生ぐらいに見える。だけど関東圏の小学校はほとんど私服と聞いたことがあるので、中学一年生とかだろうか。学ランがほぼ新品のように見える。四月だから入学したばかりか。

 帰宅、もう一度『通り過ぎゆく者』を読む。量子力学とか物理学のわけわからん会話がたらたらと続く。「これどこまで続くんだろう」とちょっと先を捲ると割とすぐ終わっていたので、もうそこまで十ページほど完全に読まずに飛ばした。しかしそういう行為はどこかこちらの熱を冷めさせるというか、確かにこの会話が終わってからはまた読める感じになってはいたが、うーん、なんか、もうこの本は終わりかな、と思って本を閉じた。ちょうど半分ぐらいまで読んだ。『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』がオールタイムベスト級におもろかったから、そっからマッカーシーの本を色々読んできたが、どれも半分ぐらい読んでやめる結果になっている。ストーリーが前に駆動しながらの即物的な描写が現れると大興奮するけど、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』以外の本ではそれが続かない。
 フォークナー『響きと怒り』、ボルヘス『シェイクスピアの記憶』、ガルシア・マルケス『悪い時』、と数ページずつ読んで回ったが、どれもストーリーを真っ直ぐ最短距離で進んでくれなくてすぐに閉じた。そしていよいよ本格的な気付きとなった。俺はもう話が前に行かないものというか、「このあとどうなるんだろう」で引っ張ってくれるもの以外に付き合う気がさらさらない。どうでもいい。推理小説ばっかり読んでいるのは一時的なものかと思っていたが、どうやら違うみたいで、芯からもうそういう人間になったようだ。フォークナーとかピンチョンとかジョイスとかヴァージニアウルフとかをおもしろく読んでいたかつての俺が嘘みたいだ。もう今では全く読める気がしない。寂しくなってきた。もう俺はフォークナー読めないのか。どうなんだろう。それで手に取ったダシール・ハメット『血の収穫』はまさにこれこれ〜、これよこれよ〜、という感じですらすら読み、おもろいなあ、と思う。人が死んだり大変な暴力や極端に危険な目というのはフィクションに触れるだけの呑気な立ち位置からすると最高だ。もっとやれと思う。

四月十九日
 起きて小説を書き、働きに向かう。バスの中で『血の収穫』を読む。自分がこの話を書いているつもりで読む。画質をどこに定めるかだな、と思う。家の外観や内装の話にあまり踏み込まない。これはダシール・ハメットだけに限らず、ミステリ小説にこの網目の設定は多い。話に関係ないことは書かない。しかしそれをソリッドにしすぎるとプロットの羅列になってしまう。塩梅だ。「ここだけやたら詳細に書くな」と読者に思われたらそれがメインの事件に関係するディティールだとバレてしまうので、ずっと同じ網目で語らなければいけない。JPEG640×640で行くならずっとそのサイズと画質で、PNG1920×1080で行くならずっとそれだ。シネスコからスタンダードに変わる映画がほぼないのと同じだ。
 もりもり働き、ヘロヘロ帰宅。風呂に浸かりながら『血の収穫』。おもろい。

四月二十日
 コンビニで買ったテキトーなざるうどんを食って、小説を書く。ひと段落したところで『デリケート』のVlogを編集。アップロード。働きに。
 帰路、ラップスタア最新回を見ながら帰る。おもろかったけど、去年とか一昨年とかに比べるとだいぶみんな横並びというか、渋い回になりそう。

四月二十一日
 働き、あまりにもヘロヘロ。帰路のバスでぐったり。家に着きすぐに風呂に入る。疲労が溜まっているせいで皮膚のただれと胃腸の不調を来していた(疲れるといつもこう)。皮膚のただれは戦闘機の爆撃みたいにランダムに落ちてくる仕様で、なのでいつもどこに現れるかわからない。今回は右鼠蹊部に現れていた。しかしそこには毛が密生している。ハサミで陰毛をズバズバ切り、軟膏を塗ってすぐに寝た。

四月二十二日
 夜中に起きた。まだ寝たいのになんで起きてるんだろう、しかもなんでカレーうどんを食ってるんだろう、と思いながら暗い部屋でカレーうどんを食っていた。iMacの光だけが俺を照らしていた。
 そのあとまた寝て昼過ぎに起きる。いつも行っている美容室を予約しようとホームページに行くと閉業していた。別の美容室を探して予約した。米を洗って炊飯ボタンを押して家を出る。
「無茶苦茶バッサリ切ってください」と頼んでとてつもなく短くしてもらった。なんだか会話するのが嫌そうなタイプの美容師さんで、しかし髪を切られている時間は「無」すぎるからめっちゃ喋りたかった。喋るのを我慢した。
 十五時の犬まで歩く。相変わらず最高の本屋やな、と思いながら棚を見て回る。「ダシールハメットの本ってありますか?」と聞くと、今は『マルタの鷹』と『血の収穫』しかないとのことで『マルタの鷹』だけ買った。百円だった。百円……? と思う。そのまま南下してやよい軒に入り鯖の塩焼き定食を食ったが、ごはんをおかわりするマシーンから米がぼとぼと落ちてくるのが人を惨めな気持ちにさせる。上島珈琲に行って『血の収穫』の続きを読む。入り口近くの席に座っていた。警備員の格好をしたおじいちゃんが入ってきて、俺に向かって「ごはんもあるの?」と言った。しかし当然俺は本を読んでいて俺に話しかけられてるとも思っていなかったので、無視というか、そのまま本を読んでいた。おじいちゃんはもう一回完全に同じイントネーション同じ音量で同じことを言った。あ、俺に言ってんの? と思って、「なに?」と聞く。するとおじいちゃんが本日三回目の「ごはんもあるの?」
「あ、え、ここに?」
「うん」
「パンとかはあるんじゃない」
「ごはんはない?」
「うん。ないよ」
 おじいちゃんは頷きながら出て行った。「ごはん」って米のことかよ。ねえだろ上島珈琲に米は。
 創元推理文庫の田口さん翻訳の『血の収穫』は全部で三百ページほどで、百ページの時点で事件が解決した。え、と思う。百ページまでは主人公は探偵としての仕事として解決までやり遂げたが、こっから先は仕事とかじゃなくて俺が個人的に気に食わないからあいつら殺す、という移行をした。上手っ、と思う。今までのミステリをフリに使ったかのようなこの構成が1929年に書かれていたことが凄い。そして、行け行け、殺せ殺せ、と思う。物語の登場人物が役割から解き放たれる瞬間の興奮があった。
 曇り空の高円寺をうろうろ歩く。疲れてるな、と思う。この生活をずっと続けるのか? 変えないといけない。どうやって? わからない。
 ケンコバさんがゲストの霜降り明星ANNを聴きながらテキトーなメシを食った。ケンコバさんがペニバンを挿れられながら「中に出して!」とお願いしたら「いや出ない出ない」と冷静に断られた話がおもろすぎて爽やかな気持ちになる。洗濯機を回し、風呂に浸かる。浸かりながら『血の収穫』の続き。あまりにも疲れすぎているここ一年ぐらいで気付いたが、「よく練られた大暴れ」「慎重に計画された大胆さ」のセットプレーが好きなようだ。そういうのに触れている時だけ疲れをほんの一瞬忘れる。そしてむしろ何の濾過もされていない素直さの発露は大嫌いらしい。

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