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安い包丁

 安い包丁を買った。安かった。安い包丁は合羽橋で買った。安い包丁はすぐに刃の部分がこぼれて使えなくなった。理由は安いからだ。安い包丁は最後のあがきで俺の指先を少し切ってから絶命した。不燃ゴミとして夜間の路上に打ち捨てられた。路上に打ち捨てられた彼は翌朝業者に引き取られると、ゆっくりのスピードで処理施設に運ばれた。人間の手によってまずは危険物として一旦脇に避けられ、そして破砕機に合流した。粉々になった安い包丁は貴重な鉄資源としてなんらかの役に立った。把手の部分は猛烈な炎で燃やされて灰になった。
 そういう一連のリサイクルの間、俺は切れた指先を水道水で洗い、絆創膏を貼って、傷口を綺麗に塞いだ。

 仕事から帰ってきて、玉ねぎを切ろうとして、包丁がないことに気付いた。忘れていた。流しの下の開き戸を開けるとそこにはもう安い包丁はいなくて、扉の内側にはあのクリーム色の、包丁を差して保管する名前のよくわからんあれが静かに佇んでいた。安い包丁のことを結構気に入っていたことを今になって知る。

 夕方だった。仕事の帰りに、昨日の玉ねぎをどうするか、玉ねぎだけじゃなく、人参、じゃがいも、豚肉をどうするか、考えていると、大雨が降ってきた。傘を持っていなかったので、駅の近くの古ぼけたタバコ家の軒先で雨宿りをした。やみそうになかった。長いことYouTubeを観ていた。小籔さんのすべらない話を集めた違法な動画。しばらくすると、黒い着物を着た女性が走ってきて、隣に、俺と同じように雨宿りを開始した。綺麗な人だった。その着物は右脚のあたりに大きな銀色の鯉が描かれていて、それが雨粒を含んできらきらと輝いていた。ちらちらとその人の横顔を見て、綺麗やなぁ、としばらく思うと、いつまでもここにいても埒があかないことに気付いて、全力疾走で家に帰った。

 玉ねぎたちが段々と腐っていく。
 そもそもなんであの包丁を買ったんだっけ、と何気なくベッドに寝転びながら思うと、あれはそもそも実家から持ってきた立派な包丁をダメにして、それで新しく買ったんだった。つまり俺は高い包丁を使ってもダメにするし、安い包丁を使ってもダメにする。
 高い包丁が壊れた時にわざわざ包丁を買うためだけに出掛けるのは億劫で、新宿の喫茶店でタバコを吸ってコーヒーを飲んで「めんどくせえな」と思って、でもそんなことをしていても結局何も進まないことをこの二十七年の人生で大体わかりつつあって、だったらもうしっかり合羽橋とかで買うか、と合羽橋に行って、合羽橋に着く頃にはテキトーになって、買った。それをするだけで体力の全てを使い果たすぐらいヤワで、でもみんながそうやってほんの少しずつ休みの日なんかにやるべきことをやって暮らしているはずだった。だからそうやってあの安い包丁を買っただけの日のことも誰かに祝福してほしいし、誰もやってくれないだろうから自分で祝おう。

 自分はあの安い包丁のように朴訥と平然とした言葉や態度であの鯉の着物の人に話しかけるべきだったな、そういう安い包丁のような勇気を持ち合わせていたらとシャワーを浴びながら思った。

 夏で、ワイシャツの背中に汗がひっついて気持ち悪い昼過ぎに、休憩で二子玉川のゲームセンターに入った。機械の音がうるさかった。自販機でコーラを買って飲んだ。みんな何かガンダムのゲームをやっていて、母親から電話がかかってきた。蝉も鳴いてないただのコンクリートの蜃気楼ばっかりの東京の夏に母ちゃんは「元気ね?」から始まり、なぜか急に「たくろうくん産む前にね、一回流産しとるとよ」と言った。なんで今?

 夏はシャワーを浴びて風呂場からクーラーの効いた居間に戻る瞬間が気持ち良くて、夏の好きな部分はそれぐらいで、冷蔵庫に入った玉ねぎ達は完全に腐りきって、それらも捨てた。毎日オリジン弁当ばっかり食っていた。鯉の着物の人にもう一度会いたかった。

 早稲田松竹で今はもう名前も思い出せないような映画を観て、その結末がやたら気に入らなかった。いつも通りロマンに行ってアイスコーヒーを飲みながら、何が気に食わないのか考えていた。戦争から帰ってきた無気力なイタリア人が無為な日々を過ごして最後に自殺するという映画だった。無為さが自殺に繋がるところが気に食わないんだな、と気付いた時に思い出したのは、大学時代に喫煙所で知らない奴とした喧嘩だった。知らない奴はダボダボの服を着たラッパーのような奴で、というか多分絶対にそうで、急に「お前らって毎日楽しいの?」と話しかけてきた。ゼミの友達と一緒にタバコを吸いながら、「ネットフリックスのストレンジャー・シングスおもろいよね」みたいな話をしていて、そこに割り込んできた。急に。「別に否定してるわけじゃないんだけど、アンケート的なやつで、単純に退屈に見えるからさ」と言われて俺はなぜかキレた。頭の中で論理がぐんぐん進んで行ってるのがわかるぐらいに思考が猛スピードで走って、こいつ、どんな的確な一言で殺してやろうかな、と思っていた。
「楽しい方が、何、優れてるの?」
「楽しい方がよくね?」
「知らねえよ」
「いや別にそれだけなんだけどさ」
 ラッパーはイラついた態度で立ち去ったかと思うともう一度戻ってきて、「関係ねえんだけど」と続けた。
「お前のその態度はないべ? ただ気になったこと聞いただけっしょ?」
「まぁ、その結果ムカついたからね」
「普通にないだろ」
 そして至近距離で凄まれたけど、なんだか心の海岸線には優しい波がさらさらと砂を撫でているだけで、相手よりも俺の方が怒っている確信があったから平気だった。
「お前は自分ばっかりなんだよ」
「は?」
「自分の論理だけ。入ってくんな俺の人生に」
「お前の言ってることも自分の論理だろ?」
「そうだよ。今わざわざ言わなくていいことを言ってやってるんだよ。絡んできたのはお前の方だよな?」
「なんだお前。会話できねえじゃん」
「見積もりが甘いんだよ。誰とでも建設的な関係作れるとか勘違いしてるからこうなるんだろ? 『他意のない純粋な疑問』ぶって隠しきれない下心ぶつけてくんなクソが」
 ラッパーは俺のことを睨みながら帰って、ゼミの友達も明らかに引いていた。それから彼とはあんまり話せなくなった。最悪だった。
 そのことをロマンで今思い出してる。アイスコーヒーがおいしい。そしてそこから考えはまた勝手にゴムボールみたいに弾んで、仕事場のおっちゃん達もこのしんどい夏場の営業回りでも、家に帰って俺と同じようにシャワー浴びたあとのクーラーは最高だなとかそういうことを思っていたら俺はそれが良いな、と思った。
 東西線に乗って、安い包丁、と思った。

 安い包丁、安い包丁、安い包丁。

 もう一回、あの鯉の着物の人に会っても、多分何も言わない。

 安い包丁、安い包丁、安い包丁。

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