駆け出さなくちやあ、間に合はないぢやないか
この3月で、4年間通った大学を卒業した。見事ストレートで大学を卒業し、ストレートで無職になったのである。自分のような人間が高等教育を修了できただけで御の字とはいえ、22歳の無職はなかなか笑えない。
noteのアカウントを開設して、このエッセイを書いてから、だいたい半年が経った。現状は何も変わっていない。変わったことはただ一つ。おれは「死ぬ」という形の親不孝をやめて、「定職につかない」という別の形の親不孝に乗り換えたのだ。
次のアルバイトはなんとか見つかりそうだけど、こんな生活は長くは続けられない。将来を見通せない22歳の無職でも、それくらいのことは分かる。足元のぬるま湯は、やがてカエルを死に至らしめる煮え湯へと変わるだろう。
いいや実際は、ぬるま湯に見えるだけの泥沼で、おれはすでに足を取られているのかもしれない。とにかく、文字通り目下の課題は、このぬるま湯から、底のない泥沼から、なんとか抜け出すことである。その前にクリアすべき問題もいくつかある。
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話は変わって、高校時代の同級生が二人で同人誌を出したらしい。小説の構想があるということは聞いていたけど、それが形になったということで、早速手に取り読ませてもらった。サークル名は「あのほう」。誌名は「amorphous」。短編が2篇で、どちらも青春小説である。以下少しだけレビューを(+好きな一節の引用)。
「ゆきどけ」阿式悠斗
ユーモラスな筆致で紡がれるモノローグと、そこに同居する冬景色の端正な描写が素晴らしい。
ある女性との奇跡的な邂逅(もしくは再臨)によって、マツモトくんの心に波立つ静かな激情。幻影が二人の目の前で慈悲もなく溶ける時、マツモトくんと“ボク”との間にもたらされるわずかな、そして大きな変化。彼の気持ち悪いほどの実直さに、読者もまた自然と惹かれていく。
「脂皮に谺する」渕名臨
渕名くん(仮名)のこれまでの幅広い読書体験が、彼の小説を味わい深いものにする重厚な装飾的効果を与えている。それでいながら、リズミカルでキレのある、軽妙な語り口がどこか心地いい。
亡霊たちの声が、屋根裏に、僕の身体に、谺(こだま)する。それは僕の無意識が作りだした幻か。それとも鯨の大道具が見せる夢なのか。
美術部にも似たようなOBの逸話があるから、これがどこまで実話で、どの程度までフィクションなのか(あるいは全くの作り話なのか)、今度聞いてみたいと思う。
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ところで、芥川龍之介が書き記した『微笑』という短い随筆がある。これは文庫にしておそよ2、3ページの簡素な散文で、大学を卒業した年の夏に、同じ漱石門下の久米正雄と上総(房総)の海に赴いた際の旅行記となっている。
筆者曰く、海から宿への帰路で突然、久米が「何か叫ぶが早いか一目散に砂山を駆け降りて行つた」らしい。少し間をおいて、芥川も後を追う。まさに青春のスナップショットだ。
宿に戻った後、久米を呼びたて、「駆けなけねばならぬ必要」を問いたただしたところ、後架にいる彼は怒り気味にこう返したという。
「だつて、駆け出さなくちやあ、間に合はないぢやないか。」
何に間に合わないのかは分からない。何が間に合わないのかも分からない。けれども、駆け出さなくては「間に合わない」ということだけは分かっている。くしくも、「あのほう」の二人が同人誌を発刊すると決めたのも、瀬戸内の島々を旅した時のことであったという。彼らは「あのほう」めがけて駆け出したのだ。その背中が、上総を旅したいつかの“彼ら”に重なる。
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そして、「駆けなければならぬ必要」に駆り立てられるのは、自分もまた同じである。それは具体的な一歩ではないかもしれない。もう手遅れかもしれない。それでも、不定形で無定形の、ぼんやりとした「あのほう」へと踏み出さなくてはならない。これ以上、「停滞に甘んじるボク」ではいられない。
だからこうして、持て余すほどの鬱屈を導火線に、名状し難いフラストレーションを焚きつけて、とりとめのない文章を書き殴っている。駆け出さなくちゃあ、間に合わない。そんな漠然とした焦りだけが、いまの自分を動かしている。
とはいえもう、ただいたずらに駆け回って力尽きるような心配はない。どんな道を通っても、どんな無様な走り方でも、目指す先は““彼ら””と同じ、「あのほう」なのだから。
最後までありがとうございます。