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三十歳の日記(3/19-3/26)

三月十九日
 俺が日記に好き勝手書いていることを永汐さんが「代わりに怒ってくれてる」と言ってくれた。

三月二十日
 働き終え、風呂に浸かりながらハンターハンターのキメラアント編を読む。十二年ぶり。メルエムが「左腕を賭けて打たないか?」と提案して、コムギが「命でもいいですか?」と返す。そこでぶち上がり。風呂場で「うぉ〜い!!!」などと叫びその声が反響する。そしてじゃばじゃばと暴れる。最高のシーン。風呂から上がっても読み続け、最後にちょっとだけ泣いた。十二年前に読んだ時は泣かなかった。ネテロ会長の「お前さんは何にもわかっちゃいねえよ、人間の底すら無い悪意(しんか)を」というセリフが最高すぎる。冨樫はキメラアントという暴力特化のバケモノを登場させて、しかしそれすらも乗り越える人間を描いた。そこに残った後味は勝利の快楽ではなく、これに勝ってしまう人間の汚さだった。葉野菜の苦味みてえなソリッドな読み味だった。個の力では最強のキメラアントも人間が集団になって作った核兵器(のようなもの)の前には勝てない、というのは確かにメッセージだったが、それよりもこの物語の舵を取った冨樫のハンドル捌きへの賞賛で胸がいっぱいだった。よう捌き切ったなこの話を、と思う。泣いといてなんだが、このシーンを色んなところで「感動シーン」と評されることに対する違和感がずっとあって、久しぶりに読んだけどやっぱり変わらずそうだった。NGLが北朝鮮でミニチュアローズが核兵器の言い換えだと本当に感じ取らずに読み切ったということだろうか? 人の心をコムギのおかげでわかったからと言ってメルエムのやってきた事はチャラにはならない。冨樫はここを「感動シーンにするぞ!」と思って描いてない。もっと即物的に描いてる。このシーンは確かに重大な場面だが重大だからと言ってそれがイコール感動的かと言うとそうではない。それでも俺はちょっと泣いた。なんだろう、と思う。十二年前の高校生の俺の方が正しく読めている気がする。
 メルエムと対峙した会長もそうだし、ピトーと対峙したゴンもそうだけど、善悪がひっくり返るというかどこにもなくなる瞬間が気持ち良い。コムギという何の罪もない一般市民を指差して「次ゴタゴタ言ったらそいつを殺す」と断言するゴンの素晴らしい跳躍力。主人公にこんな立ち位置を取らせてこんなことを言わせられるジャンプ漫画はない。誰も役割を演じていない。それは冨樫がハンドルから手を離しているから出来たことだ。
 キルアの「命を賭けることと命を軽く扱うことは似てるようで全然違うぞ。生死の境で生きてる奴は死んでもいいなんて絶対言わない」が名言すぎましたのでページの隅を折りました。
 
三月二十一日
 新線新宿から丸ノ内線へと乗り換える長い道の電気が消えていて真っ暗になっていた。なんで? と思いながら歩く。あまりにも暗い。もしかして今日だけ丸ノ内線はもう終わったのか? と思うが、普通にいつも通りのダイヤだった。だから誰かが間違えてここの電気を消していた日だった。

三月二十二日
 働き、帰路、新宿のヨドバシに入る。この前来た時とは違う経路で入ってみたら、logicoolやRazerのキーボードたちはゲーミングコーナーとして別のところに置いてあった。あ、ここにあったんや、と思いながらラピトリ付きのDrunkdeerとかApexproとかを触るも、デザインがダサくて買う気になれない。なぜ「ゲーミング」と付くデバイスたちはこんな「瞬足」みたいな方向性のメカっぽさに囚われたデザインばっかりなんだろう。何かを大きく間違えてる気がする。「読書好き=穏やか」みたいなカテゴリーでの話をされてる気がする。読書好きでも暴力的な奴もいれば、ゲーム好きだけど森の中に住んでる奴もいるだろ。結局「このコーナーはダメ、ダサい」となって、メカニカルのゾーンを見る。FILCOの左右分割型のキーボードを見て、あれ、これ最強じゃね? と思う。マウスパッドのスペースに難儀していたのもあって、これがあれば広々使えるぞ、と思い、US配列の茶軸のそれを買った。帰宅してPCに接続させながらまだ「いやこの買い物必要だったか〜?」などと思っており、凄い奴だ。FILCOアシストをインストールして、マクロキーの設定をしていく。木村くんとわっぷとApexランクへ。二人とも酒を飲んでおり、既に酔っているらしい。負けまくり、もりもり溶かし、木村くんが何戦もダメージを出せず、リザルトを見てほしくないという理由から「逃げてくれ!」などと叫んでおり、RPのためじゃなくて友達から強いと思われたいだけの奴で、みんなで腹を抱えて笑った。FILCOのキーボードは最高だった。ミスタイプが激減。もっと早く買うべきだった。

三月二十三日
 昼に起きてすぐに家を出て乃木坂に。改札から国立新美術館に向かうこの道が好きで、一緒に歩きたいから改札の前で彼女が来るのを待った。そしてここで待っているその理由をメールで彼女に言い、自販機でコーヒーを買う。それをちびちび飲みながらスマホで小説を書き進める。良い感じ。恋人が「いぇーい、いぇーい」と言いながら現れた。
 この道を歩いているとクリスチャン・ボルタンスキーのことを思い出す。ここで見たボルタンスキーの展示にとっても救われた。なぜか俺以外のお客さんがほとんどいない中、鯨を呼ぶ装置が海辺で揺れている映像をずっと見ていた。
 マティス展のチケットを買って中に入る。国立新美術館が中高生を対象にした塾みたいなのを開いていて、その活動をまとめた展示がしてあった。プロのアーティストから毎週送られてくるおもしろ課題に解答することによって鍛えていきましょう、というような最高の塾で、その期間中、生徒らはモレスキンのノートを各自一冊使う。そのノートも展示してあったが、ボッロボロ且つ色んな別紙を挟み込んで三倍ぐらいの分厚さに膨れ上がったノートもあれば、新品同様に綺麗に使う子もいておもろい。マティス展を見に来たのにこっちがまずおもろくて長いことこっちを見ていた。
 ようやく二階に上がり、中に入る。音声ガイドを安藤サクラさんがやっており、え〜聴きたいねどうする、と話すが、恋人は「わたし結構ちゃっちゃか見るけん、こういうの聴いてたら長くなるから」と、とりあえず聴かずに観ることにした。それで俺はどちらかと言うとゆっくり観たい派なので、どんどん先に行く恋人の背中をいつも探す。たまに追いつく。しかしすぐに離される。そうして最後まで行き、グッズ売り場が見えてきたところで、俺はもう一回先頭に戻って音声ガイドを購入して聴きながら観たい、どうですか、と提案した。それで逆走して先頭に戻り、安藤サクラさんの声を聴きながら観た。このガイドがめちゃめちゃ良くて、観ている時に疑問に思っていたことに全部答えてもらった。二十一歳から絵を描き始めてだいぶ遅いスタートだったこと。七十歳ぐらいで病気になって、弟子が切った紙を貼り合わせることで切り絵が始まったこと。時系列順に一人の作家の進化を見ていくと、切り絵が始まってから明確に何か、最高到達点に入った感覚があり、「ねえこっからヤバくない?」と恋人に言う。「見つけたぜ! 俺の表現! て感じする」と恋人も言う。マティスは人生の最後を一個の礼拝堂を作ることに専念していたらしく、その礼拝堂が再現された部屋が最後にあった。礼拝堂の前には「写真撮影はOKだけど動画はNGです」みたいな札を持って立っているお姉さんがおり、そのお姉さんの横に恐らくマティスであろうおじいちゃんの写真のタペストリーが飾ってあった。今日は土曜日でずーっと混んでいたが、この最後の礼拝堂付近は特に混んでいた。礼拝堂の中に入って後ろを振り返ると恋人がおらず、あれ、とまた外に出る。するとなぜか恋人がその札を持ったお姉さんと話していて、お姉さんが「亡くなる前は脚が悪かったんでこのように杖を突いていたみたいです」と恋人に言っている。それでこのタペストリーの写真はまさにこの礼拝堂に入る瞬間の写真だと説明した。
「これは等身大ですか?」
 と恋人がおもろい質問をする。札を持ったお姉さんが「あ〜、いや、等身大ではない……かな……」と応える。
 それで恋人に「なに? なんで話してた?」と聞くとタペストリーを指して「このおじいちゃんはマティスですか?」となぜか呑気な質問をしていたようだった。「写真OK動画NG」の札を持っているお姉さんがあんなマティスに詳しいと思ってなかったが、学芸員さんなのでそりゃ詳しいはずで、そうなると逆に札を持つ仕事もやんないといけないのか、大変だな、と思う。
 何かの絵画の解説の時に安藤サクラさんが「手段の純粋さを再発見する勇気」と言った。俺の耳元で。良い言葉すぎて泣きそうになった。それだけでしかない気がする。書くことの全てが。
 家に帰りついた頃にはなぜか体調がすこぶる悪くなっていて、ごめーん、と言いながらすぐに寝た。デートがヘタになってるな、と思う。彼女が楽しいのかとか今どういう具合なのかとかを気にするのが難しくなっていた。

三月二十四日
 駅でパニックを発症したのに薬を持ってくるのを忘れた、怖い、という連絡が彼女から時たま来る。今日もそうだった。肝心のそういう時に俺はだいたい馬鹿みたいに眠っており、毎日終電まで働いてるので仕方ないが、いつもどうすればいいのかわからない。一度泣きながら電話がかかってきた時に「今から入れる病院調べるけんがちょっと待ってね」と言って、重たい体をベッドから引き摺り下ろすと新宿のほぼ全ての病院に電話をかけて「恋人が道端でパニックの発作を起こして動けなくなってるんですけど今から行けますか?」などと聞いて回ったが、毎回それをやってあげられる約束はできない。なるべく頑張ってはいる。それで今日も何もやってあげられないままぐうすか眠っており、恋人は自分でどうにかしたようだ。どうにかできるもんなんだろうか。できないと思う。俺はこれでいつかとんでもなく大きな後悔をしそうだ。どうしてあのとき寝てたんだろう。しかし私もフルタイムで働きながらその隙間で文字を書くだけでだいぶギリな感覚が日々あり、やはりどうしようもない。つまり私はもう自分の人生から物理的に押し出されたいくつかの物事に対していい加減自覚を持たないといけない。彼女とは前みたいな頻度で会えていないし、彼女とのことだけじゃなくて、他の全てに対しても答えを出さないといけない。金と引き換えに時間を失った。つまんねえ人間だなと思う。「大切な人を大切にできない人生を歩んで山口慎太朗さんは後悔しないんですか?」とインタビュアーに聞かれたら虚ろな目で口をパクパクさせて「ぁぐ……はぐあ……」としか言えないだろう。彼はどこか遠くを見ているのでインタビュアーの女性は一度後ろを振り返って確認したが、そこにはいつも通り気球の群れが飛んでいるだけで特別な景色は何もなかった。
 幡ヶ谷のぽえむに入ってハヤシライスを食って、小説の続きを書く。クイズが送ってくれていた脚本を読む。感想を書いて送る。
 雨の甲州街道を歩きながら三十首連作の続きを頭の中で書く。ヘッドホンではeydenが「準備万端だなI'm a NINJA 準備万端Matherfucking NINJA」と意味のわからないことを歌っていた。しかしとても心地良い意味のわからなさだった。
 働き、帰宅して、風呂に浸かりながらコーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者』を読み始める。幻覚世界なのか夢なのか、よくわからない大変読みづらいぼんやりしたパートから始まる。それが終わると主人公のウェスタンが海上のボートで熱い紅茶を飲んでいる。相棒のオイラーと一緒に海に入って沈んだ飛行機の中を探索する。

 フィンで水を蹴って通路に並ぶ座席の上をゆっくりと進みながらタンクに上へ引っ張られるのを感じた。死者たちの顔が数インチ下を通っていく。浮くものはすべて天井に触れている。鉛筆、クッション、発泡スチロールのコーヒーカップ。インクが流れて象形文字めいた染みになっている紙片。閉塞感が強まってくる。下向きにターンをして逆向きになり引き返した。
 オイラーはライトを手に機体胴部の外を泳いでいた。ライトは二重ガラスの空気層のなかに光の花冠を作った。ウェスタンは前進しコックピットに入った。

コーマック・マッカーシー『通り過ぎゆく者』

 おもろ、と思う。特にオイラーが機体の外で並走しているところ。なんでこれがおもろいんだろう。不思議だ。即物的な出来事の推移を書かせたらマッカーシーに誰か勝てるだろうか。そんぐらい上手い。というか、バケモンだ。

三月二十五日
 久しぶりにVALOをやった。難しい。なんだこのゲームは。上達の隙間が見えない。しかしやり込んでたらプラチナとか行けるんだろうか。今のところ全く行ける気がしないが。
 働き、帰路、YouTubeがオススメしてきた動画がジヒョの熱愛についてのもので、へ〜、と思い観てみると、彼氏がとんでもないマッチョで笑う。コタローに「ジヒョの彼氏が世界で一番喧嘩強そうなガタイしてる」と送ると、コタローも笑っていた。何かのスポーツ選手らしい。JYPは「本人たちの私生活についてなので何も知らんし、何も言いません」みたいな声明文を出していて、それも良かった。日本の「ロリコン&恋愛禁止」の地獄両面待ち文化をガン無視する圧倒的スキル至上主義ナーミーン? 過程はとっても大事だからこそ、過程じゃなくて結果を見せて下さい。
 風呂に浸かりながら『通り過ぎゆく者』の続き。おもろい。

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