アナルと悪魔

 今にも壊れそうだ。頭が壊れそうなんだ。僕は地下鉄のトイレの個室で、ガタガタと震えている。また発作が起きそうで、それが怖くて、ドアを開けることができない。急がないと、始業に間に合わない。今月はもうこの発作のせいで、3回も遅刻している。急がないと急がないと急がないと。大丈夫だ、絶対に大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、ドアを開ける。大丈夫。絶対に大丈夫。

 アンモニア臭がこもるトイレの洗面台で、軽く顔を洗う。鏡にはいつも通りの、陰鬱な顔が映っている。大丈夫、大丈夫。呼吸を整え、トイレを出る。大丈夫だ、女の人は……。

 いた。

 スーツ姿の若い女性が、視界の隅に入ってきた。やばい。腰のラインが。ピタッとしたスカートがややシワが目立つジャケットがカツカツと鳴るヒールの音が……。

「あの……」
 声をかけると、女性は怪訝な顔をした。
「はい……?」
「アナルを見せてくれませんか?」

 全力で逃げた。タイミングよく停車していた電車に滑り込み、車両をそわそわと移動しながら次の駅を待ち、そこで降りた。また、衝動を抑えられなかった。名前しか知らない駅の近くにあった、全く知らない公園で、僕はこの衝動がいつから自分の中に眠っていたのかを考え始めた。

 思い返すと、中学生、いや小学生くらいの時からかもしれない。僕はずっと、異性のアナルに興味があった。前にはほとんど興味がなかったような気がする。ずっと見たかった。ずっとずっと、女性のアナルが見たくて仕方がなかった。今はネットですぐ見られるだろうと言われるかもしれないけど、いや、それは。見てるし。見ているけれども。生のものとはまた違うんだろうなと思うし。

「ほんとこれ、どうすれば……」
「お困りのようですね」
「うわっ!?」
 突然背後から声をかけられ、振り返ると、全身黒ずくめの怪しげな女が立っていた。
「あなたの目を見れば……分かります。あなた、アナルのことで頭がいっぱいなんでしょう?」
「ど、どうしてそんなことが!」
「ふふふ……分かるの。私の夫も、死ぬ前はそんな顔をしていたから」
「旦那さんが?」
「ええ……私は夫をアナルの魔力から救えなかった。それ以来、あなたのような前途ある若者をアナルの魔の手から救うべく、活動をしているの」
「アナルの……魔の手?」
「その様子を見ると、アナタは……。よかったら、今から私の家に来ない?」
「えっ、今からですか!?」
「善は急げ、って言うでしょ?」

「お邪魔します……」
 薫と名乗ったその女性の家は、必要最低限の家具だけ置きましたといった感じで、かなりスッキリしていた。全く生活感を感じないリビングでテーブルを挟んで向き合うと、彼女は話し出した。
「単刀直入に言うと、あなたはアナルの悪魔に取り憑かれている。あなたの頭に棲みついた彼らは、あなたを操り、異性のアナルへ向かわせようとしているの。それが、あなたの衝動の正体」
「いきなりそんなことを言われても……それが本当だとして、どうすればいいんですか?」
「普通は女性のアナルに性器を挿入すれば元に戻るんだけど……最近の奴らは狡猾でね。あなたには、ある病気がかけられている」
「それは……どんな病気なんですか?」
「あなたももう、気づいているんでしょう?」
「……」
「うん、言いづらいわよね。あなたは……勃起不全、EDになっているのよ」

「本当は……気づいていました。どんな女性を見てもアナルを想像して興奮するのに……勃起だけはしないんです」
「さっき、私を見ても勃起していなかったのを見て、家にあげても大丈夫だと思ったの。アナタは勃起していなかったし、それに多分、興奮もしなかったんじゃない?」
「その、薫さんは魅力的な女性だと思うんですけど、なぜか」
「理由を教えてあげる。私にはアナルがないの」
「アナルが……ない?」
「ええ、ないの。これが原因で夫も……。いや、今はこんな話をしている場合じゃないわね。あなたの呪い、祓ってあげる。美香子、降りてきて」
「はい、お母様……」
「うわっ!?」
 薫さんが天井に向かって呼びかけた次の瞬間、返事とともにテーブルの上に少女が現れた。
「美香子、この方にアナルを見せてあげて」
「分かりました、お母様……」
「ちょ!ちょっと待ってください!」
「なにかしら」
「こんな、制服着てる子のアナルなんて見たらは、犯罪じゃないですか!」
「大丈夫よ。美香子は精霊なの。美香子、この方と握手をして」
「はい、お母様……」
「えっ、えっ!?ほ、ほんとだ。光の粒が……」
「分かっていただけたかしら。まあ、抵抗があるのも分かるわ。でもね、これはあなたのためなのよ。美香子のアナルを見れば、全てが良くなる。これだけは信じてほしいの」
「……分かりました。美香子ちゃんのアナル、見させていただきます!」

 青年の背中を見送りながら、私は右上の、美香子がいるはずの空間に向けて話しかけた。
「ごめんね、美香子。いつもいつも、恥ずかしい思いをさせて」
「いえ、お母様。これが、美香子の役目です」
「ありがとう、本当に。あなた、美香子は立派に育っていますよ。本当に……立派に」
 あなた、そちらでもう少しだけお待ちください。
 私が奴らを狩り終える、その日まで。

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