大丈夫よ、心配することは何もないのよ

大切な人を見送る数か月前から、私はその言葉を繰り返した。

医者であった夫は、自分の余命を把握していて、此の世から去る死の恐怖や、遺される私のことまで、心を痛めることが多かった。

彼を喜ばせることならなんでもした。

あっさりしたものしか食べられなくなった最期の冬のある日、鱈チリを小鍋で作った。美味しいね、今、僕はこういうものが食べたかったんだよ、これは僕が全部食べてもいいの?君は食べないの?

私の食べる物まで心配してくる。

理由は分かっている。

数日前、鰻好きの彼が食べたいというので、私と彼の分の二食分の鰻の蒲焼を注文して、力をつけてねと食卓に並べていたら、よほど美味しかったのだろう、私が家事をしている間に、私の分の鰻も食べていた。
本来なら嬉しいことだ。
しかし、沢山食べられて良かったねと励ますどころか、お腹が空いていた私は、こともあろうに、それ!私の鰻!と怒った。

今でも思う、なぜあんな些細な事で彼を叱ったのだろう。
介護が始まったばかりでイライラしていたのかもしれない。
とにかく、彼に沢山のご飯を食べてもらうことが私の最大の使命であり喜びだったのに、思わず怒ってしまった。
それから彼は、用意した食事が、これは二人分か、全部自分が食べていいのかと時々確認するようになり、その度に心が痛んだ。

どんどんおさな子に戻っているときもあれば、私を守るべき庇護者としてふるまう時も両方あった。昼夜逆転になっていた彼は、夜中に、美奈子美奈子と私を探して廊下で座り込んでいたり、大きな音量でオペラをかけ私をイラつかせることもある。

そういう時の私の言葉は、大丈夫、大丈夫よ、何も心配することはないからねと言う言葉だった。
そう言うと、彼はすうっと落ち着いた。

本心は、心配事ばかりである。
愛する人を亡くすということから、亡くなった後の煩雑な役所の手続きからお金の手続きまで、心配事ばかり。

でも、そういうことは長い人生の経験で容易いことではないと分かっているはずの彼に言い続けた。

大丈夫よ、何も心配することはないからね…

私はとても合理的な考えをする癖がある。
彼の汚れた下着を洗うストレスなら、グンゼのセールで大量に質の良い新品の肌触りの良い下着を買い、着せてあげる方がいい。
呑みたい大好きなお酒があるのならば、少々寿命が短くなろうが、飲ませてあげたい。
そういう価値観は、彼と合っていた。

今まで私を守ってくれた主人が、自分は年若い妻に守られる立場になったときに屈辱を感じるのであろうかと思っていたら、素直に私に頼るようになった。

そのことは、私の心をほっと暖かくさせれくれた。

認知症の初期症状と、本来の彼の我慢強い性格が合わさって、ときどき私を戸惑はせることもあった。
でも、そのいつもの言葉で彼を看取ることができた。

大丈夫よ、あなたが心配することは何もないのよ…

どれだけ自分が辛かろうがその言葉を繰りて返して良かったと心から思う。

その言葉は、逝く人の最期に耳に届く安堵の言葉だった。

今、あの時の私と同じ立場の人は、どうかそういい続けてあげてほしい。

私が逝く時にも、大丈夫よ、心配することは何もないのよと言って欲しいと思うから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?