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僕らは古民家カフェ&ゲストハウスを始めた


「3・11」 2018年4月

長年勤めた仕事を辞めた。決してその仕事が嫌いだったわけでも、仕事的に使えない人間だったわけでもない。むしろ、かなり優秀な仕事人間であっただろうと思う。それでも、仕事を辞めた。
 
2011年3月11日
東北からはるか遠く離れた東京都品川区に僕はいた。大きな揺れに耐え切れずにあふれ出し流れ出すプールの巨大な水を眺めながら、不気味なほどに揺れる校庭の真ん中で、担任する5年生の子供たちを集めて一塊にし「この子たちを守らなければ」と、そればかりを思っていた。小雨混じりのとても寒い日だったけれど、感じたのは寒さではなく恐怖でさえなかった。
「この世の不思議」こんなことが人生の中で起こりえるのか…。
ただそれだけだった。
 
揺れが収まった後、子供たちは親の迎えを待ち引き取られていった。電車は動かない。自分の帰宅は早々にあきらめ、さらに引き取りの親を待つ。最終は遠く千葉の勤務先から歩いて来た父親。すべての子供たちが無事に引き取られ、校長はじめ数人の教員は学校に泊まることになった。誰にも連絡の届かない夜。東北に一人残る母親にさえ。
国道15号線まで出てみる。片道2車線の国道は、渋滞した車のヘッドライトの列で異様なまでに明るい。歩道は都内へと向かう人、神奈川方面に向かう人、それぞれの波で埋め尽くされていた。震災なのに、むやみやたらに明るい縁日のような、妙な違和感。
テレビではさまざまに東北・東日本の被災の様子を映し出していたけれど、

実感とは切り離されたどこか恐ろしく悪趣味な映画の一場面を見ているような感覚。それはロシアから帰る船の中のテレビで偶然目にした「9・11」のニュース映像を見たときの感覚に、少し似ていた。
 
東北・東日本で甚大な被災にあった人々の心情とは比べようもないけれど、自分の中で変化したもの。多くの犠牲を出した震災の後に自分たちは生かされ残されたということ。何をどうやったところで、強大な自然の力の前には人間はあまりにも小さな存在であることの反吐が出るような再認識。
生かされ、残され、これからも続く人生ならば、これからの時をやりたかったことのために使いたい、そう思う自分がそこにはいた。
見たかった風景を見ながら暮らし、食べたかったものを食べて暮らす。
傍らには大切な人がいつもいる。自分を大切と思ってくれる人が訪れてくれる。そんな場所を作り出せないか?そんな時間を作り出せないか?
天職とも思った仕事を辞める、そのきっかけの一つが、「3・11」だったと、今でも思っている。


朝食 2011年3月12日
 
2011年3月11日。震災のあの日。夕方遅く、引き取りの親を待つ子供たちのために食べ物を用意することになった。
 
近くのスーパーマーケットはすでに営業していない。あれだけ大きな地震の後、営業している店を探す方が難しい。それでも探し回るうちにコンビニが開いているのを見つけた。おにぎりやサンドイッチ、お弁当と思ったけれど、すでに商品棚から消えている。カップラーメンも品切れの状態。何とか腹にたまるものと言えば、数個の菓子パン。その菓子パンと、慰みにいくつかの菓子を買って学校へと戻り、大人は食べずに子供たちに食べさせた。
震災とはそういうことなのだ、と思い知らされる。都市が被災すればたちまち交通機関は止まり通信は途絶える。人々は食料や水、燃料、日用品を求めて商店へと押し寄せ、品物が枯渇した商店はたちまち店じまいをする。必要と思ったものを買えた者はひと時安堵し、買えなかった者は途方に暮れる。
 
子供たちの引き取りは終わり、学校に泊まることになったのだけれど、明日の自分たちの朝ご飯は?
きちんとしたかった。乾パンやらアルファ米やらの備蓄食料はもちろんあったけれど、それは嫌だった。怒りにも似た気持ちでそう思った。大震災でご飯どころではない大きな犠牲が出たことも分かっている。今なお交通機関が止まっている中、家族のもとへ川崎に向けて横浜に向けて大渋滞の中を車や徒歩で移動している人々で国道はあふれている。朝食一食を抜くぐらいなんでもないことだということも十分に分かっている。
それでも朝ご飯をきちんとしたかった。
 
再びコンビニに戻り、明日の朝食のための食材を探す。お米があった。卵のパックも残っていた。豆腐のパック、売れ残りのカット野菜。震災の起きたその日の夕方までは、少しばかりの食糧がまだあったのだ。
お米を研ぎご飯を炊く。調理実習の残りなのか家庭科室にあった煮干しや味噌を使って豆腐の味噌汁を作る。目玉焼きを焼いて野菜を添える。それだけの朝食。
寝泊まりした教員と避難場所を求めてやってきた人と一緒に、ていねいにしつらえた朝食を食べる。震災の真っただ中ではあったけれど、しみじみと朝食を食べる。
 
生きることは、生きていくということは、「食べる」ことだと思った。
生き残った者は、それからさらに生きるために「食べる」のだ。食卓を囲み食事するということ。きちん作ったものをきちんと食べるということ。誰と何をどう食べるのかということ。
僕は、そんなふうに思ったのだ。

 

大山千枚田 2016年4月16日

2016年春、僕たちは大山千枚田に出会った。 
いつものようにドライブ先を探していた。僕たちは何かに駆られていた。僕たちにぴったりな場所があるんじゃないかって。
「一緒に行ってみたい場所がある。」二人が言うその行先は偶然にも一致していた。
大山千枚田。それまで聞いたことも行ったこともなかった風景を見るために、車を走らせた。
 
千葉県鴨川市の山岳地に広がる4ヘクタール、375枚の棚田。
東京から一番近い棚田、雨水のみで耕作を行っている天水田として知られるのが「鴨川大山千枚田」。
アクアラインを経て館山道へ。鋸南保田ICで館山道を降り、そこからは一時間ほどの道のり。県道34号線鴨川保田線、通称長狭街道を東へ走る。目にも鮮やかな新緑の中のドライブは、日々の仕事に疲弊した僕たちにやさしい。
平塚交差点を右に折れ、小さな川を渡り山道は傾斜を増していく。右へ左へと小さなカーブを繰り返し上り詰めたと思った瞬間目の前に広がったのは、いくつもの不定形の小さな田が眼下に落ち込んで広がる棚田の風景。
Kが見たかったのは、棚田の裏側に焼き物を並べて夫婦で経営する瀟洒なカフェ。僕が見ておきたかったのは当時勤めていた学校が自然宿泊体験で利用する棚田。それぞれの思惑は違ったけれども、棚田の風景は僕たちを魅了するに十分だった。
 
大山千枚田には、「オーナー制度」というものがある。375枚それぞれの田んぼにオーナーを付け、米作りをしようという制度。もちろん一年中オーナーが米作りにかかりきりになるには無理がある。オーナーは大概米作り体験にあこがれる都会の住人だから。
オーナーが行う作業は一年間に6回。田植え・草刈りを3回・稲刈り・脱穀。あとは大山千枚田を管理するNPOとその協力者がやってくれる。言ってみれば都会のオーナーたちにとっていいとこ取りの制度だ。
ただ、千枚田はもともと大きな機械での作業ができないわけだし、田んぼの持ち主の高齢化や離農で米作りができなくなりつつあったとも聞くし、ある意味WIN WINの仕組みなのかもしれない。

千枚田を毎日眺めながら暮らせたらな、と思った。カフェ「草(SОU)」は、大山千枚田からすると裏側になるけれど、それはそれで眼下に棚田を見下ろすすばらしい場所だった。
晴れていても、曇っていても、たとえ雨だとしても、そんな表情豊かな自然を毎日見て暮らせることが一番の幸せに思えた。


移住 2018年9月30日

突然思った。「引っ越し」と「移住」とは何が違うんだろう。ちょっと混乱する。自分がやろうとしているのは引っ越しなのか移住なのか。
ネット社会はとても便利で、そんな疑問にすぐに答えてくれる。しかもこの説得力。
「移住とは、永住を視野に主に都会から田舎に住む場所を変える事を言い、それに従って生き方も変える事をいう。引っ越しとは、ただ単に住む場所を変える事で、ライフスタイルには特別変化はない。」(naniga-chigauno.st042.net)
まさしく自分は「引っ越し」ではなく「移住」する。今日から僕は鴨川での生活を始める。

なのに、なんで・・・と思う。台風21号が日本を縦断しようとしている。時間帯によってはアクアラインが封鎖される可能性もあった。出発時には、時間や日程の変更も視野に入れていた。
幸い台風は関東にそれほど近づくことなく、10時過ぎに川崎を発ち13時にここ鴨川古畑の仮の家に着いた。およそ2時間半の片道旅。予定通り今日から千葉暮らしを始めることができた。

「移住」は、実際には4度に分けて行った。
新しい金束の家は、まだ工事にすら入っていないので、完成までに住むために仮の家を不動屋さんに紹介してもらい、9月8日に契約した。川崎のマンションの引き渡しを9月末にしていたので、ほぼ一か月のダブり。それを利用した。マンションの荷物を整理し徐々に鴨川に運ぶ計画だった。
まず一回目は12日に大工さんとの打ち合わせのために鴨川に来る機会を利用した。この時点ではたいしたものは運ばなかったけれど、いくつかの段ボールをフォルクスワーゲンに積み込み、古畑の家に運び込んだ。第二回は、空き地の草刈りを急遽することになった24日。これは予定外の鴨川ドライブだったけれど、利用しない手はないのでまたいくつかの段ボールを運び込んだ。
三回目は本番の27日。登戸駅前のレンタカー会社に2t車を予約していた。ベッドやらテーブルやら大物を一気に運んでしまう計画。7時に営業所前でKと待ち合わせ、鴨川に向かって出発した。
本当は2t車なんて運転したことはなかったけれど、まぁ何とかなるだろうと高をくくっていた。昔アルバイトで小型のバスは運転していたから、感覚的にはそんなものだろうと。途中オートマのシフトをよく理解していなくて戸惑ったこともあったけれど、海ほたるでは普通乗用車ではなく中型大型用の駐車スペースに誘導されて嬉しかった。無事に三回目の搬入を終え、再び登戸まで2t車を返しに戻る。返車予定時刻の19時よりもよほど早く返車し、Kと登戸駅近くの中華屋で乾杯。
そして今日30日が最終の「移住」。最後まで使っていた布団やテレビや掃除道具を無理やり普通乗用車に詰め込んで、僕は鴨川に来た。
もう川崎に帰ることはない。僕は鴨川に「移住」した。


古民家 2018年1月27日

僕たちは古民家を手に入れた。 
15畳の居間には囲炉裏が切ってあり、6畳間と8畳間が続く。改築し台所となって床に隠れているが、居間の横には土間が広がっているはず。その昔は土間の突き当りに竈があったという。
天井も板張りになっているが元々は茅葺屋根で、ところどころに黒い梁が見える。
築年数はとりあえず不明。
母屋の東側は草地になっている。かつては馬小屋があったそうだ。
6畳間、8畳間の西側は庭。庭から斜面を上ると中二階状の空き地があり、さらに上がったところに長狭街道を見下ろす見晴らしの良い畑地がある。
 
「欲しいものは残しておくよ。」
売り主さんの厚意で、僕たちは欲しいものを集めた。動かせないものには付箋を貼りまくる。
古い棚や箪笥、竈で使ったのだろう羽釜、たくさんの甕や壺、石臼。石臼は長狭街道を挟んで流れる小川で採ったワタリガニを潰して蟹汁を作ったのだという。食器やお膳も一部取っておくことにした。他にも農具類や工具類。中には刈り払い機ややチェインソーまであった。いずれ始まるここでの生活に役立つだろう。
「東京芝浦電気」製のアンティークな扇風機。これは僕たちがチェックしてなかったものだけど不要物撤去を請け負った業者さんが奥から見つけて取っておいてくれた。売り主さんが言うには、まだ動くはずだって。東京芝浦電気…東芝?
見晴らしの良い畑地。そこは農地なので買うことはできないのだけれど、それも借用の手続きをした。しかも、もう一枚、売り主さんの家で代々管理してきた畑地がある。草をきちんと刈り美観を損ねない条件で自由に使っていいという。長狭街道・加茂川を挟んだ田んぼの手前、それなりの広さがある。
畑のある生活。実はちょっと憧れていた。仕事で家庭菜園のような畑で野菜を作ったことはあるけれど、本格的な畑があるのっていい。自給自足とまではいかないまでも、
もう一つ。土地の前に旧街道と新街道に挟まれた空き地がある。もともとは田だったというが、今は半月型に取り残された草地に3本のミツデカエデの木が立っている。ゆくゆくはここも買うか借りるかして手に入れる計画。この緩衝地帯がなければ、ここに決めようとは思わなかったと思う。それほどにこの空き地は魅力的だ。
 
「カフェをやる」という夢。鎌倉や江の島、逗子や葉山は本当に魅力的だったのだけれども、そこには手に入れられそうな心惹かれる土地や建物はすでになかった。大山千枚田に出会ったこと、古民家を手に入れられたこと、それが僕たちの夢を後押しした。

2019年6月。
僕らは念願のカフェ&ゲストハウスを、ここ鴨川でスタートさせた。

#あの選択をしたから


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