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異星人[上]

#小説ではありません
#日記 とか #エッセイ です



こんばんは、おはようございます、こんにちは
今はよる、写真のカシオレをアレンジしたのをちびちび呑んでいるんですが、仕事帰りに文章がふよふよしたので、書き出してみました。
アップするのははやくて、早朝ですかね。
最近は、ひと眠りして読み返してから公開しています。大幅に書き換えたりすることはないんですけど、ちょっと意味が通じないようなところを書き足したり、誤字脱字のチェックをしたりしています。

文章を書くのって、ある程度自分を開示したり、ハジを切売りしたりするところがあると思うんですけど、そういうことを抑止するとかじゃなくてですね、書く時、だいたいアルコールが入っている事が多いんですけど、もっとぶっ飛びすぎを抑止するといいますか、自分が楽しいだけじゃなくて、書いて伝えたい事を伝わりやすくするためにひと手間。という感じで読み返してます。

文章、読んでもらう時点で国語力とか大開示しているわけで、今更多少の恥はなんのそのですよ。


それはさておき、今回考えていたのは、前置きに通じるところもあるんですけど、「隣にいる異星人」ということを書きたいなと思ったんですよ。

このテーマ何回か形を変えて書いているんですけど、あまり一般的じゃないのかなと思った事があって、また、書いてみる事にしました。

あのですね、「異星人」と書いてますが、科学的な意味ではないです。比喩です。わかってるよという向きもあると思うんですが。

特に創作する人に聞きたいんですけど、頭の中の100%を現実に表現できてますか?
自分の見解としては、100%だったら多分辞めてるな。と思うんです。ここをもっとこうしたい、ああしたらどうだろう。そう思うから、また何かつくるんだと思うんですよね。

やり切った、出し切った、そう思いつつ、他の可能性を考えたりする。
書いたり、描いたり、作ったり、造形したり、どんな方法でも、頭の中浮かんだものを、言葉にする、輪郭をとる、材料を選ぶ、そういったことで何か不確かな器に入れていく。

説明しづらいので、文章で例えるなら、頭に浮かんだものをどんな言葉で、どんな文脈で、と、選択を繰り返すうちに意味が小さくなったり、あるいは解釈の幅が広がったりする。文章が出来上がる頃には、最初に思い描いたものとは、また違ったイメージを持ったりする。うまくいっても、丸々思った通りの表現とはなかなかならないのではないだろうか。

初期イメージを100とするなら、完成作品はどれくらいだろう。仮に70だとする。
何かを伝えたくて公開するなら、無数の人の解釈が加わることになる。無数の人の無数の解釈、それでは話が大きすぎるので、その作品から半分くらいイメージが伝わったとしよう。とすると、初期イメージ100から、完成作品になって70、他人に伝わった初期イメージがその半分で35となる。

つまり、伝わるのは、頭の中で考えていたことの35%ということだ。この数字はかなり雑だが、いい方なのでは?と思う。
だって、言うじゃないですか、会話の半分も伝わらないって。日常の会話でも伝わるというのは、すごくあいまいなことだと思う。
抱き合えば、愛が伝わるという。それはどんな愛?と聞いた途端に抱き合った双方にズレが生じる。
そう、100%ってありえないのだ。
もちろん、100%じゃなくても、支障はない。でも、忘れないで欲しいのだ。目の前にいる人には、自分と違う脳ミソが詰まっているのだ。

通じ合うって、ハートごと太いパイプで繋がるんじゃなくて、細い糸でいくえにも繋がっているんじゃないだろうか、だから、関係性が時とともに移ろうのだと思う。

わかってると思ってた。って、恋人や家族や親しい間柄で、出てくる言葉だと思うけれども、自分が想像している『理解』とは、ちょっと違うんだよ、というのを忘れないようにしたい。
言わなくても、わかるだろ。は、小さな理解の細い糸を知らないうちに切断しているのだ。


#つづきます

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