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駆け出さなくちやあ、間に合はないぢやないか

 この3月で、4年間通った大学を卒業した。見事ストレートで大学を卒業し、ストレートで無職になったのである。自分のような人間が高等教育を修了できただけで御の字とはいえ、22歳の無職はなかなか笑えない。


 noteのアカウントを開設して、このエッセイを書いてから、だいたい半年が経った。現状は何も変わっていない。変わったことはただ一つ。おれは「死ぬ」という形の親不孝をやめて、「定職につかない」という別の形の親不孝に乗り換えたのだ。

  次のアルバイトはなんとか見つかりそうだけど、こんな生活は長くは続けられない。将来を見通せない22歳の無職でも、それくらいのことは分かる。足元のぬるま湯は、やがてカエルを死に至らしめる煮え湯へと変わるだろう。

 いいや実際は、ぬるま湯に見えるだけの泥沼で、おれはすでに足を取られているのかもしれない。とにかく、文字通り目下の課題は、このぬるま湯から、底のない泥沼から、なんとか抜け出すことである。その前にクリアすべき問題もいくつかある。

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 話は変わって、高校時代の同級生が二人で同人誌を出したらしい。小説の構想があるということは聞いていたけど、それが形になったということで、早速手に取り読ませてもらった。サークル名は「あのほう」。誌名は「amorphous」。短編が2篇で、どちらも青春小説である。以下少しだけレビューを(+好きな一節の引用)。

Twitter : @_no_Ho_930

「ゆきどけ」阿式悠斗

 ユーモラスな筆致で紡がれるモノローグと、そこに同居する冬景色の端正な描写が素晴らしい。
 ある女性との奇跡的な邂逅(もしくは再臨)によって、マツモトくんの心に波立つ静かな激情。幻影が二人の目の前で慈悲もなく溶ける時、マツモトくんと“ボク”との間にもたらされるわずかな、そして大きな変化。彼の気持ち悪いほどの実直さに、読者もまた自然と惹かれていく。

「しかし今になってみれば、このとき窓越しに眺めた寒村は、ボク自身のメタファーであるかのようにも思えた。停滞に甘んじようとし、他ならぬその停滞によって徐々に侵蝕されていくものたち。こういう山間の集落にとってもボクにとっても、無慈悲に停滞の上を流れ続ける時間という存在は、悩ましい相手だった。時間が止まない限り、停滞は決してボクたちにとって肯定的なものにはなってくれない。ボクたちには「やりすごす」という手段しか残されておらず、そうしてやりすごそうとするものたちの「いま」は、少しづつ削られていく運命にある。」
 「amorphous」/「ゆきどけ」p11

「脂皮に谺する」渕名臨
 渕名くん(仮名)のこれまでの幅広い読書体験が、彼の小説を味わい深いものにする重厚な装飾的効果を与えている。それでいながら、リズミカルでキレのある、軽妙な語り口がどこか心地いい。
 亡霊たちの声が、屋根裏に、僕の身体に、谺(こだま)する。それは僕の無意識が作りだした幻か。それとも鯨の大道具が見せる夢なのか。
 美術部にも似たようなOBの逸話があるから、これがどこまで実話で、どの程度までフィクションなのか(あるいは全くの作り話なのか)、今度聞いてみたいと思う。

「僕がいたのは奥まった客席に併設された照明席だった。操作卓の盤上には数本の溝がレールのように彫られている。その単線上を往還する調節用のつまみは、下限に揃えられ、僕もまた灯体に何の指示も与えていない。灯体へと繋がる黒いケーブルは、僕の座る照明席と、舞台端に配置されたパネルの狭間の底で、這いつくばりながら、伝令に備えている。世界からの不在を示す黒。ケーブルからパネル、内壁に至るまで教室内の殆どは黒色を纏って同化し、ここにはいないことになっている。無用に頑丈な矢盾のように立つ、黒塗りのパネルの陰に隠れている限り、演者たちもまた、同様に存在しない。」
 「amorphous」/「脂皮に谺する」p22

  


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 ところで、芥川龍之介が書き記した『微笑』という短い随筆がある。これは文庫にしておそよ2、3ページの簡素な散文で、大学を卒業した年の夏に、同じ漱石門下の久米正雄と上総(房総)の海に赴いた際の旅行記となっている。

 筆者曰く、海から宿への帰路で突然、久米が「何か叫ぶが早いか一目散に砂山を駆け降りて行つた」らしい。少し間をおいて、芥川も後を追う。まさに青春のスナップショットだ。

 宿に戻った後、久米を呼びたて、「駆けなけねばならぬ必要」を問いたただしたところ、後架にいる彼は怒り気味にこう返したという。


「だつて、駆け出さなくちやあ、間に合はないぢやないか。」


 何に間に合わないのかは分からない。何が間に合わないのかも分からない。けれども、駆け出さなくては「間に合わない」ということだけは分かっている。くしくも、「あのほう」の二人が同人誌を発刊すると決めたのも、瀬戸内の島々を旅した時のことであったという。彼らは「あのほう」めがけて駆け出したのだ。その背中が、上総を旅したいつかの“彼ら”に重なる。

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 そして、「駆けなければならぬ必要」に駆り立てられるのは、自分もまた同じである。それは具体的な一歩ではないかもしれない。もう手遅れかもしれない。それでも、不定形で無定形の、ぼんやりとした「あのほう」へと踏み出さなくてはならない。これ以上、「停滞に甘んじるボク」ではいられない。

 だからこうして、持て余すほどの鬱屈を導火線に、名状し難いフラストレーションを焚きつけて、とりとめのない文章を書き殴っている。駆け出さなくちゃあ、間に合わない。そんな漠然とした焦りだけが、いまの自分を動かしている。

 とはいえもう、ただいたずらに駆け回って力尽きるような心配はない。どんな道を通っても、どんな無様な走り方でも、目指す先は““彼ら””と同じ、「あのほう」なのだから。

最後までありがとうございます。