神の子、許されざり (小説)

 1

 衝立の向こうで扉の開く音がした。会話のため、無数の小さな穴を開けられているが、相手の姿は見て取れない。体臭が鼻を衝く。風呂に入っていないようだ。罪の告白か人生相談に訪れたこの相手は浮浪者か、それに近い人種だろうと武藤は見当をつけた。
「どうされました、今日は」
 椅子に座り、静かに訊いた。衝立越しに、相手の落ち着かない気配が伝わってくる。体の微細な動きが止まらないらしい。薬物中毒者でもあるのだろうか。
 発言を促すでもなく、武藤は待った。何かを語るために作りあげた心的なコンディションも、直前に崩れてしまうことは多々ある。
 六本木五丁目に位置する小さな教会だった。通常、告解を行うのは洗礼を受けた者に限られ、そのための告解室でもあったのだが、武藤は洗礼を受けたか否かを問わず、信仰の有無やその対象すら問わなかった。故にこの空間には様々な人種が訪れ、また、ここで行われるのは罪の告白だけではなく、単なる人生相談であることも少なくない。土地柄もあるのか、相談に訪れるのは非行に走る子を持て余す親や、遠い国から来日したものの素行の悪さから仕事と住処を失った不良外国人なども多く、告解のために訪れる者は、むしろ少ない。
「ひ、人を、こ、殺しました」
 やや吃音の気があるのか、おぼつかぬ口調で男が語り始める。性別は声音で知れた。年齢はわからない。姿が見えないのだ。
「そうですか」
 武藤は応え、さらに待った。促さず、急かさず、ただ相手の言葉が出てくるのを待つ。
 殺人を告白されるのは初めてではない。何年か前、男女関係のもつれから恋敵を刺殺してしまい、警察の捜査を逃れつつ四国から上京してきた若い男に、その罪を告げられたことがある。そのとき武藤は話を聞き、自首を勧めたが、わかった、という意味の言葉を発した若い男は、以来その姿を見せることはなく、自首したのかどうかさえ武藤にはわからなかった。
 狭い告解室に、浮浪者らしき男の放つ強い臭気が充満しつつある。
「それも、お、大勢です。小さな子供もい、いました」
 男の言葉が切れ、武藤は訊いた。
「それはいつです?」
 いくらかの沈黙があった。男はその時期を思い出そうと努めている。やがてまた男が言葉を発した。
「お、憶えていません。ずっと前、ずっと昔です。もう、思い出せないくらい、む、昔」
 発音と発音の間に咳が挟まっている。痰でも絡んだような声だ。
「お聞きしますよ」
 促したつもりではなかったが、武藤はいった。男が語り出す。
「サ、サイゴンに向かっている頃、頃でした。ベトコンだけじゃな、なくて、普通の人たちも、い、いっぱい殺しました。子供たちにも油断でき、できなくて、たくさん撃ちました」
 ずいぶん古い時代だ。ベトナム戦争に従軍していたのか。半世紀かそこらも前の話になる。サイゴン陥落は西暦何年だったか思い出そうとしたが、無駄だった。神学については真摯に学んだつもりだが、中学や高校といった学校教育において、武藤は授業を静聴した記憶がない。世界史の教科書などには載っているのだろうが、かつて武藤は教科書など受け取った当日に燃やしてしまうような子供だった。
「よ、よく夢にみ、見ます。昔は毎晩、見ました。うなされて、跳び起きて、寝るのが怖くて、ね、寝不足のまま仕事して、少しずつ、少しずつですけど、その夢を見なくなって、で、でも、わ、忘れた頃にまた夢にうなされて、最近もま、またよくうなされて」
 弱々しかった口調が、徐々に強い語気を帯びてくる。男が洟を啜り始めた。泣いている。
「生き延びたことを悔いていますか」
 半分は告解を受ける神父として訊いていたが、残る半分は好奇心か、それに近かった。訊いた直後、武藤は好奇心を含む問いを投げかけたことに若干の負い目を感じたが、言葉を取り消すことなどできない。そして、男が答える。
「く、悔いていま、す。初めは、い、命拾いをした、したように思ってて、でも、私が死ななかった代わりに上官、上官が、上官が死にました。生き延びたのをく、悔いて、私を助けて死んだその上官を怨んでいま、います」
 敬虔な信仰者であれば、神父や牧師といった司教のひと言で救われる場合もある。だが、この浮浪者じみた男が信仰心を持つのか、持つのならば、その対象は何なのか、また宗派は、といった問題が現れ、罪の告白により必ずしも救われるとは限らない。罪や相談の内容によっては、助言もできず、気の利いた慰めの言葉を送ることもできず、これまで武藤はこうしてただ罪の告白や相談を受け、忸怩たる思いに苛まれることが多々あった。それでも門出を開いているのは、内なる苦悩を何者かに打ち明けることで心の重みが少しでも軽くなる者が多くいると信じているからだ。
「あなたは、どうなりたいと願っていますか」
 武藤は問うた。再び沈黙が降りる。時折、六本木五丁目交差点から麻布十番へと向かう道を走る車の音が聞こえた。
「わ、私は」
 男の言葉が途切れ、逡巡の間が空く。回答を見出せないのか、男がいった。
「ま、また来ても、い、いいですか」
 もちろんです、と武藤は答えた。
 神を信じろ、などとはいえない。救われない者を多く見てきたのだ。ただ、この浮浪者らしき男が過去の罪を告白することで、先へと進む一歩を踏み出す機会を得たのは確かなことに思えた。その一方、男に答えを濁されることで、その答えに対する回答を後回しにできたことに安堵する自分にも、武藤は気づいていた。

2

 時間がない。交通量の少ない深夜、そして臓器の輸送先が比較的近いことが救いだった。JOT(日本臓器移植ネットワーク)の移植用臓器輸送車両の後部座席に座る大壺の膝には、臓器輸送のために設計された専用のクーラーボックスが乗っている。その中には慶応大学病院にて摘出されたいくつかの臓器のうち、脾臓が保存液と氷で冷却され、収まっていた。病院の敷地を出た輸送車両の前を警察車両が先導する。赤色灯を点滅させ、サイレンを鳴らしつつ道を空けるよう拡声器で呼びかけ、外苑東通りへと走り始めた。
 首都高で起きたバイク事故だと聞いている。脳死ではなく、心停止。脳死であれば多くの臓器が摘出できるが、心停止による死亡の場合、血液の供給が止まるため、移植用として使える臓器の範囲は極端に狭まる。報せを受け、この件に携わる臓器移植コーディネーターの一人として大壺が招集されたのが午前一時、事故死した若者は臓器提供意思表示カードを所持しており、全ての臓器に〇がついていた。現場から救急搬送された先の慶応病院で死亡診断を受け、駆け付けた遺族の同意もあり、腎臓、脾臓、ふたつの角膜のうち、大壺は脾臓を担当するよう命じられていた。
 レシピエントを選定するのはJOTのコンピュータだ。臓器の種類、ドナーやレシピエントの年齢、距離、病状、緊急度など、様々な項目を端末から入力し、移植を待つ患者のデータが蓄積されたコンピュータが移植先を公正、公平に選ぶ。摘出された脾臓の移植先として選定されたのは、広尾にある日本赤十字医療センターで病床に伏す二十六歳の男だった。
 外苑西通りを経て西麻布交差点を右折、六本木通りへと合流する。深夜でも空車のタクシーが群れを成すことで渋滞する六本木交差点を避けたようだった。
輸送車両のステアリングを握るJOTの職員と、バックミラー越しに眼が合う。何度か本部で顔を合わせたことはあるが、名乗り合い、こうして仕事を共にするのは初めてだ。大壺より十は若い。三十の半ばといったところだ。ちらちらとこちらを窺っているように思えたが、その視線は大壺ではなく、その先、リアガラスの向こうへ向けられていた。大壺が後方へと首を捻ると、ヘッドライトが見えたが、車種もボディカラーも判然としなかった。
道は空いている。他の交通に移動を阻害されることなく高樹町の交差点を左折、狭い商店街を抜ける途中、ステアリングを握る若い職員がもう一度バックミラー越しにこちらへと視線を寄越した。再び大壺も後方に眼をやる。この時間でも開いている酒場のネオンに、車の姿が浮かび上がった。黒い。フーガかシーマか、日産の高級セダンが一定の距離を維持しつつ、こちらと同じ方角へとノーズを向けている。尾けられているかどうか、といったところにまでは、大壺の思考は及ばなかった。さほど気にはならず、むしろ膝に抱えた臓器がレシピエントの体に定着してくれるかどうか、そちらの方が心配だ。
商店街を抜け、警察車両に先導されつつ赤十字医療センターの裏手へと廻り、すでに待ち受けていた医療スタッフにクーラーボックスを委ね、サインを受け取った。手術室では執刀医と助手たちが準備を済ませ、病室ではすでに別のコーディネーターが本人と家族に移植の旨を説明しているはずだ。
用意された部屋の机に着き、大壺は書類仕事に取り掛かり、それがひと段落ついたところで、臓器を委ねた医療スタッフが訪ねてきた。
「大壺さん」
 この男も、大壺よりいくらか若く見える。マスクの下に、僅かな笑みが浮かんでいた。だが眼尻に表れた皺が、実年齢がそう若くもないことを思わせる。発せられた声も、若い男のそれではない。
「移植手術、無事に終わりました」
 息を吐き、大壺は礼を述べた。
「ありがとうございます」
 男が一礼し、踵を返す。部屋を辞した男の足音が聞こえ、遠ざかった。
 安堵感はあったが、まだ第一段階だ。臓器の定着率や、その後五年や十年、十五年先における生存率は統計学的な数値を見る限り、決して高くはない。今回移植を受けたレシピエントはまだ若者だ。どういった経緯で脾臓を患い、病床に伏すことになったのか、まだそこまでは知らされていないが、健康体を奪われ、日常を失い、臓器移植の順番が巡ってくるのを、また死を待ち続けるのにも若すぎる。
 背広の内ポケットで携帯が震えていた。取り出すと、妻の名と時刻が表示されている。午前八時半を過ぎていた。回線を繋ぎ、耳に当てる。
「もしもし」
「あなた!?」
 妻の声に、切迫感が伴っていた。
「どうした」
「あなた、ちょっと、あたしどうしていいか」
 何かが起きたようだ。妻は狼狽し、焦っている。
「落ち着きなさい。何があったんだ」
 息遣いが聞こえた。深呼吸したつもりなのだろうが、その息は浅い。
「瑞樹が病院に運ばれたのよ、さっき。さっき病院から電話があって・・・」
 落ち着きなさい、と大壺は妻にもう一度いい聞かせた。だが、娘が病院へ運ばれた事実を妻から聞かされ、自身も動転しつつあることに気づく。
「何があった。事故か」
「それがわかんないのよ。とにかくすぐ来てくれって」
 脈が早まっていた。娘に一体何が起きたのか。いつもなら大学で講義を受けている時間だ。
 病院の名と所在地を訊き出し、妻とは現地で落ち合うことを決め、大壺は回線を切り、携帯を背広の内ポケットに収めた。

3

 携帯が鳴った。ベッドの脇に置かれたテーブルの上にそれはあり、ブラックアウトしていたはずの液晶が光っていた。手に取り、龍が半開きの眼を向けると、液晶の中に午前3時過ぎの時刻と、メッセンジャーのアイコンが表示されている。アイコンの横には送信してきた主の名があり、それはアルファベットで記されていた。Setsuko―Osb・・・。最後まで読む気が失せ、龍は携帯をテーブルに放り、再び眼を閉じた。知った名ではない。外国人だろう。国際ロマンス詐欺の類だろうか。ファーストネームが日本人らしき名であることが少し気にかかったが、睡魔に抗うことができない。そのまま寝入り、朝まで目覚めなかった。
 午前八時、目覚まし時計を兼ねた携帯が鳴ると、龍はそれを手に取り黙らせ、ベッドから起き出した。朝食は摂らない。顔を洗い、歯を磨き、身支度を済ませると、居間に飾られた両親と祖父母の遺影を横目に部屋のドアを外から施錠し、車に乗った。愛車のミニクーパーは、奨学金を借りられるだけ借り、院生、それも文系のそれとなると、修士課程だろうが博士課程だろうが、まともな就職先など望めず、まるで返す充てなどないのだが、半ば自棄になり入手した車だった。
 この新川地区にあるアパートから東八道路を横断し、三鷹駅南口近くの図書館まで、約三十分のドライブだ。平日の朝、道をゆく車の数は多い。
 大学には奨学金で進学した。両親はすでに故人だったが、祖父母は当時まだ健在であり、保証人にもなってくれた。進学と同時に龍はアルバイトも始めたが、先に祖父、続いて祖母が鬼籍に入り、龍は卒業を迎えたが、就職せず、院での研究を選んだ。限度額一杯まで借りた奨学金という名の借金は現在九百万円を超え、その間にもアルバイトを転々としたが、学校を出たばかりで店を任された若い男女に顎でコキ使われるのに嫌気が差し、さらにアルバイト先を転がり、働くのをやめた頃、龍は院生となってすでに六年が経っていた。
 駅前のコインパーキングにミニクーパーを止め、リュックサックを背負い、図書館へと入る。館内にいるのはほとんどが老人だった。龍の他に、二十代と思しき者は見当らない。
 論文には、まだ着手していなかった。院でのそれは卒論とは違い、これまで誰も書いたことのない、書くことのできなかった、あるいは誰もその切り口から踏み込む余地を見出せなかった、新しい見地を要する。誰かが今までに書いたような物の出来では通らない。となれば、着手するまでにその分野について書かれた論文の類を片っ端から読破しなければならなかった。リュックサックにはノートPCも入っていたが、まだ活躍の場は得られていない。携帯のメモ帳アプリがごく稀に必要となる程度だ。
 昼近くまで論文や資料を読み漁り、気分転換も兼ねて新聞の置かれたコーナーへ移動した。どの新聞社か選ぶでもなく手に取り、読み耽る。カラーページの中に、古いモノクロの写真が刷られていた。太宰治だ。記事を読む。昭和九年に造られた陸橋が取り壊しの危機に瀕しているという。三鷹へ移り住み、そして流行作家となった太宰の愛した陸橋だ。JR中央線を跨ぎ、三鷹駅の北口方面と南口方面を繋ぐ。太宰は原稿を取り立てに来た編集者を撒き、よくこの陸橋で時を過ごしたという。また、気に入っていたこの陸橋に、仲のいい編集者を案内することもあったそうだ。その陸橋が老朽化のため、耐震性の問題もあり、補強工事を含めた維持管理にかかる費用をJR東日本は出したくないらしく、三鷹市がこれを持とうという案もあったようだが、こちらも財政的に難しく、結局のところ解体する方向へと話が進んでいるそうだ。写真の中、太宰治が陸橋の階段を下っていた。
 空腹を覚え、龍は車へ戻り、自宅へと走らせた。軽い昼食を摂り、次の授業へ向けた予習を行う。それを終えると、すでに陽が傾き、窓の外は緋色に染まっていた。
 携帯を手に取る。メッセンジャーのアイコンが表示され、送信してきた主の名があった。Setsuko―Osborn。姓はオズボーンと読むのか。メッセンジャーを開く。それは、Facebookと連動していた。
『突然のメッセージをお許しください。
 私はセツコ・オズボーン、米国在住の女性です。死んだ母の旧姓が香村だったものですから、Facebook上で香村(Kamura)という姓のユーザーを検索し、このメッセージを一斉に送信しています。
 私は日米ハーフ、主に英語で育ちましたが、学生の頃に日本語を学んだため、こうして読み書きも、話すこともできます。
 あまりに幼かったため記憶はほとんど残っていませんが、生まれたのは戦後間もない日本、それも東京だったそうです。父は進駐軍の兵士だったそうですが、人事異動でもあったのか、私は父母と共に米国へ渡りました。この地で育ち、生き、離婚を経験しましたが、一女を授かり、歳を取り、今こうして人生の終盤を迎えつつあるところです。
 香村さんへメッセージを送ったのは、私がこの歳となり、現在もまだ日本に残されているかも知れない父と母の足跡を知る、そのヒントを得たい、という思いからです。先ほど記しました通り、母の旧姓が香村だったものですから、ヒントを下さる方、ヒントになって下さる方、もしかすると親類の方に連絡がつくかも知れない、という期待を込めてメッセージを書いています。
 古い写真が三枚あります。一枚目は1947年頃でしょうか、親子三人で写ったもの、二枚目は1976年頃、ベトナムで父の部下だったという方が私の許を訪れ、残していったもの、三枚目は母がひとりで写っているものです。
 もし、もし少しでもお心当たりがありましたら、ぜひお返事をくださいませ。
                   セツコ・オズボーン』
 メッセージには三つの画像データが添付されていた。二枚目のそれとされている兵士たちの集合写真はカラーだったが、残りの二枚はモノクロだ。三枚目のそれは、今でも美人として通るだろう、若い女がドレス姿で写っている。そして一枚目の写真、若い男女が幼い子供を伴って写る背景に、見覚えがあった。
 太宰治の愛したという、あの陸橋だ。

4

 では今回はこれでいきましょう、と編集者を兼任する若い男がいう。六本木交差点から坂を溜池山王方面へと下った先にある『AZN』というカフェだった。ビルの四階に入居しており、窓の先には首都高三号渋谷線の高架が見え、車のタイヤが転がる音も聞こえる。店はBARとしての側面も持ち、夕方からは酒も出す。バータイムはたしか五時半からだ。
 武藤とテーブルを挟み向かいに座るのは若い男と、もう一人は武藤とさほど歳の違わない、ある建築関係の会社を経営する四十絡みの男だった。ほんの一時間前、名刺を受け取っていたが、すでに武藤はその名刺を財布に収め、名を忘れかけている。
「でも、こうして求人してくださる経営者の肩がおられますから。本当にありがたいです」
 若い男がいい、ブレンドを啜った。編集しているのは『リ・スタート』という名の求人誌、それも前科者を主な購買層としたそれだった。経営者が同じくブレンドを口に含み、言葉を発する。
「まあ、何度か痛い目というか、悲しいことには遭ってますけどね」
 苦笑い。表情に、どこか哀愁が滲んでいた。
 前科者、それも服役歴のある者を雇用する企業はきわめて少ない。雇用者側は履歴書に空白期間を見出し、その間どこで何をしていたのかと問い、昔は履歴書に賞罰の欄があったのだが、現在は消えてしまった。面接を受ける側は服役していた事実を話し、更生を主張するのだが、その先に訊かれるのは罪状か、あるいは好奇心を満たすために質問される刑務所内での生活であり、採用になど至らない。結果として職にありつけず、再犯に至ったり、元々いた反社会的組織に戻ってしまうというケースも多いようだ。
 そこで眼の前にいるこの若い男が発刊したのが服役歴のある者や服役中の者向けの求人のみを載せた求人誌、『リ・スタート』だった。取材から編集までを手掛けるこの三十をいくらか過ぎたばかりの若い男は大手出版社での短くはない勤務経験があり、三十の頃に独立、自身が代表を務める出版社を立ちあげた。武藤はその求人誌にコラムを執筆し、それは毎号掲載されている。若い男は、武藤の持つ異色ともいえる経歴をどこかで聞き、宗教的ではない文章を書いてくれないか、と二年前、武藤の教会へと現れた。
「痛い目、ですか」
 若い編集者兼出版社代表が訊く。
「痛いというか、金額うんぬんではなくて、心が、ですかね」
 武藤はグラスの水を飲み干し、視線で先を促した。
「こうして求人を出して、服役してた人たちが来るじゃないですか、面接に。こちらは積極的に採用したいから、更生できていると判断できれば採用するわけですよ。ところが、その見極めが難しい」
 見極め、と若い出版社社長が呟く。
「ええ。当面の生活費ということである程度の金を渡すんですけど、金を受け取った途端にドロンしてそれきり、といったのもあったんですよ。ああ、あの時、面接の時ですがね、やはり見極めることができなかったんだな、と思うわけです。哀しくもありますよ。裏切られたわけですから。うちで真面目に働いてくれればさらに更生を深めることもできるだろうに、ってね」
 語り終え、四十絡みがブレンドをまた啜る。
「なるほどね」
 武藤はいい、それではこれで、と席を立った。店を出ると、ビルのエントランスから六本木三丁目の路地を縫い、五丁目の交差点を渡ると、武藤の教会が見えてくる。古いビルの一階。元々は母の営る喫茶店だった。服役しつつ神学を志した武藤が出所し、しばらくして母は死んだが、店は武藤が受け継ぎ、改装を経て現在は教会となっている。
「おかえりなさい、神父」
 祐樹が講堂のフロアを掃除しつつ、武藤を迎えた。その呼び方はよせ、と武藤は何度もいっているのだが、祐樹はその点にだけは固執を見せ、武藤を神父と呼ぶ。
 春日という姓を持つこの青年も、ほんの一年ほど前まで服役していた。もうすぐ二十三になるが、子供に毛の生えたような幼い顔をし、それでいながら両肩には刺青が彫られ、元は暴力団の準構成員だった。覚醒剤で逮捕され、もちろん初犯などではなく、それも所持に関しては営利目的でもあったため実刑を食らい、広島で〝勤め〟た。出所後は実家を追い出されてしまい、かつて籍を置いていた暴力団事務所を訪ねたそうだが、その組織を管轄する、西の大手やくざ組織から数えて二次団体に当たる暴力団の若頭から武藤の許へと預けられている。刑務所で暮らすうち自然としゃぶは抜けたようだが、その〝味〟は忘れられず、また同じ道を辿ることも懸念され、何より、根が小心者で気が弱く、暴力団構成員としての資質に欠けていたこともあり、武藤に話が流れた。受け入れた武藤は祐樹に着替えと小遣い、そして教会内に狭いながらも自室を与え、更生への道を歩ませているのだった。
 さきほど喫茶店で建築関係の経営者が語っていたエピソードを思い出す。『リ・スタート』に求人を出す企業に限らず、社会貢献として前科者を雇用しながら、二束三文の薄給で長時間に及ぶ重労働を課し、自主退職するまで使い潰す会社もある。始めから、そのつもりで前科者を雇用するのだ。
 ブレンドを啜っていたあの四十絡みとその会社は、一体どんな実態を持つのだろうか、と武藤は思った。
 前科者の雇用と社会復帰。それは複雑、そしてデリケートな問題でもあった。

5

 ノートPCを開き、Facebookにログインする。スマートフォンの小さな画面に展開する細かいキーボードで長文を書くのは面倒だった。
『セツコ・オズボーン様。
 メッセージを拝読しました。ぼくは香村龍という大学院生です。戦後史を研究しています。
 残念ながら、ぼくの親族や親類に米国の兵士さんと国際結婚した人はいません。ぼくの知り得る限り、ですが、おそらくそんな人は全くいないのでしょう。
 ですが、セツコさんのメッセージに添付されていた写真のうち一枚に見覚えのある風景が写っていました。
 三枚目の写真、幼いあなた(と思われます)がご両親と共に写っている陸橋の写真です。あなたにも、ご両親にも見覚えはありませんが、その背景となっている風景に見覚えがあります。
太宰治という作家をご存じでしょうか。昭和の初期から中期、戦後間もなくまで活動し、最期は愛人と共に玉川上水へと入水して死んだ作家です。
 その作家は晩年を東京の三鷹市という町で過ごしまして、いくつかの写真が残っており、没後約七十年を経た現在でもファンの多い作家ですから、少しネットで検索すると彼の写真が多く出てきます。
太宰治、陸橋、といったワードで検索していただくと、おそらくセツコさんはハっとするではないでしょうか。
 あなたがご両親と一緒に写っている写真の背景に、その陸橋が建っているのですから。
 少しでも力になれれば、と思い返信します。

                       香村龍』
 論文のネタに困っているところでもあった。新しい切り口。それを探していたのだ。
 戦後間もなく生まれたらしいこの老女という視点から時代を見つめれば、新たな切り口、論文の新しいネタとなるかも知れない。
 そんな小さな期待が、僅かにあった。

6

 大壺瑞樹という十九歳の少女がこの病院へと搬送されたこと、そして自分がその父親であることを告げた。落ち着き、理路整然と話したつもりだったが、受付の看護事務らしき中年の女はどこか当惑したような表情を浮かべ、端末を叩き始める。
「今、別の者がご案内しますね、そこにかけてお待ちください」
 受付のカウンターを離れ、長椅子に腰を降ろす。息を吐いた。疲労と焦りの入り混じった、熱い息が出てくる。
 虎ノ門病院の外来受付。さほどの距離ではない。広尾にある赤十字医療センターからはタクシーで眼と鼻の先だった。
「大壺さん。大壺誠司さん」
 待っていると、声をかけられた。白衣を着た医師だ。顔を覆う白いマスクのせいか、年齢は推し量れない。眼鏡をかけ、年齢によっては眼尻に寄る皺も、そのフレームに隠されていた。
「別室へ案内します。こちらへどうぞ」
 一度黙礼し、医師が背を向ける素振りを見せた。大壺は足早にそのあとを追う。広いフロアを突っ切り、待合室らしき部屋に通された。医師がドアを開き、その中で妻が姿を現す。椅子に座り、俯き、その顔が、こちらを見上げた。
「あなた」
 妻が立ち上がり、駆け寄ってくる。
「お医者さんからね、説明があるから。よく、よく聞いてね」
 視線を妻から外すと、医師の他に、待合室の中にはもう一人、男が立っていた。若い。まだ三十そこそこだ。髪を茶色に染め、沈痛な面持ちで立ち、会釈を寄越す。
「こちらは」
 訊くと、マネージャーの長谷川さん、と妻が答える。医師が口を開いた。
「外してもらえますか」
 部外者と見なされたようだ。茶髪はもう一度会釈を寄越し、部屋を出た。娘は高校の三年から芸能活動を始めている。妻はその活動に反対の姿勢を取っているが、仕事はそれなりにあるらしく、大壺も駅のホームでページが開かれたまま捨てられている雑誌でその水着グラビアを眼にしたことがあった。
 扉が閉められ、医師がマスクを外した。歳は大壺とさほど変わらないだろう。眼鏡のフレームが蛍光灯の光を銀色に反射していた。
「奥様にはすでに説明しましたが」
 と前置きし、医師が説明を始める。
「結論からいいます。急性骨髄性白血病です」
 脈動があった。娘が倒れ、救急搬送されたのは、単なる貧血か過労かと、どこかで楽観視している自分と、それを期待する自分がいたのだ。急性骨髄性白血病。いわゆる、血液の癌と呼ばれる病だ。
「娘は今・・・」
 かろうじて口を開くと、医師が答える。
「現在は集中治療室です。鎮静剤が効いてますから、安静にしています」
 傍らの妻に顔を向け、訊いた。
「大学で倒れたのか」
 妻が頷く。眼が充血していた。寝不足などではない。胎を痛めて産んだ娘に降りかかった災難に、涙をこらえているのだ。
「甲状腺異常の所見が見られました。すぐに精密検査をしましたが。病名はさきほど申し上げました通りです」
「これからどうなるんです、娘は」
 医師に向き直り、大壺は訊いた。
「いくつかの治療方針を見当します。まずは化学療法です。これを行いつつ、同時に骨髄バンクに問い合わせます。もしHLA型の適合する方がおられた場合、骨髄移植へ向けて早急に準備を進めます」
 大壺が医療関係の職に従事していることを知っている語り口だった。妻が話したのか。HLA型とは、つまり血液型の骨髄版だ。
「それでもし、適合するドナーが見つからなかったら」
 いい、大壺は先を促した。医師が即答する。そこに歯切れの悪さなどはない。
「放射線治療などもありますから、そちらも検討します。それに、特に珍しい病気ではありません。かつては不治の病として定義されていた時代もありましたけどね、それも私が医者になる前のことですよ。ドナー候補となる方の登録数も増加傾向にありますから」
 言葉は楽観的な含みを持っていたが、表情は硬い。
覚悟はしておいてくれ。
 医師の眼が、そういっているように大壺には見えた。

7

 VIPルームの中に、濃い煙が漂っている。煙草のそれもあったが、喫煙している者はこの中ではわずか二人だけだった。紫煙の大半はボング―水パイプの一種だ―から放たれたそれであり、ルームの外では大勢の男女が大音量のトランスに合わせ、踊り狂っていた。
「幸子ぉ、効いてきたかぁ?」
 プロダクションの関係者である男が訊く。男は雨宮莉緒という名で芸能活動を行う幸子のマネージャーだった。ルーム全体が焦げ臭い。神泉にある『ラ・コロンバイア』というクラブだった。
「うん、効いてる・・・効いてる」
 男はソファに寝そべり、幸子も似た体勢をとっていた。他に大麻を吸った者たちも同様だ。アルコールなどでは味わえない独特の安堵感。それでいながら耳はある種の冴えを見せ、ルームの外で流れるトランスに反応している。ルームは八角形をしており、マジックミラーとなっているガラスは全て防音だった。スタジオのレコーディングルームにも使われる素材だと聞いたことがある。幸子も雨宮莉緒名義で曲を出したことがあり、レコーディングも行ったが、レコーディングブースの外、ミキサーの類が置かれた部屋に入ったことはなく、曲もさほど売れず、それがもう十年近くも前だろうか、以来幸子は女優業に専念していた。
 女優を志し、名古屋からこの東京に出てきたのは十九になったばかりの春だった。きっかけはスカウトだ。あとで聞いた話だが、女優の卵を発掘するスカウトは東京、それも渋谷や原宿といった若者の多い街で行われているらしく、高校生だった幸子には縁のない世界だったのだが、たまたま休日に同級生と大須で買い物をしていた幸子を、これもまた別の仕事でたまたま名古屋を訪れていた芸能関係者がスカウトしたのだ。秘かに芸能界への憧れを抱き、高校卒業後は上京し劇団にでも入ろうかと考えていた幸子には渡りに船だった。二年ほど水着での仕事が続いたが、ある虫刺され薬のテレビコマーシャルが話題となり、雨宮莉緒の名は多くの国民が知るところとなった。曲こそ売れなかったものの、その後はコマーシャルやテレビドラマの仕事が多く舞い込み、やがて幸子は水着になる歳を過ぎた。
 パニック障害を患ったのが、二年ほど前だ。多忙なあまり眠る時間も充分に取れない時期が続き、発作を起こした。診断した精神科医の比喩が興味深く、面白くもあり、よく憶えている。敵地に侵攻した軍は前線の兵士と後方の兵士を定期的に入れ替えるのだという。でなければ、前線の兵士は常に命を危険に晒すこととなり、やがて不眠を訴え、心を病んでしまうそうだ。それを避けるために司令官は部隊を戦線と後方支援に分け、それらを定期的に交代させつつ敵地を攻めるのだ、あなたは忙しいあまりに前線に配置されたままの状態が続いている、仕事を減らして休みなさい、休業も視野に入れて。
 医師はいい、いくつかの向精神薬を処方したが、仕事が減ることはなく、むしろさらに増加した。
 先月、初めての舞台となる公演の稽古場で深刻な発作を起こし、とうとう幸子は病院へと搬送されてしまった。やはり診断は過労によるパニック障害および抑鬱。続けていた無理が祟った形だ。
 舞台は代役を立てることで無事に進行しているらしいが、一方で幸子は酒を飲み、また酸素カプセルに入り、自宅でアロマを焚き、と短時間でリラックスしつつ休む手段を模索した。どれも上手くいかず、そしてマネージャーに連れてこられたのがこのクラブだった、というわけだ。VIPルームで提供されるフレーバー入りの水煙草を売りのひとつとしているが、金さえ払えば秘密裏に仕入れが行われるマリファナを楽しめる。この店へ来るのは六度目になるだろうか。マネージャーやその取り巻きたちと八角形をした部屋に入り、ボングで大麻を吸えば、たちまち意識が輪郭をなくし、全身が弛緩する。
まだ仕事は舞い込み続けていた。大麻の効きが食欲へと働けば妙に腹が減り味覚も鋭敏になるため、食い物が美味い。体形を含む容姿の維持も女優業の仕事である。効き始めると湧き出る食欲は無視し、食事の制限だけは厳格に行う。そこにだけは注意していた。
不意にドアがノックされた。八角形をしたガラスのうち一枚だ。ソファに凭れていたマネージャーがゆっくりとした動きで身を起こし、ドアへと近づく。その眼が大きく見開かれた。
「おい!逃げろ!」
 マネージャーが叫び、ドアから離れたが、まだ効いているのか足元がおぼつかない様子だ。二本の脚をもつれさせ、マネージャーは幸子の方へと寄ってくる。薄暗く、煙るルームの中でも、その瞳孔が拡散しているのが見えた。逃げろとはいうが、この閉鎖された空間のどこへ、あるいはどこから逃げろというのか。だいたい、何が起きたのかわからない。ドアノックが強さを増した。ノックというより、殴りつけている音だ。開けろ、という言葉がミュートされつつも聞こえている。来た。警察だ。同じく大麻を吸っていた他の連中もソファから立ち上がり、ルームの中で動揺し、おぼつかぬ足取りで右往左往している。彷徨っている、といった方が適当だ。
 開けろ、開けないなら叩き割るぞ、という声がした。警察だ、という声も。
「へっ」
 マネージャーが笑う。
「好きにしろって感じだな。オレたちの店でもないしオレたちの部屋でもないし」
 錯乱でもしているのか、妙な開き直りを見せている。
 ただ一人落ち着いているのが、幸子だった。
 薬物事案。逃げ道はない。
 終わった。
 女優としての復帰は難しいだろう。
 幸子は、観念していた。

8

 初めは気丈に振る舞っていた娘も、抗癌剤の投与が始まると激しい副作用に苦しみ、眼からは生気が失せ、言葉を発することすら珍しくなった。ニット帽を被っているが、その下では髪が抜け落ち、まだらな禿げ頭になっているのを、大壺は何度か見ていた。娘はその様を見せたがらない。娘が妻と俯き加減に話しているのを大壺は垣間見たが、あの美しい娘が禿げていることに動揺した。娘がこうして病床に伏し、娘が多感な時期を迎えてから皆無となった父子の会話が増えたことは皮肉としかいいようがない。
 面会の時間が終わり、大壺と妻は診察室へと呼ばれた。主治医を名乗る医師が代わっている。若い男の医者だった。まだ三十を過ぎたかどうか、といったところだ。
「現在投薬中ですが、同時に骨髄バンクへの問い合わせを行いました」
 若い医者がいう。大壺は黙り、先の言葉を待った。隣から、妻の焦れる気配が伝わってくる。
「結果からいいますと、現在骨髄バンクに登録されている方で、瑞樹さんのHLA型に一致するそれをお持ちでおられる方はいません」
 そして、と医者が続ける。
「放射線治療なども検討していますが、根本的な治癒を望むのでしたら、それはもう骨髄移植しか手がないんです」
 いい終え、こちらから医者が眼を逸らした。
 どこかで期待していた答えを得られず、大壺は落胆を隠せなかった。大壺自身、骨髄と臓器という違いはあれど、移植に携わる職に就いている。骨髄バンクは各国に存在し、日本ではアメリカや中国、台湾などとも提携しているのだが、それでも娘に適合するドナー候補が見つからないというのか。妻が大壺の隣で嗚咽を漏らし始めた。
 この若い医者はどうやら、この事実を告げる役を他の先輩医師たちから押し付けられたらしい。
 内ポケットで携帯が震えた。仕事用の携帯だ。
「失礼」
 部屋を辞し、回線を繋いだ。
「大壺です」
「取り込み中すみません、大壺さん」
 臓器移植ネットワークのオペレーターが語る。
「以前大壺さんが脾臓を運んだレシピエントの件です。どうも移植後の経過がよくないそうで・・・」
 臓器の運搬だけがコーディネーターの仕事ではなかった。予後不良やそれに伴うアフターケアも行う必要がある。
「わかった。すぐに向かう。赤十字病院だったね」
「ええ。向かえますか」
「すぐにいく」
 回線を切り、医師の部屋へと戻った。
 医師に目礼し、仕事に戻らねばならない旨を告げる。
「あなた、こんなときに・・・」
 妻が咎めたが、語尾は消え入りそうだ。妻も理解している。大壺自身、移植によって多くの人を救う責務がある、ということを。
「すまん」
 ひと言詫び、車のキーを妻に渡す。キーを受け取るその手が、震えていた。
 病院を辞し、通りでタクシーを拾った。さほどの距離ではない。目指す先は、広尾にある日本赤十字医療センター、渋滞に巻き込まれさえしなければ、さほどの時間はかからない。
 駐車場にまで乗り入れ、カードで支払い、タクシーを降りた。通用口から病院内へと入る。係員に身分証を見せると、話が伝わっていたのか、集中治療室へと通された。移植手術を担当した執刀医が、こちらを待っていたようだ。
「予後不良です、大壺さん」
 開口一番、執刀医がいう。大壺は頷き、先を促した。
「免疫反応が過剰です。抑制剤の投与を続けていますが、改善の予兆はない、といわざるを得ませんね」
「どうします」
 大壺が訊くと、執刀医は答えた。
「摘出を検討しているところです。このままですと、危険ですから」
「それには私の同意も必要だ、と」
「そうです」
 執刀医が頷き、肯定した。
「大壺さんの、というより、臓器移植ネットワークの、といった方が適切ですが」
 いい足し、執刀医は眼を伏せた。
 無念なのだろう。簡単なオペではなかったはずだ。脾臓は他の臓器に比べ、定着率が低く、オペに要求される技量も高い。そうしてようやく移植した臓器が定着せず免疫細胞に攻撃され、摘出手術を余儀なくされる。だが、もたもたしている時間はない。このままでは、あの若者は助からないのだ。
「わかりました」
 どこか安堵を感じさせる息を、執刀医が吐いた。
「ありがとうございます」
 吐いた息混じりに、執刀医が礼を述べる。
「いつオペを?」
 大壺が訊くと、執刀医は即答した。
「すでに算段は整っています。明日の十一時、術式開始です」
 頷き、大壺は踵を返した。今日のところは引き上げだ。明朝、書類にサインを記せば、オペが始まる。
 頭が熱かった。発熱でもしているかのようだ。脳がオーバーヒート気味なのだろう。頭から、娘のことが離れない。そちらはそちらだが、こちらはこちらで切迫しているのだった。
 娘を救うため、そのために何か、何か手はないものか。
 気がつくと、大壺は大きく息を吐き、ロビーのソファに崩れ落ち、その体勢のまま黙考していた。
 不意に気配を感じ、大壺は我に返ると、気配を感じた先、背後に視線を走らせた。背合わせに配置されたソファ、その一つに大壺が突っ伏し、もう一つに黒いスーツの背が座っている。微動だにしないその背が、声を発した。
「どうされましたか?」
 顔をこちらへ向けるでもなく、黒いスーツが訊く。堪えていた嘔吐感を吐き出すように、大壺は吐露していた。藁にもすがる思い。もう、自分一人の中で留めてはおけなかった。
「娘が、娘が白血病で倒れまして・・・ドナー候補もいないそうです」
 吐き出すと、少し胸の辺りが楽になる。ぼろぼろと涙が零れ、言葉が奔流した。
「大学に入ってまだ間もないんです。芸能活動のようなこともしていて、マネージャーもいるようです。雑誌のグラビアにも出たことがあるくらいで・・・。妻は娘の芸能活動に反対していますが、私は中立です。しかしいずれにせよ、このままでは娘は助からない・・・」
 やはり背は微動だにしない。沈黙が降り、その重さに大壺が耐えかねた頃、背がいった。
「お仕事、しませんか」
 顔を上げる。やはり、黒いスーツがこちらに背を向けているだけだ。
「先日この病院で脾臓の移植オペが行われたでしょう。違いますか」
 何を訊きたいのだろうか。移植手術が行われたのは事実だが。
「あなたがここへやってきたのは、術後の経過が良くはなかったから。違いますか」
 この男は何者なのだろうか。何を知りたい?カマをかけてでもいるのか?
「近々、移植されたその臓器がレシピエントから摘出される。違いますか」
 頷いた。言葉を発したわけではない。だが、男はこちらの気配を察したようだった。
「その日、あなたは手術に立ち会いますか」
 首を横に振った。力ない動きになったが、相手には伝わっている。
「その摘出された脾臓を、冷蔵保存できますか。つまり、別のレシピエントに再移植できる状態で入手できますか」
 一瞬、この男が何をいっているのかわからなかった。理解するまでに、いくらかの間を要したが、不可能ではない。人を使えばいいのだ。だが、一体なぜ。
「娘さんを救う。そのきっかけを摑めるかもしれませんよ」
 男の言葉に、心臓が大きく脈動する。思わず、訊き返していた。
「救う・・・?」
 黒いスーツの背が僅かに動く。身じろぎに近い動きだった。
「きっかけですが。あくまできっかけです。今、答えをください。やりますか、やりませんか」
 わけがわからないまま逡巡していると、男が立ち上がった。背から声がする。こちらが呑む、と踏んだらしい。
「ではオペのあと、待合室で」
 男の背と後頭部が遠ざかる。
 髪の色素が薄い。そのブロンドの髪を頭皮に撫でつけていた整髪料の香りだけが残り、大壺は初めてその匂いに気づいた。

9

 テレビ画面の中、無数のフラッシュが焚かれている。画面右上には『雨宮莉緒 保釈』というテロップがあり、その下には湾岸署という文字も映っていた。
 幸子が逮捕されたことは知っていた。つい先日だ。渋谷区内の飲食店で仲間数人と大麻を吸引しているところを、以前から内偵捜査中だった厚労省の麻薬取締局と警察のチームに踏み込まれた、とのことだった。
「ただいま湾岸署裏口から黒いミニバンが出てきました。中には雨宮被告が乗っているものと思われます」
「雨宮さん!ひと言お願いします!」
「雨宮さん!」
後部座席の窓にはスモークが貼られ、そこに幸子が乗っているのだろう。コメントを求め、また無数のカメラを向ける報道陣を無視するかのようにミニバンが走り去るのを、テレビは映していた。
 幸子のことは龍もよく知っている。とはいえ、それは十年かそれ以上前のことだが。
 片想いをしていた。それこそ、小学校の頃からだ。小学校を出た後、中学も同じところへと通った。高校こそ別だったが、それでも街で別の誰かとデートしている幸子を見た龍は、その度に悔しい思いをしたものだ。中学の頃、幸子にはすでに恋人がいた。それも、何人か入れ替わり立ち代わりしたと記憶している。幸子と誰それが付き合い始めた、という話を聞く度、自分も想いを打ち明けようかと本気で悩んだ。
 たぶん、遅くとも高校の頃に、幸子は誰かに処女を捧げたのだと思う。
龍の両親が一度に死んだとき、幸子は学級委員長としてクラスを代表し、担任の教諭と共に葬儀へと出てくれた。
「がんばってね」
 それは、おそらく両親から、あるいは教諭からそういうように助言を受けての言葉だったのだろうが、その言葉を受けた龍は当惑した。突然にして親を両方とも失い、何がなんだかわからぬうちに通夜が済み葬儀が終わり、その去り際に幸子はそういったのだ。何をがんばれというのだろう。幼い頃から片想いを寄せる相手からの言葉だったこともあってか、龍はその言葉と、その言葉をこちらへと寄越した幸子の様子が、十数年経った今でも忘れられないのだった。
 幸子と最後に会ったのは十年前だ。あれは高校の卒業式が終わった翌日だった。高校こそ別々だったが、中学時代を共に過ごした同級生たちがカラオケボックスに集まることで開かれた同窓会だった。
 ある者たちは地元である名古屋で就職し、ある者は他の都市へと就職を決め、またある者たちは海外へと旅立つことが決まっており、龍を含めた数人は東京への進学が決まっていた。
 その中で、幸子は就職するでも進学するでもなく、女優の卵かアイドル候補か龍には知れぬところだったが、上京と芸能界入りを決めていた。大須の街でスカウトされたのだという。
 あの同窓会以来会っていないが、幸子の活躍は普段ほとんどテレビを見ない龍でも知っている。グラビアアイドルから始め、今や映画や舞台の主演を張るトップクラスの女優なのだ。雨宮というのは本人の姓だが、莉緒というのは芸名だ。誰が名付けたのかは知らない。
 同じ東京で暮らしているのに、遠い存在になってしまったな。あれから十年、幸子は熱愛報道こそなかったものの、きっと多くの男に抱かれたのだろう。枕営業だって強いられたかも知れない。そうまでして積み上げたキャリアを、たった一度の過ちで棒に振ってしまった。雨宮莉緒、大麻取締法違反で逮捕。龍が見ているのは、その続報だった。
 携帯が鳴る。テレビを消し、液晶をタップした。セツコ・オズボーンからの返信が届いたことを、メッセンジャーのアイコンが示している。龍が返信を送ってから、一週間と少しが経っていた。
『お返事ありがとうございます。あのメッセージを送ってから、いくつもの返信をいただきました。返信をいただいたのはありがたいことでしたけれど、そのほとんどが「がんばってください、応援しています」といった内容のお返事でした。こうして有力な情報をくださった方は、香村龍さんだけです。
 お返事をいただき、太宰治と、彼の愛したその陸橋を検索しました。驚きましたよ。とても多くの写真が出てくるのですから。
 あの陸橋です。きっと間違いはないと思います。まるで同じ陸橋、まるで同じアングルで私と両親が写っています。
 この歳になり、私には夢ができました。
 両親とその経緯を辿る、といった夢です。それは、日本でしかできません。
 近々、日本を訪れたいという強い願いがあります。
 わがままをいうようですが、もし、もし香村さんにその気がおありでしたら、私がその経緯を辿ることに帯同していだだけないでしょうか。私には、日本に知り合いがいないものですから、香村さんしか頼れる人がいないのです。
 ご一考していただけましたら幸いです。
 それなりのお礼をするつもりですし、かかる費用も全て私が持ちます。
 何せこの歳まで働いてきて、さらに年金までもらっていますから。
                    セツコ・オズボーン』

10

 タクシーの運転手がブレーキをかけた。雨が降り続き、窓の外、街が滲んで見える。西麻布交差点の手前から、渋滞していた。焦れた萌奈はここでいいという旨を運転手に告げた。
「もう少しですよ、お客さん」
 選んだわけではなかったが、運転手は中年の女性だった。珍しくはない。女性のタクシー運転手も増えている。
「ううん、もうここでいいです」
 カードで支払いを済ませ、車を降りた。傘を差し、歩き出す。ありがとうございました、と運転手がいい残し、後部座席のドアを閉じたタクシーが走り去る。夜の九時が近かった。
 西麻布交差点へと歩き、途中で誰かの傘とこちらの傘がぶつかる。
「すみません」
 詫びると、萌奈はさらに歩いた。傘を落としたのは、一組のカップルだった。
「皐月萌奈じゃね?」
 男の方が呟くようにいった。
「え?マジで?」
 女の声を背に、萌奈は歩き続けた。西麻布交差点を超え、游玄亭の明かりが見えてくる。大手焼肉チェーンの高級店だ。
 スタッフに案内され、座敷に通された。
「おお!来た!来ましたよ、田端さん!」
 声を挙げたのは、出光というピン芸人だった。毎年この男はある雑誌で発表される抱かれたくない男ランキングの上位常連だ。独身。萌奈をこの場に呼んだ張本人だった。
「失礼しまーす」
 座敷に上がると、田端というこれもまたピンの芸人が座る席の隣へといざなわれた。
「おうおう、こっちこいや、萌奈ちゃん」
「は、はい。失礼します」
 隣へ座ると、何を飲むか、と田端が訊いてくる。ウーロン茶を、と答えた。
「何をいうてんねん、ワシの誕生会やぞ、酒飲まんかい、酒ぇ」
 すでに酔っているらしい。
 田端は関西の大手芸能プロダクションに所属する大物芸人であり、名物司会者だ。その誕生日パーティーに、萌奈は出光から呼び出されたのだった。
「なあ萌奈ちゃん、売り出し中やねんなぁ」
 慣れ慣れしく膝を撫でてくる。鼻の下が伸びていた。還暦に近い歳だが、髪は黒々とし、アルコールで顔は赤らんでいるものの、刻まれた皺は浅く、数も少ない。
「皐月萌奈です、よろしくお願いしまーす」
 恐る恐る挨拶すると、場が拍手に囲まれた。座敷には田端と出光の他に、数名の芸人やテレビ関係者がいる。十人と少しで催されたパーティーだった。
「いくつだっけ、萌奈ちゃんは?」
 出光が訊く。こちらも顔が赤らみ、鼻の下を伸ばしている。
「十九です」
 グラビアの仕事が減り、ようやく役者としての仕事やバラエティ番組への出演が増えてきたところだ。萌奈の歳を聞いた周囲が、その若さに感嘆の声を挙げる。
「なあ萌奈ちゃん、ワシに抱かれとかへん?」
 半分は冗談なのだろうが、場が笑いに包まれる。テレビ出演も増えてきたが、田端との共演はまだなかった。出光が赤ら顔でいい足す。
「いやマジで萌奈ちゃん、これ冗談じゃないからさ。このチャンスをモノにしといた方がいいよ!」
 冗談じゃないからさ、というその台詞に心臓が脈動した。
 来たか、枕営業。
 隣に座る還暦近いオヤジが見つめてくる。
 いやだった。それこそ、冗談じゃない。
 しかし、確かにチャンスといえばそうだった。
 業界内で、田端は若い女性タレントを食うので有名だ。事実、萌奈は暗澹たる気持ちでこの店まで来たのだった。
「抱かれといて損はないで、萌奈ちゃん」
 低く田端がいい、眼尻を細めた。
 テーブルの上、萌奈の前に、名刺サイズの紙が置かれている。連絡先らしきアドレスと、090から始まる電話番号が記されていた。

11

 電話が鳴った。いわゆる黒電話というやつだ。喫茶店を改装した教会内に、そのベルが響き渡る。武藤は受話器を取り、ここが教会であることを告げた。
「阿南だ」
 六本木や西麻布といった街をシマとする暴力団、侠撰会の男だった。かつては武藤の上司だった若頭だ。武藤はとうにその世界から足を洗ったつもりでいるのだが。声は相変わらず、無機質なそれだった。
「どうされましたか、阿南さん」
「いや、元気か、と思ってな」
「祐樹がですか、それとも」
「両方さ」
 武藤は答えた。
「元気ですよ、祐樹も、私も」
 阿南が何か、いい淀んでいるのが回線越しにも伝わってくる。短い沈黙のあと、阿南がいった。
「話があるんだ」
 こちらにはないのですがね、という言葉を飲み込み、武藤は答えた。
「何の話です?」
「電話では、ちょっとな」
 逡巡している。仮にも、武藤はすでにやくざではなく、また、阿南は自身がやくざであり、ここが教会であることを理解しているのだ。
「そっちへいくのは迷惑だろう」
 阿南がいう。
「そうですね・・・」
 武藤が答えを濁すと、阿南が提案した。
「西麻布のBARを憶えているか、武藤」
「西麻布、ですか」
「ああ。『MIST』という店だ」
 憶えている。元は筋者だったという男の営る酒場だ。
「憶えていますよ。あの地下にある店でしょう?」
「そうだ。明日の夜、そこで会えないか」
 武藤は押し黙った。あまりいい話ではないだろう。少なくとも、武藤にとっては。だがこちらの返答を待たず、阿南がいい重ねた。
「じゃあ明日の夜十時にそこで待ってる」
 息を吐き、武藤は答えた。
「そうですか」
 いくとも、いかないとも、答えていない。
「ああ。待ってるぞ」
 回線が切られた。武藤は受話器を置き、教会内を見回した。静謐なはずの空間に、歪な罅のような何かが忍び込んだように思える。阿南の発した最後の言葉は、恫喝と取れなくもなかった。
 着替えを持ち、教会を出ると、大勢の男たちが発する統率の取れた礼の声が聞こえた。
「本日は、ありがとうございました!」
 眼をやると、ロアビルに隣接したビルのエントランスでキャバクラのボーイたちが一斉に深々と頭を下げている。応えるでもなく、白いスーツを着たスキンヘッドの肥満体が取り巻きに囲まれ、待ち受けていたベントレーの後部座席に乗り込んだ。侠撰会の会長、磯部という男だ。いまどき、これほどわかりやすい格好をしたやくざも珍しい。組織のトップへと昇りつめるまでに、何度か服役したと聞いている。かつて侠撰会に籍を置いていた武藤も、直接的に口を利いたことはない。運転手が後部座席のドアを閉じ、ベントレーが夜の六本木を走り出した。途端、場の空気が緩む。ボーイたちの吐息まで聞こえてきそうだ。侠撰会の会長、磯部。あの男が飲みにくると、フロア全体が静まり返るとも聞いている。
 武藤は自転車に跨り、広尾を目指した。時刻は午後十時に近い。
 広尾商店街の外れに、古い銭湯がある。祐樹と、洗礼を待つ者が数名、武藤を待っているはずだ。
 洗礼を銭湯で行うというのは、祐樹のアイデアだった。主人に事情を話し、こちらの素性を明かしたが、主人は初め、あまりいい顔をしなかったものだ。それまで洗礼はそれを望む者たちを連れ、はるばる多摩川にまで赴いていた。武藤の教えに共感し、幾度も勉強会に参加した末に洗礼を望む者は少なくなく、しかしそれを行う場にまでは距離があり、あまり機会を設けることができなかったのだ。
 銭湯の主人は短パンとタンクトップで浴槽に入ることよりも、そのとき露わになる武藤と祐樹の刺青に難色を示した。武藤にも、その背から両肩に見事な鳳凰が彫り込んである。店仕舞いをした後の一時間だけなら、と武藤たちの懇願を主人が聞き入れたのが半年ほど前だったか。以来回数を重ねるにつれ、主人は武藤と教会に理解を示し始め、現在に至る。
「どうも」
 番台の主人に挨拶し、脱衣所に入った。主人は金を取らない。代わりに、洗礼の儀式を終えたあと、使う男湯のフロア全体を綺麗に磨き上げ、風呂掃除を行うのが条件だった。
「武藤さん、お待ちしていましたよ」
 その日、洗礼を受ける四名と、祐樹が脱衣所で待っていた。あまり時間はない。
「ではさっそくやりましょう」
 武藤がいうと、四人の男たちが白い服に着替え始める。武藤は短パンとタンクトップに着替え、先に風呂場へと入った。
 四つある浴槽のうち、薬湯を含む三つの浴槽からはすでに湯が抜かれ、最も大きな浴槽にだけ湯が残されている。あとから武藤と似た格好に着替えた祐樹と、四人の白い服が風呂場へと入ってきた。
「では始めましょうか」
 初めに洗礼を受けるのは、一年ほど前から教会に通い始めた三十代の男だった。浴槽へと半身を沈め、その体を両脇から武藤と祐樹が支える。
「始めます」
 武藤はいい、唱えた。
「悔い改めなさい、イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、精霊の賜物を受けます。あなたは知らないのですか。キリストの内へ洗礼された私たちは皆、その死の内へと洗礼されるのです。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られることで、その死にあずかるのです。キリストが御父の栄光によって死者の中から復活せられたそのように、私たちも新しい命によって歩み出すのです」
 武藤の合図で、祐樹の腕から力が徐々に抜けてゆく。武藤も同様に、腕の力を抜いた。男の体が湯に浸され、そして武藤が再び腕に力を込めて引き上げると、湯の上に男の体が持ち上がり、周囲からささやかながらも祝福の拍手が鳴った。
「次は自分が」
 二人目の男が洗礼を受ける。そして三人目も、罪を洗い流した。
 三人目の男が浴槽から外に出る。四人目、最後の男が、明らかに迷いを見せていた。じっと浴槽を見つめ、そして眼を閉じ、また開いた。誰もが、その様を静観していた。
「どうされました」
 祐樹が訊いたが、武藤はそれを制し、告げた。
「無理はなさらなくていいのですよ」
 そして武藤は待った。この男にはこの男なりの罪があり、洗礼によってそれを洗い流すには、決心が要る。その決心がつかないのだ。頃合いを見計らい、武藤はいった。「やはり洗礼を受けない」とはいいにくいだろう。
「今日はこの辺りにしておきましょう」
 男の眼が、緊張から解かれたように弛緩する。
 長く息を吐き、男がゆっくりと踵を返した。

12

 窓にスモークを貼った黒いミニバンは湾岸署を出たあと首都高に乗ったが、どこをどう走ったのか幸子にはわからなかった。首都高を抜け、どこか別の高速に合流したあと、背後を付け回す報道陣の車を別の車―事務所の車だろう―が巧みにブロックし、後方にはちらほらと無関係な車両が走るだけとなり、タバコはあるか、と幸子は同乗する事務所のスタッフに訊いた。
「あるよ、ほら」
 幸子と同年代らしき男性スタッフがマルボロを取り出し、助手席からライターと一緒に寄越す。火を着け、幸子は煙を深く吸い込んだ。めまいがする。久々のニコチン。渋谷署から湾岸署へ移送され、尻の穴まで調べられ、それからさきほど保釈されるまで、当然だがタバコもアルコールも提供されず、絶たれていた。
「どこにいくの」
 運転手に訊いたつもりだったが、答えない。事務所で何度か顔を合わせた男だったが、名は知らなかった。代わりに助手席の男が答える。
「社長の別荘だよ。勝浦にある」
 しばらく経つと、海が遠く見えてきた。ミニバンは高速を降り、下道を走り始める。助手席のスタッフは、タバコの箱を返すようにとはいわなかった。
 保釈金はいくらくらいだったのだろう、というところに考えが至る頃、ミニバンが停止した。窓から、岸壁近くに立つ白い家が見える。車を降り、二人の男と共に家へと歩いた。玄関のドアが中から開かれ、これもまたいつか事務所で見た顔の男が出迎える。誰もが、険しい表情をしていた。
 階段で二階へ。ベッドとソファ、テーブルのある部屋に入り、助手席に座っていたスタッフがいい残した。
「じきに社長が来る。ここで待ってろよ。さほど時間はかからないだろうから」
 部屋のドアが閉じられ、幸子は一人になった。灰皿はない。タバコは我慢するしかなさそうだ。
 サッシを開いた。潮の香りが部屋へと入り込んでくる。快晴だった。署で返却された腕時計を見ると、昼の二時を周っていた。
 リラックスできていた。パニック発作は起きそうにない。テレビを点け、ソファに腰を降ろした。全てが終わった。そんな安堵感があった。
 テレビの中で、田端康孝という大物タレントがコメントしていた。報道されているのは、幸子の薬物スキャンダルだ。
「いや、もう、ショックのひと言ですわ。真面目な子やったのに」
 沈痛な面持ちで、向けられたマイクに田端が答えている。
 田端とは、一度寝た。恋愛関係にあったわけではない。いわゆる枕営業を強いられたのだ。ホテルの一室に呼び出されたのは何年前になるだろう。シャワーは浴びていったが、向こうは浴びていなかったのか体臭を放ち、ゴムもしてくれなかった。前戯もろくにせず、ほとんどいきなり股に割り入ってきたかと思うと、カクカクと腰を振り、ひと際大きく喘ぐと、幸子の下っ腹に白濁した粘液をぶちまけ、そしていった。もうええわ、帰りや。
 それ以来、どういう力が働いたのかはわからないが、幸子のバラエティ番組への出演が増えたのは事実だった。田端に抱かれたのは屈辱的だったが、無駄ではなかった、ということだ。
 だが、それもこれも、全て終わった。今幸子を包んでいるのは、やはり安堵感だった。苦労や屈辱が水の泡、という感はさほどない。
 ドアがノックされた。
「はい」
 返事をするとドアが開かれ、幸子の所属する芸能事務所の社長が入ってきた。仏頂面を顔に浮かべ、後ろ手にドアを閉じる。社長はテーブルまで歩き、テレビのリモコンを拾うと、それを操作し、テレビを消した。座れ、と顎でソファを示してくる。社長が先に座り、幸子はテーブルを挟み、差し向かいの形で腰を降ろした。趣味は釣り、ヨットといったマリンスポーツだと聞いている。肌はよく陽に焼けていた。この別荘も、社長の所有するクルーザーを係留できる造りとなっているそうだ。
「ご苦労だった、といっておく」
 開口一番、社長はいった。
「留置場に入れられたこと?それとも、ここ何年かのお仕事?」
 幸子が訊くと、社長はさらに表情を引き締める。
「両方だ」
 後者に関しては、これでもう終わりだ、という意味か。もう仕事は来ない、と考えていい。幸子が溜息を吐くと、社長も同様に深い溜息を吐く。そして、社長が口を開いた。
「保釈金くらいは面倒を見る。幸子のおかげで、うちは大きくなった部分があるから」
 でもな、と社長が続けた。
「違約金やら賠償金やら、そこまでは面倒を見切れない。テレビドラマ、CM、映画は上映中止になるだろうし、それこそ億単位の金を請求される。それは幸子、自分で何とかしてくれよ」
 億単位。血の気が引いた。幸子もそれなりに稼ぐようにはなったが、そんな大金は持っていない。実際、稼ぎの多くは事務所が持っていったのだ。いいたいことは山ほどあった。ここまで事務所に貢献していながら、いざとなると見切るのか。
「首、ってこと?だよね?」
 訊くと、社長が無言で頷く。冷静な様子を装ったつもりだが、社長の眼にどう映ったかはわからない。さらに訊いた。
「安田は?」
 あの夜、クラブのVIPルームで共に捕まったマネージャーの名だった。社長は首を横に振る。
「まだ署にいる。取り調べが続くんだろう。保釈金を払うつもりもない。奴も首だな」
 風が吹き、室内の空気が動いた。潮の香り。
「とにかく、うちとしてはもう幸子の面倒は見ない。同情はするよ。大変だったな。あとは独立でも何でもしてさ、これから生まれる借金、返していけよ。まあ仕事なんて来ないだろうけど」
 社長がポケットを漁り始める。タバコか。二年ほど前にやめたはずだが。こんな時となると、また吸いたくなるのだろうか。やめたはずのタバコがポケットに入っているわけもなく、社長は動きを止めた。
「あたしさ、どれくらいの額の賠償をさせられるんだろう?合計で」
 首を捻って見せた社長が答える。
「さあ、五億か十億か」
 その金額に、現実感がない。しかしこれから、間違いなくその金額が幸子にのしかかる。
「幸子、いい話があるんだよ」
 再び淀み出した空気に飲まれ、頭をもたげた幸子は顔を上げた。
「ブルーフィルムプロモーションから話が来てる」
 大手のAVメーカーだった。脱がし屋、と呼ばれる連中だ。
「ヌード写真集じゃ、とても稼げないし、払えない額だ。『雨宮莉緒、懺悔のヌード』とかさ。かといって、もう幸子に女優としての価値は、これはいいたくないけど、もうない。まともなやり方で返せる額じゃないんだ。わかるだろう?」
 とにかく、と社長が言葉を区切る。
「本日をもって契約を切る。幸子はフリーだ。自由に生きていけよ」
 冷たい口調だった。事務所のホープとしてあれほど可愛がってくれたのが嘘のように、社長は冷酷にいい放った。

13

 店仕舞いを済ませ、アルバイトを帰し、午前三時を周った頃、藤木は携帯の液晶をタップした。電話をかけたが、繋がらない。今夜はどこで飲んでいるのだろうか。堀のいきつけである『アップル』というラウンジにかけた。
「お電話ありがとうございます。アップルでございます」
「マサちゃんいる?」
 応対した黒服らしき男が訊き返した。
「マサちゃん、ですか」
 じれったい。こちらも常連でいるつもりなのだが。
「堀正彦だよ。ITの」
「ああ、はい。いらっしゃってます」
 返事をせず、一方的に回線を切った。
 セラーを開き、ワインを漁る。今夜は何を持っていこうか。
 ムートンロートシルトを選び、店のドアを施錠すると、藤木は六本木四丁目の路地を歩き始めた。街のあちこちで酔客がフラフラと右往左往し、中には嘔吐している者もいる。
 外苑東通りを突っ切り、七丁目に入った。金髪白人専門のラウンジが一階に入居するビルのエレベーターに乗る。七階のボタンを押すと扉が閉まり、箱が上昇を始めた。他にどの階にも止まらず、箱は七階で扉を開いた。姿を現した若い黒服が慇懃に頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
 藤木はこの店でほとんど金を払ったことなどないが、顔パスだった。黒服を無視し、フロアを歩く。所々のボックス席が埋まっていた。目指すは、最奥部に位置するVIP席だ。
「どうもこんばんは」
 薄暗い店内、藤木は会釈し、ロングソファの端に座った。堀はこちらを一瞥し、またホステスとの会話に戻る。黄色い声が辺りを包んでいた。
「ちょっとマサちゃん、シカトしないであげてよぉ」
 気を使ったのか、女の一人がいう。
「えー?この人誰ぇ?」
 別のホステスが訊いた。
「ワインバー営ってんのよ、この人」
 雑な紹介を受けたところで、藤木は紙袋からワインを取り出し、テーブルに置いた。貢物、といっていい。
「ロートシルトの07です、マサちゃん」
 藤木がいうと、ようやく堀が返事をした。
「いっつも悪いなあ、藤木」
 安い物だった。この男に連れられていれば、いつかは金になる。それも大金だ。そのおこぼれに与ろうと周囲に群れる男の一人である自覚はあった。情けないとも思わない。この男の周囲に群がる人間は一人や二人ではないのだ。
 人数分のワイングラスを黒服が運んできた。紅い液体がそれぞれのグラスに注がれる。
「おい、早くしろって。みんな待ってんじゃん」
 堀が急かし、黒服が苦笑いしていた。
 経営者にとっては大金を落としてくれる上客だが、黒服にとっては粗野で傲慢な、嫌われる客だ。怒りを押し殺す感情のコントロールも、黒服たちは仕事の内なのだと割り切っている。
「あ、いい香り」
 グラスを鼻に近づけ、嗅いだ女がいい、そして口に含んだ。他の女たちも同様だ。
「おいしい!」
 口々に女たちが感嘆の声を出す。何がわかるのだろうか。ソムリエの資格を持つ藤木にいわせれば、お笑いだった。
 堀は一度服役している。IT企業を起こし、長者となり、一時は時代の寵児として持て囃され、テレビで見ない日などなかったが、やがて経営する会社のひとつで粉飾決済を暴露され、揉めに揉めた裁判の末に実刑判決を受けた。額が額であり、そしてあまりに悪質だったために、執行猶予はつかなかったようだ。
 服役し、二年半の刑務所生活を経て出所したが、それでも大金持ちには違いない。こうして毎夜のごとく盛り場で豪遊し、女たちをはべらせている。出てきた直後は服役中の質素な食事によるものか、ずいぶん痩せていたが、今は腹周りを始め、全身にへばりついた贅肉が、その後の暴飲暴食を物語っていた。
「どうしたの、マサちゃん。飲まないの?」
 女の一人が訊いた。うん、と堀が答える。藤木に対するのとは声音も口調も違っていた。
「肝臓を壊しちゃってさ。医者に止められてんのよ、酒」
「えー、マジで?」
「うん。一時期は黄疸も出ちゃってさ、薄くだけど」
 堀の前に置かれたワインが手つかずのまま、僅かに波打っていた。
 昔、藤木は友人を肝不全で亡くしたことがある。精神を病んだ男だった。初めは向精神薬を処方されているだけだったが、ほどなくして昼間から大量の酒を飲むようになり、肝臓を壊して別の医者にかかる頃には手遅れだった。その両親によると、最期はほとんど意識がなく、肌にも眼にも濃い黄疸が表れ、肝臓が肝臓の機能を果たしていないと医師に告げられ、そして死んだという。
 人にも依るのだろうが、肝臓など簡単に壊れてしまうものなのだろう。沈黙の臓器。悲鳴をあげる頃には、もう手が施せない。
 ワイングラスの隣に、透明な液体の注がれた別のグラスが置かれていた。堀のだ。こちらもやや波打っている。
 水なのだろう、と藤木は見当をつけた。

14

 西麻布交差点を過ぎると、そのビルは見えてくる。午後十時。一階にはインド料理屋がテナントとして入居し、阿南の待つ店はその地下にあった。インド料理屋はすでに店仕舞いを済ませ、シャッターが下りている。武藤は階段を降り、黒く塗られたドアの前に立った。真鍮製のノブが蛍光灯の明かりを受け、光沢を放っている。
「いらっしゃい」
 照明が絞られ、店内は暗い。大きな影が低くいい、武藤を迎えた。影の主はこの店のマスターだ。元は筋者だったと聞く。昔はやくざ御用達の店だったが、今では歳を経たマスターの角が取れ丸くなり、若いカップルなども訪れる。客は一人だけだった。黒いスーツに身を包んだ坊主頭の男がカウンターのスツールに掛けている。阿南だ。こちらに背を向け、武藤が近づいても微動だにしない。距離を縮めると、黒いスーツの背にごく薄くストライプが入っているのが見えた。武藤はさらに歩み寄り、隣のスツールに腰掛け、阿南が口を開くのを待った。カウンターの上にはラフロイグの瓶とロックグラスが置かれ、阿南の前にあるそのグラスには琥珀色の液体が注がれている。ラフロイグはキープボトルらしい。
「久しいね、武藤くん」
 大きな影がいう。マスターだ。
「お久しぶりです」
 武藤がいうと、何を飲むか、とマスターが訊いた。たしか、宮家という名の男だ。武藤がこの店を贔屓にしていた頃より、さらに体の横幅が広くなっている。水で結構です、と武藤は答えた。ほどなくすると、武藤の前にロックグラスが置かれ、中で水に曝される氷に罅の入る音が鳴った。
 ラフロイグのロックを一口含み、阿南がようやく口を開く。
「福島に何人送った、武藤?」
 唐突な問いに、武藤は即答しかねた。十年前の話だ。もうそれだけの時が経つのか。たかが十年だが、遠い昔のように思える。回想し、思い出せるだけの男を数え、武藤は回答した。
「七、八人、といったところですね」
 十年前、大きな地震があり、この東京も揺れた。全ての鉄道が運行を取りやめ、ただでさえ酷い渋滞がその密度を増し、人は道に溢れた。東北の地が津波に襲われ、多くの死者が発生し、福島の原発もその被害に見舞われた。炉心は溶融し、メルトダウン。放射能漏れを起こし、その復旧作業を行うため、仕事を求めて福島入りし、原発作業員となる者が多くいた。
 その土地へ、武藤は何名かの多重債務者を送り込み、それをシノギとしていた時期がある。浴びることの許される放射線量には限りがあるため、何名かの男に繰り返し別の戸籍と身分証を与え、働かせた。だが、昔の話だ。武藤はあれからヘマをやり服役し、何年も前にその世界から足を洗った。今では教会の神父だ。
「荒武、という男を憶えているか」
 阿南が訊く。記憶は遠い彼方に霞んでいた。顔も名もいくつか心当たりはあったが、一致しない。
「いえ」
 武藤が答えると、阿南が続ける。
「飛んだそうだ」
 飛ぶ。行方をくらます、という意味だ。
「原発入りしちゃ戻り、また入っちゃ戻りしていたようだがな、白血病にでもなるのが恐ろしくなったんだろう、消えたそうだ」
 さらに一口ラフロイグを含み、阿南が語る。
「その荒武によく似た男が目撃されてる。つい先日だ」
「どこで、です?」
 武藤は訊いた。
「田無さ」
 東京の郊外にある街の名だ。武藤には土地勘などない。
「うちのさらに下、西の大本から数えて六次団体からチクリがあった。武藤、お前が送り込んだ男かも知れん。福島にな」
 そうですか、としか武藤は答えられない。その話が今になり、なぜ自分に。武藤は水を啜り、抗議のニュアンスを込めつつ、いった。
「その荒武とかいう男がどうしたんです、阿南さん。私はもうやくざではないんですよ」
「よくいうよな、そんなものを背負って」
 阿南がグラスを干し、手酌でラフロイグを注ぐ。
「磯部会長からのお達しだ、武藤。その男が荒武かどうか確かめてこい」
 息を吐き、武藤は答えた。
「何度もいわせないでください、阿南さん。私はもう堅気ですよ」
 阿南が微笑する。
「武藤。いったろう、会長のお達しだ、と。お前、断れないぞ。断れば、この界隈にはいられなくなるだろう。それに・・・」
 阿南がさらにラフロイグを含む。飲み下し、いった。
「お前は十字架を背負っているつもりだろうが、それは違う。お前が背負っているのは刺青さ」
 連絡を待っている、といい残し、阿南が席を立った。黒いドアを開き、店を出てゆく。
 武藤は体勢を維持したまま、苦悶していた。

15

 ソファの上で撮影が始まった。男優が口をつけてくる。舌が幸子の歯を押し開き、こちらの口内を舐めまわす。同時に、決して豊かではない乳房を揉まれていた。男優は、つい数時間前に会ったばかりの男だ。その世界では有名な男らしいが、幸子はその男の名を初めて知った。カメラが周囲を這い廻る。ディープキスをしたままキャミソールを脱がされ、ブラのホックも外された。乳が露わになる。男優が幸子のそれに吸い付いてきた。撮影が始まる前から男優は黒いブリーフしか身につけておらず、その中央部が大きく隆起しているのが見える。
 裁判の判決を待ち、執行猶予がつき、散々苦悩したが、ようやく幸子は書類に署名捺印した。脱がし屋の仕事は巧妙だ。半ば脅しにかかってくる。薬物スキャンダルのせいで幸子が背負う借金は総額六億円を超え、それを支払うには、もうカメラの前でセックスするしかない。悩みに悩んだ。その映像は、永久に残るのだ。
 男優がブリーフを脱いだ。巨大な性器が幸子の前に現れる。
 監督の合図で、幸子は性器を口に含んだ。喉の奥まで達するほどの長さがあり、さらに太さもある。えづきつつも口淫していると、性器の硬度がさらに増し、男優が喘ぐ。
 事前に着けるよう指示されていた紐パンを剥ぎ取られた。男優が尻の穴もろとも性器にむしゃぶりついてくる。執拗だった。こちらが濡れるまで愛撫を続けるつもりだ。カメラがその様に迫る。
 いつの間にかコンドームを着けていた男優の性器が幸子の陰部へと押し入ってきた。
 カメラの前でセックスしている。その映像が、大勢の眼に晒される。あたし、まともな女じゃなくなっちゃった。
 幸子の涙になど構わずカメラは回り続け、男優が腰を振り、さらに喘ぐ。体位を何度か変えたあと、白い粘性のある熱い液体が、幸子の顔にぶちまけられた。

16

 黒いスーツから振り込まれた金のうちいくらかを見習いの若い医師に渡してあった。あとは脾臓摘出手術と、その脾臓がこちらの手許に渡るのを見届けるだけだ。
 執刀医が術式開始を告げる。麻酔科医ともどもベテランの医師らしく、外科医は手際よくメスで肌を裂き、脾臓を摘出した。代わりの臓器は、ない。移植を待ち続けた若い患者は折角のチャンスをモノにできず、また移植の順番を待つ生活へと戻る。摘出された脾臓が運ばれていった。大壺はもう、手術の行く末になど興味を失い、臓器移植コーディネーターとして立ち会う権利を得ているものの、その視線は患者ではなく、摘出された脾臓の行方にあった。
 臓器を移植するのに比べれば、適合しなかった臓器を取り除くのは簡単な手術といえる。もともとそこにない物が収まり、それを取り出すだけだ。
 赤い臓器がシャーレに似た銀色の容器に置かれ、下っ端の医師に手渡された。通常なら、医療廃棄物として処理される脾臓。それを回収し、あの黒いスーツの男か、その使いに渡す。仕事は、それだけだった。
「失礼」
 そう告げ、大壺は手術室を出た。摘出された脾臓はすでに手術室から出され、予め大壺が見習い医師に渡した臓器保存及び輸送用の箱に収められているらしい。その箱を、見習い医師が白衣を着た二人の男に手渡しているところだった。
 白衣の二人が小柄な見習い医師の頭越しに、こちらを見る。一メートルほどの間しか開いていない。白衣、マスク、頭部はやはり、白い医療用キャップで覆われている。人相は完全に隠されていた。
「ご苦労様」
 白衣のうち一人がいい、もう一人が頷いた。そして踵を返し、箱を手に去ってゆく。大壺の隣で小柄な見習い医師が、こちらを見上げていた。
「これで、いいんですか」
 見習い医師が訊く。手術室では、すでに患部の縫合に入っているはずだ。
「ああ。金は渡しただろう?」
 頷いて見せた見習い医師に、大壺はいい重ねた。
「他言は無用だ」
 若い医師の気配から、緊張の色が察せられた。
 大壺は廊下を歩き始め、白衣を脱ぎ、脇に抱えた。目指すは、この手術室から最も近い待合室だ。
 ノック。返事はない。大壺は扉を押し開き、中へと入った。こちらに背を向ける形でソファに掛けていた黒いスーツが立ち上がり、大壺を迎える。
「これで、いいんですね」
 未だ名乗りもしない黒服を見つめ、大壺は訊いた。先ほど若い見習い医師が発した台詞と似ていることに、大壺は気づいた。同じく、動揺しているのだ。何か後ろ暗いことをしている自覚は大きく、また確かだった。
「ご苦労様でした、大壺さん」
 流暢な日本語だったが、黒いスーツの男は白人だった。臓器関係ではあるのだろうが、具体的に何を生業としているのか、その身なりからは推測できない。こんな外国人、六本木や西麻布にいけば掃いて捨てるほどいる。流暢ながら、こちらを労う言葉に抑揚がなく、飽くまで事務的な礼と取れた。
「成功報酬はもう振り込まれています。振込人の名義は架空の法人になっていますが」
 少し驚くような額を掲示され、大壺は話を飲んだのだった。前金のうち、使った下っ端医師に渡した金額は僅かだったが、さらに振り込まれているという成功報酬は、かなりの額だ。それでも、仮に娘を渡米させ、現地で治療を受けさせるにはとても足りないが。
「あの脾臓は・・・」
 大壺が訊くと、白人は僅かに首を傾げた。青い眼がこちらを見据えている。白人が答えるまで、やや間があった。
「ある程度の想像はつくでしょう。しかしあなたの知るところではありませんよ、大壺さん。少なくとも、今は」
「今は、ですか」
「ええ」
 意味を計りかねた。
「また、力を貸してくださいますか、大壺さん?」
 黒いスーツが問う。迷った。危ない橋には違いないのだ。
「大壺さん、あなたが得たのは金だけではありませんよ。娘さんを救う、その足がかりかも知れません」
 意味深なことを抑揚なく発声し、白人はこちらに歩み寄ってきた。
「娘が、助かるんですか」
 白人の歩みは斜めに進行し、大壺とすれ違う形となった。
「あなた次第です、大壺さん」
 すれ違い様、白人はいい、待合室のドアへと歩いてゆく。振り返り、大壺は訊いた。
「あの、名前を」
 青い眼がこちらを睨む。何かを咎めるような眼つきだった。訊くべきではなかった、と大壺が悔いたとき、白人が答えた。
「ミニッツ。私はジェイコブ・ミニッツという名で仕事をしています」
 それでは、といい残し、ミニッツはこちらに背を向け、ドアを開き、その背をドアの向こうに消した。

17

 勉強会は週に二度、火曜と木曜に催している。武藤から始まり、順に聖書を朗読し、それに武藤が解説を加える形だが、この日は新しい顔が二、三あった。自己紹介も兼ね、武藤は講和を始める。
「新しくいらっしゃっている方もおられますね。改めまして、祭祀の武藤です。よろしくどうぞ」
 会釈すると、フロアが拍手で満たされた。場は和やかな空気に包まれている。
「ここで助手を務めます春日祐樹くんもそうですが、私も元、暴力団員です」
 冗談めかし、武藤はいった。再び拍手。祐樹は照れているのか、しきりに頭を下げていた。
「現在ではまるで繋がりなどありませんけれど、かつて私はこの六本木界隈を治める指定暴力団、侠撰会の若頭補佐、という役職にいました。春日もまあ、似たような経緯を辿って今に至ります。覚醒剤で服役して、出てきたら親に泣かれて、極道を辞めたわけです。まあ、その辺りを説明するとと長くなりますので割愛しますが」
 講和が終わり、聖書の朗読を終え、その場は解散となり、ちらほらと場を去る者の姿があった。多くの者は世間話に花を咲かせ、そしてやはり、場をあとにする。武藤は場を祐樹に任せ、居住フロアに移った。聖書の朗読を行ったフロアが徐々に静けさを取り戻すのがわかる。
 祐樹が武藤を呼びに来たのは、その場が解散となってから三十分ほどが経った頃だ。
「神父」
 どうした、と武藤はコーヒーを淹れつつ訊いた。
「告解室に」
 誰かが入った、という。
「わかった」
 今日はどんな罪を懺悔されるのか、それとも、単なる人生相談か。まずは聞いてみなければ話にならない。武藤はフロアに取って返し、告解室に入った。
「お待たせしました、祭祀です」
 武藤は告げ、相手の言葉を待つ。促すでもなく、ただ待った。しばしの沈黙のあと、ようやく衝立の向こうで声がした。
「あの・・・」
 何かをいい淀んでいる。女の声だった。
「ゆっくりでかまいませんよ。お話したいことが頭の中でまとまるまで、私は待ちますから」
 小さな溜息が聞こえる。安堵の息か。
「あの、神父さんと牧師さんって、違うんですか」
 ええ、と武藤は答えた。
「要は司祭ですね。私の教会はプロテスタントではなくカトリックですから、牧師ではなく神父、私のことですが、神父がいます。マリアは聖母として敬われますし、礼拝はミサではなくて、飽くまで礼拝です。司祭は独身ですし、手で十字を切ります。そして家計は・・・苦しいというのが本音ですね」
 最後は苦笑混じりだった。衝立の向こうで、張り詰めていた空気がようやく綻んだようだ。
「あの、ここで勉強なさってる他の方に伺ったんです。神父さんが、何でも話を聞いて下さる、って」
 女がいう。はい、と武藤は答えた。
「一応ここは告解室ですし、罪を告白する部屋ですが、その他の相談事や談話にも場を解放していますよ。どうされましたか、今日は」
 女が口を開いたようだ。
「あの、娘のことなんです」
「お聞きします」
 また、女が何かをいい淀んでいる。
「娘が、病気になりまして・・・。白血病です。主人は臓器移植に関わる仕事をしているんですけど、なかなか、こう・・・」
 お話がまとまっていなくてごめんなさい、と女が詫びた。
「まだ大学に入ったばかりで、その矢先だったんです。今は入院していて、骨髄バンクにも適合するドナー候補がいないんです。アメリカに渡って治療を受ける例もあるそうなんですけど、そんなお金はなくて・・・」
 そうですか、としか、武藤にはいえなかった。重い話だ。また無力感に打ちひしがれるのか。
「わたしももう精神的に限界が来ちゃってて、それでこの教会のお話を聞いたんです。神父さんが何でもお話を聞いて下さる、って」
 息を吐き、武藤はいった。
「今私たちにできることは限られていますね。待つこと、そして、祈ることです」
 ようやくそれだけ言葉を絞り出し、武藤は続けた。
「当教会に来てくださって、ありがとうございます。少しでも心の拠り所になれれば、と思います」
「いえ、こちらこそ、なんか変なお話しちゃってすみません・・・。それに、わたしの家、本当は無宗教なんです」
 かまいませんよ、と武藤は答えた。
「宗教は人間の阿片である、とマルクスはいいました。そういった見方も確かにありますが、敢えてその阿片にすがる、というのもいいのではないですか」
 それだけいうのが、武藤には精一杯だった。衝立の向こうで、洟を啜る音がする。
「ありがとうございます、神父さん。お話しできて、ちょっと、その、心が楽になったというか・・・ありがとうございます」
 涙声で女が礼を述べる。
 腹を痛めて産んだ娘が難病にかかり床に伏す。
 女の口から零れ出る礼の言葉が、武藤に重く圧しかかった。
 また無力感が、武藤の全身を満たす。

18

『お返事ありがとうございます。もしセツコさんの旅に同行させていただけるのでしたら、とてもうれしいです。
 先述したように、ぼくは戦後史を研究する院生でして、その取材になれば、と都合のいいことを考えていたりもします。
 日程が決まりましたら、また連絡をください

                        香村 龍』
 時刻が迫っており、龍は手短に返信した。PCを閉じ、携帯を取り出す。午後零時に近い。日付が変われば、雨宮莉緒のAVが解禁される。
 幸子が多額の賠償金を背負い、AVを契約したという報道に、龍は当惑した。観たい気持ちはあったが、同時にそうではない気持ちもあった。一方的にではあったものの、あれだけ強い想いを寄せた恋の相手が誰か知らない男に抱かれ、その様が多くの男たちの眼に晒されるのだ。
 午前零時を回り、龍は携帯のブラウザを開いた。今回、件の映像を独占配信するAVサイトにアクセスする。ページがやや重い。アクセスが殺到しているのだろう。デビッドカードの情報を入力し、購入ボタンを押した。ダウンロードが開始され、やはりアクセスが殺到しサーバが重いのか、十五分ほどかけてそれが終了した。
 動画再生アプリを起動し、再生する。
 莉緒、AV堕ち、というテロップがあり、消えた。
 もちろん、AVを観るのは初めてではない。だが、幸子が出演しているとなれば、話は別だ。
 絡みは静かに進行した。キスから始まり、愛撫、そして挿入。
幸子が、誰か男優に、抱かれている。喘いでいる。
性欲が勝った。嫉妬心とない混ぜとなり、欲望が勝っていた。龍の右手が、股間へと伸びる。
男優は二度、三度と体位を変え、その度に幸子が喘ぎ、露わとなった乳を揺らす。あれほど恋焦がれた幸子が乳を揺らし、男に抱かれているのだ。
 男優よりも先に、龍は果てた。深々と、射精していた。
 頭が冴えると、龍はようやく臭いに気づいた。焦げ臭い。うっすらと、部屋の天井に煙が溜まりつつあった。
 咄嗟に下着を上げようと動いたつもりだったが、体がいうことを聞かない。体が、動かない。
 一酸化炭素でも吸ってしまったのか。途端に、猛烈な吐き気に襲われた。体が重い。パンツひとつ、指先で摑めない。部屋にみるみる煙が充満してくる。黒い煙だった。燃えている。アパートが燃えている。
 どうにか体を起こし、パンツを履いた。続いてジーンズ。やはり体が重い。吐きながら、龍は携帯をジーンズのポケットに収め、ノートPCを抱きかかえた。
 そこで、体の動きが止まった。もう、体が動かない。さらに吐く。
 両親の遺影が煙に包まれる様を見たのが最後だ。
 龍の視界が、ブラックアウトした。

19

 その店を探し当てるのに、いくらか難儀な思いをした。土地勘のない街で、地図も持たずに一軒の酒場を探し当てるのは簡単ではない。武藤は携帯など持っておらず、GPSと連動する地図アプリの使い方なども知らないのだった。
 店を見つけたとき、時刻は午後十時を過ぎ、武藤が田無の駅を降りてから一時間以上が経っていた。店は田無の駅を降り、線路沿いに新宿方面へと一キロほど歩いた先の雑居ビルにテナントとして入居する狭いスナックだった。そこで、荒武という男はバーテンダ―として雇われているらしい。
「一見なんだがね」
 戸を開き、武藤は告げた。ホステスか、年増の女が顔を出す。化粧で皺を覆い隠しているが、歳の頃は武藤とさほど違わない。四十は過ぎているだろう。女が愛想笑いを寄越し、店内を振り返った。別の声がする。
「いいよ、ナナちゃん、入れてあげて」
 ママだろうか、店内から、経営者らしき女の声がした。
「あ、はい」
 ホステスが向き直り、武藤を招き入れる。
「どうぞいらっしゃいませ、一見さん大歓迎です」
 ホステスが笑みを見せ、眼尻に深い皺が刻まれた。
「いらっしゃいませ、カウンターにします?それともボックスにいたしましょうか?」
 ママが訊いた。
 返事をせず、武藤は店内に入り、カウンターのスツールに腰かけた。カウンターの向こうに、緊張の面持ちを隠せずにいる男が一人、立っていた。白いワイシャツに黒いジレベスト。髪は薄くなり、頬には動揺の影がある。
「な、何になさいます、お客さん」
 禿げたバーテンダーがいった。すっとぼけようという肚らしい。
「荒武尚久か」
 単刀直入に、武藤は訊いた。
「はい?」
 愛想笑いを浮かべたまま、バーテンダーが訊き返す。
「荒武尚久だな、あんた」
 バーテンダーがグラスを取り、磨き始めた。グラスとウェスに眼を落とし、呟く。まだ愛想笑いは顔に張り付いている。
「お客さん、人違いでしょう」
「外へ出ろ」
 武藤が命じると、グラスを磨く手が止まった。女二人は事の成りゆきを見守っているようだ。明らかに、二人には慄く気配があった。
 バーテンダーを睨むと、顔から愛想笑いが消えた。
「外だ」
 武藤は席を立ち、ドアへと歩き始めた。狭い店だ。すぐドアにいき当たり、武藤は背後にバーテンダーの影を確認しつつ、店を出た。
「何です、いきなり」
 憮然とした態度でバーテンダーが訊いた。その顔の造形と背格好に、微かだが見覚えがある。間違いない。
「身分証」
 いうと、バーテンダーが慌てた様子で財布を取り出し、何かを抜いて見せた。運転免許証。握るその手が、震えているのを武藤は認めた。偽造か否か、真贋を見極めるつもりで凝視したが、見分けがつかない。偽造だとすれば、よくできていた。印刷された顔写真と、眼の前で震えるバーテンダーを交互に見やる。やはり、見分けはつかなかった。
「比嘉アルフレッド。混血か?」
 免許を返しつつ訊くと、バーテンダーがしきりに顔を縦に振る。まるで玩具のような動きだ。
「そうは見えんな」
 吐き捨てる。今度はバーテンダーが首を横に振り始めた。
 女たちの嬌声が不意に聞こえた。別の店のドアが開き、女たちの声が廊下に響く。廊下で対峙する武藤とバーテンダーに気づいたのか、女たちは押し黙った。睨みつけるとドアが閉じ、廊下は再び静寂に満たされる。
 バーテンダーが全身を微かに震えさせていた。武藤に気づいたのだ。
「この身分証、どうした」
 ぶるぶると顔を横に振り、次は縦に振り、バーテンダーが答える。
「か、買いました。こ、こ、戸籍を・・・」
「どこで」
「ろ、六本木です」
 鼻から息を吐き、武藤はさらに訊いた。
「誰から」
「わ、わかんないです。人づてに買ったもんで・・・。あの・・・」
 少し待ったが、言葉の続きが出てこない。
「何だ」
 促すと、またバーテンダ―は顔を縦に振り、いった。
「も、もう、勘弁してもらえないですか。充分に働きましたよ、私」
「福島で、か」
 またしきりに顔を縦に振っている。
「おれが誰だが、憶えがあるか」
 引き続き、バーテンダーは顔を縦に振っていた。
「じょ、冗談じゃないですよ。もう上がったんだ、私は。放射線障害にでもなったら終わりですよ。どれだけ浴びたと思ってますか。私が死んだら、あなた人殺しですよ。人殺しになるんですよ!」
 語気が強みを帯びてくる。
「今は健康体でも、先はわからないですよ。いつ病気になって死んでもおかしくはないんだ。脅えているんですよ。脅えながら暮らしてるんですよ!」
 泡を飛ばしつつ喋るバーテンダーの足元に、流れ落ちた大量の汗が点状のシミを形成している。夥しい量の汗だった。
「もういい」
 踵を返し、武藤は一階へと続く階段を下りた。
 背に、バーテンダーの荒い息使いが聞こえる。

20

 眼を開くと、天井が見えた。微かに、薬品の香りがする。病院だということが、すぐにわかった。ベッドに寝かされている。個室だった。上体を起こし、周囲を見渡す。やはり個室だ。龍の他に、人の姿はなかった。枕元に、コードでぶら下がったボタンがある。ナースコールだ。両親の遺影が燃えるシーンから、記憶は途切れている。ボタンを押した。そのまま横になる。ほどなくして、看護師のものらしき足音が聞こえてきた。再び眼を開き、誰かが現れるのを待つ。ドアが開き、白衣を着た男―医者だろうか―と女の看護師二人が入室してきた。
「眼が覚めたか」
 初老の男だった。その医者がマスクを取り、微笑んで見せた。
「ぼくは・・・」
 再び上体を起こし、龍は訊いた。二人の看護師が龍に取り付き、
バイタルを取り始める。片方は脈を取っているらしい。もう片方は龍の人差し指に白い指サックに似たプラスチックの器具を挟んだ。
「これは何です?」
 龍が訊くと、看護師が答えた。
「血中の酸素濃度を計ってます。痛くないですよ」
 初老の医者がいう。
「命に別状はなかったね。一酸化炭素を吸って意識がなかったが。ここへ運ばれてきたときにはバイタルは安定していたよ。救急車の中で酸素吸入したのがよかったようだ」
「ここはどこですか」
「病院だよ。西東京の徳洲会病院。君の搬送先だよ。誰かに助け出されたんだろう、君は燃えたアパートの外に転がっていたんだそうだ」
やはり、アパートは燃えたのだ。
「警察が事情を訊きたがっていたよ。君の意識が回復するのを待ってる。じきに来るだろう」
「先生、脈は正常です」
 看護師が報告し、もう一人の看護師もバイタルの安定を告げた。
「どうする、香村くん。検査入院という形でしばらくいられるけど、入院が伸びるとその分お金がかかるよ」
 無駄な金は使いたくない。決して余裕があるわけではないのだ。龍がベッドから起き上がる素振りを見せると、こちらの意思を汲み取ったらしい医師がいった。
「持ち物は受付に預けてある。取りにいくといいよ」
 いい残し、医者と看護師二人が部屋を去った。ベッドの傍らにジーンズとシャツが畳まれている。手に取ると、微かに焦げ臭かった。
 さらに足音が聞こえ、制服警官が二人、部屋に入ってきた。
「香村龍さんですね」
 片割れが訊く。龍が頷くと、警官は龍が意識を失うまでの記憶を訊き、もう片方の警官が黒い手帳に何かを書き込んでいた。
「消防署が出火原因を調べています。おそらく煙草の火の不始末だろう、とのことでしたが」
 警官の言葉に、龍は訊き返した。
「ぼくはどうして助け出されたんですか。部屋の外に出た記憶がなくて」
 二人の警官が顔を見合わせ、片割れが告げる。
「憶えていないだけでしょう。救急隊が到着したとき、香村さんは外に転がっていたそうですから」
 さらに二、三の質問を済ませると、警官は部屋を出ていった。
 着替えを済ませ、受付で金を払い、ノートPCとスマートフォンを受け取る。喉が渇いていた。病院内の自販機で水でも買おうと思い、ジーンズのバックポケットから財布を取り出す。紙幣とコインが数枚ずつ、キャッシュカード、運転免許証。それらの中に、自宅と車のスペアキーが挟まっていた。
 病院を出ると、外では雨が降っていた。携帯で日付を確認する。火事から丸一日半が経っていた。最寄りのバス停で循環バスに乗り、自宅の方角へと向かう。
 現場近くのバス停で降り、アパートの建つ辺りまで歩いた。まただ、何かが焦げる臭いが鼻腔を衝き、歩み寄るにつれ、それが強さを増してくる。路地を抜けると、かつて建っていたはずのアパートが、燃え尽き、瓦礫の山と化していた。鎮火したあとのようだが、雨の中、まだ微かに煙が立ち昇っている。現場を検証しているのだろう、消防隊と思しき男たちの姿があった。近づくと、まだ残っているらしい熱が伝わってくる。
現場は立入禁止となっていた。仮にそうでなかったとしても、燃え残った物を漁るには熱すぎる。そして何かが残っていたところで、この雨では使い物にならなくなるだろう。
 龍は諦め、茫然と立ち尽くした。PCとスマートフォン、それに今着ている服と下着を残し、全てが燃えてしまったのだ。家を焼き出され、病院にもいられない。
 だが、まだ車がある。さらに路地を歩き、月極の駐車場に至った。白いミニクーパーが駐車スペースに蹲っている。ドアノブにキーを挿し込み、運転席に座った。ドアを内側から閉じると、全身を疲労感が襲ってくる。もう力が入らなかった。
 死にかけるのは二度目だった。小学生の頃、龍は両親と乗っていた自家用車で交通事故に遭っている。両親は死んだが、龍は別の病院へと搬送され、多量の出血により瀕死だったそうだが、血液が集められたのか、大量の輸血を受け、命を取り留めていた。記憶は遥か彼方に霞んでいるが、あとになり聞いた話によると、そうであるらしい。両親の顔は思い出そうとしても、生前のそれではなく、遺影の顔が浮かんでくる。
 気が付くと、眼を閉じていた。瞼を開く。フロントガラスが雨粒に濡れ、視界は滲んでいる。雨雲は、今にも崩れ落ちてきそうだった。
 泊まる宛はない。ホテルに部屋でも借りるか。しかし。また金が要る。
 ノートPCを開いた。メッセンジャーを起動し、メールを記す。セツコ・オズボーンに、家を焼き出されてしまった旨を知らせたP

21

 次の仕事です、やりますか、とミニッツが訊く。娘の見舞いに来た虎の門病院だった。快方の兆しは見えていない。
「今度は何をやるんです」
 大壺が訊き返すと、言葉を被せるようにミニッツがいい重ねた。
「やるか、やらないか、と訊ねているんです」
 待合室の天井からぶら下がる蛍光灯の無機質な光を、金髪が跳ね返していた。
「娘さん、大変なんでしょう、大壺さん」
 逡巡した。たしかに、このままでは娘は助からない。
「難病ですよ。おわかりでしょう」
「次は何を・・・」
「やるんですね、大壺さん」
 大壺は頷き、眼を伏せた。
「次は楽ですよ。我々に同行するだけですから」
 我々、とミニッツはいう。この金髪の白人は、単独で動いているのではない。
「同行、ですか」
 ミニッツが慇懃な様子で頷く。
「そう。同行するだけです」
「どこで何をするんです、あなた方は」
 口許の片方を釣り上げ、ミニッツが答えた。
「同行してくださればわかります」
 では一週間後のこの時間この場所で、とミニッツがいい残し、消えた。
 気持ちを新たにし、娘の病室へ向かう。部屋の前にある壁には、大壺瑞樹という名の記されたプレートが貼られていた。
 父子の時間は増えたが、娘の様子は変わった。当初は気丈に振る舞っていたが、やがて体は痩せ細り、今では大壺を邪険に扱う。娘はベッドの上で桃色のニット帽を被り、俯いていた。妻によれば、まだら模様だった頭部はさらに髪が抜け落ち、すでにスキンヘッドのようになっているそうだ。抗癌剤の副作用は凄まじい。娘はいつも食った物を胃液もろとも吐き出し、妻は妙な機械を買ってきた。病室の隅にあるテーブルに置かれたそれは、水に波動を与え、その波動水とやらを飲むと癌や白血病に効くらしい。妻は藁にも縋る思いなのだろう。これを飲んで、としきりに波動を与えられた水を娘に勧め、娘は半信半疑ながらもそれを飲んでいるようだった。
 藁にも縋る思いなのは、大壺も同じだ。
「今さら父親ぶってさ」
 娘が呟いた。眼に光がない。虚ろな色をしている。眉がないことに、大壺は気づいた。頭髪同様、抜け落ちたのだろう。
 接する時間は増えたが、交わす言葉は少ない。
「今、別の仕事もしているんだよ、瑞樹」
 大壺は告げた。娘が、頬に嘲笑を浮かべる。
「また仕事?」
「いや、そうじゃない。お前を救うための仕事だよ」
 意味わかんない。そう呟いたきり、娘は口を閉ざした。
「また来るからね」
 再訪の意思を告げると、大壺は病室を辞した。これ以上の面会は娘の負担になる気がした。何より、間が持たない。娘はどうやら、大壺を本気で嫌っているようだ。少なくとも、そういう時期が訪れている。
 不意に、吐き気を催した。廊下を走り、トイレに駆け込む。個室に籠り、便器に反吐をぶちまけた。二度、三度とえづき、胃が空っぽになった頃、続いて猛烈な便意に襲われた。口をゆすぐ暇もなくズボンを下ろし、便座に座る。酷い下痢だった。
 娘は病床に伏し、妻は壊れつつある。
 ストレスだ。さらに何か正体の摑めない副業が、大壺の心理に重圧感を以って押し掛かっている。

22

 羽田空港国際線、第三ターミナルで、龍はセツコが現れるのを待っていた。次から次へと、ゲートから旅客が吐き出されてくる。吐き出された旅客たちは荷物を手に手に、三々五々散っていった。
 アパートを焼き出された、とメッセンジャーで伝えると、すぐそちらへ向かう、とセツコは返信してきた。午後三時、この便で、セツコは日本の地を踏んでいるはずだ。
 あわよくば、という考えがある。次の住処が決まるまでセツコに帯同し、宿をあてがってもらえれば。セツコが自身と両親の軌跡を辿り、アメリカへと帰ってゆく間に、次のアパートを決めたい。世話をしてくれる親族はおらず、頼れる友人も龍にはいないのだった。
「香村龍さん?」
 背後から声をかけられた。女の声だ。振り返ると、黒いパンツスーツを着た、壮年の女が立っている。
「セツコ・オズボーンさんですか」
 若く見えるが、白髪は染めていない。青いスーツケースを手に、セツコは立っていた。微笑みを見せている。
「はい、わたしです。龍さんね?」
 流暢な日本語だった。容貌も伴い、とても人生の大半を米国で過ごしてきたとは思えない。
「はい、ぼくです。香村龍ですよ」
 セツコがにんまりと笑い、化粧で隠された皺が顔のあちこちに寄った。
「大変だったのね、龍さん」
 ええ、まあ、と龍は返した。スマートフォンにノートPC、買い足した着替え、それらをトランクに詰め込んだ車。龍の全財産はそれだけだった。
「いきましょうか、セツコさん。じき夕方です」
 龍が促すと、セツコは礼を述べた。
「この度はお世話になります、龍さん」
「いえ、そんな。ぼくも論文のネタが欲しいものですから」
 荷物を持ちましょうか、と龍は申し出たが、まだそんな歳じゃないわ、とセツコは笑った。背筋はしゃんと伸び、足取りも確かだ。
 広大な駐車場の隅に止めたミニに乗り込む。
「土足禁止かしら?」
 セツコが訊く。
「いえ」
 龍は笑い、答えた。
「ただの中古車ですよ。そのままどうぞ」
 湾岸道路を走り、大井から高速に乗った。延々と続く中央環状線のトンネルを潜り、西新宿JCTから四号新宿線に合流する。しばらく走ると、高井戸のランプが見えてきた。
「ここは東京のどの辺り?」
 助手席のセツコが訊く。スーツケースは龍の荷物と共に、トランクへ収めてあった。
「高井戸です。杉並区ですね。このまま高速を走ると中央道になって、次の出口は調布の辺りだったかな」
 高井戸で高速を降り、牟礼の街中を突っ切る。東八道路に乗り、武蔵境通りへと折れた。陽が傾いている。目指す先は、幼いセツコが両親と共に写真に収められたあの陸橋だ。
 三鷹駅を過ぎ、中央線沿いの道を進む。遠く陸橋が見えてきた。空港を出てから、二時間近くが経っている。
「見えてきましたよ、セツコさん」
「あ、あれね!あの陸橋!」
 道中、色々な話をした。途中で渋滞にも巻き込まれたが、セツコの話で退屈はせずに済んだ。
 路肩にミニを止め、二人は車を降りた。感慨深げに、セツコは聳える陸橋を見上げている。
「ここね、ここだわ」
 静かにセツコが呟き、スーツのポケットから写真を取り出した。眼の前に拡がる風景と写真を見比べ、頷いている。
「ありがとう、龍さん。ありがとうね」
 セツコがまた礼を述べた。眼に、涙が浮かんでいる。
「まだこれからですよ、セツコさん。あなたの辿った道筋を探らなきゃならない。そのためにわざわざおいでになったんでしょう」
 そうね、とセツコが呟く。陽が落ちかけ、街が緋色に染まりつつあった。
「もう今夜は宿を取りましょう、龍さん。あなた、泊まるところないんでしょ?」
「ええ、まあ」
 期待を悟られぬよう、龍は曖昧に答えた。
「どこか近くのホテルに案内してくださる?あなたの部屋も取るわ」

23

 声を通すために無数の穴が開けられた衝立の向こうで、気配がした。大壺が告解室へと入ってから、五分と少しが経っている。
「お待たせしました」
 衝立の向こうで、神父の声がする。静かな声だった。
「ご自分のタイミングでお話なさってください」
 優しい声音で、神父がいう。たしか、武藤という名の神父だった。
 大壺は口を開き、切り出した。
「妻も、この教会にお世話になっています。私が通うようになったのは妻の勧めです。こうして告解というか、相談というか、お話させていただくのも、妻の勧めでして」
 そうですか、と神父がいう。
「いつか、洗礼を受ける直前で辞したことがあります。ほんの少し前でしょうか」
 言葉を切ると、神父が口を開く。
「色々とおありなんでしょう」
 ええ、と大壺は答え、息を吐いた。
「怖気づいたといいますか、洗礼を受ける、その資格が私にはない、と思ってしまったんです」
 神父が優しく微笑むのが、衝立越しにでも気配でわかる。
「洗礼を受けるのに、資格など無用です。今のお話であなたがどなたか私にはわかりましたが、この部屋では名乗る必要もないのですよ」
 すみません、と、大壺の口から詫びの言葉が出ていた。
「洗礼を受けないのですか。強いたりはしませんが」
 神父が訊き、大壺は答えに窮した。
「受けられないんです。洗礼を」
 理由を、神父は訊かない。大壺は続けた。
「私は、罪を犯すのかも知れません。いや、すでに犯しているのかも・・・」
 衝立の向こうから、神父がいう。
「ならば、やはり洗礼を受けてはいかがですか。罪を洗い流すことで、救われる面もあるかも知れません」
 大壺はかぶりを振り、答えた。
「いえ、やはり・・・」
 いい淀んだが、神父は促すでもない。
「やはり、受けられません。私の罪は、進行しています。これからも、しばらくは続くでしょう。せめてそれまでは、罪人でいなければ・・・」
 いい終え、すみませんでした、ともう一度詫び、大壺は告解室を出た。

24

 六本木七丁目に、飯館組の事務所はある。外苑東通りから路地へと折れた先、星条旗通りと並行して走る裏路地にあるビルが、まるごと飯館組の物件だった。四階建ての小さなビルだが、これでもれっきとした暴力団の本部ビルだ。最上階は組長の部屋、二階と三階は組員の住居となっており、一階に事務所が置かれている。侠撰会の二次団体、西の大手から数えて三次団体にあたるこの暴力団事務所で、阿南は待っているはずだった。
 午後九時、武藤は事務所の扉をノックし、中へと踏み入った。
「なんだよ、こんな時間に」
 組員か、準構成員か、中にいた若い男が吐き捨てるようにいった。別の若い男も口を尖らせる。
「その恰好はなんだよ、牧師か」
「ここは事務所だぞ、やくざの」
 話が伝わっていないらしい。この時刻にこの場所を指定したのは阿南だった。
 事務所の中にはスチールの机が無数に並び、最奥部に木製の机が一つ置かれている。その机に着く中年の男が武藤を睨み、いった。
「何だ。出入りの真似事か」
 武藤は小さく首を振り、告げた。
「待ち合わせだ。侠撰会の阿南さんと、ね」
 その名を聞いた途端、中間管理職らしきやくざが机の椅子から腰を僅かに浮かせた。微かに眼を泳がせ、若い連中に訊く。
「おい、聞いてるか、阿南さんが来るって」
 本当に話を聞かされていないのか、若いやくざ二人はかぶりを振り、中年同様に眼を泳がせている。
「あんた、どこの誰だ?」
 椅子から立ち上がり、中年やくざが訊いた。
「武藤恭二。神父」
 中年が睨み、いう。
「阿南さんと待ち合わせか、ここで?」
 そうだ、と武藤は肯定した。
「本当だろうな」
「阿南さんから電話があったはずだ。電話番にでも訊いてみてくれ」
 おい、と中年が若いやくざ二人に声をかける。二人が足早に奥へと消え、続いて階段を昇る音が聞こえた。エレベーターは設置してあるようだったが、若い連中はその使用を制限されているようだ。
「本当だろうな、牧師さん」
 咎めるような口調で中年やくざが訊く。
「嘘をいってどうする。好きでこんなところに来やしない」
 武藤が答えると、中年やくざが席を立ち、パテーションで仕切られた応接間に顎をやった。
「茶を淹れさせるから、そこで待ってろ」
 二階から天井越しに怒号が聞こえる。伝言が上手くいかず、電話番が叱責されているらしい。続いて物音。突き飛ばされたか、殴られたか。どちらでもよかった。
 表の扉が開く音がした。パテーションの隙間から覗くと、阿南が事務所に踏み入ってきている。中年やくざが硬直し、しどろもどろになりつつも応対していた。
「すぐに茶を淹れますので、阿南さん」
「いらん」
 断った阿南がこちらへと歩み寄ってくる。
「静かに話をさせてくれればそれでいい」
 言葉は武藤ではなく、中年やくざに向けたものだった。二階から階段を降りる複数の足音が近づいてくる。ドアが開き、二人の若いやくざが顔を出した。中年やくざの名を呼び、叫ぶようにいった。
「やっぱりあいつでしたよ!伝えてなかったそうです!」
「静かにしろ!阿南さんがいらしてる!」
 中年やくざが咎め、二人が口を噤んだ。背筋を伸ばし、硬直しているのが見える。
「気にするな、よくあることだ」
 阿南がいい、応接間のソファに腰を降ろす。その台詞は飯館組の三人にいったのか、それとも武藤にいったのか、判然としない。
 事務所の中が、静まり返っていた。
「いったのか、田無に?」
 阿南が眼も合わさず訊く。ええ、と武藤は答えた。
「どうだった」
 両膝を広げ、阿南はその間で手を組んでいる。スーツにストライプは入っていなかった。グレーのダークスーツだ。五分刈りか、坊主頭の髪から僅かずつ覗く灰色の頭皮が、蛍光灯の無機質な明かりを反射している。
「間違いなさそうです。荒武でしたよ」
 阿南が口の端を釣り上げ、笑う。
「で、武藤。どう始末をつける気だ」
「どう、といわれましてもね」
 息を吐き、武藤は続けた。
「阿南さん、私はもう堅気です。暴力団の仕事には加担できません」
 きっぱりと断ったつもりだった。だが、この世界が甘くないことも、武藤は知っている。足を洗うことがどれだけ困難であり、足を洗ったあともどれだけ執拗に過去がつきまとうか。なおさらだった。かつて武藤は優秀なやくざだった。その自負すら持っていたのだ。
「荒武、戸籍でも買っていたのか」
 ええ、と力なく、武藤は答えた。
「どこで買ったと?」
「六本木、この街で、だそうです」
「なんて名になってた」
 バーテンダーから取り上げ、一瞥した免許証を思い出す。
「アルフレッド・比嘉です。とても混血には見えませんでしたがね」
 武藤の言葉に覆い被せるような速度で、阿南がいい重ねる。
「じゃあ、そのアルフレッド・ヒガって奴を追えよ」
 命じられている。台詞のあとに、有無をいわさぬ不気味な圧力が伴う。眼を閉じ、しばし武藤は黙考した。
「なにもお前さんに全てぶん投げるつもりじゃない。こっちはこっちで調べるつもりだ。戸籍の売買となれば、どうせ仲介した人間がいるはずだからな」
 眼を開き、武藤は告げた。
「お断りです、阿南さん。私はもう・・・」
「いったろう。断れない、と。会長のご指名だ」
 表情は穏やかなそれだったが、語気は強い。
「この街で暮らしたきゃ、従うしかない。それとも、お袋さんの残したあのテナント、処分してどこか他のどこかで物件借りて、また一から教会を開く、か?」
 選択肢を与えるいい方だったが、これは恫喝に近い。威しているのだ。
「なあ、武藤」
 なんです、と武藤は反応した。
「戻ってこないか、組に」
「それは、もっとお断りですよ」
 毅然と、武藤はいい放った。阿南が続ける。
「前は失敗したよな、しゃぶで。お前さん、グダグダだったじゃないか。お袋さんに引き取られるまで、どこにいたんだ」
 覚醒剤の使用と売買で逮捕、収監され、出所したあとのことを訊いている。武藤は服役中、半ば強制的にしゃぶ抜きされつつ、定期的に刑務所を訪れる神父に出逢い、神学を志した。出所後は長野のある神父の教会に住み込み、さらに信仰を深めていたのだった。
「長野です。まだ、完全にしゃぶが抜けたわけではありませんでしたから」
 そうか、と阿南が呟く。
「戻ってくるなら、待遇はしっかり考える」
 阿南の言葉に、武藤は顔を上げた。
「お断りだといったはずですよ」
 阿南が微笑し、いい残した。
「とにかく、そいつを追え。続報を待っている」
 ソファから立ち上がった阿南が応接間を出てゆく。
 武藤は眼を閉じ、呼吸を整えていた。

25

 車窓の外を、景色が後ろへと流れ去ってゆく。武蔵野中央公園の景色だった。三鷹駅に近いが、この辺りは武蔵野市に入る。三鷹と武蔵野が重なるエリアだった。
 昨夜は吉祥寺の第一ホテルに投宿した。セツコが別に一部屋を取り、龍はそこで眠った。今朝はバイキングで朝食を二人で摂り、龍の車でこうして散策へと出かけていた。
「おぼろげだけど、記憶があるわ」
 助手席のセツコが呟く。
「日本中がそうだったようだけど、この辺りも舗装なんてされていなくて、土の道がずっと伸びていたように思うの」
 快晴だった。道をゆく車の姿もまばらだ。
 武蔵境通りに乗り、東八道路方面へとノーズを向ける。車速を落とし、左車線をゆっくりと走る。何かセツコの記憶を呼び起こすヒントが見つかれば。そんな思いだった。
 塚、という名の交差点を左へ折れた。三鷹駅方面だ。玉川上水が近い。
「セツコさん」
 視線がこちらに注がれる。
「なに?」
 白髪が、僅かに降ろした窓から入り込む風に、靡いていた。
「太宰が死んだときの記憶はありますか」
 龍の問いに、んん、と声を漏らし、セツコが考え込む。
「わたしも幼かったから、憶えていないわ。大ニュースだったはずだけれど」
「三鷹駅近くから玉川上水へ入水したんですよね、太宰は」
 ええ、そうらしいわ、とセツコが答える。
「上水の記憶は微かにあるわ」
「ほんとですか」
「ええ」
 会話しつつ、龍はミニを走らせる。二人は昨日、井の頭公園の近くで玉川上水を見ていた。
「本当におぼろげな記憶だけれど、憶えているの。今みたいに少ない水量じゃなくて、もっと水が多くて、ごうごうと音を立てていたわ」
 セツコの眼が遠い。なにせ七十年も前の記憶なのだ。それには靄がかかり、鮮明なはずがなかった。遠い眼が、遠い記憶を必死に呼び起こすべく凝らされる。
 信号に止められ、龍はステアリングを右に切った。路地へと入る。そこで、セツコが声を出した。
「停めて」
 ブレーキを踏む。
「停めてちょうだい、龍くん」
 ハザードを焚き、停止した。セツコが車を降り、路地の脇へと降り立つ。セツコの視線を追うと、やけにつるつるとしていそうな一本の細い木が植わっていた。古い民家の庭先だ。禅林寺に近い。
 セツコが木に歩み寄り、触れた。
「どうしたんです、セツコさん」
 しばし言葉を失っていたらしいセツコが台詞を漏らす。
「この木・・・。このサルスベリの木・・・」
 龍も歩み寄り、木に触れてみた。幹から枝にかけ、やはり妙につるつるとした感触だ。
「龍くん、ついてきてちょうだい」
 セツコがいい、民家の玄関へと廻る。龍はその小さな背を追った。
「ごめんください」
 呼び鈴を押し、セツコが尋ねる。
「ごめんください、どなたかいらっしゃる?」
 はい、と女の声が聞こえ、主婦らしき中年の女が顔を出す。
「突然ごめんなさい、このサルスベリの木に見覚えがあって」
 セツコが詫び、続けた。
「わたし、セツコ・オズボーンといいます。育ったのは米国ですけれど、生まれは日本、この三鷹の地だと思います。昨日から、もう何十年ぶりかしら、この国にやってきていて・・・」
 何をどう言葉にしていいかわからないのだろう、口調は乱れていた。龍はいい、助け船を出した。
「お邪魔してすみません、こちらはセツコ・オズボーンさんです。ぼくは香村龍といいます。セツコさんは記憶が定かでなくて、記録もあまり残っていないのですが、どうやらこの三鷹の地で生まれたそうで、ぼくらはその、Facebookで知り合って、ぼくはセツコさんの生まれた経緯や軌跡を辿る手伝いをしているんです」
 はあ、と主婦が声を出す。すると、奥から老婆のそれらしき、しわがれた声がした。
「どうしたんだい、カオリさん?」
 主婦が家の奥に振り返り、いった。
「ええ、おばあちゃん、お客さんなの。なんでも何十年ぶりに三鷹に帰ってきたって・・・」
 廊下の奥から、電動車椅子の老婆が現れた。度の強そうな眼鏡をかけ、ジャージ姿だ。
「あらまあ、ずいぶん久しぶりだね、セツコちゃんだろう?」
 不意に名を呼ばれたセツコが、眼を見開く。
「あなたは・・・わたしをご存じ?」
 老婆が微笑む。顔がさらに皺で覆われた。
「よく知っているわよ。セツコちゃんだろう。まあお上がんなさいよ」
 主婦が老婆に訊いた。
「おばあちゃん、知り合いなの?」
「ああ。そうだよ。よく知ってる」
 主婦にいざなわれ、居間へと上がった。簡素な部屋だ。仏壇とテーブル、家具は数えるほどしか置かれていない。主婦が人数分の茶を淹れ、テーブルに置いた。
「あの・・・」
 急いたように、セツコが口を開く。
「何を思い出したいんだい、セツコちゃん」
 入れ歯なのか、老婆の活舌はよくなかったが、聞き取ることはできた。
「あの、おばあちゃんは・・・」
 セツコの問いに、老婆が笑う。
「失礼だねえ、忘れちまったのかい。それにあんただって、もういい歳だろうに」
 すみません、とセツコが詫びた。老婆はまだ笑っている。
「あんたが生まれたときのことも憶えているよ。あんたのお母さんは進駐軍の将校さんとできて、この三鷹であんたを産んだんだ。今でいう、里帰り出産だね。お母さんはどうしたい?」
 もう亡くなりました、とセツコが答える。
「そうだろうね、あんたのお母さんとあたしは歳が近かったから。もう同級生の類も皆あの世へいっちまったよ」
 ケラケラと、また老婆が笑う。
「おばあさんは、失礼ですが、おいくつなんですか」
 龍が訊くと、老婆が得意気に答える。
「九十六さ」
 龍が感嘆の声をあげると、老婆はまた笑った。
「セツコちゃん。あんたとはよくその辺りで遊んだよ。もう憶えちゃいないようだが。あんたのお母さんもこの三鷹で生まれ育ってね。あんたがアメリカへ渡ったのが、はていつだったか、あんたが五歳かそこらの頃かねえ」
 老婆が茶を啜り、その茶碗に主婦が茶を注ぎ足した。
「あんたのお母さんは元々、武蔵野給食センターで働いていたんだ。武蔵野中央公園があるだろう?」
 ええ、と龍は頷いた。
「あの辺りは昔、中島飛行機の工場が並んでいてね、日本で最初の本土空襲を受けたのもそこさ。軍需工場だったから狙われたそうだけど。飛行機やら、その部品やらを作ってた工場がそのまま戦後は自動車とかの部品を作る工場になってね、そりゃ工員が多くいたもんさ。その工員たちに昼飯を作ってたのが武蔵野給食センターでね。武蔵野給食センターってのはわりと最近になってからの名前だけど、昔はなんていったかね、もう忘れちまった」
 回想しつつ、また老婆がカラカラと笑う。
「セツコちゃん、お父さんももうお亡くなりになったろう?」
 老婆の問いにセツコが答える。
「はい、ベトナムで」
 そうかいそうかい、と呟き、老婆が頷く。
「お母さんもそうだが、お気の毒だったね。しかし、生きてりゃ誰もが通る道さ」
 もう一口茶を啜り、老婆が続けた。
「セツコちゃんのお母さん、マリコちゃんていうんだけど、マリちゃんは戦争が終わると六本木へいったんだ。あの街に進駐軍の基地やら大使館なんかができて、兵士たちに美味い飯を食わせる店が一気にたくさんできてね、マリちゃんはそんな店の女給になって働きに出たのさ。なんて店だったかね。ラールとか、そんな名前だった気がするけど、その店である将校さんと知り合って、恋仲になったってわけさ」
 湯呑をさすりつつ、老婆が呟く。
「懐かしいねえ、あんたのお父さん、ブラッドさんといったね」
「はい、父の名はブラッド・オズボーンです」
 老婆が笑みを見せ、いった。
「いい男でね、この辺りでは有名だったさ。俳優さんみたいに男前で。背も高かったしさ」

26

 莉緒ちゃん、と猫なで声が聞こえてくる。ほどなくして、『タイガー』が嬢の待合所として借りているマンションの小部屋にジーンズとパーカという出で立ちの若い男が入ってきた。
「はい」
 幸子は返事をし、立ち上がる。
「莉緒ちゃん、ご指名だよ」
 はい、ともう一度返し、幸子は身支度を始めた。身支度といっても、服は営業用のそれに着替えており、持ち物はトートバッグが一つだけだ。
 マンションを出た幸子は青山の街を歩き、指定されたホテルへと向かう。深夜一時過ぎ、車道はタクシーの群で埋め尽くされている。
 ホテルに着き、すでに顔なじみとなった係員に会釈すると、幸子はエレベーターに乗り、七階で降りた。指定された部屋は706。部屋の前に立ち、ノックする。はい、と返事があった。
「雨宮莉緒です。『タイガー』の」
 緊張の一瞬だ。どんな化け物が客なのかわからない。いつか、百キロはあろうかというデブの相手をしたこともある。ベッドで押しつぶされ、シャワーを浴びていたにも関わらず、酷い汗の臭いだった。
 ドアが開き、小太りの男が顔を出す。三十代だろう。『タイガー』で遊ぶくらいの金は持っている小金持ちだ。
「うおお、マジか、マジかよ。雨宮莉緒だ・・・」
 感嘆の声を発しつつ、小太りが幸子を部屋へといざなう。
「失礼しまーす」
 声のトーンを上げ、幸子は部屋へと入った。無理に作った営業用の笑みを浮かべ、小太りの指示に従うようにベッドへ座る。
「莉緒ちゃん、もうおれシャワー浴びてきたよ、家で」
 焦っているのがわかった。早く幸子を抱きたくて仕方がないのだ。また無理に笑顔を作り、幸子はいった。
「一応ルールなんで、浴びましょ、シャワー」
 コクコクと小太りが頷き、服を脱ぎ始めた。風俗での遊びに慣れている男だ。
「待って、待ってよ莉緒ちゃん」
 幸子が服を脱ごうとすると、小太りが制止する。
「ちょっと待って、見せてよ、脱ぐとこ」
 小太りはすでに全裸だった。陰部はすでに屹立し、茂みから飛び出ている。ふふふ、と含み笑いを作り、幸子は服を脱ぎ始めた。トップス、ジーンズ、ブラ、パンツ。小太りの舐めるような視線が幸子に注がれる。焦れたのか、小太りがシャワールームへと入った。開いたままのドアから幸子を呼ぶ。
「浴びよう、早く。シャワー」
 溜息を抑え、幸子はタオルを準備し、シャワールームの前に置かれた籠に放り込んだ。そして小太りの待つシャワールームへと入る。
「お、おっぱい揉んでいい?莉緒ちゃん」
「え、えへへ、いいよ」
 照れたふりを演じたが、実際は身の気もよだつ思いだった。泡まみれの手が幸子の乳房を包む。小太りが乳に気を取られている間に幸子は小太りの全身をボディーソープで洗い、自身の体にも泡を塗った。バッグの中にもボディーソープは入っているが、切らしているときの非常用だ。土地柄もあるのか、ホテルの質は高く、置かれているシャンプーやボディーソープの類が切れていることはない。
「は、早くベッドにいこう」
 乳房の感触に満足したのか、小太りがシャワールームを出てゆく。泡はきれいに洗い流され、自身でタオルを取り、水滴を拭いていた。あとを追うように幸子もシャワールームを出た。タオルで体を拭う。
「莉緒ちゃん」
 鼻息も荒く、小太りがいう。
「なに?」
「タオル、巻いてて」
 今度は自分で脱がせたいらしい。気づかれぬよう小さく溜息を鼻から吐き、幸子はバスタオルを体に巻いた。
「ベッド、いこう」
 小太りと並び、ベッドで横になった。
「脱がせていい?タオル」
「ふふ、いいよ」
 笑顔を作るのに、かなりのエネルギーを要する。当然だが、こんな仕事になど就きたくなかった。
 AVに出演したことで負債は返せたが、ほとんど金は余らず、幸子は無一文になった。それまで、生活水準は比較的高かった。芸能人だったのだ。その生活水準を一気に落とすのは難しい。家賃を払うのにも難儀することになり、引っ越す金も工面できずにいた。やがて首が回らなくなり、幸子はこのAV女優専門のデリバリーヘルス、『タイガー』で働き始めた。デリバリーエリアは青山、赤坂、六本木、そして渋谷区の一部。都内に性風俗店は星の数ほどあるが、その中で随一の高級店だ。
 小太りが幸子の体を貪る。乳を吸い、愛撫のつもりなのか、幸子の陰部を激しく手淫する。痛みを堪え、幸子は喘ぎ声を出した。感じている振りだ。
 早くこの小太りをイかせたい。出せば男は満足するものだ。幸子は手を伸ばし、小太りのペニスを握り、擦る。
「ねえ」
 小太りがいう。
「入れさせて、莉緒ちゃん」
 卑下た笑みを浮かべ、小太りが懇願した。
「ダメだよ、本番はダメなの」
「お小遣いあげるから、莉緒ちゃん、お願い」
 少し考え、莉緒は訊いた。
「つけてくれる?ゴム」
 小太りがまたコクコクと頷く。
「いくらくれるの?」
 五万、と小太りが即答した。
「ダメ」
 七万、十万、と金額が上がり、幸子は首を縦に振った。
 小太りが枕元に置かれたコンドームに腕を伸ばす。決して慣れてはいない手つきでそれをつけた。ろくに濡れてもいない幸子の中へと、割り入ってくる。
 屈辱的だった。落ちるところまで落ちた、という思いが、客の相手をする度に幸子の脳裏を支配する。少し前までテレビCMを十本も十五本も抱える売れっ子だったのに、今ではデリヘル嬢だ。
 小太りが果て、シャワーを浴びると、幸子は小遣いを受け取り、ホテルを辞した。再び夜の青山を歩き、待合所であるマンションへと向かう。
 不意に、涙が零れてきた。一体自分は、どこまで落ちるのだろう。
 通りをゆくタクシーのヘッドライトが、淡い。穏やかな光に見えた。飛び込めば、楽になれるのだろうか。
 優しい光だ。楽にしてくれる、全ての苦悩から解放してくれる、光だ。ふらふらと、幸子は車道へと歩み出ていた。
 タクシーにクラクションを鳴らされ、我に返る。
「馬鹿野郎!どこ歩いてんだバカ女!」
 タクシーの運転手がサイドガラスから身を乗り出し、罵っていた。
 涙で視界が滲み、幸子には周囲の様子がよくわからなかった。

27

 国産の黒いSUVが車速を落とし、路肩に停まる。環八通り、砧公園の付近だ。後部座席のドアが開き、中に乗っているミニッツが手招きする。いつものように、表情らしき表情はない。道をゆくタクシーやトラックのヘッドライトがちらちらとミニッツの金髪を照らす。
「乗ってください」
 言葉に従い、大壺はSUVの後部座席に乗り、ドアを閉じた。車は流れに乗り、内回りをひた走る。そして赤信号に止められ、停止した。
「驚かないでください」
 ミニッツがいう。大壺が隣を見ると、ミニッツは前方へ視線を投げたままだった。一体、何が始まるのか。湧き出る唾を飲み下し、大壺は前方へ眼をやった。
 環八を走り、第三京浜へとヘアピンを曲がる。ブラインドコーナーの先に京浜工業地帯の明かりが広がり、SUVが速度を上げると、それらが後方へと飛び去ってゆく。
 隣でミニッツが携帯を取り出す気配がある。見ると、やはりミニッツは黒いスーツからスマートフォンを取り出し、何か外語―英語だ―で話し始めた。発音はネイティブに過ぎ、中高大学と英語を学んだはずの大壺にもほとんど聞き取れない。スタンバイ、アクシデント、ゴー、それらの言葉が辛うじて聞き取れるのみだ。
 通話を終えたミニッツが咎める。
「大壺さん、前を見ていてください」
 はい、と答え、大壺は再び前方を見据える。運転席の先に、三本の車線が伸びていた。一台の白いセダンを追い越し、しばらく速度を維持したあと、SUVは徐々に速度を落とす。
 ステアリングを握る男、これも外国人らしかったが、その男にミニッツが英語で指示する。SUVが左車線へ移り、さらに速度を落とした。先ほど追い抜いたセダンが中央車線に移動し、追い越してゆく。続いて十トンだろうか、大型のトラックがこちらを追い越していった。
 SUVが右車線へ移り、加速する。トラックのテールが近づいた。距離はおよそ五十メートル。大壺が目測したところで、トラックが左車線から中央車線に移り、セダンを抜きにかかった。三本の車線は緩やかな左カーブを描き、ぽつりぽつりと立つ照明が道路を照らし、路面が虚ろに光っている。
 不意にトラックのテールランプが点灯した。がつん、という音が聞こえる。追突したようだ。トラックは減速しつつ直進していたが、その脇からセダンがスピンしつつ飛び出し、防音壁に激突するのが見える。金属の引きちぎれる耳障りな音が、車窓越しにも聞こえてきた。
 セダンはスピンし、防音壁にぶつかると、かなりの速度が出ていたせいか、今度は縦に回転し始め、二度三度と転がり、バンパーやボンネットの類をまき散らしつつ、ようやく停止した。その前方でトラックも速度を落とし、停止している。虚ろな明かりに照らされ、セダンの窓が血で染まっているのが見えた。タイヤだろうか、何かが焦げるような臭いが辺りに立ち込めている。
 SUVが路肩に停止し、ミニッツが降り立った。
「そこにいてください、大壺さん」
 眼前に広がる惨劇に、大壺は今にもセダンに向かって飛び出さんばかりの衝動に駆られていた。
 ミニッツが外からドアを閉じ、車線の端に立つ。風が吹いているらしい。撫でつけられた金髪の毛先が揺れていた。
 後方から何台かの車が迫る。ドライバーたちは事態を理解したようだ。ある者は急激に、ある者は徐々に車速を落とし、停止する。間もなく、後方に渋滞が形成された。
「大丈夫ですか!」
 降り立ったドライバーの一人が訊ねる。ミニッツが静かに受け答えていたが、その声はこちらに届かない。他のドライバーが発煙筒を手に手に、後方へ事故が起きたことを伝えていた。
 セダンに眼をやると、もはや原型を留めていない。巨大な白い鉄屑がひっくり返り、佇んでいた。窓が、赤い。生々しいその鮮血に、大壺は戦慄した。
 やがて救急車が到着し、ハイウェイパトロールの警察車両も現れた。ほどなくし、さらに救急車が二台、消防車に似た色と形をした救助隊も到着し、隊員たちがセダンの歪んだフレームをエンジンカッターで切断し始めた。
 初めにセダンから引きずり出されたのは男だ。ぐったりとし、意識はないらしい。すでに息すらないのかも知れない。続けて二人目、こちらは妻だろうか、女だった。やはり意識はないようだ。辺りは騒然とし、警官たちが後方から押し寄せる数々の車を整理している。
「生きてるぞ!生きてる!」
 救急隊員の声がした。さらに辺りが騒然となる。
「がんばれ!」
「すぐ病院に連れていくから!」
 隊員たちが口々に叫び、最後の一人が助け出される。先に出発した二台の救急車は赤色灯を点滅させていたものの、サイレンは鳴らしていなかった。搬送される患者がすでに死んでいる、ということだ。
 最後の一人は若い女だった。二十歳そこそこに見える。元は白かっただろう衣服が、血で染まっているのが見えた。ストレッチャーに乗せられ、酸素吸入用のマスクを口に当てがわれたまま救急車に乗せられ、後部のハッチが閉じられる。
 ミニッツがこちらに近づいてきた。ドアを開き、大壺の隣に乗り込む。ゴー、と運転手に命じる。
 ミニッツがドアを閉じると、SUVが走り始めた。
 ステアリングを握る外国人が、前方をゆく救急車を追っているのは明白だった。一定の距離を置き、尾行けている。救急車は京浜川崎ICで第三京浜を降り、SUVもそれに倣った。
「巧いものです。やはりプロですね」
 隣のミニッツが呟く。窓の外に、府中道、という案内標識が見える。
「何が、ですか」
 大壺は訊いた。
「トラックのドライバーですよ」
 こともなげにミニッツが答える。
「我々はあらゆる車両を用いて、訓練を繰り返しています。それこそ、年間何百台も廃車にして、ね」
 意味を計りかねたが、言葉の端は摑める。つまり、先ほどの大事故は故意に起こされたもの、ということだ。
 路地を縫い、救急車が総合病院らしき白い建物の敷地へと乗り入れる。京浜総合病院だ。そこで、大壺は救急車が途中でサイレンを鳴らし終えていることに気づいた。鮮血にまみれながらも助け出されたあの若い女は、息を引き取ったのだ。
 SUVが停止し、エンジンがアイドルしている。
 何も起きなかった。二時間が経ち、三時間が経った。
「これから、どうするんです」
 焦れた大壺は、隣のミニッツに訊いた。
「これで、私は娘を救う足掛かりを・・・?」
 ミニッツがこちらへ顔を向ける。
「待つことですよ、大壺さん」
 待つ、と大壺は復唱すると、ミニッツがいう。
「そうです。待つのも、我々の仕事です。あなたもそうではないですか、大壺さん」
 さらに一時間と少しが経った頃、病院の敷地にこちらと似たデザインの黒いSUVが乗り入れ、塀の向こうへと姿を消した。
 さらに一時間待った。すでに夜空は青みがかっている。
 先ほど敷地へと消えたSUVが再び現れ、こちらへと徐行してきた。二メートルほどの距離を置き、あちらが停止する。助手席のドアが開き、これもまた外国人の男が降り立った。こちらへと歩み寄ってくる。
 ミニッツがサイドガラスを降ろし、男に告げた。
「日本語でかまわない」
 男は少し顎を上げ、そして発言した。
「無事に摘出した。いま輸送中だ」
 頷いたミニッツが助手席を顎で示す。微かに、表情が綻んでいた。
 男がこちらのSUVの助手席に乗り込み、ステアリングを握る外交人が車を発進させる。病院の塀が遠ざかり、男を降ろしたSUVは別の方向へと走り去った。
「少しずつ、わかります」
 ミニッツがいう。
「じきにわかってきますよ、大壺さん。これはセミナーです」
 呟き、そして口を閉じたミニッツから眼を離し、前方へと視線をやる。
 バックミラーの中で、ステアリングを握る外国人と一瞬、眼が合った。

28

 老婆の許を辞した二人は吉祥寺へと戻り、六本木へ赴くのは翌日とし、夕食を摂った。家系ラーメンを食べてみたい、とセツコはいい、吉祥寺にはその類の店が二軒あり、龍はそのうち一軒にセツコを連れていった。
「どこか静かなところで少しだけお酒を飲みたいわ」
 店を出ると、セツコが乞う。
「いい店がありますよ。狭いBARですけどね」
「いいわね。案内してくださる?」
「もちろんです」
 今もその店があるのか少し不安だったが、龍はセツコをいざない、歩き始めた。
 院生となる前の一時期、麻雀に凝っていた。雀荘に入り浸り、稼げるときはかなりの額を稼いだ記憶もある。吉祥寺駅の南口付近に、麻雀を嗜む連中の集まるBARがあった。カウンターだけの狭い店だ。その店には、もう十年近く顔を出していない。『びーとん』というBARだった。
 韓国風の焼肉屋を通り過ぎ、さらに歩く。店は名を変えず、まだそこにあった。地下に降り、木製の白いドアを押した。
「おお、久しぶりじゃん」
 マスターも相変わらずだ。さほど歳を取ったようには見えない。
「ご無沙汰しています」
 龍がいうと、曽根という名のマスターがからかう。
「デートかい?歳上の女性と」
 セツコが笑う。
「まあ、そんなところかな」
 龍は答え、セツコにカウンターを勧めた。客は他にいない。龍はいった。
「静かな店を探してまして」
「ならベストチョイスだね」
 自嘲気味に、マスターが笑う。
「何になさいます?」
 マスターが二人に訊いた。
「ぼくは・・・」
 ここの勘定を持つのも、やはりセツコということになる。たしか、最も安いウィスキーがヘヴン・ヒルだった。席についたセツコが酒瓶の並ぶ棚を眺め、註文する。
「ヘネシーの水割りをいただこうかしら。龍くんは?」
「ヘブン・ヒルをロックでください」
 VSOPの瓶を棚から引っ張り出し、マスターがメジャーカップに注ぐ。続いてバーボンのロック。二つのグラスが、二人の前に置かれた。乾杯し、一息つくと、ああ、おいしい、と呟いたセツコが語り始める。
「母の記憶はおぼろげだわ」
 バーボンを含み、龍は聞いた。
「顔もほとんど憶えていないの。父の記憶はわりと鮮明だけれど」
「お父さんの記憶はあるんですか」
 ええ、とセツコが答える。
「最も古い記憶はフロリダの農園よ。もう母は死んでいたわ。農園は父方の祖父母が経営していたの」
 ロックグラスの中で、氷に罅が入る。
「アメリカに渡って、父が出征したのは、わたしが十四歳の頃だったわ」
 出征、ですか、と龍は訊いた。
「ええ。ベトナムよ。朝鮮戦争を経て、また戦争が始まったの。私は父方の祖父母に預けられて育ったわ。家を出て、結婚して、娘も生まれて。そんなときに、父の死亡通知が届いたの。1975年のことよ。色々あって、私は離婚したわ。娘の親権は相手に取られてしまって寂しい思いもしたけれど、娘は今、アトランタで元気に暮らしてる」
 水割りを含み、セツコが持ち歩いているセカンドバッグから何かを取り出す。
 三枚の写真だった。セツコはそれらをカウンターに並べ、見入っている。三枚とも、龍には見覚えがあった。メッセンジャーで最初にセツコが送信してきた、あの写真だ。
「母の写真は、形見のようなものなの。ほら、こっちの家族写真もそうだけれど、私が物心ついたとき、もう手許にあったわ」
 並べられたうち、一枚の写真を指し、龍は訊いた。
「では、この一枚は?」
 三枚のうち、唯一のカラー写真だ。軍服姿の兵士たちが六人、写っている。皆が笑顔を浮かべ、それぞれが機関銃らしきライフルを手にしていた。
「父の死亡通知が来たあと、戦友だったって人がうちを訪ねてきたの。その人によると、父はベトコンから仲間を守るために死んだそうよ。爆弾の入った包を全身で覆うようにして。体はバラバラに飛び散って、何も残らなかった。その訊ねてきた戦友という人が、私にその写真をくれたの。ほら、真ん中に二人いるでしょう。左側が父よ」
 ヘネシーの注がれたグラスが、汗をかいている。
「父に命を救われた兵士の名を、その人は教えてくれたわ。ミック・マーベルというそうよ。でも戦争が終わって、姿をくらましてしまったらしいの」
 店内に、うっすらとスティングが流れていた。
「話は変わるけれど」
 おしぼりでグラスを拭い、セツコが訊く。
「龍くん、あなた、ガールフレンドは?」
 苦笑し、龍は答えた。
「いませんよ、そんなの」
「あら、モテそうなのに。意中の人もいないの?」
 逡巡した。
 高校時代から、何人かの女と交際したが、惚れているわけではなかった。惚れた相手は、雨宮幸子だ。たとえ誰かを抱いていても、心まで奪われたことはない。そんなときでさえ、脳裏には幸子が霞むのだった。長い、長い恋煩いといえる。
「まあ、いないこともないですけど」
 自身の歯切れが悪くなっていることに、龍は気づいた。

29

 若い女の声だ。少女というのではないが、成人している。女が話すのを、武藤は待ち続けた。告解室に入り、十分近くが経っている。沈黙の途中、女が洟を啜る音がした。泣いているのだ。それが治まり、ようやく女が話し始める。
「風俗で、働いています」
 そうですか、と武藤はいった。
「借金があったんです、何億も。それはもう返済が終わってるんですけど」
 鼻から息を吐き、話を聞いている、という意思を示した。
「元々は芸能活動をしてたんです。でも、ダメになっちゃって・・・」
「色々あったのですね」
 武藤がいうと、衝立の向こうで頷く気配がした。
「薬というのではないですけど、あの、麻薬でした。大麻です。それで、事務所をクビになっちゃって」
「そうでしょうね。大麻でしたら、さほど依存性があるとは思えません。今はもう?」
「はい」
 罪の告白か、それとも人生相談か。あるいは、その両方かもしれない。
「なぜ性風俗店で働くのです?借金は返したのでしょう?」
 武藤が訊くと、女が息を吸う音が聞こえた。
「借金は返しましたけど、その、引っ越すお金がなかったんです。元はそれなりの暮らしをしていましたから、その生活を変えなきゃならなかったんですけど」
 女が続けるのを待つ。
「いきなり暮らしを質素にするのは難しくて、家賃も高いんです。引っ越すお金もなくて、それで風俗に」
 吐露した女が、すみません、と詫びた。
「なぜ謝るんです?」
 声に聞き覚えはなく、醸す気配も記憶にない。礼拝にきたことのない女だろう。教会の神父が告解と称し、罪の懺悔と共に人生相談も行っていることを、どこかで聞いて来たのだ。
「いきなり来ちゃって、ごめんなさい。でも、誰かに相談したくて」
 謝ることはありませんよ、と武藤は告げた。
「そのためにこの部屋はあるんです。どうぞお話なさってください」
「ありがとうございます」
 また女が洟を啜り始めた。しゃくりあげつつ、言葉を発する。
「もうあたし、どうしていいかわかんなくて」
 武藤は微笑んだが、衝立で見えないだろう。それを取り払い、笑顔を見せ、慰め、大丈夫だ、と声をかけてやりたい気持ちだった。
「大丈夫ですよ。性風俗店で働いているのは、ただズルズルと、といったところでしょう」
 女の頷く気配。
「いくらかのお金を貯めればいいんです。主に引っ越し費用ですね。引っ越しを済ませて、もちろん家賃を抑えられる物件に、です。芸能活動をしておられたといいましたね」
「はい」
「華やかな生活だったでしょう。ですが、それは終わらせる必要があります。節約なんて、多くの人がしていますよ。あなたも、そういった暮らしに戻ればいいんです」
 女が感情に支配され、ここに来ているのがわかる。ならば、感情は排し、論理的にアドバイスすればいいのだった。女のしゃくりあげる頻度が、徐々に下がってゆく。高ぶった感情が治まりつつあるようだ。
「生活を再建して、普通の暮らしに戻ればいいのですよ。あなたはまだお若いようです。仕事など、選ぶ余地が大いにあります。それに・・・」
 息をつき、武藤は続けた。
「性風俗店で働くことが悪いことだとは私は思いません。胸を張っておられる方もいます。ただ、辞めたいのでしたら、それは辞めるべきです。まずはお金を貯めて、それまでは今のお仕事を辛抱して、それから生活を改めましょう。充分に可能ですよ。違いますか」
 そうですよね、と女が呟く。
 衝立の向こうで、安堵の溜息が聞こえた。

30

 それは冗談めかしての発言だったが、実のところ冗談ではなく、本気なのだろう。
 受け取った名刺は、テーブルの上に放り投げたままだった。テレビの中で田端が喋っている。やはり関西弁だ。レギュラーとゲストが計七名。トーク番組の司会を務め、番組を仕切っているのが田端だった。話は萌奈の耳には入ってきていたが、頭には入ってこない。
 もし萌奈がその気で赴けば、田端は喜んで抱くだろう。
 事務所に入るとき、社員にいわれたことはあった。仕事のために誰かと寝なければならないこともあるかもしれない、と。それが、今なのだろうか。
 仕事は欲しい。今が踏ん張りどころなのだ。田端に抱かれておけば、当面は安泰とも考えられる。
 だが、心理的な抵抗があった。好きでもない男となど、寝たくない。抱かれたくない。あんなオヤジと、セックスしたくない。
 汚されたくない。処女などではないが、そんなのは嫌だ。
 スマートフォンを手に取った。指紋でロックを解除し、リダイアルをタップする。何度も下へと画面をスクロールすると、『雨宮さん』という表示が現れた。電話をかけたのは、それだけ前のことなのだ。
 思い切って名をタップする。莉緒さんは、もう芸能界にはいない。薬物で逮捕され、すでに事務所を解雇されて久しい。今はどうしているだろう。東京にいるのか、それとも地元に。あるいは、海外にでもいるのかもしれない。何せ、アダルトビデオに出てしまったのだ。コールが四回続き、萌奈は焦れた。
「はい」
 莉緒が出た。回線が繋がった。
「あの、莉緒さん?」
「うん。萌奈ちゃん?」
 心なしか、声のトーンが低い。当然といえばそうだ。芸能界を追われ、脱がされ、セックスシーンを晒され、と散々な目に遭っている。
「元気?萌奈ちゃん」
「はい。どうにか元気です。莉緒さんは?」
 莉緒が低く笑う。事務所の大先輩だ。失礼は許されないが、頼れる姉貴分といった存在でもある。相談できる相手は、莉緒しかいない。
「こっちもどうにかやってるよ。躁鬱なのかな、落ちたり浮いたり沈んだり。いや、浮いたりはしてないかな。やっぱ、つらいよ」
 現状を吐露し、莉緒が悲しいニュアンスで自嘲した。
「どうしたの、萌奈ちゃん。電話してくるってことは、何かあったね?」
 妙なところで勘のいい人だ。それとも、あと十年かそこら経ち、三十路も見えてくる頃には、萌奈もそうなるのだろうか。はい、と萌奈は答え、話し始めた。
「田端さんを知ってますよね」
「田端さんって、田端康孝?」
 はい、と萌奈はもう一度肯定した。
「あの、枕っていうんですか、『ワシに抱かれておかないか』みたいなこと、いわれたんです。田端さんの誕生パーティーだったんですけど、そこにいた出光さんも、なんかノリノリで、『このチャンスをものにすべき』みたいなこといってて・・・」
 莉緒が小さく息を吐くのが聞こえる。
「もう、どうしていいかわかんなくて、こうして電話しちゃったんです」
 束の間、沈黙が降りた。莉緒が黙考している。
「萌奈ちゃん」
 不意に、莉緒が呼んだ。諭すような、優しい口調だった。
「はい」
「あたしも、したことあるんだ、枕」
 そうなんですか、と萌奈は少し驚き、答えた。
「うん。それも、田端康孝に、ね」
 そうなのだ。やはり田端が若い女優やタレントを食うというのは本当なのだ。
「実際、それからお仕事はたくさん貰えるようになったよ。それは、田端さんのお誘いに乗ったからだと思う。でもね」
 少し間を置き、莉緒が続ける。
「すり減るよ。大事なものが」
 息を吐き、萌奈はいった。
「そうなんですね」
「うん。やっぱり、セックスは好きな人としたいよね」
 ごめんね、アドバイスになってなくて、と莉緒が詫びる。
「いえ、いいんです。ただ悩みを打ち明けたくて、聞いてほしくて。それと、莉緒さんが元気でいるのかも知りたかったし」
 莉緒に話したことで、少しだけ気が楽になった感がある。だが、田端と寝るかどうかは、別の話だ。
 そして近況を報告し合い、二人は通話を終えた。
 田端の出演する番組は終わり、コマーシャルが流れていた。

31

 スティーブはいつもの路上で相も変わらず客を引いていた。六本木三丁目、外苑東通り沿いだ。
「ディスコ、ディスコ、ワンチケット、フリードリンクワン、ディスコ、ディスコ、レゲエクラブ、キングストン」
 外国人の経営するいくつかの店で客引きを務めるスティーブがどこの国からやってきたのか、武藤は知らない。あるときはトンガ人、あるときはナイジェリア出身と語り、ある時はコンゴから来たという。この街によくいる、わけのわからない外国人の一人だ。スティーブという名も、この国で暮らすのに都合のいいセカンドネームなのだろう。怪しい外国人には違いないのだが、この街での客引き歴は長く、裏事情にも詳しい男だった。
「ディスコ、ディスコ、ワンドリンクフリーチケット」
 今夜は三丁目にあるレゲエクラブ、『キングストン』のチケットを配り、客を引いているようだ。通行人に片っ端から声をかけ、眼の前にチケットを見せ、半ば押し付けるように手渡す。そのチケットを店に持参すればドリンクが一杯無料となるのだが、アルコール類は除外される。タダで飲めるのは水か、ソフトドリンクの類だった。腹の突き出たダルマのような体形をTシャツとハーフパンツで包み、肌も縮れ毛の短髪も黒く、歯と眼だけが白い。
「スティーブ」
 眼に力を込め、声をかけると、スティーブが振り返り、眼を泳がせた。
「武藤サン」
 しばしの間があり、スティーブがいう。こちらの名を思い出すのに、それだけの時間を要したのだろう。
 単刀直入に、武藤は訊いた。
「戸籍を売ったり買ったりしてる奴がいる。知らないか」
「知ラナイ」
 即答された。聞く耳を持たない。
「知らないはずはないさ、お前さんなら」
 眼を閉じ、スティーブが両肩を竦めて見せる。すっとぼけているのがよくわかった。
「もちろん、やくざじゃない。堅気か、それに近い奴だろう」
 戸籍の売買は本来やくざの商売だ。素人が無断で食い込めば、それなりの制裁が待っている。荒武に戸籍を打ったのが侠撰会やその他暴力団ではないことは確かだった。もしやくざの仕事なら、阿南はそれを把握しているはずなのだ。
「何かいえよ、スティーブ」
 スティーブが眼を開き、肩の力を抜いた。
「ソレ知リタイ、ナゼ」
 訊くスティーブの眼に、微かながら慄きの色がある。武藤がかつてどんな稼業で食っていたか、この男もよく知っているのだった。
「武藤サン、知ラナクテイイ。アナタ、今ハ神父サン」
「そうだ。だがな、少し調べなければならなくなった」
 再び眼を閉じ、今度はスティーブが首を横に振った。その仕草には、武藤の身を案じるといったニュアンスも含まれている。
「頼む、スティーブ。ヒントだけでも欲しいんだ」
 武藤は懇願し、眼を伏せた。やや間があり、スティーブがいう。
「ワタシカラ聞イタコト、シークレット」
 もちろんだ、と武藤は答えた。
「イヨー・アフリカン」
 聞き覚えのある店の名だ。アフリカ、といっても広いが、主にタンザニアやボリビアでポピュラーな料理を出す食堂の名だった。
「若イスタッフニ訊イテミテ」
 眼から力を抜くと、ようやくスティーブの頬も綻ぶ。
 礼をいい、武藤は三丁目の路地へと折れた。

32

 三鷹で長く暮らす老婆の口から出た『ラール』という名の店をスマートフォンで検索したが、ヒットしなかった。無理もない。その店があったのは七十年も前の話なのだ。カタカナ、英語表記、イタリア語表記と手を変えてみたが、結果は同じだ。
「仕方がないわよね、わたしが子供の頃の話なんだもの」
 助手席のセツコが呟く。六本木五丁目、芋洗い坂近くのコインパーキングだった。
 思いつき、龍は提案した。
「じゃあ、老舗を当たってみませんか」
 老舗?とセツコが訊く。
「ええ。長い歴史を持つ店なら、何か手がかりが摑めるかも知れない」
 改めて検索すると、いわゆる老舗と呼ばれる飲食店がいくつかヒットした。創業昭和〇〇年、といった具合だ。ヒットした中で最も古い店は、昭和二十一年に始まったというピザハウスなようだ。『アン』という店の名が表示されている。六本木五丁目。地図アプリを起動すると、眼と鼻の先にあることがわかった。
「いってみませんか、セツコさん」
 そうね、と微笑みながらいい。セツコが助手席のドアを開く。二人はパーキングの敷地から出ると、芋洗い坂を昇り始めた。午後七時。平日、それも宵の口だというのに、街は人で溢れている。
「初めてくるのも同然なのに、なんだか感慨深いわ」
 隣を歩くセツコがいう。
「父と母は、この街で、その、デートを重ねたのかしらね」
 きっとそうなのでしょう、と龍は答えた。五分ほど歩くと、『アン』の入ったビルが見えてくる。店の名は、カタカナ表記だった。
 ビルの一階に入っている店へと踏み入る。ウェイターが二人をテーブルへと案内した。ビルの外観は決して古くはないが、内装はあえてレトロ調に整えてある。壁という壁に古い写真が貼り付けてあった。その多くがモノクロだ。
「おなか減っちゃったわ」
 セツコが笑いながら空腹を訴える。
「ついでに何か食べていきますか」
「そうしましょう。ビールも飲んじゃおう。今夜はこの街に宿を取ることにして」
 マルゲリータを二枚とビールを註文し、ほどなくすると、ウェイターがそれらを運んできた。
「お待たせしました。マルゲリータとグラスビールです」
 ありがとう、とセツコが礼を述べる。
「ウェイターさん」
 セツコが声をかけると、ウェイターが微笑みつつ首を僅かに傾げた。三十になるかどうか、黒い長髪をポニーテールにした若い男だった。
「このお店で最も古い人はどの方かしら。少しお話がしたいの」
 わずかの間に思案し、お待ちくださいといい残したウェイターが去った。
「食べながら待ちましょ、龍くん」
 セツコの言葉に従い、龍はセツコとビールで乾杯した。
 カットされたピザに舌鼓を打っていると、白いエプロン姿の中年が姿を現し、テーブルに近づいてきた。髪をブラウンに染め、若作りしているが、五十は下らないだろう。
「いらっしゃいませ、オーナーの浅野です」
 男は名乗り、頭を下げた。
「浅野さんとおっしゃるのね。このお店はあなたで何代目?」
 セツコが訊く。
「私で四代目になります。先代はもう亡くなりました。私は元々ここのスタッフだったんです」
「この写真に見覚えはないかしら」
 バッグから写真を取り出し、セツコが訊ねる。並んで映る兵士のうち、父親を指していた。
「ブラッド・オズボーンという人。わたしの父なの。さすがに見覚えなんてないわよね。あなたはお若いから」
 いやあ、と浅野が苦笑いし、答えた。
「そうですね、ずいぶん古い写真に見えます。戦地での物でしょうか。お父上は六本木に所縁のある方なんですか」
 ええ、とセツコがいった。
「父と母はこの街で出会ったらしくて、その軌跡を辿りにわたし、はるばるアメリカから来たのよ。こちらはそのお手伝いをしてくれている大学院生の香村龍くん」
 紹介され、龍は会釈した。
「そういうことでしたら、そうですね、『モダン・ボガ』にいってみるといいかもしれません」
 そのお店も古いの?とセツコが訊いた。
「古いですよ。うちとさほど変わらない頃からある店だと聞いていますから。もしよろしければ、オーナーにお話を通しておきますよ」
「それはありがたいわ」
 いったセツコがビールを呷る。グラスの残りを、全て飲み干した。
「今夜はこの街に宿を取るから、明日の夜に伺うわ」
 セツコがいうと、浅野が頷く。
「承知しました。あらかじめ電話を入れておきます。六本木の七丁目、西麻布との境にある店ですよ」

33

 店のドアを開くと、談笑していた黒人たちが押し黙った。視線が武藤に集まる。客もスタッフも黒人ばかりだ。何だ、この黄色いの、といった眼で皆がこちらを注視する。視線を無視し、テーブルに着いた。一つずつ、視線が離れてゆくのを感じる。だが、黒人たちの談笑が再開されるには、いくらかの時間が必要なようだった。この店を日本人が訪れることなど稀なのだろう。
 浅黒い肌をしたウェイターが近づいてくる。武藤は辺りを見回した。スタッフの中では最も若い。パウチされたメニューをテーブルの上に広げ、若いスタッフが訊く。
「何にします?」
 流暢な日本語だった。まだ三十にはなっていない。羽振りがいいのか、指にはクロムハーツが四つ光っていた。長い髪は縮れておらず、後ろで一つに束ねられている。混血らしい。
「水でいい」
 他の客が噴き出すのが聞こえる。何か註文すべきか迷ったが、さほどの金を持っていない。他の客やスタッフが聞き耳を立てているのがわかった。
「ミネラルウォーター?水道水?」
 ウェイターが訊き、さらに数人の客が噴き出す。後者だ、と武藤が告げると、若いウェイターが退き下がり、間もなく水の入ったグラスを手に戻ってきた。
「日本語が堪能だな」
 訊くと、ウェイタ―が笑う。
「生まれも育ちもこの街ですよ。あなたのことも知ってます。武藤さんでしょう」
 頷き、武藤は名を訊いた。クンア、という答えが返ってくる。黒いジレベストの下で、これもまたクロムハーツのチョーカーが光っていた。
「好きなのか、クロムハーツ」
 ええ、とクンアが答える。
「いい給料を貰っているんだな」
「そんなことはないですよ」
 クンアが否定し、テーブルのメニューを片付け始めた。こちらに食事をする気がないことを理解したようだ。
「戸籍の売り買いをしてる輩がいる。やくざじゃない。堅気でもないだろうが。知らんか、クンア」
 僅かにクンアが首を横に振った。
「戸籍の売買、ですか」
 そうだ、と武藤はいった。
「知りませんね。知っていても、あなたに嗅ぎつかれれば危ない。話す奴などいないでしょうね」
 やはり、こちらが何者なのか知っている。生まれも育ちもこの街、というのは本当なのだろう。だが、この若い混血が何か知っているのは間違いない。武藤の勘が、そういっていた。
「含みを持たせるいい方をするんだな」
 呟き、武藤は水に口をつけた。
「そんなつもりはないですよ。もしそう感じたのなら、誤解です。それを招いたことは詫びますが」
 わざとらしく溜息をつき、クンアが去る。もうこちらの相手をする気はないらしい。
 無駄だった。話したところで腹の探り合いに終わる。
 グラスを置き、武藤は店を辞した。

34

 田端に抱かれれば、仕事が増えるのは間違いない。出光のいう通り、これはチャンスといっていい。売れているタレントや女優は誰でも、一度は通る道なのかも知れなかった。
 だが、そうでなかったら。
 だいたい、一度抱かれるだけで済むのだろうか。鼻の下を伸ばした赤ら顔が浮かぶ。一度だけではなく、二度、三度と求めてきたら、どう対応すべきなのだろうか。
 気持ちを切り替えるべく、萌奈はコーヒーを淹れた。インスタントではなく、挽いた豆を丹念に何層もコーヒーペーパーへと敷き、ケトルで湯を沸かす。
 一度だけなら、抱かれても。そんな気もする。だが、二度、三度となれば、下手をすればスキャンダルだ。二人きりで会っている現場をカメラに収めれられれば、萌奈だけではなく、事務所も痛い思いをする。キャリアに傷をつけられかねない。チャンスなのか。それともこれは危機なのだろうか。
 気が付くと、ケトルが音を挙げていた。湯が沸騰している。火を消し、ケトルを持ち上げ、グラスポットの置かれたテーブルへと運ぶ。
 もし抱かれるとして、それはただ抱かれるだけなのか。それとも田端は特殊な趣味を持っているのか。変態のようなプレイを強要される恐れもある。もしそうなら、自分はどうなってしまうのか。仕事をエサに、田端は日頃満たせぬ歪な欲望を萌奈にぶつけるのだろうか。
 様々な思索が頭にまとわりつき、離れない。コーヒーを飲んだが、無駄だった。時計を見る。日付が変わろうとしていた。明日も仕事だ。水着の撮影が入っている。六時には部屋を出なければならず、そのためにすぐにでも眠らなければならない。
 この心理状態では、とても入眠できそうになかった。
 マスクを着け、眼鏡をかける。充分な変装だ。散歩でもして気持ちを切り替えよう。
 部屋を出た。エレベーターで一階へと降りる。夜の街を歩き出す。もうそろそろ終電もなくなる時刻だった。街からは人の姿が消えつつあるが、それでも渋谷の繁華街やその近くは人がいる。芸能人だと気付かれる心配はないだろうが、人の姿は避けたい。
 バスロータリーを抜け、玉川通りへと向かう。ふらふらと歩いていると、いつの間にか池尻大橋の近くにまで来ていた。
 そろそろ引き返そうか。そう思い、萌奈は信号が変わるのを待ち、横断歩道を渡った。首都高三号渋谷線の高架が、夜空を塞いでいる。
 中央分離帯まで歩いたとき、タイヤの擦れる音がした。近い。視線を移すと、銀色のコンテナを積んだトラックがこちらに接近してくる。ブレーキをかける気配はなかった。
 萌奈は飛び退き、中央分離帯に置かれた段ボールハウスに凭れかかった。トラックが急停止する。傍らをもう一台、こちらは黒いSUVが走り抜け、タイヤを軋ませつつ停止した。何事だろうか。
 トラック、SUV双方から黒服の男たちが降り立ち、段ボールハウスに襲い掛かる。そのうち一人が、こちらの存在に気づいた。何か英語で報告している。周りの男たちの視線が萌奈に集まった。そして、二人の黒服が近づいてくる。萌奈は踵を返し、逃げ出した。視界の隅で、段ボールハウスから一人のホームレスが引きずり出され、コンテナに放り込まれていた。
 足払いをかけられ、萌奈は派手に転んだ。眼鏡が路面に転がる。背に重圧を感じた。足で踏みつけられていた。
 二言、三言、黒服が英語で意思疎通していた。そして間もなく萌奈は抱き上げられ、ホームレス同様、コンテナへと放り込まれた。悲鳴をあげ、助けを求めたが、無駄だ。コンテナの観音扉が閉じられ、車体が急発進した。コンテナの床に尻餅をつき、萌奈は四肢を床に突っ張った。臭気が鼻を衝く。先ほどのホームレスも中にいるはずだ。その臭いだろう。だが、照明のない闇の中、萌奈には何も見えなかった。
 時間の感覚がない。一時間か、ほんの五分か、揺られ続けた頃だった。男の声が聞こえる。
「あんた、運がなかったな」
 鼻が臭気に慣れ、眼も闇に慣れてきたのか、ホームレスの姿が視界に浮かび上がる。コンテナの壁を背に、ホームレスは佇んでいる。
「これ、何なんですか。あたし、関係ないですよ」
 萌奈が主張すると、ホームレスが笑う。
「奴らにいえ。無駄だろうが」
 このトラックは今どの辺りを走っているのだろう。時間の感覚だけではなく、方向感覚も無くなっている。
「奴ら、わしの眼を買うといってきた」
 ホームレスのいう意味がわからない。首を傾げると、ホームレスは続けた。
「断り続けていたんだよ、わしは。金を手にしたところで、元の暮らしに戻りたいとは思わん。一度全てを捨てたんだ。今のわしに金など無意味だ。だが、こうなった。奴ら、わしの眼を抉り出すつもりだ」
 知ったことか。それでなぜ自分までこの騒ぎに巻き込まれなければならないのか。
「角膜だ。奴らが狙っているのは。お前さんは目撃者だな。奴らにとってはアクシデントだ。連れていくしかなかったんだろう」

35

 ホテルの別室で眼を覚ました二人はロビーで待ち合わせ、午前中を国立新美術館で過ごした。昼食を済ませ、昼下がりの今、ミッドタウンの中庭にあるカフェのテラスでコーヒーを飲み、話をしている。
「なんていいましたっけ、その、お父さんに命を救われて姿をくらましてしまった、っていう人」
「ミック・マーベルよ」
 カップをソーサーに置き、セツコが答える。笑顔だった。
「別にね、父の仇だなんて思ってはいないわ」
 龍はアメリカンを啜り、セツコの発する言葉の続きを待った。
「怨んでもいない。憎んでもいない。でも、なぜ姿を消してしまったのか、その事情を聞きたいという気持ちはあるわ。きっと何か事情があって、姿を消してしまったのよ」
 日が暮れ、二人は連れ立ち、西麻布へと向かった。星条旗通りをしばらく歩いた先に、『モダン・ボガ』というその老舗イタリア料理店はある。ビルではなく、戸建ての店構えをしていた。
「浅野さんから聞いていないかしら。オーナーさんにご用なの」
 ドアを開き、セツコがいう。店内のテーブル席はほとんどが埋まっていた。お待ちください、とウェイターが消え、代わりに七十代と思しき白髪の男が現れ、二人を別室へといざなった。
「こちらへどうぞ」
 咳のような声で男が部屋へと案内する。二人は部屋に入り、男の勧めるままにソファへと腰を降ろす。男がドアを内側から閉じた。六畳ほどの応接間じみた部屋だった。古い暖炉があり、壁には油絵が飾られている。
「浅野くんから電話を貰いました。なんでもアメリカからいらしたそうで」
 男が名刺を二枚差し出す。モダン・ボガ。オーナーという肩書の後に、ランドローズ・タンという名が記されていた。よく観察すると、白人だった。
「そうなの。おおよそのお話は浅野さんから聞いていると思うけれど、父と母の足跡を辿っているの。こちらは助手の香村龍くん」
 紹介され、龍は名刺を手に、頂戴します、と呟いた。微笑む白髪の男はセツコと同年代に見える。テーブルの上に、一冊のアルバムが置かれていた。
「写真を拝見できますか、ご婦人」
「セツコよ。セツコ・オズボーン」
 セツコが名乗ると、ランドローズの眼が見開かれた。
「オズボーンさんとおっしゃるのですね」
 ええ、と答え、セツコが写真を取り出す。
「父の名はブラッド・オズボーンというわ。心当たりがおありで?」
「ええ、ほぼ間違いないでしょう。あなたのお父さんは、この店に出資した一人ですよ」
 セツコが息を呑む気配がある。ランドローズがアルバムを開き、セツコの取り出した写真と見比べていた。頷いている。
「先代は私の父ですが、あなたのお父さんと同じく、この店に出資した一人でした。進駐軍の兵士としてこの国の土を踏みまして、イタリア系の米国人でしたから、他にも似たような経緯でオープンした店は多々あったそうですが、うちも同様に本場の味を出す店として開かれたんですよ」
 ランドローズがアルバムのページを開き、差し出してくる。セツコが受け取り、見入っていた。そしてセツコの眼が、潤んだ。
「パパ。父だわ・・・」
「はい。その写真に写っているのは、あなたのお父さんですよ。その隣は私の父、ニコラスです。二人は戦友でした。部隊は別だったようですが、共同のような形でこの店を出したんです。セツコさん、もうお互い、父親は亡くしてしまったのでしょうな」
 セツコはアルバムから顔を上げ、話した。
「はい。ベトナムで亡くなりました。仲間、若い部下だったそうですけど、身を挺してその部下を守って、亡くなったそうです」
 深く頷き、ランドローズがいう。
「そうでしたか。それは残念でした。私の父はのちに異動を命じられてこの街を離れましたが、セツコさん、あなたのお父さんはベトナムへと渡ったのですね。それは立派な最期だったのだと思いますよ」
 セツコが微笑み、いう。
「でも嬉しいわ。こんなところで父の遺影に会えるだなんて。浅野さんにもお礼をいわなきゃね」
 ランドローズが笑う。
「礼には及ばんでしょう。うちもあちらも古い店ですから、訪ねてくる方は少なくないんですよ。でもよかったですね、セツコさん。お父さんの足跡が見つかったのですから」
 ええ、本当に。とセツコが答えた。
「この西麻布や六本木といった界隈は、かつて武家屋敷、というのですか、そんな建物ばかりの並ぶ、高級住宅街だったと聞いています。ところが太平洋戦争が終結し、赤坂にアメリカの大使館ができたでしょう?軍人や軍属を始めとして、大勢のアメリカ人が盛り場を求めて、雇用された日本人も集まり、そこから盛り場としての歴史が始まったそうです。今でも私のような外国人が多いのも、その名残かも知れませんね」
 眼に穏やかな光を湛え、ランドローズが語る。
「新宿や渋谷といった街には戦前から人が集まっていたそうですが、この辺りに人が集まり始めたのは戦後になってからだそうで、盛り場としての歴史は浅いようですね」
 ランドローズの語りに頷き、そして表情を改めたセツコが訊いた。
「ところでランドローズさん、ミック・マーベルという方をご存じないかしら?」
 セツコがその名を出したとき、ランドローズの表情に不自然な影が浮かぶのを、龍は見逃さなかった。さきほどとは打って変わり、眼に険がある。何かを窺うような、そんな眼をしていた。
「ミック・マーベル、ですか・・・」
「ええ。ベトナムの戦地で、父が命を捨てて守った部下だそうです。戦後はそのまま姿を消してしまったそうなのだけど」
「・・・その方にお会いして、どうするんです」
 微笑し、セツコが答えた。
「特に何も。お話を伺いたいだけです。怨んでも、憎んでもいませんから。父の仇だなんて考えてもいない。ただ、なぜ姿を消してしまったのか聞きたいだけなんです。きっと何か事情があって、それに、その方もつらい思いをしたはずだわ」
 やや逡巡の間があり、ランドローズが回答した。
「残念ですが、存じ上げませんね」
 そうですか、と答えるセツコの口調に、未練の色はない。
「今日は本当にありがとう、ランドローズさん。父の足跡が見つかって、本当によかったわ」
 礼をいい、二人は店を辞した。店の裏口に人影がある。ホームレスと思しき男が、スタッフからピザの残りか何か、食い物を受け取っていた。
セツコと肩を並べ、星条旗通りを六本木方面へと歩く。時折、空車のタクシーが傍らを通り過ぎた。
「セツコさん、あのランドローズ・タンっていうオーナー、何か知ってますよ、そのミック・マーベルっていう人について」
 そのようね、とセツコが呟く。
「わたしにもわかったわ。何か隠しているのが」
 外苑東通りに出る。遠く、東京タワーが赤く発光していた。
「何をぶつけてみようかしら。正攻法では口を割らないでしょうね、あのオーナーさん」
 不敵とも取れる笑みを、セツコが頬に浮かべている。

36

 午前二時半を過ぎ、クンアが店を出てきた。私服だ。街のネオンを反射するクロムハーツだけが変わらない。クンアは尾ける武藤に気づくでもなく、三丁目の路地から外苑東通りへと出た。肩で風を切り、人でごった返す歩道を歩いている。
 外苑東通りに面したビルのエレベーターへとクンアが乗り込み、扉が閉じた。箱が上昇するのを待ち、武藤は扉の前に立つ。箱は七階で停止したようだ。壁に貼り付けられたテナントの案内板に、『サウス・ズー』の名がある。たしか以前は『エグゼクティブ・シンシア』という名のクラブだったと記憶していた。薬物、売春、喧嘩と度々警察の手入れがあり、そのつど店の名を変えオーナーが替わり、それでも営業を続ける六本木でも有名な悪名高いクラブの一つだ。
 上昇ボタンを押すと、箱が七階から降りてくる。扉が開き、武藤は乗り込んだ。七階のボタンを押すと、扉が閉まる。箱が上昇を始め、箱の窓から夜の街を俯瞰する恰好となった。トランスの重低音が近づいてくる。
 七階に到着し、扉が開く。途端に強烈な重低音が武藤を包んだ。音が巨大なだけではない。地響きにも似た音圧が、フロア全体を揺さぶっている。「ハアイ!」
 机が一つあり、外国人だろう、女が声をかけてくる。受付らしい。机にはスタンプ台と、小さな金庫が置かれていた。
「千三百円、ワンドリンク!」
 淀みのない日本語で女が愛想よくいう。大音量のトランスにかき消され気味だったが、かろうじて聞き取れた。武藤が紙幣を渡すと、女がそれを金庫へ収め、釣りを手渡してくる。武藤が受け取ると、その手に女がスタンプを押した。翼を模した模様がブラックライトに反応し、妖しく光る。
 フロアへと踏み入った。踊り狂う人でフロアはごった返し、そのほとんどが外国人だ。カウンター、DJブース。見回すと、それらしき空間が見える。VIPルームだ。人ごみをかき分け、武藤はそちらへと歩き出した。
 フロアの隅に、半透明のパテーションで区切られた一角があり、そこがVIPルームであるらしかった。武藤が近づくと、黒いスーツを着た二人の黒人が立ちはだかり、険のある眼差しを向けてくる。パテーションは薄く、人影が透けていた。ポニーテールの影が揺れ動く。クンアだ。
 立ちはだかる二人の黒服が首を横に振る。ここから先に通す気はないようだ。二人との距離が縮まり、巨大な体躯で二人がこちらを押しやる。バランスを崩した武藤はたたらを踏み、二人の肩越しにパテーションの方へと視線をやった。クンアがパテーションから顔を出し、こちらを見ている。一瞬だけ視線が合い、そしてクンアの顔はパテーションに消えた。影だけが残る。
 二人の黒服が迫り、こちらを次々と黒い手で押してきた。後退を続けると、すでに受付付近まで押しやられていた。女がこちらへ眼をやり、肩をすくめて見せ、煙草に火を着けた。長細い煙を吐き出し、床に灰を落としている。
 武藤をエレベーターの前まで押しやると、二人の黒服が踵を返し、フロアの奥へと消えた。この辺りでいいのではないか。武藤には、そんな気がしていた。
 エレベーターの箱に乗り込む。扉が閉まり、箱が下降を始める。夜の六本木を眺めつつ、武藤は黙考した。
 自分は一度服役し、さらにしゃぶで使い物にならなくなった過去がある。やくざとして生きていけなくなり、破門されているのだ。優秀なやくざだったという自負はあるものの、阿南に断った通り、もうあの世界に戻る気などない。自分を指名し、動かしているのが侠撰会の会長である磯部だと阿南はいっていたが、こうして調査に行き詰ったのであれば、やはりあいつは使えない、と放免されるのではないか。
 しかし阿南はどうだろう。調査にいき詰まれば、それを半端だとこちらを責めるだろうか。完遂しろ、と強いてくるだろうか。武藤がやくざとして優れた人材であったことは、磯部よりも阿南がよく理解している。
 思えば、筋を通した辞め方ではなかった。指を詰めず、金も積まず、ただ捨てられたに過ぎない。このままでは、やはり阿南は諦めないだろう。どうにかしてこちらに調査させ、その収穫を実績として認める形で組織に再び迎えようと考えるはずだった。
 一階に到着し、扉が開く。箱から降り、外苑東通りに出た。路地を縫い、教会へと帰途を辿る。路地へと折れると、僅かに街の雑踏が遠くなった。「武藤サン」
 不意に背後から声をかけられた。聞き覚えのある声とイントネーションだ。振り返ると、スティーブが立っている。
「何もわからなかったよ、スティーブ」
 武藤が告げると、黒い影が増えた。スティーブの傍らに、もう三人の黒人が立つ。
「ユニオン・アフリカーヌ」
 何、と武藤は訊いた。
「チーム。黒人ノ。武藤サン、ナンデ調ベテル?」
 振り返ると、背後にも黒人が四人いた。視線をスティーブに戻し、武藤はもう一度訊いた。
「ユニオン・アフリカーヌ?」
 スティーブが頷く。
「ソウ。クンア、ソノ、ボス」
 ほう、と武藤はいい、スティーブを睨み据えた。
「で、お前もその一味というわけか、スティーブ」
 スティーブが頷くのと、黒人たちが動くのが同時だった。多勢に無勢だ。抵抗は無駄だろう。瞬く間に武藤は縛り上げられた。タイヤの転がる音が近づいてくる。眼をやると、黒いサバーバンが眼前で急停止し、さらに中から黒人たちが降り立ち、武藤を担ぎあげた。車内へと放り込まれ、スライドドアが閉じられる。
 バンが急発進する。武藤はフロアを横に転がり、頭をしたたかに打ち付けた。鈍痛が頭部全体を襲い、続いて視界が閉ざされる。後頭部に何か縛るような感覚があった。目隠しでもされたらしい。

37

 自宅マンションのエントランス前には、スーツ姿の男が二人立っていた。日付が変わり、三時間が経とうとしている。二人の男が不動産関係者であることは容易に見当がついた。もう三か月分は家賃を滞納している。教会で助言を受けたものの、仕事に身が入らなくなり、指名率は落ち続け、今夜も待合所に出勤したものの、指名は一度も入らなかった。このままじゃクビだよ、と店のスタッフに脅されたこともある。スタッフはPCの画面を幸子に見せ、そういった。表示されているのは、どこかの掲示板サイトであるらしい。風俗嬢の評判などが記され、客の体験談なども投稿されていた。雨宮莉緒の名もあり、そこにはマグロ、サービス地雷といった語句が並んでいた。
 事実、幸子の施すサービスの質は低下していた。その自覚もある。服を脱ぎ、シャワーを浴び、ベッドに横たわり、客が射精するのをただ待つのだ。この仕事を始めた当初は客の男たちにたっぷりとサービスしたが、自分は体を売っていながらあっけらかんとしていられるほど貞操観念の欠落した女ではないのだろう、次第に心がすり減り、やがて笑うことさえ難しくなった。抑うつ状態にあるのが自分でもわかる。無理に笑顔を作ればさらに心が消耗し、体は重く、自室のベッドから起き上がることすら難しく、今はマンションから職場である性風俗店の待合所まで出勤するのがやっと、といった有様だった。貯蓄などなく、収入は皆無となり、携帯も止められている。家賃など払えるわけもない。もっと賃料の安い物件へと引っ越す必要があるのだが、敷金礼金前家賃と捻出すべき金は多く、今の幸子には不動産屋を巡る気力すらない。
 エントランスの前に立つ二人の男はマンションの管理会社か、不動産屋の従業員だろう。様子を窺っていると、二人は談笑するでもなく、しきりに腕時計で時刻を確認していた。幸子が帰宅するのを待っている。こちらを待ち伏せし、家賃を払うか今すぐ退去するかと迫る気だ。
 家に帰るのは諦め、幹線道路の歩道をふらふらと歩き出した。この時刻になると道を走る車の姿は極端に減り、歩く人の数も少ない。あてもなく、ただ都心方面へと歩いた。トンネルを抜け、青学の前を通り過ぎ、西麻布交差点を渡り、六本木ヒルズの森タワーを横目に、ただ歩いた。足が痛む。スニーカーでも履いてくればよかった。
 六本木交差点に至り、幸子は乃木坂方面へと折れた。東京ミッドタウンが見える。路地へ入ると、何年も前に通っていた時期のあるBARが、そこにはまだあった。戸を押し、店内に入る。店が一階にあることが幸いした。エレベーターのないビルだ。もはや階段を昇る気力すら、幸子には残っていない。
 店の名も店内の調度も変わってはいなかったが、二人いるバーテンダーは知らない顔だった。マスターの姿はない。客は他に二組いたが、ボックス席で静かに話し込んでいる。カウンターの奥で男のバーテンダーがシェイカーを振り、席に着いた幸子に、女性のバーテンダーが註文を訊く。財布の中を思い出し、その額を意識しつつ、ビールを一杯とカクテルを四杯ほど続けざまに飲んだ。心身の疲れからか、たちまち酔いが回り、眠剤でも入れられたのかと思うほどの猛烈な眠気が襲ってくる。もうこの辺りにしておいた方が、という女性バーテンダーの言葉に従い、勘定を済ませた。財布に残ったのはコインが数枚だけだ。幸子は店を出ると、千鳥足で歩き始めたが、酩酊してしまったのか、眠気は酷く、星条旗通りへと抜ける手前でアスファルトの地面に両手を着き、動けなくなってしまった。
 もうどこへもいけない。誰にも助けを求められない。名古屋の実家へ帰る金も、両親へ連絡を取る手段も、合わせる顔もない。帰る場所はなく、いく先もない。朦朧とした意識の中、全てが終わったことを、幸子はようやく理解した。きつく閉じた両の瞼から、大量の涙が地面へと滴り落ちる。堪えていた嗚咽を漏らし、ついに幸子は声をあげて泣いた。あたし、もう、生きていけない。
 低いエンジン音が近づき、ヘッドライトがこちらを照らす。眼を開くと、ほんの二メートルほど先で小型車が停止していた。ドアの開く音。やや間があり、似た音が重なる。ヘッドライトに照らされた人影が、歩み寄ってきた。
「どうした。大丈夫?」
 若い男の声だ。続けて女の声がする。こちらは若くはない。
「こんなところで倒れていたら、車に轢かれちゃうわよ」
 眩い閃光に、少し眼が慣れてくる。ジーンズを履いた青年と、小柄な老女だ。青年が膝を折り、酔っ払いかな、と呟く。見たことのある顔だったが、幸子の意識は鮮明さを取り戻さない。
「あら、泣いているのね」
 老女が歩み寄ってくる。涙と鼻水で、化粧は酷く崩れているだろう。老女がハンカチを差し出してきた。受け取り、涙を拭く。なあ、と青年が声をかけてきた。
「雨宮、雨宮幸子か」
 眼を開き、もう一度青年の顔を見る。思い出した。香村くん。香村龍、同級生だ。
「あら、お知り合い?」
 老女が青年に訊ねる。旧知の仲である青年の顔に懐かしさを覚え、同時に安堵感が込み上げてきた。
「香村くん?」
 訊くと、青年が頷く。
「どうしたんだよ、こんなところで」
 龍がこちらの顔を覗き込む。幸子は泣きじゃくりながら、龍の首に抱き着いた。藁にも縋る思いだった。もうこの人にしか、頼れない。
「とりあえず乗れよ、車に」
 龍に抱き起されたが、もう自分の足だけでは立つことも難しかった。同級生です、と龍が老女に告げている。
「困っているのね」
 老女が微笑み、踵を返した。小さな車のドアを開き、シートを前方へと倒している。
「話なら聞くわ。龍くんのお友達なんだものね」
 ミニクーパーだ。エンジンが低くアイドルしている。後部座席へと滑り込み、幸子は息を吐いた。辛うじて眼を開くと、龍は心配げにこちらの顔を覗き込み、老女は相変わらず優しい笑みを浮かべていた。全てを話そう。そう思った。全てを話して、この二人に頼ろう。
「帰るところ、なくなっちゃった・・・」
 どうにかそれだけいい、幸子は眼を閉じた。猛烈な眠気に、抗えない。

38

 トラックはどこかの建物内に入ったようだ。エンジン音がやみ、どれほどの時間が経ったのだろう。萌奈の眼と鼻は闇と臭気に慣れつつあったが、時間の感覚だけがない。暗いコンテナの中、向かいの壁に凭れ、浮浪者が佇んでいるだけだ。しばらくの間、萌奈はコンテナの壁を内側から叩き、助けを求めたが、何者からも反応はなく、壁を叩く拳の底が痛み、疲労を感じ、声は枯れ、やがて床へと崩れ落ちてしまっていた。浮浪者の微かな息遣いだけが聞こえる。
 不安と緊張が時間の経過と共に和らぎ、代わりに空腹感を覚えた。そして、喉が渇く。襲い掛かった恐怖で汗でもかいたのか、何か飲み物が欲しい。
 不意に金具のこすれる音が鳴り、観音扉が開かれた。光が差し込み、萌奈の眼は眩んだ。二つの黒い影がある。眼が光に慣れるにつれ、影が輪郭を持ち、それらが黒服を着た二人の男たちであることを萌奈は認めた。
「降りるんだ」
 事務的な口調で一人が命じる。萌奈はコンテナの床を這い、コンクリートへと降り立った。振り返ると、壁に凭れていた浮浪者もそろそろと降りてくる。どこかの倉庫なのか、殺風景な屋内にテーブルが置かれ、その上には料理の皿が並んでいた。
 黒服の一人がボディチェックらしき手の動きで、こちらの全身を撫でる。ポケットに押し込んでいた財布を抜き取られた。
 扉の開く音がする。音の方へと振り向くと、黒服の男がもう一人現れた。灰色に近いほど退色した髪を頭皮に撫でつけた白人だ。眼鏡をかけている。見渡すと、先ほどの黒服二人も白人だった。
「テーブルに着いてください」
 慇懃な口調で眼鏡の白人がいう。萌奈は従い、二つある椅子の一つに腰を降ろした。浮浪者は足腰が弱いのか、二人の黒服に半ば引きずられるように歩かされ、椅子に座る。その様子を見ていると、左手に冷たい感触があった。視線を移すと、手錠の片方が架せられ、もう片方の輪がテーブルの脚に繋がれた。向かいから硬質な音が聞こえ、眼をやると、浮浪者も同じく片手に手錠を架せられている。
「お腹が空いたでしょう。食べてもいいんですよ」
 言葉こそ優しかったが、口調はあくまで事務的だ。財布を持った黒服がドアの向こうへと消える。
 中華料理だった。白米、牛肉の煮物、酢豚、エビチリ、シュウマイ、スープらしき汁物の椀もあり、緑色をしたピーマンの炒め物はチンジャオロースーだろうか。浮浪者の放つ臭気に慣れ切った嗅覚を料理の香りが刺激し、食欲を煽られる。湧き出る唾液が口内を満たしたが、まだ足りない。まず視界に入ったのは、湯呑に注がれた茶だった。喉がカラカラだ。とにかく水分が欲しい。
 堪らず、萌奈は右手で湯呑を摑み、茶を飲み干した。テーブルに空の湯呑を置く。
「もうちょっとほしい」
 乞うと、残った黒服が茶を注ぐ。萌奈はそれも一息で干した。
「あなたもどうぞ。見たところ、あまり栄養状態はよくないですね。まともな食事を摂っていないのではないですか」
 促された浮浪者が、恨みの色が浮かぶ視線を眼鏡の黒服に向けている。喉が潤うと、途端に萌奈の食欲が突き動かされた。箸を取り、エビチリに伸ばす。手前には取り分けるための小皿が置かれていたが、箸から直接口へと運んだ。美味い。白米が欲しくなる。箸を握った手で椀を引き寄せ、犬のような恰好で飯を頬張った。ピーマンの炒め物は、やはりチンジャオロースーだ。箸が止まらない。
 差し向かいに座る浮浪者が思いつめた表情で箸を取り、猛烈な勢いで料理を食い始めた。食器の擦れる音や、浮浪者の口から漏れ出る咀嚼音が聞こえる。他に音は何もなかった。
 全ての料理を平らげた浮浪者が口許を汚したまま息をつき、うな垂れた。眼鏡の黒服が近づいてゆく。
「では、いきましょうか」
 丁寧な言葉遣いだが、語気には有無をいわさぬ強さがある。もう一人の黒服が浮浪者の首根を摑み、立ち上がらせた。浮浪者の呻き声が聞こえ、そのままドアの方向へと引きずられてゆく。唾を飛ばしつつ、浮浪者が口走った。
「か、金などいらん。勘弁してくれ!」
 抵抗する素振りを見せる浮浪者を、黒服が無言で引きずる。
「すぐに済みますよ。痛みもありませんから」
 眼鏡の黒服が浮浪者の背に声をかけた。引きずられる浮浪者が失禁し、首根を摑む黒服と共にドアへと消える。
 眼鏡の黒服がこちらを振り向き、無機物的な視線で萌奈を見下ろした。「あの、何なんですか、あなたたち。あの、や、やくざですか」
 眼鏡の黒服が閉じた口の端を釣り上げる。笑ったつもりらしい。そして無言のまま首を横に振った。
 ドアが開き、別の黒服が入ってくる。眼鏡の黒服に歩み寄り、何か外国語で報告していた。手には萌奈の財布が握られ、それが手から手へと渡される。眼鏡の黒服が何か、やはり外国語で訪ねていた。応えた方の黒服が紙とペンらしき物を手渡し、眼鏡の黒服が紙に視線を落とす。そして頷くと、先ほど財布を持って現れた黒服が、またドアへと歩き、消えた。
「知らない方がいいんです」
 紙から視線を移し、眼鏡の黒服がいう。
「我々のことは、何も知らないほうがいい」
 辛うじて、萌奈は頷いた。
「一ついえるのは、あなたは我々の監視や保護の対象ではない、ということです」
 意味を計りかねたが、萌奈は頷くしかなかった。
「勝手ながら、身分証を拝見しました」
 眼鏡の黒服がテーブルの隅に萌奈の財布を置く。
「今夜のことは他言無用です。念書にサインを頂けますか」
 サイン、と萌奈が呟くと、眼鏡の黒服が続けた。
「そう、サインです。念書を用意しました。今夜起きたことは忘れてください。ただこのことを忘れて、残りの人生を送ればいい。それで済むんです」
 使われぬままの取り皿が下げられ、紙とペンが置かれた。英文だ。筆記体が長々と手書きで記されているが、その内容が、萌奈には読解できない。「断れませんよ、あなたは。あのホームレスも同様です。我々の用意した食事に手をつけてしまったのですからね」
 何が記されているかわからず、この念書という書面にどれほどの効力があるのかもわからない。むしろこの念書よりも、こうして脅し、迫ることに意味があるのかも知れない。
「サインを頂ければ、すぐにあなたを解放します。ここがどこなのか明かすわけにはいきませんから、アイマスクはさせていただきますが。あなたがいたあの場所までお送りしますよ」
 眼鏡の黒服がテーブルの隅を指で二度叩いた。急かすようではない。苛立っているのでもない。
 促すような、そんな仕草だった。

39

 ホテルの前に路上駐車し、ミニクーパーをアイドルさせていると、正面入り口の扉が開き、セツコが姿を現した。こちらへと歩み寄ってくる。龍は体を助手席側へと伸ばし、内側からドアを開いた。ありがとう、と礼をいいつつシートに滑り込むセツコが報告した。
「よく眠ってるわ」
 後部座席で眠り込んでしまった幸子を起こし、セツコにその身を託したあとだった。幸子はおぼつかぬ足取りでセツコとホテルへと入っていったが、どうにか部屋までたどり着いたようだ。
「何も訊かないんですか、セツコさん。ぼくにも?」
「訊かないわ。少なくとも今は。彼女も話せる状態ではないし」
 タクシーの群が傍らを通り過ぎてゆく。歩道は酔客で埋め尽くされ、遠くに赤く発光する東京タワーが見えた。
「それに龍くん、あなたのお友達だというだけで、助けるのには充分な理由よ」
 セツコが微笑み、いった。
 バックミラーに赤色灯がちかちかと映る。見ると、パトカーが背後に着き、ここが駐停車禁止であることを拡声器で告げ、すぐに移動するよう求めてきた。ウィンカーを出し、ギアを入れ、クラッチを繋ぐ。パワステはついていない。そろそろとタイヤを転がしつつ、龍はステアリングを切った。「どうします、セツコさん?」
 そうね、とセツコが考え込む仕草を見せる。
「さっきのお店へ戻ってくれる?『モダン・ボガ』に」
 ええ、と答え、龍はノーズを星条旗通りへと向けた。
 ミッドタウン前の交差点を曲がり、星条旗通りを走る。この辺りまでくると、タクシーの姿はまばらだった。渋滞もしていない。サイドガラスの向こうを、星条旗新聞社の鉄条網が後方へと流れ去る。
 店の二十メートルほど手前で車を停め、二人は夜の通りに降り立った。セツコはどうするつもりなのか。店の方へと歩き始める。龍もあとを追った。
 店はすでに閉店時刻を迎え、扉にはクローズプレートがぶら下がり、店内の照明が落とされているのか、窓から漏れ出る光は見えなかった。
「何かヒントが欲しいところだわ」
 呟いたセツコが店の裏口へと廻る。建物の外壁に沿う形で歩を進めると、酒の空き瓶や空のビールケースが積まれている先に、それらしきドアが見えた。セツコがノックするが、返事はない。だが、ドアの先に人がいるのは確かだ。洗い物でもしているのか、水道水の流れる音や、食器のぶつかる硬質な音が聞こえる。ノックの音が聞こえないらしい。
 セツコがドアを開いた。内部は厨房だ。幾人かの若い男たちが食器や調理器具を洗い、床をデッキブラシで磨いている。蛍光灯の明かりが龍の瞳孔を刺す。
 一人のスタッフがこちらに気づき、濡れた手をエプロンで拭いつつ近付いてきた。かなり若い。二十歳を過ぎたばかりといった歳に見える。茶髪だった。
「なにか?」
「お忙しいところごめんなさいね」
 セツコが断り、訊く。
「あなた、さっきホームレスに食べ物を与えていたわよね?」
 よく見ている。セツコの観察力に、龍は舌を巻く思いだ。
「ええ、はい。毎晩ですよ、定休日を覗いて」
「オーナーさんはご存じなの?」
 咎めるか、脅しの材料を求めるかするような問い方に聞こえる。
「ええ。オーナーの指示なんです、あれ」
 あっさりと若いスタッフが答えた。セツコに落胆する様子はない。
「そう。余り物なの?」
 いえ、とスタッフが否定する。
「作っているんですよ、わざわざ。いつも同じ品ですけどね」
「慈善家なのね、オーナーさんは」
 若者は苦笑した。
「さあ、どうでしょうね。そうともいえないですよ。あのホームレスの方にだけやるようにいわれてます。他のホームレス仲間とかがやってきても食い物なんてやるな、って」
 そう、とセツコはいい、何か思案している気配だ。
「ナポリタンとマルゲリータですよ、いつも。ピザとパスタを一品ずつ、っていわれていますから、一番簡単なのを毎日作ってるだけです」
「そのホームレスの男性、いつもどこで寝起きしているか、あなたご存じ?」
「ああ、あそこです。いつも乃木坂トンネルの入り口ですよ。雨が凌げるんでしょう。どこかで拾ってきた蒲団を広げてますよ。青山墓地側の入り口の、歩道の隅です」
「今夜もいるかしら、その方?」
 若者が頷き、答えた。
「ええ、いると思います」
 礼をいい、二人は厨房を辞した。通りへと戻り、歩道を歩く。
「あのホームレスに当たるんですね、セツコさん」
「ええ。今のところ、あのオーナーが隠していることを辿る線はそこにしかないわ」
「いきましょう、すぐに着きます」
 龍がいうと、セツコが微笑んだ。
 車に乗り込み、エンジンに火を入れる。ギアを入れ、転回した。コンソールの時計は午後十一時半を指している。
 ミッドタウンの交差点まで戻り、左に折れる。さらに先を直進すれば青山通りへとぶつかるが、龍はステアリングを切り、乃木坂を下った。T字路で信号に停められる。右折すれば赤坂方面、左折すると青山墓地だ。信号が青に変わり、龍はステアリングを左に切った。ミニクーパーが乃木坂トンネルへと入る。打ちっぱなしのコンクリート壁を、緋色に光る無数の照明が照らしていた。
 ギアを落とし、そろそろと進む。対向車線をタクシーと自家用車が一台ずつ走り去る。トンネルの出口が見えてきた。歩道を注視すると、消火栓の影に、白い布のような何かが見える。さらに車を進めると、それが蒲団であることがわかった。その上でホームレスがあぐらをかき、何かを食っている。龍はトンネルの先まで徐行し、路肩に車を停めた。
 セツコが助手席から歩道へと降り立ち、龍も続く。見渡すと、通りを挟むように膨大な数の墓石が立ち並んでいた。トンネルへと歩く。時折、空車のタクシーが通り過ぎてゆく。
 ホームレスは汚れたジャージに身を包み、染みだらけの蒲団であぐらをかき、パスタらしき麺類を手づかみで口へと運んでいた。近づくにつれ、品のない咀嚼音が鮮明さを増し、入浴していないのか、体臭が鼻を衝く。蒲団の傍らには火を起こすコンロの類こそないものの、調理の真似事くらいはするらしく、果物ナイフと柳刃包丁が置かれていた。
 パスタを口に運ぶ手を止め、ホームレスがこちらを見上げる。視線こそこちらに向いていたが、その焦点はどこにも絞られていないように見えた。ホームレスが視線を戻し、また食事を始める。こちらを無視する気らしい。「ここで寝泊まりしているのね、あなた」
 セツコが声をかける。かなり歳老いた男だった。伸び放題の髪も髭も白い。肌には皺が深く刻まれ、眉毛だけが黒々としていた。七十は過ぎている。
「お風呂に入らない?」
 返事をせず、ホームレスはパスタを食い続けていた。
「少しお話を聞きたいの。そんなのじゃなくて、もっと豪華なのをご馳走するわ」
 やはり反応はなかった。耳が聞こえないだろうか。セツコが続ける。
「洋服を買ってあげる。お酒だって用意するわ」
 ホームレスの眼に、初めて感情らしき色が浮かぶ。再びこちらを見上げ、ようやくホームレスが口を開いた。
「さ、酒、飲ませてくれるんですか」
 吃音気味ではあったが、聾唖というわけではなさそうだ。ええ、とセツコが微笑んで見せている。ホームレスはパスタの盛られた紙皿をコンクリートの床に置き、立ち上がった。
 かなり上背がある。痩せてはいるものの、骨格は太い。
「龍くん」
 セツコが呼ぶ。返事をすると、セツコが財布を差し出してきた。
「お酒とおつまみを買ってきてちょうだい」
 財布を受け取り、龍は少し安堵していた。この不潔な大男を伴い、どこかの店にでも入るのかと危惧していたのだ
「こんな臭い人を乗せたら、車の中に臭いが染みついちゃうわ」
 悪戯な笑顔を見せ、セツコがいう。龍の懸念を見透かしていたようだった。
 すぐに戻る旨を告げ、龍は車へと急いだ。近くにコンビニはあっただろうか。トンネルを抜けると、夜空が広がり、無数の墓石だけが視界に映った。

40

面会の時間が過ぎ、大壺はICUのベッドに横たわる娘の様子を部屋の外から妻と共に見つめていた。意識はすでに朦朧とし、口許には酸素吸入器、腕には点滴の管が繋がれ、面会中も会話らしい会話をできなかった。隣の妻が眼を腫らし、充血したその眼から零れ落ちる涙をハンカチで拭っている。HLA型の一致するドナー候補は、未だ見つからぬままだ。ただ死を待つしかない娘を、大壺はただ見ているしかない。
 待ち合わせの時刻が近づいている。席を外す旨を妻に告げ、大壺はエレベーターで病院の地下にある駐車場へと降りた。扉が開き、蹲る多くの車が姿を現す。車と車の間を縫うように歩を進め、大壺は予め指定されていた駐車区画へと辿り着いた。腕時計に眼をやる。午後三時まで、あと数分を残していた。
 駐車されている黒いセダンのサイドガラスが降り、ミニッツが手招きしている。日産のフーガだった。後部座席のサイドガラスが閉じられるのを認め、大壺は車へと歩み寄った。ドアが内側から開かれる。車内を覗き込むと、座席の奥でミニッツが無表情のままこちらを見ていた。
「どうぞ」
 ミニッツに勧められ、大壺は後部座席へと乗り込んだ。ドアを閉じる。運転席に男が座っていた。エンジンは停止している。車を出す気はないようだ。
「お仕事です。大壺さん」
 手にしていた革の鞄からミニッツが角形の封筒を取り出し、こちらに寄越した。中を検めるのか、と大壺が眼で訊くと、ミニッツが頷く。封筒の中にはA4サイズの紙が数枚、そして青年の写った顔写真が収められていた。「生死は問いません。今回の場合、迅速に臓器を取り出せばいいのですから」
 表情を変えぬまま、ミニッツがいう。
 紙には青年の氏名、年齢、住所などの情報が記されている。三鷹市在住、28歳。一人暮らし、すでに両親は共に他界。
「手法はお任せします。ですが、可能な限りスマートで自然な方法を推奨します。強引に行えば、あなたは罪に問われるでしょう。そして、これは心に留めておいて頂きたいのですが、もしあなたが罪に問われ、裁かれても、我々はそれを一切関知しません」
 顔写真に視線を落とす。純朴そうな印象の、どこにでもいそうな若い男だった。
「この青年が一体なぜ・・・?」
 大壺が訊くと、ミニッツは視線を前方へと移し、答えた。
「長い間、彼は我々の監視下にありました。つい最近も生命の危機に瀕していますが、我々の手によって助けられています。十数年前に交通事故で両親を亡くしていますが、その時も我々の用意した輸血用の血液を優先的に使うことで一命を取り留めていますよ」
 話が見えない。この青年は何者なのだろうか。
「この青年を捕まえるか、死なせればいいんですね?」
 そうです、と事もなげにミニッツが答える。
「生体から、あるいは死体から臓器を摘出するんですか?」
 頷き、ミニッツが肯定した。
「どの臓器です?」
 肝臓です、とミニッツが答えた。
「レシピエントからオーダーが入りました。日本人ですよ。あなたがその青年を確保でき次第、後援部隊が動きます」
「後援部隊、ですか」
 ええ、とミニッツは口許を綻ばせる。
「移植コーディネーターであるあなたでも、流石に移植オペは行えないでしょうからね」
 私が選ばれたのは、と大壺は疑問を口にした。ミニッツは再びこちらを向き、いう。
「この国にも私のようなエージェントが数名いますが、私では担当し切れない状況になっています。先のバイク事故を憶えていますか」
 首都高で起きたバイク事故だ。命を落とした若者から摘出された脾臓を大壺は輸送している。
「バイクを運転していたその男性も我々の監視対象者でした。ところが、首都高で事故を起こして心停止、将来オーダーが入るであろう臓器のうち、脾臓と二つの角膜が散り散りとなりました。こうしたケースは稀なのですが、大壺さん、あなたの運んだ脾臓はレシピエントに定着せず、摘出されましたね」
 憶えている。その脾臓を、ミニッツは求めたのだ。
「オーダーが入るまで臓器を長期的に保存しておくには、他の生体内に定着させておくしかありません。そうして監視対象者が増えていきます。事故死した男性から摘出された角膜も同様です。そちらの方はうまく定着したと聞いていますが」
 最も聞きたいことがある。大壺はそれを口にした。
「娘は、助かりますか」
 ミニッツがこちらを向く。
「金を受け取っても、娘が助かるとは思えません。高度医療を受けるのに多額の費用がかかるのは事実ですが、この仕事が娘を救うことに直結するとは、私には思えない」
 またミニッツの口が釣り上がる。その口が、開いた。
「我々は独自の臓器移植ネットワークです。その規模は公にされている組織とは比較にならない。日本、アメリカはもちろん、ロシア、中国、インドと人口大国にも多くの監視対象者を抱えています。臓器だけではありませんよ。骨髄も、です。その代わり、臓器や骨髄をオーダーできるのは一部の裕福層に限られますが」
 この写真に写る青年から肝臓を奪えば多額の収入が見込め、ミニッツが籍を置くその組織とやらに骨髄をオーダーできる、というわけなのか。そう思案したとき、ミニッツが顔を小さく左右に振って見せた。
「もちろん報酬はお渡しします。それだけではない。娘さんの骨髄に適合するHLA型を持つドナーを探しましょう。それも、広く知られている骨髄バンクからではなく、我々『フナック』が持つネットワークから、ね」
 眼の前にいるこの男が身を置く組織の名だろうか。もう一度、大壺は写真に眼をやった。
「もし、もしですよ。彼を生きたまま捕らえて臓器を摘出したなら、彼はその後どうなるんです?」
「死ぬでしょうね」
 ミニッツが即答する。
「生死を問わないといったのは、そういう意味です。肝臓を剥ぎ取られた人間は、どのみち生きられない。その日のために生きてきたんです。その日が訪れるまで、我々は彼を保護下に置いていたのですよ」
 写真に眼を落とす。
 自然でスマートな手法。つまり、事故に見せかけつつ青年の身柄を押さえ、ミニッツのいう後援部隊に引き渡す、ということだ。大壺はしばし黙考したが、その手法を思いつかない。やはり力ずくでも生け捕りにするか、あるいは殺すしかないのか。
 いずれにせよ、一人では不可能に思えた。組織的な力を要する。手法は任せる、とミニッツはいう。あらゆる可能性を探ったが、正攻法ではとても成し得ない。JOTの力を利用しても、この青年の死を事故に見せかけるなど、到底不可能だ。
 ならば、例えば暴力団の協力を仰ぐといった手段ではどうか。報酬を話せば、そういった人種も動くに違いない。暴力団と呼ばれる組織との接点など持っていないが、相談を持ち掛けてみる価値はある。むしろ、それしか手はないように思えた。
 そうなれば、ミニッツの言葉通り、自分は罪に問われ、裁かれ、罰を受ける。しかしそれでも、娘を救いたい。残された時間は短いのだ。
 あの時、洗礼を受けずにその場を去ったのは正解だった。自分はこれからさらに、それも大きな罪を重ねる。もう一度洗礼に臨んだところで、罪を洗い流すことなどできず、司法は自分を許さないだろう。
 ならば、いかなる手段を用いてでも、この青年から肝臓を奪うしかない。

41

 青山墓地中央の交差点を右折し、青山通りに出た。歩道をゆく人の姿は多くない。車の数も少なく、龍はコンビニの前にミニクーパーを停め、店内に入った。ビール、缶入りのサワー、乾き物のつまみを手に取り、レジへと向かう。商品のバーコードをハンディで読み取る店員の背後に、煙草の箱が並んでいた。あのホームレスは煙草も欲しがるだろうか。わかばを註文し、レジの傍らに置かれたライターと共に清算した。
 車に戻り、Uターン路で車を転回させ、青山墓地へと向かう。敷地内へ進むと途端に街灯が減り、辺りを闇が満たした。ヘッドライトが墓石の数々を照らす。さらに車を走らせ、青山墓地中央交差点を左折すると、フロントガラスの向こうに乃木坂トンネルが見えてくる。トンネルは大きく口を開き、徐々に迫ってきた。人影が見える。トンネルの入り口、消火栓の傍だ。トンネルの手前でブレーキを踏み、龍は路肩に車を停めた。ハザードを焚き、エンジンを切る。酒や煙草の入ったレジ袋とセツコから渡された財布を手に、二人の許へと歩いた
「早かったわね、龍くん」
 ホームレスと肩を並べる形でコンクリートに腰を降ろしていたセツコが立ち上がり、龍を迎えた。
「ありがとう、助かったわ」
 財布を返し、龍はレジ袋からビールを取り出すと、ホームレスに手渡した。その手を見るホームレスの眼尻が下がり、プルタブが引かれる。炭酸ガスの抜ける音が鳴り、ホームレスは缶を口につけ、飲み始めた。
「少しだけ、もうお話を聞かせてくれたわ。わたしと同じ日米ハーフなんですって、この人」
 ホームレスに視線を移す。喉を鳴らしつつビールを呷り、缶を口から離すと、美味そうに息を吐いている。やはり、体臭が鼻を衝いた。トンネルの壁から放たれる常夜灯に照らされ、わかりにくいが、いわれれば確かに肌の色は白く、黄色人種のそれとは異なる。瞳の色も、黒や茶色ではなかった。濁ってはいるものの、その色は青味がかっている。
「お名前、アルとおっしゃるそうよ」
 ビールの缶を干し、ホームレスは一息ついたようだ。そしてようやく口を開く。
「アル。アルは、ニ、ニックネームで、です。本当の、本当のな、名前は、アルフレッド。アルフレッド・ヒガで、です。こ、戸籍は、もうな、ない。金は、か、金はあとからっていわれて、いわれて、売ったつもりだけ、だけど、金はもらえ、もらえなかった」
 ヒガと名乗るホームレスが乾き物に手を伸ばす。掴んだ手で口へと放り込み、嚙み砕いた。咀嚼音が聞こえる。トンネルを走る車の姿はなく、ヒガの口から発せられるボリボリという音だけが聞こえていた。
「出身はどちらなの?」
 回答があるまで、しばしの間を要した。まだ口の中にツマミが残っているのだ。ヒガはさらに咀嚼し、それを飲み込むと、答えた。
「お、お、沖縄、わ、です。そ、それも、も、もらっていい、いいですか」 
 ヒガが缶入りのサワーを求める。手渡すと、ヒガがプルタブを引き、飲み始めた。酒か涎か、口の端から透明な液体が漏れ、伸び放題の白い髭を濡らす。
「いつもあのお店で食べ物を貰ってるのね」
 缶を口許で傾けつつ、ヒガが頷く。
「なぜあのお店は、あなたに食べ物をくれるのかしら」
 一口を飲み下したヒガが缶を口から離し、首を傾げた。
「ず、ずっと昔、昔から、こ、こんな暮らしをす、するようになってから、なってから、毎日くれ、くれます」
 いい終えると、ヒガはさらにサワーを呷る。
「あなた、ご家族は?」
 セツコが訊ねる。ヒガがそれを聞き、首を横に振った。
「い、いました。昔、昔は。で、でも、ベトナムから帰って、帰ってきたら、家ごと、家ごと消えてた。消えてた」
「ベトナム?」
 龍が訊くと、ヒガが頷く。
「お、お母さんは日本が、が、せ、占領軍に差し出したば、売春婦で、ち、父親が誰かは、わ、わからない」
 重い沈黙が降りた。何かで読んだことがある。太平洋戦争末期、米軍は沖縄へ侵攻し、終戦を迎えると、すでに現地を制圧下に置いていた米軍に、生き残った島の若い女たちは慰み物として差し出された、と。避妊などろくにされなかったのだろう。ヒガの母はそうして米兵の相手をさせられた女たちの一人であり、そしてヒガが生まれた、といったところか。
「こ、子供の頃、頃は、と、友達がいた。せ、占領軍の、兵隊の子供も。い、一緒にう、海であ、遊んでた」
 ツマミを一口頬張り、ヒガが続ける。
「うちはび、貧乏だった。ち、父親がい、いなかったし」
 たどたどしい口調ではあったが、アルコールによる作用か、ヒガはいくらか饒舌になりつつある。
「あ、アメリカ人の血はま、混ざってるけど、けど、日本人な、なのに、なぜかベトナムに、ベトナムに送られた」
「兵士として?」
 セツコが訊いた。ヒガが缶を口につけ、頷く。
「べ、ベトナムで、戦った。な、何年も。ほ、捕虜になったこと、こともある。に、逃げ出して、せ、戦線に復帰して、それで、ケガをした。頭はこんな、こんなふうになって、もう治らない。しょ、傷病兵になって、沖縄にもど、戻されて、家に帰ったら、い、家がなかった」
 サワーの缶が空いた。ヒガはそれをコンクリートの床に置き、息を吐いた。
「せん、戦争が終わって、沖縄はに、日本に戻って、戻ってた。居場所なんて、居場所なんてなかったから、東京に、きた。でも・・・」
 ヒガの指が小刻みに動く。煙草か、と察し、龍は箱を渡してやった。
「せ、接客とか、で、できないから。こと、言葉もアレ、ケガでアレだし。ま、まともにしゃ、喋れなくて、どこに移って、移っても、つ、務まらない。か、からかわれたり、して、して、けんかになって、あ、暴れて、クビ、クビになる」
 箱の封を器用に切り、ヒガが煙草を咥える。龍がライターを差し出すと、ヒガはそれを手に取り、煙草に火をつけた。
「い、いろんな、いろんな仕事をした。でも、つ、務まらない。夜になると、ゆ、夢を見てう、魘されて、な、何日もね、眠れない。眠れない。寝る、寝るのが怖くて、寝不足でミスして、やっぱりクビになる」
 セツコが溜息を漏らした。眼に同情の色を浮かべている。
「生き、生き残ったけど、けど、死ねばよかった。あのジャン、ジャングルで、で。あんなに苦しむ、苦しむなら、こんなに苦しみつ、続けるなら、ジャングルでし、死ねばよかった。い、生き残って、こう、後悔して、してる」
「それでこの暮らしを始めたのね」
 濃い煙を吐きながら、ヒガが何度か頷いて見せた。
「また来てもいいかしら、ヒガさん」
 訊いたセツコに、ヒガが青い眼を向ける。その表情に、微笑みがあった。「つ、次は、バーボンが、バーボンがいい」
 わかったわ、とセツコが答え、踵を返す。龍もそれに続き、停めてある車へと向かった。
「ひどい話ね。相当に過酷な体験をしているわ、あの人」
 龍と並んで歩くセツコが呟く。車に乗り、龍はキーを捻った。
「そのようですね」
 セルが回り、エンジンがアイドルを始める。
「戦争にいくと、言葉が不自由になるんですか」
 クラッチを切り、龍は訊いた。
「ボクシングでいうリング禍のようなものだと思うの」
「リング禍、ですか」
 ええ、とセツコが答える。
「外傷によって脳に深刻な後遺症が残るの。それにあの人、心を病んでるわ」
 PTSD、という語句が龍の脳裏に浮かぶ。過酷な戦争体験により発症し、初めて社会問題となったのがアメリカ、それもベトナム戦争終結後だ。何かの本で読んだ記憶がある。
 ギアを入れ、ミニクーパーを転回させた。
 漆黒の夜空に、旋回する航空機の光が遠く見える。

42

 椅子か何かに座らされ、四肢を何かで固定された。目隠しが外される。視界に、カウンターやスツール、テーブルなどが映った。どこかの飲食店らしい。視線を下方へと移す。やはり椅子だ。椅子の脚に武藤の両足首が縛り付けられ、両腕は背で固められている。照明が眩しい。視線を戻すと、クンアとスティーブの他に、数人の黒人や混血が立っていた。
「覚悟しろよな」
 クンアがこちらを睨み据え、いう。
「拷問でも加えるつもりか」
 武藤が訊くと、クンアは微笑み、答えた。
「あんたが俺らの質問に答えてくれれば、その必要もなくなるよ」
「質問とは?」
「あんたが誰の指示で動いているか知りたいのさ」
 スティーブにも、他の男たちにも動きはない。クンアの口が閉じ開きしているだけだ。
「この辺りは飯館組の縄張りだよね。その上には侠撰会がある。俺らはそういう連中の商売に食い込んでるところでさ」
 言葉を切ったクンアが、直立姿勢から片方の足へと重心を移す。この辺り、ということは、今こうして武藤が拘束されている場所は六本木か、その界隈なのだろう。
「奴らは弱体化してる。暴対法の改正からずいぶん経って、もうやくざなんて終わってるよ。あんただって知ってるだろ?」
 事実だった。法改正や警察による暴力団への締め付けは年々厳しくなり、今や反社会的組織に属する者は賃貸契約すら許されておらず、車を買うこともできない。抜け道は残されているものの、正規の手段では携帯電話の契約を結ぶこともできないのだった。ビジネスに関しても、同様のことがいえる。暴力団に屈しない旨を標榜する企業も増え、それらは横での繋がりを持ち、やくざは堅気から金を取ることが難しくなっている。インターネットに接続する端末が普及したこともあるのか、そういった実態は一般人も知る公然の事実となり、今や暴力団は属する人員の流出を止められず、新人の確保や後身の育成にも苦労している有様だ。それはそうだろう、賢ければやくざになどならず、やくざである必要もない。
 代わって台頭し始めたのが、暴力団に所属せず、それでいながら堅気でもない商売に手を染める若者たち、いわゆる〝半グレ〟と呼ばれる連中だ。暴力団を鎮めるために制定された法に縛られることなく行動でき、それでいながら暴力団のような義理や仁義を持たず、まさに無法者の集まりだった。武藤が服役する以前から、連中は徐々に勢力を拡大し続けている。この六本木や西麻布といった街でも連中の噛む事件は多かった。名の通った歌舞伎役者や相撲取りを暴行し、関係者には箝口令が布かれ、武藤も夜の街を歩いていたとき、現場が近かったのか、テレビクルーに「ちょっとお話を」と懇願されたこともある。警察もようやく連中の脅威に動きを見せ、その手の組織を準暴力団と定義したのは何年前だったか。
「賭場でも開くつもりか」
 クンアの笑みは消えない。表情を変えぬまま、クンアは語る。
「それも視野に入れてるよ。あんた、俺らが戸籍の売り買いをしてるとかで探ってたんだよね?」
 武藤がスティーブに眼をやると、スティーブは視線を虚空に漂わせた。「それが誰の指示なのかを知りたいんだよ。飯館組か、それとも侠撰会か。大方その辺りだろうけど、結局誰なの?」
 スティーブが口を開く。やはりこちらはカタコトの日本語だった。
「武藤サン、話シタ方ガイイ。アナタ今ハ神父サン。話サナイト、苦シイ」  
 脅す口調ではない。忠告するのでもない。諭すようないい方だ。
「喋る気ある?ないなら、かなり辛いよ、これから」
 武藤は答えず、首を横に振った。クンアの笑みが強まる。
「わかったよ。じゃ、耐えられるだけ耐えればいいさ」
 いったクンアが背を向け、店の出入口へと向かってゆく。続いてスティーブ。一人の黒人を残し、他の黒人や混血も店を出ていった。
 静寂が店内を満たす。観察すると、残された黒人も若かった。縮れた頭髪はトレッドヘアにされ、耳にはピアスが光っている。トレッドヘアはスツールに歩み寄り、腰を降ろした。視線は武藤に向けたまま、黙っている。監視しているようだ。
 何時間が経過したかわからないが、かなり長い間、武藤とトレッドヘアは無言のまま過ごした。微かに眠気が訪れ、それは徐々に睡魔へと変わる。眼を閉じた。首を垂れる。
 蛇口を捻る音に気づき、武藤は眼を開いた。トレッドヘアがカウンターの中へと入り、シンクの中で何か容器らしき物に水を注いでいる。トレッドヘアの手がそれを持ち上げ、容器が姿を現した。青いバケツだ。トレッドヘアが水の張られたバケツを手に近づいてくる。一体何時間が経っただろうか。睡魔は容赦なく武藤に襲いかかる。
 たまらず眼を閉じた瞬間、顔に冷水をぶちまけられた。眼を開く。トレッドヘアが空のバケツを手に立っていた。武藤はかぶりを振り、水滴が辺りに飛ぶ。眠らせないつもりだ。
 それからさらに二度、武藤は意識を失いかけ、二度とも冷水を顔に浴びせられ、眼を覚ました。朦朧とした意識が、また遠のいてゆく。
 ドアの開く音がした。鉛のように重い瞼を開き、そちらに眼をやる。別の黒人が店内へと入り、トレッドヘアと二言三言会話を交わすと、トレッドヘアが店を出ていった。交代要員らしい。
 やや肥った体形の、こちらもまた若い黒人だった。間髪入れずに水を浴びせる気でいるのか、小太りは早速シンクに向かい、バケツに水を注いでいる。
 ほんの数秒、武藤は眼を閉じた。すかさず冷水が顔に浴びせられる。さらに二度それが続き、武藤の意識は眼を開いていながらも希薄なものとなった。これが現実なのか夢なのか、判然としない。
 左の瞼に感触があった。小太りの黒く太い指が瞼を力づくで開いている。眼球の数センチ先に、レンズ様の何かが見えた。次の瞬間、異様に強い光が武藤の眼を射った。閉じかけていた瞳孔が強制的に開かれ、遠のいていた意識が戻ってくる。続いて右の眼。瞳孔が拡散し、より多くの光量が網膜に注がれ、脳裏を突き抜ける。
 光が消えた。さらに冷水。眠りたい。落として欲しい。あるいは。
 どれほどの時間が経ち、どれだけ強制的に起こされたか、もはや記憶にない。狭窄しつつある視界の中で、複数の人影が店に入ってきた。クンアたちだ。スティーブの姿もある。クンアは醜い笑みを浮かべ、こちらを眺めていた。服が変わっている。一昼夜か、それ以上の時間が経ったようだ。
「神父さん、喋る?」
 辛うじて武藤は首を横に振った。拷問になど屈するものか。足を洗ったつもりではあるが、自尊心と意地は、まだ武藤の中に残っている。阿南の名を出さず、守ろうというのではない。これは、武藤の問題だった。
「そっか」
 小太りの黒人はスツールに座り、肩を落としていた。明らかに疲弊している。拷問を加える方も楽ではないようだ。
 ほんの僅かに、意識が熱を感じ取る。下半身だ。熱い小便が尻の下に拡がり、太腿へと伝ってゆく。失禁していた。
「あーあ」
 嘲笑しつつ、クンアがいう。
「いい歳した大人が。情けねえ」
 含み笑いが聞こえた。他の黒人や混血たちだ。クンアが続けた。
「しゃぶ、欲しい?」
 その言葉に、武藤の意識は反応した。
「打つか吸うかすれば眼が覚めるよ。もっと寝ずにいる?欲しいなら手配するよ」
 眠りなどよりも、深層意識が欲している。しゃぶ。覚醒剤。あの快感。冴える感覚。足の指先から頭頂部まで突き抜けるかのように湧く力。蘇ってくる。あの感覚が、蘇ってくる。フラッシュバック。
 この連中は、こちらがかつてやくざだった過去だけではなく、しゃぶ中だったことも知っているのか。それを知った上で、餌をチラつかせているのか。
 欲しい。しゃぶが欲しい。今は水も、食い物も、寝具もいらない。他に何も欲しくない。しゃぶが欲しい。しゃぶだけが、欲しい。
 葛藤した。求めれば、本当にクンアはそれを寄越すだろうか。
 苦悶の末、武藤はようやく言葉を絞り出した。
「おれはもう、これ以上お前たちのことを深堀りする気はない」
 武藤はいったつもりだが、呂律がまわらず、上手く発音できなかった。上下の唇を開くことすら難しい。
「へえ。だからもう勘弁してくれ、って意味?」
 腕組みをしつつ、クンアが訊く。武藤は薄い意識の中で苦笑したが、それが表情に現れたかどうかはわからない。表情筋の一部が痙攣していた。
「それならもっと早くそういってるさ・・・」
 語尾が消え入る。また意識が遠のき、武藤は首を垂れ、意識を失った。

43

 よく眠ったのだろう、幸子の頬には、僅かに赤みが差しているように見える。化粧はしていない。滑らかな肌が、窓から入る昼前の日差しに照らされていた。昨夜は酷い顔をしていたものだ。大泣きしたのか、涙と鼻水で化粧は大きく崩れ、マスカラやアイシャドウが涙で滲み、両眼の周囲などパンダのように黒かった。三人はテーブルに着いていたが、食欲がない、と幸子はいう。遅い朝食だった。龍とセツコはとうに朝食を終え、コーヒーを飲んでいた。
「ならコーンスープはどうかしら?」
 優しく微笑み、セツコが提案する。
「何か胃に入れたほうがいいわ。栄養を摂らなきゃ、ね」
 ぎこちないながら幸子が頷き、セツコがウェイターを呼ぶ。註文を受けたウェイターが下がり、ほどなくすると、一杯のコーンスープが幸子の前に置かれた。
「ひと口でもいいから飲んで」
 セツコの勧めに従い、幸子はスープを啜る。おいしい、と小さな声で囁くようにいい、眼尻を下げた。
「おなかが空いたら何か他に頼んでもいいのよ」
 頷きつつ、幸子はもう一度スープに口をつけた。
「お話を聞かせてもらおうかしら。龍くんの同級生だそうね?」
 口に含んだスープを飲み下し、幸子がこちらに視線を寄越す。そして頷き、肯定していた。
「わたしはセツコ・オズボーン。日本で生まれだけど、育ちはアメリカよ。龍くんとはFacebookで知り合ったの。物心がつかないうちに両親と向こうへ渡ったから、日本での記憶はほとんどないの」
 幸子はセツコの語りに聞き入り、さらに頷いた。
「父はアメリカの軍人で、母は日本人。父は進駐軍の兵士としてこの国の土を踏んだの。そして母と出逢って、わたしが生まれたそうなのだけど、詳しいことはわからなくて。母は早くに亡くなったし、父はベトナムで戦死したわ」
 戦死、という語句に、幸子の眼がわずかに見開かれる。
「戦死、ですか」
 呟いた幸子に、セツコが答える。
「そう。ベトナム戦争に参加してね。父と母がどんな街でどんなふうに出逢って、どんなふうに過ごしたのか知りたかったけれど、もう二人とも他界しているし、それでこの国へやってきたの。こうして龍くんに力を貸してもらって、両親の軌跡を辿っているところよ」
 語り終え、セツコがコーヒーを含む。
「さあ、次はあなたの番。お名前は?」
 再び幸子が龍へと視線を寄越す。龍は頷いて見せ、幸子の言葉を待った。「雨宮幸子です。少し前まで芸能活動をしていました。雨宮莉緒っていう芸名で」
「あなた、芸能人なの?」
 やや驚いた表情をセツコが見せる。幸子は首を横に振り、哀しげな眼差しをテーブルに落とした。
「マリファナを吸っているところを捕まってしまって、お仕事がなくなっちゃいました。自業自得ですよね。逮捕されて、事務所もクビになって。テレビにも出てましたけど、何社だろう?違約金を請求されて、もうお仕事は貰えないし、そのお金を返そうって、その・・・」
 幸子の視線を感じ、龍は首を横に振って見せた。いわなくていい、と伝えたつもりだった。
 意を決したように幸子が視線をセツコに移し、語る。
「あたし、AVに出たんです。掲示された出演料で違約金を払えそうだったから・・・。でも、次の仕事が見つからなくて、風俗で働きました」
 差し向かいに座る若い女に自身が娼婦だと告白されても、セツコは優しい微笑みを崩さない。
「苦労したのね」
 労いの言葉をかけ、セツコは次の言葉を待っている。セツコの台詞が染みたのか、幸子は涙を零し始めた。
「好きでもない男の人たちにサービスして、抱かれて、だんだん、その、なんていうか、心がすり減っていって、あたし鬱なんだと思います。次第に指名されなくなって、お給料を貰えなくなって、携帯も止められて、家賃も払えなくなって・・・」
「ご両親には頼れない?」
 セツコの問いに、幸子が首を横に振る。
「薬物で捕まって、AVにも出て。風俗で働いたことまでは知らないと思いますけど、もう合わせる顔なんてなくなっちゃって・・・」
 語り終えた幸子が息をつき、眼を閉じる。瞼に追いやられた涙が溢れ出し、頬を伝う。
「しばらく、わたしたちと一緒にいるのはどう?先のことは、それから考えればいいと思うの。わたしは龍くんに協力してもらって、もう少し調べたいことがあるから」
 龍は頷き、コーヒーを啜った。もう少し調べたいこと。ミック・マーベルのことだろう。セツコの父に命を救われ、ベトナム戦争の終結と共に消えてしまった男。
「まだおなかは空いてこない?」
 セツコが優しく問いかける。幸子はかぶりを振った。コーンスープは、まだ半分ほどがカップに残っている。
「父はベトナムで、ある部下を庇って亡くなったわ。ミック・マーベルという男性だというのだけれど、行方がわからないの。べつに父が死んだ責任を問うつもりなんてないわ。ただ、その人は戦争が終わると姿を消してしまったから、気にかかるの。きっと何か訳があって、姿を消してしまったのだと思うわ」
 龍はコーヒーを干し、ジーンズのポケットを漁った。キーの感触がある。「そのミック・マーベルという人のことを知っていそうな男性がいるの。わたし、知りたいわ。例えそのミック・マーベルという人が、もうこの世にいなくても、ね」
「とにかく、ここを出ましょうか」
 龍はいい、ポケットからキーを取り出した。荷物はミニクーパーのトランクに収めたままだ。セツコはこのホテルに投宿する際、スーツケースをトランクから出し、部屋に持ち込んでいる。幸子の荷物といえば、小さなトートバッグだけだった。
「二人とも、支度をしてきてください。駐車場で待ってますよ」
 龍は声をかけ、泣いている幸子に微笑んで見せた。
 席を立ち、エレベーターへと向かう。扉が開き、箱の中へと乗り込んだ。地下一階のボタンを押す。扉が閉まり、箱が下降を始めた。
 扉が開き、地下の駐車場を歩く。隅に描かれた白い枠の中で、ミニクーパーが佇んでいる。
 運転席側のドアに体重を預け、龍は手にキーを握ったまま虚空を眺め、感慨に耽った。幸子と、十年ぶりに再会したのだ。あれほど恋焦がれ、心を奪われ、手の届かぬ遠い存在となったはずの幸子に。
 想いを伝えたことはない。届くはずもない。なぜ好意を告げぬまま離れてしまったのかと、長く悔いてもいた。不幸な女だ。芸能界入りし、順調にキャリアを積み、女優としての道を歩み始めていたのが、今では文無しの娼婦なのだ。それでも、好意は変わらない。再会し、むしろ想いは強まっている。AVに出た女だ。風俗でも働いたといっていた。だが、幸子は龍の心を奪ったまま、それを放さない。不憫に思えた。同情した。助けたい。救いたい。守ってやりたい。もし幸子が、自分を選んでくれるのなら。
 エレベーターの扉が開く気配を感じ、龍はそちらに視線を移した。それぞれの枠に収まり、列を成す車の影から、スーツケースの車輪を転がす音と共に、二人が現れる。セツコは相変わらず優しい微笑みを浮かべ、幸子の表情にはいくらか生気が差していた。
「いきましょうか」
 龍はセツコにいい、キーを握り直した。
「ありがとう」
 セツコが礼を述べ、助手席へと収まる。幸子は突っ立ったままだ。
「ほら、乗れよ」
 柔らかな口調を心掛けつつ促し、龍が運転席を前方へと倒すと、幸子は後部座席へと滑り込んだ。シートを立て直し、龍も運転席へと収まる。ドアを閉じ、キーを捻った。エンジンに火が入り、龍はギアを入れ、クラッチを繋ぐ。そろそろと、ミニクーパーが徐行を始めた。
 地下から地上へと向かう坂を昇ると、日差しがフロントガラス越しに車内を照らす。精算機にチケットを挿入すると、先を阻んでいた棒が立ち上がり、龍はさらに車を前進させた。
 異変を感じたのは、そのときだ。
 剣呑な眼つきをした男たちがこちらへと駆けてくる。
「なに?あれ?」
 助手席のセツコが訊く。答える余裕はなかった。後部座席からも、幸子の緊張した気配が伝わる。十人かそこらはいた。その男たちが迫る。バックミラー。後方からも数人の男たちが駆けてくる。狙われているのは明らかだ。迷った。逃げ場はない。一体なぜ自分たちが襲われつつあるのか。男たちは何者なのか。堅気ではない。切っていたクラッチを繋ぎかけたが、前方から迫るやくざらしき男たちを轢き飛ばしてでも通りに出るほどの度胸を龍は持っていない。男たちの放つ怒声が聞こえた。もう距離がない。
「セツコさん、ドアをロックして」
 それだけいうのが精一杯だった。
 だが突然、男たちの一人が昏倒した。呻き声。さらにもう一人が倒れ、後方から迫る男たちも異変に気付いたようだ。運転席側のドアに取り付き、男の一人がサイドガラスを叩き割ろうと腕を振り上げるのが見えたが、その男も犬のような声を漏らし、崩れた。
「なんだお前!」
「失せろ!邪魔すんな!」
 残った男たちが叫ぶ。だが、男たちは次から次へと片付けられてゆく。
 ヒガだった。いけ、と身振りで示している。男の一人がヒガに拳を向けた。チンピラじみた派手な服を着た男だ。薄汚い格好をしたヒガに襲い掛かる。男たちは標的をこちらからヒガへと移したのか、ヒガが数人の男たちに取り囲まれるのが見えた。
 もう一度、ヒガが通りを示す。青い眼が陽光を受け、その眼には闘気が宿り、鋭い眼差しを男たちに向けている。
 フロントガラスの先に、道を阻む物はない。龍はクラッチを強引に繋ぎ、アクセルを床まで踏み込んだ。タイヤがスキール音を立て、車が急発進する。二速。通りに出た。ステアリングを切る。三速。バックミラーに眼をやると、二人の男が追いかけてきているのが見えたが、やがてその姿は小さくなり、消えた。
 助手席で、セツコが慄いている。後部座席では、幸子が無言のままリアガラスの向こうを見つめていた。こちらへと振り返り、幸子が訊く。
「なんなの!?あいつら!?」
 恐ろしかったのだろう、白く滑らかな肌が、青ざめている。龍の心臓も、激しく脈動していた。
「わからない」
 答え、龍は前方へと向き直った。四速。幸い、道は空いていた。サイドガラスの外を、風景が後方へと飛び去ってゆく。
 青山通りが近い。

44

 猛烈に喉が渇き、武藤は眼を覚ました。天井が見える。自室のそれだ。体を起こすと、全身の関節という関節が軋む。一体何十時間眠っていたのか。台所へ急ぐ。脚が縺れた。平衡感覚が狂っている。
「武藤神父」
 祐樹が声をかけてくる。応える余裕はなかった。
 コップに水を汲み、水道水を一気に飲み干した。胃へと降りた水が浸透し、体に染み渡る感覚があった。さらにもう一杯水を汲み、これも飲み干す。ようやく一息ついた。
「気が付きましたか、神父」
 部屋から台所へと至る廊下を磨いていたらしい祐樹が歩み寄ってくる。ああ、と武藤は辛うじて応えた。
「玄関の前を掃いていたら、黒い車から神父が転がりながら押し出されるのが見えたんですよ。死んでいるのかと思いました。何せ呼んでも眼を覚まさないし、ぴくりとも動かないんですから。でも呼吸はありましたから、部屋に運びました」
 いった祐樹が壁に貼り付けられた時計に眼をやる。
「三十時間近く前です」
 短く礼を述べ、武藤は浴室へ向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びつつ、全身をくまなく観察した。これといった外傷はない。さらに喉が渇いてくる。シャワーヘッドから放たれる湯を直接飲んだ。体を拭き、鏡に映る顔を見た。傷はないものの、頬はこけ、両眼の下には炭でも塗ったようにどす黒い隈(くま)が形成されている。別の服に着替え、気が付いた。自分は今、水を欲していた。覚醒剤を欲しているのではない。水を欲していたのだ。覚醒剤への欲は湧かぬものの、拘束されたあのとき、自分は確かに覚醒剤を欲していた。眼を閉じ、息を吐く。自分は、まだあの味を忘れることができていない。
 黒電話の受話器を取り、ダイヤルを回した。電話をかける相手は長野で教会を開く神父、神原時男という名の男だった。回線はすぐに繋がり、シスターらしき女の声がした。名乗り、神原に用がある旨を告げる。お待ちください、と女がいい、受話器からオルゴールが聴こえ始めた。そして、懐かしい男の声が続く。
「武藤君ですね」

 ええ、と答えた。何から話したものか。
「神原です。元気にしていますか」
 ええ、とまた武藤は答えた。
 執行日がいつ訪れるか知らぬまま、怯えつつ日々を過ごす死刑囚には、神や仏に救いを求める者も少なくないと聞く。死刑囚が収監されるのは刑務所ではなく拘置所だが、刑務所で過ごす囚人たちにも神父や牧師による布教活動、ミサ、講和は行われ、神原は刑務所に通い、そんな囚人たちに神の救いを説く宗教家の一人だ。与えられる質素な食事、繰り返される刑務作業、厳格に定められた起床や就寝の時刻。女などおらず、酒も煙草も与えられることがない。武藤が服役していた長野の刑務所にも、神に救いを求める囚人は少なくなかった。特に長期刑を食らった囚人は、いつ訪れるかもわからない仮釈放に光を見出すことができず、宗教に目覚める傾向が強い。
「何かあったようですね」
 神原が促す。こちらが電話をかけたことに理由がある、と察したようだった。言葉を選びつつ、武藤は語り始める。
「先日、覚醒剤を欲してしまいました」
 そうですか、と驚くでもなく神原がいう。
「私はまた、あの味を思い出してしまったんです。あの味を、まだ私は忘れることができていません。危ないところでしたが、もしかすると、私はまた覚醒剤を使っていたかも知れない」
 慎重に言葉を選んだつもりだったが、もう止められない。次々と、苦悩の原因となっている物事が言語化され、口から溢れてくる。
「侠撰会からも、戻ってくるように求められています。従ってしまえば、私はまた逆戻りだ。薬を手に入れるのは容易になるでしょう。またあの廃人のような男へと戻ってしまうんです」
 しゃぶを断つのに、一体どれだけの苦労を伴っただろうか。服役中は社会との接点を遮断され、覚醒剤など入手できない。半ば強制的に〝しゃぶ抜き〟をされる。刑務作業に従事しつつ神学を志し、しゃぶを断つと決意した。出所後はダルクに入り、神原の教会で寝起きした時期には洗礼を受け、神学についてさらに造詣を深めた。
 それがどうだ。肉体依存からも精神的な依存からも脱したつもりで神父となったが、いざ追い詰められ、眼前に覚醒剤というエサをぶら下げられると、喉から手が出るほどにそれを欲してしまう。静脈への注射でも、スニッフでもいい。舌で舐めるだけでもよかった。それほど強く、覚醒剤を欲してしまったのだ。
 受話器を握る手が汗ばみ、悔しさのあまり涙が零れ落ちた。情けない。人に生きる道を説き、過ちを犯した者には再出発する道を示していながら、自分は未だ薬物の虜なのだった。
「武藤くん」
 神原の声がする。洟を啜り、武藤は聞き入った。
「神は君を許しました。君は私の手によって洗礼を受け、罪を洗い流しました。ですが、社会が君を許すか否かは別の問題です」
 嗚咽が漏れる。荒い息をつき、武藤は神原の言葉を待った。
「君はかつて暴力団に属し、覚醒剤に溺れ、売買まで手がけた。メルトダウンした原発に人を送ることで、人身売買にまで手を染めたと君は私に打ち明けてくれましたね。それほどの罪を重ねた男が数年の服役を経た。それだけで、社会はその男を許すでしょうか」
 涙が止まらず、頬を伝い落ちる。
「しかし、神は君を許したんです。苦しみなさい、悔やみなさい。それを続けてゆくことが、君に課せられた責務であり、贖罪ですよ。仮にどれだけ苦しみ、悔やみ続けても、社会は君を許さないかも知れない。君が許されざる罪を重ねた過去は事実なのですから。背負って生きるしかない。とことん苦しみ、とことん悔やみ続けなさい」
 服役中、知り合った神原から、神学を志す者に向けられた通信教育のパンフレットが送られてきた。大学や専門学校といった教育機関で学ぶ費用に比べれば安い額だったが、金が必要だ。刑務作業でそれを稼ぎ出すのは不可能に近い。悩んでいた武藤に、神原から再び届け物があった。封筒に、一枚の万札が収められていたのだった。
「君は逃げなかった。その気になれば、君はその街から逃げられたはずです。しかし、君はそれをしなかった。過ちを犯す場となったその街へと戻り、その街でやり直す道を選んだんです。長い道のりですよ。もしかすると、それを成し得るときは、君の命が尽きたときかも知れない。それでも、君はその道を選んだ。やってごらんなさい。人はやり直せる。君はそう人に説いているのではないですか?」
 受話器を握り、涙を拭くことも忘れ、武藤はただ何度も頷いた。
「ならば、まず君が体現して見せなさい。君はその道を選んだのですから。君なら可能だと、私はそう考えていますよ」
 礼を述べ、武藤は受話器を置いた。涙と鼻水を拭き、台所へと戻る。
「神父」
 祐樹が声をかけてくる。
「もう少し横になっていた方が・・・」
 祐樹の語尾が消え入る。泣いたことで眼は充血し、その様に言葉を失ったようだ。
 顔を洗い、再び電話をかけた。取り次ぎが受話器を上げたらしく、回線はすぐに繋がる。若い男の声だった。こちらの名を告げると、取り次ぎの若い男は間の抜けた声で応えたが、阿南の名を出すと、その口調は突然かしこまったものとなり、間もなく阿南の声が受話器から聞こえ始めた。
「待っていたぞ、武藤」
「お話ししたいことがありましてね、阿南さん」
「これから飯館組の事務所にいくところだ。別件だがね。すぐに来い、武藤」
 武藤が応えると、回線は切れた。
 出かける旨を祐樹に伝え、教会を出る。飯館組の事務所までは、徒歩で十五分ほどだ。
 昼の六本木を歩く。街はよく眠っていた。道をゆく車の数は少なく、人の姿もまばらだった。新宿などは眠らない街と呼ばれるが、六本木はよく眠る。この時間帯に営業している店といえばディスカウントショップや薬局の類くらいでしかなく、街が目覚めるのは日が暮れたあとなのだ。
 視界の端に、乱闘じみた動きを見せる男の集団が見えた。ホテルの敷地内だ。男たちに囲まれていた古いミニクーパーがタイヤを鳴らしつつ走り去る。男たちの数人はミニクーパーを追ったようだが、残りの男たちはその場で荒れ狂っている。やくざか、それに近い人種だろう。この街で昼間から荒事を働くとなれば、この界隈を縄張りとする飯館組か、その上に位置する組織、侠撰会だ。まばらな通行人が視線をそちらへ向け、すぐに眼を逸らしていた。
 飯館組の事務所に着き、扉を押した。今度は話が通っているらしい。組員らしき男が応接セットへと案内し、茶まで出してくる。茶碗は二つあった。
 間もなく、組員が何者かを迎える声が重なった。阿南が到着したのだろう。応えるでもなく、無言のまま阿南は応接セットに姿を現した
「酷い顔だぞ、武藤」
 開口一番、阿南がいう。それには答えず、武藤は口を開いた
「騒ぎがあったようですね。そこのホテルです。何か案件でも抱えているんですか」
 ああ、と声を発しつつ、阿南がソファに腰を降ろす
「金になる話だそうだ。受けたのはこの飯館組だが。うちからも人間を出してる。見つけ出したんだろう」
 うち、というのは侠撰会を指している。先ほどホテルの敷地で騒いでいたのは、飯館組と侠撰会の混成部隊であるようだ。
「何を見つけ出したんです?」
 武藤が訊くと、阿南は一口茶を啜り、答えた
「ある若者の肝臓が欲しいそうだ。それで手を貸してる。まあ、これは別件だ。それで、武藤、何かわかったのか。その報告に来たんだろう?」
 ええ、と答え、武藤はいった。
「ユニオン・アフリカーヌを知っていますか、阿南さん」
 茶碗をテーブルに置き、阿南が頷く。
「ああ、あの黒んぼのチンピラ集団だろう」
「そうです。いわゆる〝半グレ〟ですね。黒人や混血から成る粗野な若い連中です。どうやらこのところ力をつけてきているようですね」
 両手を組み、阿南が訊く。
「その連中がどうかしたのか」
 茶には手をつけず、武藤は語り始めた。
「例の戸籍売買について調べていましたがね、連中に攫われて、詰問されましたよ。私がどこの誰の指示で動いているかを知りたいようでした」
「拷問でも受けたか」
 阿南の言葉に武藤は苦笑しつつ、答えた。
「そんなところです」
「それで、答えたのか?」
 阿南の眼が鋭さを帯びる。武藤は首をゆっくりと横に振り、否定した。「いいえ。おかげで脱水を起こしましたがね」
 次は、阿南が苦笑する番だった。
「それでそんな酷い顔をしているのか」
 武藤が微笑んで見せると、阿南も表情を綻ばせた。
「上出来だな、武藤」
 早くこの場を切り上げたい。席を立ちたかった。
 阿南はユニオン・アフリカーヌを知っている。弱体化しつつある暴力団にとって代わり、半グレと呼ばれる集団が勢力を伸ばしている事実も当然ながら把握しているようだ。
 下手につつけば藪蛇、迂闊に手を出すべきではない。阿南がそう判断してくれることを、武藤は願った。
 この件から、もう身を退きたい。それでもこの先、阿南はこちらを組織へと戻すべく動くだろう。
 神原の言葉が甦り、耳の奥で反響した。
 苦しみ、悔やみ続けることが、自分に課せられた贖罪なのだ。

45

 遠く怒声が聞こえた直後、空気が締まった。異変が起きている。大壺は気づいたが、手を出すことができない。ホテルまではいくらかの距離があり、男たちが浮浪者らしき何者かの妨害を受け、何人かが青年の乗るミニクーパーを、そして別の何人かの男たちがその浮浪者を追う様を眺めているだけだ。
「出せ」
 隣の座席で男が運転手に命じた。大壺と同じく、異変を感じ取ったようだ。男の部下であるらしい運転手はギアを入れ、ステアリングを切った。路肩でアイドルしていた黒いハリアーが滑り出す。
 着信音が鳴り、隣の男が灰色のスーツから携帯を取り出し、耳に当てる。ハリアーは車線に乗り、ホテルへと向かっていた。
「何があった」
 平静を装ってはいるが、心中穏やかでないことが口調に現れている。その声に、焦りの気配が滲んでいた。
 二言、三言の会話の後、男は指示を出す。
「わかった。お前たちはそいつを追え」
 回線を切り、男が携帯をポケットに収める。稲本という名の男だった。飯館組の正式な組員だ。歳の頃は大壺とさほど変わらない。五十を過ぎたかどうか、といったところだ。整髪料の塗られた髪に、白いものが混ざっている。
「何があったんです?」
 大壺の問いに、稲本が前方を見たまま答える。
「想定していなかった事態ですね」
 やはり落ち着いたいい方ではあったが、焦りや動揺を隠し切れていない。「あのホームレスみたいな男、何者ですか」
 車はホテルへとノーズを向け、その姿はすでに視界から消えていたが、こちら側の動きを妨害した男の姿は遠くからでも認識できた。白い長髪、顎の下で揺れていたのは、伸び放題の白い髭だろう。現場労働者風の上着に、色の褪せたジーンズ。
「わかりません。乃木坂方面に逃げたようです。部下はそっちを追います」
 稲本の回答に、大壺は不満を覚えた。
「じゃあ、香村はどうするんですか」
 金額は掲示してあった。その話を、飯館組は呑んでいるのだ。香村というあの若い男の肝臓を手にしなければ大壺の懐に金は入らず、この男たちにも届かない。それは稲本も理解しているはずだ。
「侠撰会の者たちが追っていますよ。現場の判断で二手に分かれたんです」「私たちは?」
 訊くと、稲本は初めてこちらを向いた。
「香村を追います。俺たちは侠撰会を出し抜かなければならない。飽くまで別の会社ですからね」
 車窓からホテルが見える。男たちの姿はない。ミニクーパーも、ホームレスも姿を消している。従業員らしき数人の男女が建物から出てきており、うち何人かは携帯を耳に当てていた。
「出し抜く、とは?」
 稲本も騒ぎのあった現場を窓越しに見ているが、こちらの声は耳に入っているようだ。ハリアーはホテルの前を徐行し、そしてすぐに加速した。
「俺たちは侠撰会の下部組織です。奴らがあちらを追うといえば、従うしかない。対象は二つに増えた。恐らく、侠撰会は金を優先したんでしょうね。邪魔してきたあの男は俺たちに任せればいいと考えたんでしょう」
 しかし、と稲本が続ける。
「金になる獲物は香村ですから。俺たちとしちゃ、その手柄を侠撰会に取られたくない。うちはうちで香村を追いますよ。そして、捕まえる」
 青山通りに合流した。車の数が一気に増え、見通しは悪い。渋滞こそしていないものの、流れは滞っていた。
「横に繋がっている組織と連携して非常線を張ることも考えてますがね」
 そこまでいい、稲本が口を噤んだ。
「そうしてください。どうにかして、あの青年の身柄を」
 大壺の乞いに、稲本は小さく首を横に振る。
「それだけ取り分が減るんですよ」
 表参道の交差点が近づいてくる。交番の傍らに警官が突っ立っているのが、遠く見えた。
「侠撰会の下部組織は俺たちだけじゃない。他の組を巻き込めば、それだけ金を割らなきゃならないんですよ。ただでさえ、侠撰会には多くの取り分を持っていかれる。仕事が上手くいけば、それだけ治めなきゃならない」
 知ったことか、という言葉を大壺は飲み込み、眼を閉じた。金がどう分配されようが、大壺には関係がない。どうしても、あの青年が持つ肝臓が欲しいのだ。この男たちが手にできる金額など、こちらの知ったことではない。
 思えば、この男たちとて決して優れた人種ではないだろう。暴力団の内情に詳しいわけではないが、この隣に座る男もこの歳でまだ末端組織に籍を置いている。スーツに身を包み、後部座席でふんぞり返り、大物ぶってはいるが、皮を一枚剥いでやれば、頭の悪い三流やくざに違いない。実際にミニクーパーを襲った男たちも同様だろう。さほど発達していない脳ミソと若さしか持たず、それでいてメンツに拘り、自尊心が強く、その自尊心にも根拠がない。背景にある暴力団の組織力をひけらかし、虚勢だけで生きているような連中だ。
 訪ねる先として飯館組を選んだのは失敗だったのかも知れない。
 六本木ではよく遊んだ。バブルの頃だ。若かった自分は臓器移植コーディネーターとなる前から、それこそ結婚する前からこの街で飲み歩き、時代もあったのだろう、数々のいい思いもしてきた。この街には明るいつもりでいたのだ。
 当時から、この界隈を治めているのは飯館組だった。接点を持ったことなどなく、その上部組織である侠撰会の存在など知る由もなかったが、飯館組の存在は聞いていた。事実、その事務所は六本木にあり、大壺はその事務所を訪ねていた。管理職らしき男に話を持ちかけ、そして集ったのがこのチンピラあがりの男たちだったわけだ。侠撰会と飯館組の混成部隊などと聞いている。しかしどうだ、実態はチンピラの集まりでしかない。どちらの組織も、その末端に辛うじて属するような連中を寄越したのだと容易に想像がつく。烏合の衆といっていい。
 何本かの電話をかけ終えた稲本が、こちらへと向き直る。
「香村たちが逃げ込みそうな場所に思い当たりはありますかね、大壺さん」
 回答に窮した。黙考する。
 住処は三鷹だ。資料にはそうあった。しかし、そちらへも脅威が迫ると考えるのは易しい。その辺りまでは、あの青年にも想像がつくはずだ。三鷹へ戻るとは考えづらい。では、どこに。皆目見当がつかず、大壺は答えることができなかった。おそらく稲本は、同じ飯館組の構成員に電話で指示を与えたのだろう。非番の奴も集めろ、という台詞を電話に放っていた。
 日が暮れつつある。とうに渋谷や三軒茶屋を過ぎ、環八が近い。ステアリングを握るチンピラの迷いが伝わってくる。これといった指示がなく、車をどちらへ向けるべきかわからないのだ。環八の渋滞に巻き込まれ、そして日が暮れた。
 着信音。先ほどと同じ音だった。稲本が携帯を取り出し、耳に当てる。見つけたのか。捕らえたのか。大壺は期待しつつ稲本の様子を窺ったが、稲本は意外な反応を見せた。
「何?」
 携帯を握る手が震え始めた。
「おい」
 回線を繋いだまま運転手を呼ぶ。
「戻れ。青山墓地だ」
 運転手がウィンカーを出し、その場で強引に車を転回させた。クラクションが重なる。気にする風でもない。黄色いセンターラインを割り、内回り車線へと乗る。こちらはさほど混んでいない。稲本が通話を終え、携帯をスーツに収めていた。眼に険があり、頬には怒りの色が浮かんでいた。
「どうしたんです」
 大壺の問いに、稲本は答えた。
「やられた」
 侠撰会に先を超されたのだ、と大壺は察した。この男にとっては吉報ではないだろうが、どうやら香村を捕らえたようだ。
「青山墓地ですか」
 訊いた。稲本が頷く。しかし、様子がおかしい。車は再び玉川通りへと乗り、上り車線を走り始めている。
「急げ」
 運転手の返事に、稲本がいい重ねる。
「急げ!」
 激高しているようだ。昂る感情を抑えられていない。赤信号に止められ、稲本が運転席の背を蹴り飛ばした。ステアリングを握るチンピラの全身が震え出す。やはり様子が変だ。香村を捕らえたのではないのか。
「捕らえたんですか、香村を」
 稲本は否定した。
「違う」
 そして稲本は口を閉じ、歯を食いしばった。その表情に大壺は恐ろしさを覚えたが、さらに訊いた。
「では何です?何が」
 険を帯びた稲本の眼がこちらに向けられ、大壺は戦慄した。末端といえども、本職のやくざには違いない。車は三軒茶屋を越え、ようやく渋谷の端に達しつつあった。車の数が増え、信号も多い。
「俺の部下が殺された。あのホームレスに」
 稲本の醸す怒りに圧倒され、大壺はそれ以上何も質問できず、重い沈黙が車内を満たした。渋谷を過ぎ、通りの名が青山通りへと変わる。
 陽は落ちているものの、まだ夕方を過ぎたばかりだ。本格的な渋滞が始まるには時間がある。車は西麻布交差点を左に折れ、ノーズが青山墓地へと向けられた。
 ちらほらと墓石が左右に現れ、その数が増えてゆく。ハリアーは速度を落とし、徐行していた。稲本の携帯が鳴る。
「もう近い。すぐにいく。死ぬなよ」
 携帯を耳に当てたまま、稲本が運転手に道を示した。広大な墓地の一角で、ハリアーが停止する。闇の中、数々の墓石が立ち並び、それらをハリアーのヘッドライトが照らしていた。
 稲本が車を降り、大壺もそれに続いた。
 血の臭いがする。闇に眼を凝らすと、脚が見えた。墓石の間に、それは転がっている。稲本が近づき、悪態をついた。大壺は歩を進め、転がる脚へと近づいた。全貌が現れる。
 死体だった。墓石と墓石の間に脚を投げ出し、息絶えている。首に裂傷があり、そこから地面へと大量の血液が流れ出ていた。
 車を降りた運転手が稲本を呼ぶ。声は車の方からではなく、別の墓石が並ぶ辺りから届いた。
「生きてるのか」
 顔を上げ、稲本が訊く。運転手は首を横に振り、それが死体であることを知らせていた。殺されたのは、一人ではない。
 大壺の傍に立つ墓石が、濡れていた。血だ。触れると、指先に赤黒い筋が浮かぶ。その墓石の影でも、一人のチンピラが死んでいた。まだ若い。三十にもなっていないだろう。その死体も頸部を深く切られ、辺りに血の池を形成していた。
 死体から眼を離し、辺りを見回した。別の墓石に男が凭れかかり、稲本が語りかけている。大壺は、そちらへと歩み寄っていった。
 まだ息がある。喉を押さえ、止血を試みているようだが、鮮血が辺りを染めていた。何かいっているが、声はか細く、喉笛が鳴るのか、風切り音にも似た響きを伴っている。四十代と思しき男だった。
 鬼神、ですよ。
 そう聞こえた。救急車のサイレンが近づいてくる。
 稲本が煙草を取り出し、死にかけている男の唇へと挿し込んだ。ジッポかデュポンか、金属製のライターで火を着けてやったが、男の唇から煙草が落ち、その眼から生気が失せてゆく。
 落ちた煙草からは、火が消えていた。吸う力すら、この男には残されていなかった、ということだ。
 稲本が何か叫び、墓石にライターを叩きつける。
 近づくサイレンと硬質な音が重なり、辺りにはただ闇が広がっていた。

46

 バックミラーに映る全ての車が追手のような錯覚に囚われ、ステアリングを握る龍の手が汗ばむ。後部座席の幸子も同様らしい。しきりに身を捩り、後方へと視線を投げていた。セツコは黙り、ただ前方を見つめている。何か考えているようだが、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
 多摩川を渡り、東京を脱する。駅でいえば、田園都市線の二子新地の辺りだろうか。
 不意にセツコがいう。
「やくざね、さっきの人たち」
 呟くような口調に、龍は頷いた。同意見だ、としかいいようがない。暴力団が、それも大勢で襲ってきたのだ。ヒガの助けがあり、どうにか危機は脱したように思えるが、襲われる理由がわからない。信号が赤に変わり、前方の車が停止した。ブレーキを踏み、龍も車を停止させる。
「借金はありますけど、全部が奨学金ですよ。いつかメッセンジャーで話したかも知れませんけどね」
 バックミラーの中で、幸子が怯えを隠し切れない表情で眼を伏せ、首を小さく横に振る。
 「違約金とかは全部払ったし、家賃は滞納してるけど・・・」
 建物の持ち主や不動産業者が家賃の回収に暴力団を使うとは考えづらい。奨学金という形で借りた金額は大きいが、奨学金基金が債権を暴力団に譲るなどとも考えられず、龍の思考はそこから先へと進まなかった。信号が青になり、車が流れ始める。龍はギアを入れ、そろそろと車を前進させた。
 眼を閉じ、黙考していたセツコが溢す。
「わたしにも、心当たりは全くないわ」
 二速、三速とギアを変え、龍はミニクーパーを走らせる。
「三人とも、やくざに追われる覚えはないし、あの人たちの狙いがわたしたちのうち誰なのかもわからない」
 ただ一人、冷静に事態を分析しているのがセツコだった。龍も幸子も、慄きに感情を揺さぶられ、何をどこから考えるべきかも判断がつかず、ただセツコの言葉に耳を傾けるだけだ。
「ただ一ついえるのは、わたしたちがヒガさんや、『モダン・ボガ』のオーナーさんに接触してから事が起きた、ということね」
 246号から路地へと折れ、龍は路肩へと車を止めた。サイドブレーキを引き、ステアリングに凭れかかる。眼を閉じた。強い疲労が全身を巡っている。ほんの一分ほどだろうか、龍はその体勢のまま思索した。二人とも、龍の邪魔をしない。
 車を捨てなければ、という考えに至った。車種もボディカラーも、あのやくざたちには憶えられている。
 陽が大きく傾き、夕刻を迎えつつあった。
「降りましょう」
 龍の考えに、セツコも思い至ったようだ。促すと、幸子も車を降りてくる。龍はイグニッションに挿したままのキーを残し、ドアを閉じた。荷物やバッグを持つ二人を連れ、246号まで徒歩で戻り、タクシーを拾う。後部座席の端へと乗り込んだセツコが運転手に註文した。
「ホテルを探してるの。料金が高ければ高いほどいいわ。そこへいってくださる?」
 曖昧な返事をした運転手がドアを閉じ、車を発進させる。そして心当たりでもあったのか、ホテルの名を告げ、外国人の宿泊客なども多いそうだ、という意味の言葉をつけ足した。
「そこでいいわ。お願い」
 料金メーターを操作し、運転手が車を中央車線に乗せた。
「あまり目立たないホテルとかの方がいいんじゃないですか、セツコさん」
 龍はいった。想定していたのは、規模の小さな安い宿泊施設だった。目立ちたくない。身を潜めるように過ごしたかった。
「わたしもそう思ったけれど、高いホテルの方が安全よ。セキュリティもしっかりしているし、ホテルの中で何もかも揃うから、外へ出る危険も犯さずに済むわ」
 やはりセツコは冷静だった。歳の功、というやつだろうか。考えてみれば、確かにセツコのいう通りだ。追手の姿はなく、車も乗り捨てた。その線から投宿先を探り当てられる危険性はなく、むしろ無暗に外を歩く方が危険ともいえる。
 ホテルが近づき、エントランスの前でタクシーが停止した。順に車を降り、セツコを先頭にフロントへと向かう。
「予約はしていないのだけれど、お部屋は空いているかしら?」
 いつもと変わらぬ朗らかな口調でセツコが訊いている。部屋を三つ取りたい旨を伝えていた。幸い部屋は空いており、セツコと幸子は荷物を置きに、それぞれの部屋へと消え、龍は二人と待ち合わせるレストランへと先に入った。ウェイトレスにこちらが三人であることを告げ、案内されたテーブルへと着く。間もなく、セツコと幸子も現れ、ウェイトレスに案内される形でテーブルに着いた。水をひと口飲むと、微かにではあるが、ようやく空腹を覚える。幸子も同様らしく、メニューに見入っている。空腹ではあったものの、恐ろしい思いをしたのだ、さほどの量は入りそうにない。
「そうね、わたしも同じだわ」
 龍の意見にセツコも同調し、三人で取り分けられる料理を一品だけ註文した。コーンスープを皿の半分ほど口にしたきりの幸子が、取り分けられた料理に少しずつ手をつけているのを認め、龍は安堵していた。セツコもゆっくりではあったが、料理を口に運んでいる。
 だが、やはり三人とも、さほど食が進まない。フォークを置いたセツコが口を開く。
「やはり鍵はヒガさんと、あの店のオーナーね。特にあのランドローズさんという方、何か隠しているわ」
 同感だった。こちらがなぜ追われているのか、奴らは三人のうち、誰を追っているのか、問い質したい。そうでもしなければ、理由も知らぬまま延々と逃げ続けることにもなりかねないのだ。セツコに眼をやり、龍は提案した。
「今夜は休んで、明日またいってみましょう。車を変えて」
 ええ、とセツコが答え、幸子に視線を移す。
「あなたはどうする?ここにいてもいいわ。もちろん、わたしたちと一緒に動いてもいいのよ」
 優しく微笑みかけ、セツコが選択肢を与える。顔を上げた幸子が答えた。「独りは心細いです。一緒に、一緒にいたい」
 回答を得たセツコが頷き、いった。セツコの微笑みは、龍と幸子を安心させるかのように優しい。
「じゃあ、明日一緒にいきましょう。レンタカーを借りて、運転はきっと、龍くんがしてくれるわ」
 セツコの柔らかな視線に、龍は頷いて見せた。
 二人と別れ、エレベーターで部屋へと向かう。まだ夕方を過ぎたばかりだが、すぐにでも眠りたいほど疲れていた。シャワーくらいは浴びなければ。テレビを点け、シャツを脱ぐ。ニュース番組が液晶に映っていた。
「速報です。東京都港区の青山墓地で殺人事件が起きました。少なくとも三人が死体で発見され、犯人は見つかっていないということです。警察では検問を行い、捜査を進めています。繰り返します。港区の青山墓地で殺人事件が発生、少なくとも三人の遺体が見つかり、犯人は逃走した模様です。警察は捜査を進めています」
 画面の端から手が伸び、キャスターに原稿らしき紙が渡される。
「続報です。先ほど入ってきた情報によりますと、事件は暴力団同士の抗争と見られる、とのことです。犯人は逃走中、少なくとも、三人の死体が発見されています」
 何かが起きている。それも、大きな何かが。
 しかしそれが一体何なのか、龍にはわからないのだった。
 得体の知れない巨大な何かが、大きな影を伴いつつ、迫ってくる。

47

 武藤神父、と呼ぶ声がした。祐樹だ。玄関を箒で掃いている。早朝だった。礼拝の予定はない。面会の予定も入っていない。告解や相談に訪れたなら、その場となる告解室へと入るはずだ。
「どちらさんだ?」
 武藤は訊いたが、祐樹は何かいい淀んでいる。
 昨夜から街は騒がしかった。パトカーのサイレンが近づいては遠ざかり、空気も張り詰めていたように思える。珍しいことではない。やくざ、チンピラ、不良グループ、不良外国人、薬の売人、そして薬物中毒者。多種多様な人種が入り交ざるこの街では、毎週のように何かが起きている。
「通してくれ」
 武藤はいい、かつては喫茶室だった講堂へと向かった。いくつかあるテーブルのうち一つに着き、客が現れるのを待つ。早朝の教会。静謐な空気が室内を満たしている。
 やがて入り口から男が現れ、武藤は迎えるべく椅子から立ち上がった。男は室内を見回し、そして武藤へと視線を向ける。臭気が鼻を衝く。薄汚い格好だった。現場労働者を思わせる青い上着には大小様々な汚れが付着し、ジーンズは穴だらけだ
「どうぞ」
 椅子を勧めると、男はテーブルへと歩み寄り、腰かけた。整えられていない頭髪は白く、伸び放題の髭も白い。七十は下らないだろう。老いた浮浪者だった。
「どうされました、今日は」
 告解室でのそれと変わらぬ口調で、武藤は訊ねた。浮浪者は口を閉じたまま黙り、沈黙が降りる。急かさず、促さず、武藤はただ待つのみだ。
 やがて浮浪者が口を開き、いった。
「ひ、人を、殺し、殺しました」
 その口調で武藤は察した。いつか告解に訪れた浮浪者と同一人物だ。今日もベトナムでの殺人を告白しに来たのだろうか
「何人、ですか」
 武藤の問いに、浮浪者が答える。
「二人か、さ、三人。三人とも、たぶん、し、死にました」
 そうですか、と武藤は応え、テーブルの上で両手を組んだ。
「辛かったでしょう。殺される方もそうでしょうが、殺す方も辛いようですから」
 浮浪者は頷き、そして今度は小さく首を横に振る。小刻みなその動作が、痙攣でも起こしているように見えた。
「お、お、恩があった、あった。酒をの、飲ませてくれて、は、話まで、き、聞いてくれました」
 話の筋が読めない。だが詮索はせず、武藤は浮浪者の発する言葉の続きを待った。
「襲われて、お、襲われていたんです、二人が、三人になって、なっていたけど。ぐ、偶然通りか、かかったんです。空き缶を、空き缶を集めてはこ、運んでるところで、でした」
 聖人の描かれた絵画が壁一面に飾られ、彼らが自分たちを見つめているように思えた。
「や、やくざです。たぶん、たぶん。あいつらは、や、やくざです。助けて、さ、三人を逃がし、逃がして。そしたら、お、追われました。追ってきました」
 やくざ、と浮浪者はいう。出征先のベトナムではなく、日本での話なのか。
「ね、ね、寝床に戻って、包丁を取って、取って、お墓に逃げ、逃げ込んで、暗くなるのを、暗くなるのをま、待ちました。それで、か、返り討ちに、返り討ちにし、しました。襲ってき、襲ってきたから、勝手に体が、体が動いて、動いて、三人ともこ、殺しました」
 武藤は訊いた。
「それはいつのお話です?」
 浮浪者は伏せていた眼をこちらへ向け、答えた。
「き、き、昨日です、です。追手が、追手がやって、やってくる。殺されるくらい、殺されるくらいなら、こ、殺します。そうやって、そ、そう教えられましたから」
 この男の話が本当なら、昨夜の騒がしさも説明がつく。そして本当に暴力団員を殺してしまったなら、暴力団はそれなりの報復をこの男に加えるだろう。下手をすると、命を奪われる。だが、同じく罰を与えられるのなら、それは司法の手によるべきだ。
 匿った方がいい。
「ここへ隠れていましょう。食事も着替えも、風呂もあります。快適に過ごせますし、その辺りをウロつくよりも、よほど安全です」
 もう一度首を横に振った浮浪者が、椅子から立ち上がる。どこへいこうというのだろう。その時、男の放つ体臭に、微かにではあるが、血の臭いも混ざっていることに、武藤は気づいた。汚れた上着の随所に、他の汚れとは明らかに色の異なる部位がある。青い色が濃さを増し、黒くなっているのだ。やはり、血だ。返り血を浴びたことを意味している。
「で、でも、し、し、神父さん」
 こちらに背を向け、浮浪者が入り口へと歩き始める。武藤も椅子から立ち上がり、制止するべく男の背を追った。
「こ、この機会を、待って、ず、ずっと待っていた、いた気がします」
 いい残し、浮浪者が教会を出てゆく。制止を試みかけた武藤だったが、浮浪者の肩に現れた強い意思の気配に、動きを止められた。
 肩に、強い決意が現れている。この男を、もう止めることはできない。武藤がそう感じてしまうほどに強い決意を、その肩が物語っている。
 入り口から通りが見え、浮浪者の背が遠ざかる。まだ早い時間だ。街をゆく人の姿は皆無だった。
 無力感を抱きつつ男の背を見送り、武藤は玄関のドアに挟まれている新聞を引き抜いた。手で広げながら、台所へと廊下を歩く。いい香りが漂ってきた。祐樹が朝食にトーストでも焼いているようだ。しかし、食欲は湧いてこない。
 新聞の一面に大きく記された記事が、武藤の眼に飛び込んでくる。青山墓地で大量殺人、暴力団同士による抗争か。
 点と点が線で繋がる感覚が、武藤の脳裏を過った。浮浪者の語りは、事実だったのだ。言葉は不自由なようだが、決して頭や、その中に収められた記憶が壊れ、歪んでいるのではない。あの男はただ、昨夜己に降りかかった災難を忠実に話しただけなのだ。三人、それも、やくざを死なせている。先に警察がその身を捕らえればいいが、もし暴力団が先にあの男を見つけたなら。街を歩くなど、危険すぎる。
 新聞を片手に玄関へと廊下を走った。通りが見え、朝の太陽に照らされた六本木の街が武藤の視界に広がる。
 だがそこに、もう浮浪者の姿はなかった。

48

 ビンテージマンションの立ち並ぶ骨董通りを直進し、その先を左へと折れた。車を星条旗通りへと乗り入れ、しばらく走ると、フロントガラスの向こうに『モダン・ボガ』の建物が見えてくる。龍はアクセルを緩め、車速を落とした。とうに日が暮れ、夜が更けている。閉店時刻が近いはずだ。客の数が減り、厨房では片づけが始まる時間だろう。店が閉まるかどうか、といったこの時間に、ランドローズが多忙とは思えない。訪ねれば、顔を出す。拒むならば、それはやはり何かを隠していることを示唆し、こちらとしてはその点に確信を持つことになる。
 車を路肩に停め、龍は助手席のセツコと頷き合った。そして身を捩り、後部座席を振り向く。幸子を残しておきたい。街を徘徊する駐車監視員に切符でも切られれば面倒だ。エンジンがアイドルしたままの車に一人でも乗っていれば、切符を切られる心配はない。二子新地駅前のレンタカー屋で借りたアクアだった。
「ここで待っててくれ」
 龍の言葉に、幸子は首を横に振る。髪が揺れ、シャンプーの香りが鼻に届く。その表情には、怯えの色がありありと浮かんでいた。
「いやだよ、独りは。怖い。一緒にいかせて」
「独り残すなんてかわいそうよ、龍くん。駐車禁止のチケットを貼られるのが嫌なの?」
 セツコの問いに、龍は頷いた。
「大丈夫よ。わたしの名義でレンタルしているのだし、あとで請求されたら払っておくわ」
 朗らかにいうと、セツコは車を降り、シートを前方へと倒した。
「さあ、いきましょう」
 セツコに促され、幸子も車を降りてくる。龍は後方に二人を連れる形で夜の歩道を歩き始めた。
 店はまだ営業しているようだが、窓から覗く限り、客の姿は皆無だ。建物の角を曲がり、いつかヒガが料理を受け取っていた厨房へと繋がるドアへと向かう。ノックするとドアが内側から開かれ、コック帽を頭に乗せた男が顔を出した。セツコが用件を伝える
「ランドローズさんに用があるの。オーナーさんよ。いらっしゃるわよね?」
 やや困惑した表情を見せつつ、男がいった。
「お待ちくださいます?」
 ドアが閉じられ、食器や調理器具の類を洗う音が聞こえた。再びドアが開き、コック帽の男がいう。
「表からお入りください。案内しますよ」
 コック帽の男にいざなわれ、建物の角を曲がり、正面の入り口から店内へと入る。先頭を切るコック帽の男は無人のフロアを突っ切り、以前セツコと龍がランドローズと接見した応接間へと歩いた。
「こちらでお待ちください。すぐに参りますので」
 いい残したコック帽の男が部屋を出てゆく。三人は並んでソファに腰かけ、古い暖炉や壁に飾られた絵画を眺めつつ、ランドローズが現れるのを待った。
 ドアがノックされ、セツコがそちらに視線を移す。ランドローズが姿を現し、後ろ手にドアを閉じた。表情は柔らかい。
「もう少し早くいらっしゃれば、あなた方にうちの料理をご馳走したんですが。おや、そちらのお嬢さんは」
 ランドローズが視線を幸子に注ぎ、向かいのソファにかけた。幸子が眼を伏せ、会釈している。龍は答えた。
「付き添いというか、まあ、そんなところです」
 曖昧な回答だったが、ランドローズは訝しがるふうでもなく、柔和な笑みを崩さない。そうですか、と応え、脚を組む。
「早速本題に入るわ、ランドローズさん」
 セツコが切り出す。
「昨日、やくざに襲われたの。わたしたち三人。ランドローズさん、あなたに会って、そのあと、ヒガさんというホームレスの男性とも会ったわ」
 ヒガの名を聞き、ランドローズの笑みに若干の影が差す。
「そうですか。どんなお話をしたんです?」
 その眼に浮かんでいるのは好奇心ではなく、猜疑心に近い。セツコが答える。
「色々よ。このお店で食事を貰っていることも聞いたわ」
 セツコの口調も、いつものそれとは異なっていた。何かを隠しつつ会話を続けている。駆け引きといっていい。
「そのあとなの、わたしたちがやくざに襲われたのは。ヒガさんに助けられたわ」
 眼を見開き、ランドローズが訊く。
「ヒガに、ですか」
 頷き、セツコが答えた。
「ええ。おかげでどうにか逃げることができたけど、危ないところだったわ。ランドローズさんとヒガさん。あなた方二人にお会いしたことが関係している気がして、それでまたこうして訪ねてきた、というわけなの」
 ほう、とランドローズが声を漏らす。
「ヒガに、何かを与えましたか」
 セツコがこちらを見る。龍は答えた。
「酒と、つまみと、あと、煙草を。お金を出したのはぼくではないですけど」
 なるほど、と呟き、ランドローズが苦笑いを見せた。
「義理堅い男ですからね」
 それで、とセツコが問う。
「なぜかわたしたちはやくざに襲われてるの。さっきもいった通り、ヒガさんのおかげで逃げることができたけれど。何か心当たりがおありじゃないかしら、ランドローズさん」
 しばしランドローズが黙考した。虚空に視線を漂わせている。そして、口を開いた。
「それは災難でしたね」
 表情からは、柔和な笑みが消えている。
「ですが、わかりかねますね。私もこの店も、昔はそうではなかったようですが、今では暴力団との接点は全くありません。無関係でしょう。少なくとも、あなた方が私やヒガと会い、それが暴力団に襲われるきっかけになったとは考えられない」
 じゃあ、とセツコが続けた。
「青山墓地で起きた大量殺人は聞いていらっしゃる?ランドローズさん」
 ランドローズの頬が締まる。眼を伏せ、再びこちらに視線を向ける。
「ええ、今朝新聞で読みました。暴力団同士の抗争ではないか、と書かれていましたね。ですが、違いますよ。おそらく、ヒガの仕業でしょう」
 ヒガさんの、とセツコが言葉を溢す。
「暴力団に襲われた際、ヒガに助けられたといいましたね」
 ランドローズの問いに、セツコが頷く。
「ヒガは追われたのでしょう。そして陽が暮れるのを待ち、追いかけてくる暴力団の組員たちを始末した」
 ランドローズの表情に笑みが戻る。ただ、それは柔和な笑みなどではなく、不敵とも取れる笑みだ。
「あれでもベトナムで戦った男ですよ。素手での格闘はもちろん、ナイフや銃器も扱える。それこそ、刃物が一つあれば、アマチュアなど何人いても相手にはならんでしょうな。さらに、ゲリラ戦においては専門家といってもいい」
 その口調は雄弁だった。どこか、誇らしげですらある。喋り過ぎたことに気づいたのか、ランドローズは口を閉ざした。
「ランドローズさん」
 セツコが問い詰める。
「なぜあなたは、彼がベトナム帰還兵だと知っているの?そして、なぜあなたは彼に食事を提供し続けているの?」
 黙るランドローズが、苦悶の表情を浮かべた。眼を伏せ、口を真一文字に引き結んでいる。そして、ようやく口を開いたランドローズがいい放つ。「答える義務はありませんね」
 いい終えたランドローズがソファから立ち上がり、ドアを指し示した。お引き取りを、と眼が無言で告げている。

49

 侠撰会は青年を追うべく動いているようだが、飯館組はあの浮浪者を追うことに注力し始めている。金よりも、暴力団特有のメンツともいえる何かを選んだ、ということか。あの青年の持つ肝臓など、すでに稲本の眼中にはない。あの浮浪者を探すべく、暴力団員風の男たちが街を徘徊している。飯館組の連中だ。街の空気は張り詰め、道をゆく人々の放つ気配からも、緊張が感じられた。
 飯館組の事務所を訪ねると、いつか応対した管理職らしき男が出迎えた。もう一人、男がいる。薄くストライプの入ったスーツを着た坊主頭の男だ。坊主頭の鋭い視線が大壺を射る。大壺は戦慄し、立ち竦んだ。只者ではない。背に、不気味な圧力を伴っている。
 覚悟はしていたのだ。暴力団の事務所を訪ねるなど、堅気の身である自分には巡ってくることのない機会だと長く思い込んでいた。こうして再び事務所を訪ねるなど想定してはいなかったが、恐ろしい思いをすることは予期していた。初めて訪ねたとき、応対したその管理職らしき男は剣呑な空気を醸し、大壺を委縮させたが、坊主頭のこの男はそれ以上の恐怖感を大壺に与えている。おそらく、飯館組の人間ではない。その上部に位置する組織、侠撰会の男だろう。だが、怯えている余裕はなかった。娘に残された時間は短い。
「上手く運ばないようですね、大壺さん」
 飯館組の管理職がいう。大壺は頷き、言葉を発した。
「他人事のようにいわないでください。こちらは必死なんですから」
 その台詞を聞いた坊主頭が、飯館組の管理職を睨み据えた。管理職の体が硬直するのが見て取れる。腹話術人形のように、管理職はどうにか口だけを動かす。
「それで、クレームを入れにきた、ということですか」
「クレームといいますか、その、陳情に来たんですよ」
 管理職が口だけを動かし、答えた。
「もっとしっかりやってくれ、と」
 ぎこちない動作だったが、管理職がようやく体を動かした。坊主頭の男は黙ったままだ。
「大壺さん」
 体重を片足に預け、管理職が続ける。
「あなたは必死だろうが、こちらも必死なんですよ。なにせ、組員を三人も殺されたんですから」
 ニュースで報道を知ってはいた。暴力団同士による抗争と見られているようだが、実際は違う。抗争など起きていない。暴力団員が三人、一方的に殺されたのだ。殺人というより、それは殺戮に近い。
 管理職らしき男を睨んでいた坊主頭の男が、不意に言葉を発した。
「もうこの件はうちが引き取るぞ」
 短く、切るような口調だ。相手に有無をいわせない迫力がある。
「わ、わかりました、阿南さん」
 辛うじて答えた管理職も、その顔に怯えの色を浮かべていた。やはり、只者ではないのだろう。
「大壺さんといいましたか」
 阿南と呼ばれた坊主頭の男が訊く。ええ、と大壺が答えると、阿南は続けた。
「今いった通り、この件はうちが引き取ります。大方の話はすでに聞いていますし、適任者がいますんでね。大壺さん、あんたに紹介しますよ」
 湧き出る唾を飲み下し、大壺は訊いた。
「適任者、ですか」
 阿南が頷き、口の端を釣り上げる。
「今はこの世界から足を洗っていますがね、かつては腕利きのやくざだった男です。かなりの実績を積みましたし、出世もしましたよ。頭の切れる男でしてね。大壺さん、きっとあんたの力になる」
 ただし、と阿南が凄味のある語威で言葉を続ける。
「上手くいけば、報酬は必ずいただきますよ。全額」
 初めから、そのつもりだ。金に糸目をつける気などない。
 今度は期待していいだろう。腕利きの元やくざ。時間がない。早急にあの青年から肝臓を奪い、ミニッツに渡さなければならない。身柄ごとでも構わないだろう。四の五のいっている暇はなく、手段を選んでいる余裕もないのだった。

50

 阿南が琥珀色の液体を手酌でロックグラスに注ぐと、ラフロイグのボトルが空になった。
「同じ物を」
 註文した阿南の声が耳に入ったらしく、マスターがカウンターの中で動く。返事はない。大きな手が酒の棚に伸び、新たなボトルを摑み出した。封を切り、それが阿南の前へと置かれる。阿南は手酌で注いだウィスキーを口に運び、武藤の前には水の注がれたロックグラスが置かれていた。午後十時、西麻布。『MIST』のカウンター。思えば、阿南がこの大男に礼を失した態度を取るのを見たことがない。武藤がこの世界に入った頃、マスターはすでにこの店を営っていた。酒場の主人となってからも、マスターは筋者めいた空気を背負い、それは現在も変わっていない。指は揃っているようだが、任侠とも呼ばれるその世界から足を洗い、店を開いた背景にどんな経緯があったのか。
 対して阿南は、大学を出て数年の後にこの世界へと入ってきている。二人の過去に何があったのか知る由もないが、阿南が慇懃な態度を崩さぬ様子を見る限り、かつては同じ世界で上下関係にあったのかも知れない。
 電話から、ちょうど十二時間が経っていた。教会の黒電話を鳴らしたのは阿南だ。浮浪者を見失い、どう動くべきかと思い悩んでいた武藤に、阿南は回線越しに店の名と時刻だけを告げ、電話を切った。若い黒人や混血によるグループの存在を報告してから、さほど日にちは経っていない。次は何を要求されるのか。阿南や、その背後にいる磯部がこちらを組織へと戻すべく動いているのは明白だった。何を求められるにしろ、穏やかなそれではないだろう。仮に無理難題を押し付けられたところで、拒む権利など武藤にはない。マスターがどんな形で足を洗ったのかはわからないが、少なくとも、武藤が堅気となるきっかけとなった辞め方は、きれいなものではなかったからだ。
 新たなボトルのコルクキャップを抜き、阿南がグラスにラフロイグを注ぐ。すでに罅の入った氷は音を立てず、静かに浮かんでいた。ボックス席では一組のカップルが口を吸い合っている。暗い店内に、粘膜と粘膜が触れ合う微かな音が漂っていた。
「武藤」
 グラスを口から離し、阿南がようやく口を開いた。
「もうお前を戻そうとはせんよ。上手くいけば、な」
 水に手をつけず、武藤は訊いた。
「次は何をさせるつもりですか」
 二人の前に置かれたグラスが、共に汗をかいている。阿南はそれを手で拭い、答えた。
「最後の仕事だ。後日会わせるが、その男に協力しろ」
 視界の隅で、マスターがカウンターの内側にある椅子に腰を降ろし、文庫本を開くのが見える。傍らには、読書用の小さな照明があった。
「その方は、何を望んでいるんです」
 グラスのラフロイグを干し、阿南がいう。
「ある青年の肝臓だ」
「肝臓、ですか」
 ああ、と阿南が肯定する。
「詳細はその男と会うときに聞けるだろう。何も、摘出しろとはいわん。身柄を押さえればいい。手段も問わんさ。だが、スマートにやった方がいいだろうな」
 スマートに、と阿南はいう。荒事は避けろ、という意味だ。多少荒い仕事となっても、警察沙汰になどできない。組織に戻る話を免除されたとしても、刑務所に戻ってしまえば本末転倒だ。
「それで仕事は終わりだ、武藤。もし上手くいけば、もうお前を戻そうともせんさ」
 水に曝された氷が溶け、形を変えている。まだ手はつけていない。
「前にもいったかも知れんが、まだ俺としては半信半疑なんだ。だが、掲示された報酬額は必ず回収する。武藤、お前はリスクを犯すわけだからな。その男に『払えない』などとはいわせんよ。家も車も、資産の全てを売らせて、それで足りなきゃ闇金から借りさせて、それでも足りないなら肺から腎臓から角膜から、何から何まで売らせて、全額回収する。まあ、俺たちのやり方はお前もよく知っているだろうがな」
 語る阿南の全身から、危うい気配が醸されている。それはボックス席にまで達したのか、カップルは息を殺しているようだ。
「だが武藤、時間がないそうだ。速やかに仕事を済ませろ。また連絡する」
 いった阿南から、危険な気配が徐々に退いてゆく。ラフロイグをグラスに注ぎ、さらに呷っている。
 今夜の用は済んだらしい。阿南はそれきり、もう喋らなかった。マスターは読書用の照明を灯し、文庫本を読み耽っている。眼鏡をかけていた。老眼鏡だろうか。

51

 独りでいるのは心細く、夜もあまり眠れないまま幸子はホテルの部屋で朝を迎えた。セツコが部屋を押さえた二子新地のホテルだ。ベッドから立ち上がり、カーテンを開く。十一階の部屋から街を俯瞰できる。平日だった。多くの通勤客が駅へと向かうその姿が、蟻の行列に似ている。空には雲がいくつか浮かんでいたが、雨雲ではないようだ。快晴といっていい。朝日が幸子の眼を射る。瞳孔が収縮するのが実感できた。眩しさに眼を顰めつつ窓から離れ、ジーンズに履き替えた。トップスに袖を通し、部屋を出る。龍か、セツコか、とにかく誰かと一緒にいたい。
 エレベーターで一階へと降りる。店内を観察しつつレストランを通り過ぎたが、龍やセツコの姿はない。歩を進めると、ティーラウンジがあった。店内を覗く。窓際の席に、龍がいた。二人掛けのソファでコーヒーらしきカップを手に、スマートフォンに見入っている。
「いらっしゃいませ」
 スタッフの声に会釈を返し、幸子は龍のいるソファ席へと向かった。こちらに気づいたのか、龍がスマートフォンから眼を離し、顔を上げる。表情には微かに疲労の色が滲んでいるが、笑顔だった。
 龍のいるソファの端に腰を降ろし、おはよう、と幸子はいった。
「何か飲む?」
 運ばれてきた水をひと口含み、幸子は首を横に振った。
「ううん、これでいい」
 そういえば、化粧をしていない。眉くらいは描いてくるべきだった。
「眠れないみたいだな、無理もないけどさ」
 コーヒーの香りを放つカップを口につけ、龍がいう。鏡を見たかった。眼の下に隈でも形成されているのだろうか。含んだコーヒーを飲み下した龍が訊く。
「セツコさんは?」
 幸子は首を横に振るしかなかった。まだ部屋で休んでいるのだろう。幸子はさらに水をひと口含み、訊いた。
「龍くんはさ、今何してるの?」
 院生だよ、という答えが返ってくる。
「あれからお互い上京しただろ?こっちは進学って形だった。卒業はしたけど、働く口もないし、そのまま院に進んだ」
 あれから、というは、地元のカラオケボックスで開かれた同窓会を指している。そうだ。あの同窓会が終わった数日後、幸子は地元である名古屋からこの東京へと出てきている。龍も同様だったようだ。
「家はどこ?」
 苦笑いを見せ、龍が答えた。
「三鷹。焼き出されたけどね」
「焼き出されたって?」
「火事だよ」
 いった龍がさらにコーヒーを含む。
「セツコさんとメッセンジャーでやりとりしてるとき、アパートが火事になっちゃってさ。全焼だよ。それで今はセツコさんに同行して、こうして部屋を確保してもらってる。セツコさんがこの国に来た理由は聞いただろ?」
 幸子は頷き、先を促した。
「その手伝いをしながら、新しく部屋を探そうなんて都合のいいことを考えてたんだけど・・・」
 苦笑いの表情は崩れず、龍は自嘲するように続けた。
「そんな余裕はなかったな。それどころか、なんだか昨日みたいに怖い思いもしたしさ、まずは身を守らなきゃな」
 いい終え、龍がコーヒーを口に運ぶ。
「ヒガさんって、誰?」
 昨夜、『モダン・ボガ』でセツコと壮年の白人が交わした会話の中に出てきた人名を、幸子は口にした。
「ホームレスさ。乃木坂トンネルを寝床にしてる。セツコさんがミック・マーベルっていう人のことを知りたがってるのは聞いてるよな?」
 このホテルにあるレストランでセツコの語った話を回想する。セツコの父親が命を捨ててまで救った兵士。戦後、姿を消してしまった男。
「あの店のオーナーは、何か隠してる。ヒガさんも何か関係してるように思うんだよ」
 徐々に店内から客の数が減ってゆく。入ってくる客よりも、去ってゆく客の方が多い。
「龍くんは、帰るところ、ないんだね」
 カップをテーブルに置く龍が、また苦笑した。
「そりゃお互い様さ」
 思えば、そうだ。幸子にも、帰る場所などない。
「ありがとな。うちの親の葬式、来てくれてさ」
 龍がソファの肘掛けに手をつき、礼をいった。古い話だった。二人とも、まだ制服を着ていたのだ。交通事故だったと聞いている。龍の両親は共に他界し、その葬儀に幸子は出席していた。学級委員長を務めていたクラスの代表として、担任の教諭と共に赴いた。
「大変だったね」
 慰めの意を込め、幸子はいった。龍は相変わらず苦笑いだ。
「それもお互い様さ」
 気が付くと、その言葉に幸子も微笑んでいた。龍が続ける。
「ずっとさ・・・」
 うん、と幸子は頷き、龍の口が開くのを待つ。
「好きだったんだよ。それこそ、小学校の頃から」
 初めて聞く。龍がこちらに想いを寄せていたなど、聞いたことがない。
 中学の頃から、幸子は男子生徒の眼を惹いた。想いを告げられることなど珍しくはなく、実際に何人かの男子生徒と交際し、高校に進んでからもそれは続いた。しかしまさか、当時から龍も想いを秘めていたとは。
「でも、龍くんからいわれたことなんてないよ、『好きだ』なんて」
 龍の眼が遠い。古い記憶を辿るような眼をしていた。
「いう勇気がなかった」
 ぽつりとそういい、龍がさらに語る。
「誰それと付き合ってるって話を聞く度に悔しい思いをしたな。高校に入ってからもそうだった。同窓会で久々に会ってさ、でも、結局いえなかった。フラれるの、わかってたから。もう芸能人になるって聞いてたから」
「悔やんでる?」
 幸子の問いに、龍が顔をこちらへと向けた。
「あたしに『好き』っていわなかったこと、悔やんでる?」
 龍が眼を伏せ、そして微笑む。
「悔やんでる。今も、ね」
「今も?」
 ああ、と龍が答えた。
「今もだよ。ずっと好きだった。今でも、好きさ」
 いい終えた龍は照れ臭いのか、鼻の頭を指で何度も擦っている。
「あたし、薬物で捕まった」
 幸子の言葉に、龍が頷く。
「AVに出た女なんだよ?風俗でも働いたよ?」
 言葉と共に、涙までもがぽろぽろと零れてくる。
「カメラの前でセックスして、顔に精液かけられたよ?皆それを見て、知ってるよ?」
 龍は頷き、いった。口調に、決意にも似た響きがあった、
「それでも、好きなものは好きさ。選んでくれるなら、何だって飲み込むよ」
 また龍は鼻を指で擦り始める。頬には、何かを成し終えたような安堵の色があった。
 何だって飲み込む。龍はそういった。
 薬に溺れたことも、娼婦だったことも、全てを飲み込んでくれる。それでも、好きでいてくれる。
 これほどまでの包容力で接してきた男が、これまでいただろうか。
 あの同窓会から、十年が経っていた。

52

 運転席の阿南がステアリングを左に切った。六本木五丁目交差点。フロントガラスの先で遠く発光していた東京タワーが視界から消え、五丁目の吹き溜まりへと車が進む。周囲には何軒ものクラブが立ち並び、それぞれの店へと人の姿が消え、同時に店は客を吐き出し、飲み過ぎた若者たちが吹き溜まりのあちこちで座り込み、嘔吐している者も少なくない。午後六時を過ぎていた。阿南は黒いBMWの5シリーズを路肩に寄せ、そこに屯(たむろ)していた数人の若い男女が何かいいたげに口を尖らせたが、阿南の眼光に怖気づいたのか、場所を空け、阿南は車を停止させた。
 窓越しに、重低音が響いてくる。大きく口を開けたクラブの入り口という入り口からだ。ピップホップ、トランス、ユーロビート、ダンスミュージックと呼ばれる類の音楽が混然一体となり、大壺の耳へと届いた。
「その方とは・・・」
 大壺が訊くと、ステアリングを握ったままの阿南が答える。
「ここで待ち合わせています。この時間に」
 なぜ阿南が自らステアリングを握るのか、大壺は想像を巡らせた。阿南は飯館組の人間ではない。その上に位置する組織である侠撰会の男だ。それも、只者ではない。堅気である大壺ですら、それは阿南の醸す空気で理解できる。部下だっているはずだ。しかしなぜ、阿南は部下を使わず、車を運転するのだろう。
 おそらく、阿南はこの仕事が上手く運べば、それを自分の手柄として独り占めする気でいる。そのために、部下を使いたがらないのだ。だが、ある男を紹介する、と阿南はいった。なぜ自ら動かないのか。部下を使わずにいながら、なぜその男を使いたがるのか。何か事情はあるようだが、それは大壺の理解を越えている。
 一種の賭けではあった。阿南の紹介するその男を以ってしても、仕事が成功する保障はない。しかしながら、この仕事は大壺が飯館組に持ち込み、侠撰会に籍を置く阿南が引き継いだ。飯館組に持ち込んだ際に掲示した金額や条件は、まだ生きているはずだった。報酬は飽くまで成功報酬であり、成功しなければ、連中に金は渡らない。もし失敗したなら、阿南や侠撰会はその責任をどこに求めるだろうか。これから紹介されるというその男か、あるいは、大壺自身か。咎められるいわれはないが、連中は暴力団だ。常識など通用するとは思えない。何らかの制裁を加えられても仕方がないだろう。
 どうでもよかった。失敗したなら、娘は死ぬ。そのあと何がどう運び、どうなろうが、どうでもいい。この仕事は、成功させなければならないのだった。
 不意にサイドガラスがノックされ、大壺はそちらに視線をやった。窓越しに映るその顔に、大壺は驚愕した。心臓が、ひと際強く脈動する。血が逆流するかのような錯覚を覚えた。
 神父だった。
 妻が通い、大壺自身も告解室で罪を懺悔した、あの教会の神父だ。洗礼を受ける直前で辞したこともある。その神父が、サイドドアの向こうに立っていた。
「あ、あなたでしたか・・・」
 パワーウィンドウを降ろしつつ、大壺は声を発した。武藤という名の神父も、驚きの表情を浮かべている。そして眼には、当惑の色があった。
「なんだ、知り合いか?」
 運転席を降り、ボンネットの先を迂回する阿南が訊く。辛うじて武藤が答えていた。
「ええ、まあ・・・」
 エンジンは低く回転している。キーは挿さったままだ。
「武藤、まだ免許は持っているんだろう?」
 何かいいかけた武藤だったが、口が上手く動かないようだ。武藤はただ、頷いていた。
「詳細はその男から聞け。車は貸しておく。その若い奴の投宿先はうちが調べているようだ。割れるのにそう時間はかからんだろう」
 いい残し、阿南は夜の街へと消えてゆく。
 どうしていいかわからず、大壺は助手席に座ったままでいた。似た心境なのだろう、武藤もただ佇み、何か黙考している。かつて武藤がやくざ者だったことは聞いていた。礼拝や勉強会の際、武藤はいつも冗談めかしつつも過去を含めて自己紹介するのだ。だが、阿南のいう腕利きの元やくざというのが、まさか武藤だとは。やはり、賭けだったのだ。
 武藤が動き、運転席へと滑り込んでくる。ドアを閉じ、武藤がこちらを見た。動揺を隠せずにいる。こちらとて同じだ。大壺は狼狽えつつも、ミニッツから手渡された資料を取り出した。
 賭けならば、賭けてみるしかない。残されている時間も少なかった。
「この資料を・・・」
 受け取った封筒から、武藤が数枚の紙を取り出す。香村という青年のデータが記された資料と写真に見入り、そして武藤が眼を閉じた。息を吐いている。眼を開いた武藤が、苦しげに言葉を絞り出す。
「大方のお話は伺っていますが・・・」
 頷き、大壺はいった。
「時間がありません。娘は白血病でして、ドナーも見つからない。ただ、香村龍というその若者から肝臓を奪えば、娘は助かるんです」
 武藤が懐疑的な眼をこちらに向ける。
「なぜです?なぜ、この青年から肝臓を奪うと、娘さんが助かるのですか」
 どこから説明したものか。簡潔に話したいが、頭の中で考えがまとまらない。車外では、相変わらず重低音が響いている。
「私は臓器移植に携わっています。移植コーディネーターです。そちらの方面から、ある組織に接点を持ちました。一般に知られている臓器移植ネットワークとは別に、もっと規模の大きなネットワークがあるんです。フナックというそうですが。富豪と呼ばれるような大金持ちしか相手にしない組織です。そのフナックの顧客から、肝臓のオーダーが入りました。適合率の高い臓器を持つのが、その香村という青年です。フナックは、その青年を監視下に置き、保護していました。いつか入るであろうオーダーに備えて」
 武藤が視線を資料に戻していた。
「フナックが展開しているのは臓器のネットワークだけではありません。骨髄に関しても、我々が知り得る骨髄バンクとは別に、もっと大きな規模を持つネットワークを世界中に展開しています」
 見ると、武藤の視線は資料から、フロントガラスの先へと注がれている。武藤が口を開き、訊いた。
「いつかあなたのいっていた、進行している罪とは、このことを指すのですか」
 大壺は頷き、肯定した。車外で人々に動きがある。何か起きたらしい。珍しくはない。大壺が飲み歩いていた若い頃から、この街では夜ごとに騒ぎが起きたものだ。若者たちの群は吹き溜まりの奥から伸びる路地へと動いている。その先には、墓園があったと記憶していた。窓から武藤へと眼を戻し、大壺は懇願した。
「武藤さん、お願いです。娘を助けてください。時間がないんです」
 同じく若者の群に眼をやっていた武藤が苦悶の表情を浮かべ、言葉を絞り出す。
「阿南さんはいっていましたね。さほど時間はかからない、と」
 遠く、パトカーのサイレンが聞こえてきた。一台ではない。サイレンは連なり、重なって聞こえた。
「大壺さん、待つしかありません。今は」
 街の空気が張り詰めていることに、大壺は気づいた。いや、今に始まったことではない。阿南の運転するこの車に同乗し、この辺りに近づくにつれ、街の醸す空気は異様さを増し、制服警官や、やくざと思しき男たちの姿も散見された。
 何かが、起きている。

53

 ホテルの一階にあるレストランで遅い昼食を摂り、三人はコーヒーを飲んだ。徐々にではあったが、幸子の食欲も戻りつつあるように思える。だが、先日のようにまた脅威が襲いかかってくれば、それもどうなるかわからない。
「幸いなのは、おそらくまだこのホテルがあのやくざたちに知られていない、ということね」
 カップをソーサーに置き、セツコが情報を整理するように発言する。傍らにはコーヒーフレッシュの空き容器とスティックシュガーの紙があった。甘いのが好みなようだ。
「でも、ぼくたちのうち、誰の、何を狙っているのかが、わからない」
 龍もカップを置き、いった。コーヒーには何も入れていない。幸子はミルクだけを加えたようだった。
「でも、このままだと、それがわかる頃には誰かが奴らの手中に落ちているわ。それに」
 幸子が固唾を飲み、セツコの言葉が続くのを待っている。
「あのオーナーさんのいうことが本当なら、ヒガさんは警察にも、やくざにも追われていることになるわ」
 続報はその朝、龍もテレビのニュース番組で見ていた。犯人の特定には至っておらず、その行方もわかっていない。少なくとも、警察からは報道関係者にそう伝えられている。暴力団同士による抗争、という言葉をキャスターは発しなかった。警察はその線を捨て、別の角度から捜査を始めた、ということだろうか。
「わたしたちに今できることは、ヒガさんを暴力団から守ることじゃないかしら」
「ですけど、どうやって・・・?」
 龍が問うと、セツコは答えた。
「これから部屋に戻って電話をかけてくるわ。そのあと、きっとわたしたちはあの街へいくことになる。危険は承知よ。あなたたち、その覚悟はある?」
 確かに、危険だ。あのやくざと思われる連中には、六本木のホテルで襲われている。連中の狙いが何なのか知る由もないが、追ってくることには間違いがない。そこへこちら側から敵の張る網の中へと突っ込むことになるのだ。だが、動かなければ事態は進展しない。やがて居所を絞り込まれ、三人のうち誰かが連中の手に渡る。動くとするならば、現状ではヒガを保護することしか目的は残されていないのだ。
 幸子を見る。視線が交錯した。その眼には決意の色が宿り、幸子は強く頷いて見せる。考えは同じらしい。
「わかりました」
 龍はセツコに振り向き、答えた。セツコが席から立ち上がる。
「いいわ。出かける準備をして待っていて」
 セツコがいい残し、店を出てゆく。エレベーターの扉へと、その後ろ姿が消えていった。
 幸子を部屋まで送り、龍も自室へと戻る。スマートフォン、空に近い財布、レンタカーのキー。ポケットに収める物といえば、それだけだった。
 エントランスで幸子と落ち合い、しばしセツコを待ったが、降りてこない。焦れた龍はメッセンジャーを起動し、何かあったのか、という旨のメッセージを送信した。
『もうしばらくそこで待っていて。手筈が整い次第、知らせるわ』
 返信を音読し、幸子と顔を見合わせる。幸子は薄く化粧を施し、手にはいつものトートバッグを下げていた。
「待つしかない」
 龍がいうと、幸子も頷く。
 ただひたすらに、二人は待ち続けた。
 ポケットの中身が振動し、龍は携帯を取り出した。すでに一時間半以上が経過している。
『これから部屋を出るわ。待たせてごめんね』
 エレベーターに視線を走らせる。階数を示す数字が上昇し、今度は下降を始めた。箱にはセツコが乗っているはずだ。一階に到着した箱の扉が開き、セツコが微笑みつつ姿を現した。
「待たせちゃったわね」
 化粧で整えられた顔を綻ばせつつ、セツコが詫びる。
「いえ・・・」
 幸子も笑顔だった。
「これから向かうんですね」
 龍が訊くと、セツコが頷く。
「ええ。迎えが来るわ。また待つことにはなるけれど、コーヒーでも飲みながら待ちましょう」
 セツコに先導される形でティーラウンジへと入る。三人分のコーヒーを註文し、セツコは物思いに耽っているようだった。
「迎えって・・・」
 コーヒーに手をつける前に、龍は訊いた。
「・・・タクシーか何かですか?」
 首を横に振るセツコがコーヒーにミルクと砂糖を加える。
「じきにわかるわ」
 落ち着いた口調だ。幸子の様子を盗み見る。こちらもすでにセツコに心を許し、全てを委ねるような気配だった。陽が傾き、外からラウンジに差す光が徐々に色を帯びてゆく。
「少しね、お話しをしていたのよ」
 コーヒーをお代わりしたセツコが呟いたとき、低い排気音が遠く聞こえ始めた。近づいてくる。
「ひょっとすると、その人の車かも知れないわ、あの音」
 意味深な笑みを浮かべ、セツコがいう。排気音は音量を増し、エントランスの前に車がその姿を現した。セツコが立ち上がり、いう。
「さあ、いきましょう。あの車よ、きっと」
 エントランスからホテルの外に出る。白いグランドチェロキーが大排気量車特有のエンジン音を轟かせ、アイドルしていた。運転席の窓が降り、壮年の白人が顔を出した。ランドローズだ。ぎこちない表情だが、笑みを見せている。苦笑に近い。
 助手席のドアが開き、若い男が飛び降りる。いつか『モダン・ボガ』の厨房で応対した茶髪の若者だった。
「このお若い方は?」
 セツコの問いに、ランドローズが答える。
「ボディガードですよ。若いですが、腕は立ちますから。乗ってください、さあ」
 若い男が後部座席のドアを開く。セツコに促されるように、龍と幸子は乗り込んだ。最後に乗り込んだセツコが後部座席のドアを閉じ、若い男が再び助手席へと収まる。バックミラー越しに、ランドローズと眼が合った。そしてランドローズは眼を前方へと向け、ギアを入れている。グランドチェロキーが走り始めた。
「どこへいくんです?」
 大方の予想はついていたが、龍は訊いた。
「まずは乃木坂トンネルよ。そうでしょ?ランドローズさん?」
 セツコが問いかける。ランドローズがステアリングを握りつつ、答えた。「ヒガは暴力団員を何人も殺しています。暴力団はヒガを始末すべく動くでしょう。ですが、ヒガは殺し合いに関しては専門家といっていい。やくざや警察が機関銃でも持っていない限り、彼はさらに人を殺すことになる。そうですね、セツコさん?」
 龍は隣のセツコを見た。悪戯な笑みを微かに浮かべ、セツコがいう。
「ランドローズさんにお願いしていたの。これ以上、ヒガさんに罪を重ねてほしくないから」
 ランドローズが含み笑いを漏らした。
「セツコさん、あれは脅しですよ」
 バックミラーに、ランドローズの眼が映っている。眼尻に幾筋もの皺が寄っていた。笑っているのだ。
「私とヒガが深く関係していることを、あなたは読んでいた。このまま放っておけば、ヒガはさらに罪を重ねることになる、なんていわれれば、私は動かざるを得ませんよ」
「あなたの連絡先を調べるのに少し手間取ったわ」
 セツコが苦笑混じりに呟く。そして、さらに訊いた。
「ランドローズさん、電話では訊けなかったけれど、あなたとヒガさんは、どんな関係なの?」
 グランドチェロキーは246号線を走り、多摩川を越えつつある。夕方といってもいい時刻だ。
「彼と私は幼馴染です。私の父は、セツコさん、あなたのお父さんと同じく進駐軍の兵士としてこの国の土を踏みましたが、後に朝鮮戦争の勃発と共にアメリカの補給拠点となった沖縄へと異動を命じられたんです」
 多摩川を越え、東京へと入る。環八との交差点が渋滞し始めていた。赤信号に停められ、ランドローズがこちらを振り返りつつ、語る。
「アメリカはそこに米軍属の居住区画を作り、多くの家が建てられました。父は本国から妻、こちらももう他界しましたが、私の母を呼び寄せ、そしてその町で私は生まれました。私もヒガも、あの島で育ったのです」
 環八を過ぎ、玉川通りへと入り、幾度も赤信号に停められつつも、ランドローズは車を走らせた。街のあちこちで渋滞が始まりつつある。流れが本格的に滞る前に、ヒガのいる乃木坂トンネルへと着きたいようだ。
「私はその居住区画に建てられた家で育ちましたが、区画の外に、廃屋がありました。ヒガとその母親は、その廃屋で暮らしていました。幼い頃、何度か遊びにいきましたが、子供だった私の眼にも、その暮らしぶりが貧しいことがわかりました」
 三軒茶屋を過ぎ、渋谷へと至った。通りの名が玉川通りから青山通りへと変わり、さらに先で六本木通りへと分岐している。ランドローズは直進レーンへとグランドチェロキーを乗せ、六本木通りへとノーズを向けている。
「彼が六本木に現れたのは・・・」
 言葉を発するランドローズの遠い眼が、バックミラーに映る。古い記憶を辿っているようだ。
「もう四十年も前です。当時私がコックを務めていた店に新人として入ってきたのが、彼でした。驚きましたよ、私は」
 高樹町を越え、西麻布交差点が見えてくる。直進する高架ではなく、右左折するためのレーンへとランドローズがステアリングを切る。
「彼はベトナムで死んだものと思っていましたから。それが突然、東京の、それも六本木にある食堂に現れた。しかし、彼は壊れてしまっていて・・・」
 信号が赤から青へと変わり、西麻布交差点を左折する。その先が、さらに二股に分かれていた。
「私のことにも気づかないようでした。彼は言葉に不自由していましたし、まるで仕事になりません。そのうち彼は店内で騒ぎを起こしてしまって、店をクビになりました」
 赤坂通りへと入った。交通量は多くない。
「騒ぎって?」
 セツコの問いに、ランドローズが苦しげに答える。
「今思えば、あれは戦争による後遺症なのでしょう。フラッシュバックと呼ばれる現象です。彼はフロアで錯乱してしまい、居合わせた客の数人にケガをさせてしまって。それまでも、この東京でいくつもの職を転々としたようです。もしかすると、そのあとも」
 少しずつ、車速が落ちてゆく。後方へと過ぎ去る景色の流れが遅くなり、その景色の中にちらほらと墓石が見える。青山墓地中央の交差点が近かった。
「封鎖、されていますね・・・」
 墓地区画へと伸びる路地がコーションテープで遮られ、制服警官が何人も立っている。現場検証がまだ終わっていないのか。墓地は広大だ。どの辺りで凶行が起きたのかわからないが、この広い墓場から物証の類を拾い集めるのは容易ではない。ランドローズがアクセルを徐々に踏み込み、グランドチェロキーが加速を始めた。乃木坂トンネルが見えてくる。
 トンネルの入り口に至り、再び車が減速した。ヒガの寝床には汚れた蒲団や食い散らかした食事の容器が散乱していたが、ヒガ本人の姿はない。柳刃包丁も、消えていた。ランドローズがアクセルを再び踏み込んだが、それを緩めたのか、不意にグランドチェロキーは車速を落とし、徐行を始めた。
「ヒガさんはどこに?」
 龍が訊くと、ランドローズは前方を指で示して見せる。
「あの男に訊いてみましょう。見たところ、まともじゃない」
 フロントガラスの先に、男の姿があった。やくざかチンピラか。一般人ではないことがその派手な服装でわかる。車の排気音に気づいたらしく、トンネルの中ほどで歩道に立つ男が振り向く。パワーウィンドウを降ろしつつ、ランドローズが車を停止させた。
「キョウセンカイか?イイダテグミか?」
 何か組織の名らしい。ランドローズの問いに、男は訝し気な眼でこちらを睨みつつ、訊き返してくる。
「なんだよ、てめえは」
 苦笑したランドローズがさらに訊く。
「やくざを殺した例の殺人鬼の話さ。ニュースでもやってる。あんたらが追い込んでるんだろう」
「だったら何なんだよ」
 思いのほか高い声だ。若くはない。四十に届くかどうか、といったろころだ。
「見張りで立たされているのか?その殺人鬼が逃げないように」
 男の口許が、微かに綻ぶ。
「もうお終いだよ、そいつは」
 対向車線を、一台のパトカーが走り去ってゆく。サイレンこそ鳴らしていないが、赤色灯が光り、回転していた。
「どういう意味だ?」
 ランドローズが訊くと、男は卑下た笑みを浮かべ、答えた。
「追い込んだらしい。六本木墓園に。もう逃げ場はねえよ」
「警察は知っているのか?」
 それ以上、男は答える気がないらしい。顎でトンネルの先を示す。いけ、という仕草だ。示された先は、赤坂方面。トンネルを抜けた先のT字路を右折すれば乃木坂に至り、坂を昇れば六本木だ。
 パワーウィンドウを操作し、ランドローズが窓を閉じた。
「セツコさん、念のため110番してもらえますか。すぐには動いてくれないだろうが、ヒガが墓園にいることを知らせた方がいい。警察なら、奴らほど手荒な真似はしませんから」
 スマートフォンを取り出したセツコが訊く。
「ランドローズさん、なぜ墓地なのかしら。彼はなぜ、墓地を選ぶの?」
 アクセルを踏み込みつつ、ランドローズが答える。
「これは私の推測の域を出ませんが・・・」
 グランドチェロキーがトンネル内を走り抜ける。出口が見えてきた。
「多勢に無勢ともなれば、彼は市街地よりも、密林に似た環境を選びます。一人ずつ仕留めてゆくならば、夜の墓地というシチュエーションは彼がベトコンと戦ったジャングルと似ているはずです。戦いを有利に運ぶために、彼は場所を選んだのでしょう。夜が来るのを、彼は待っているんです」
 トンネルを抜けた。ランドローズがステアリングを切り、グランドチェロキーが乃木坂を昇る。左手に東京ミッドタウンが見えた。ランドローズがさらにステアリングを左に切る。
 街の空気が、異様に張り詰めていた。密閉された車内からも感じられるほどに、街は緊張している。
「ですが・・・」
 陽が落ちつつある。すでにほとんどの街灯が光を放っていた。遥か彼方で東京タワーが赤く発光し、街の随所に暴力団風の男が立っている。
「全てを話せば、彼はわかってくれるはずです」
 スマートフォンを手にしたセツコが訊く。
「全て、って?」
 すぐにわかりますよ、とランドローズが答える。バックミラーの中で、こちらと視線が合った。前方を見据えたまま、ランドローズが続ける。
「それは、セツコさん、あなたが求めている答えかも知れません」
 ランドローズの言葉に、セツコはしばし動きを止めていたが、やがて液晶に指を這わせ、スマートフォンを耳に当てた。

54

 明滅する赤い光が車内を照らし、大壺は身を捩る。後方に視線を走らせると、二台のパトカーが吹き溜まりへと進入してきていた。サイレンは鳴らしていないが、赤色灯を回転させ、二台は吹き溜まりの入り口付近の路肩に停止した。
「何事でしょうね」
 大壺はいった。街は騒がしく、緊迫に包まれつつある。ドン・キホーテの裏手に位置する墓園の辺りで何か起きたらしく、屯する若者たちが皆そちらの方向へと足を向け、移動していた。
 武藤の座る運転席側のサイドガラスがノックされ、武藤がパワーウィンドウを降ろしている。ノックしてきたのは、若い制服警官だった。
「恐れ入ります。間もなくこの辺り一帯は封鎖されますので、車の移動をお願いします」
 警官の口調が妙に早い。再び身を捩り、周囲に眼をやると、路肩に停止している車の全てに他の制服警官が声をかけていた。
「何があったんです」
 武藤の問いに、警官は困惑したような表情を浮かべ、いった。
「それが、わからないんです。我々は交通課の者でして。とにかくこの近辺は封鎖されますので、車を移動してください」
 路肩に停止していた車が次々とその場で転回し、外苑東通りへと出るべくノーズを吹き溜まりの入り口へと向け、車の列が形成された。七、八台といったところだ。墓園の方向へと向かう人の流れに逆らう形だった。
 間もなく信号が青に変わり、先頭のクライスラーが通りへと出てゆく。続くハマーの助手席から男が身を出し、誘導する警官に怒声を発していた。警官に停止を求められたのか、ハマーが急制動する。いい合いが始まった。運転席からも男が降りてくる。後方で待つ車からクラクションが鳴った。
「阿南さんはいっていました」
 その様子を眺めつつ、武藤が呟く。
「まだ半信半疑だそうです。私も同じですよ。大壺さん」
 武藤がサイドブレーキの解除ボタンを押し、ギアを入れた。
「一般の臓器移植ネットワークとは別に存在するネットワークのことですか」
 大壺が訊くと、武藤が頷きつつステアリングを切り、車を発進させた。大壺は重ねるように、口を開いた。
「しかし、選択肢がない。娘を救うには、賭けるしかないんです」
 バックミラーで後方を確認した武藤が、ノーズを路地の方向へと向ける。列に並んだのでは時間がかかると判断したようだ。封鎖されれば、この辺りから出られなくなる。
「お気持ちはわかるつもりですが、大壺さん。それはどちらかを生かし、どちらかを死なせる、ということですね。それでも大壺さんは、娘さんを生かしたい。そう願っていますね」
 路地は人だらけだ。やはり墓園で何かが起きている。見物人の集団が暗い路地でごった返していた。武藤は車を徐行させている。タイヤで人の足でも踏めば面倒だ。
「なりふり構ってはいられない。武藤さん、時間がないんですよ」
 語気を強め、大壺はいった。
「私は・・・」
 武藤が苦い表情を浮かべ、いう。
「阿南さんから組織に戻るよう求められていました。私が元は暴力団にいたことは、大壺さん、あなたもご存じだと思います。そしてこうもいわれています。この仕事が上手くいけば、もう私を組織に戻そうとはしない、と」
 別の路地へと繋がるT字路へ至るまでに十分近くを要した。人が多すぎる。怒声が聞こえた。眼をやると、筋者と思しき男たちと制服警官が口論している。警官は群衆の整理に来たようだが、男が何をしたいのか、わからない。武藤がステアリングを右に切る。大壺がT字路の左手に視線を移すと、外苑東通りへと出る道はすでに白い柵と黄色いコーションテープで封鎖されつつあった。残されている道は、墓園を迂回し、六本木通りへと出るルートだ。
 T字路を右折した先の路地にも、人だかりができている。すり鉢状の六本木墓園を大勢の人間が取り囲み、俯瞰する形だった。こちらでも警官が群衆の整理に当たり、別の警官はさきほど見た男とは別の筋者と、これもまた口を尖らせ、何かいい合っている。群衆の中に稲本の姿を認め、大壺は察した。
 青山墓地で殺戮を繰り広げたというあの薄汚い男が、この辺りに逃げ込んでいるのだ。
「武藤さん!」
 反射的に大壺は叫んでいた。
「停めてください!」
 徐行していた車が停まる。
 T字路を右折した路地の先、白いクロスカントリーが警官に停められ、開いた運転席のドアから白人の男が現れた。そして後部座席のドアが開き、若い男が降りてくる。大壺は息を呑んだ。
 間違いない。
 香村龍。あの青年だ。なぜここに。

55

 グランドチェロキーが路地へと入った途端、人垣が現れた。ガラス越しに、赤く光る警棒を振る制服警官の姿が見える。ランドローズがブレーキを踏み、車が停止した。街のネオンもここまでは届かず、辺りは暗い。陽は落ち、暗い路地の中で人垣が虫の群のように蠢く。ランドローズが車を降り、龍もそれに倣った。封鎖されているらしい。これ以上奥へは進めない。
「別の道をいきましょう。あまり知られていない道です」
 同じく車を降りたセツコと幸子が、ランドローズの言葉に頷く。
 先頭をゆくランドローズを追い、龍たちは群衆から離れ、短い階段を降りた。群衆の発する雑踏が遠くなり、細い道が現れる。人ひとりがようやくすれ違えるかどうか、というほど細い道だった。緩やかな傾斜を昇る。墓園を囲う塀が現れ、雑踏が再び近づく。こちら側には群衆の姿はなく、警官もいなかった。
 街灯のない細い道を歩くと、錆びた鉄の門が見えてきた。男が二人立っている。やくざかチンピラか、そんな連中に思えた。
「なんだ、お前らは」
 距離が縮み、先頭のランドローズが足を止めると、男の一人がいった。もう一人も口を開く。
「ここは通れねえよ。戻れ」
 さほどの迫力はなかったが、逆らう気にもなれない。龍は委縮したが、ランドローズがいった。背後から細い道を昇ってくる足音がする。
「私はあの男を止めにきた。あなた方を救いに来たともいえる」
 二人の男が懐疑的な表情を見せ、僅かに首を傾げた。背後から足音が近づき、龍は振り向いた。
「どうした」
 灰色のスーツを着た男だった。こちらも堅気ではないだろう。男にようやく気付いたランドローズも振り返る。
「いえ、なんかこいつらがいきなり来て・・・」
 立っていた一人が灰色のスーツに告げる。二人のちんぴらと灰色のスーツに、龍たちが前後から挟まれる恰好だ。ランドローズが双方に眼を配り、続けた。
「私はランドローズ・タン。ある食堂の店主に過ぎないが、私が話せば、彼はもう誰も殺さずに済む」
 スーツが煙草を取り出し、咥えた。手でポケットを漁っている。ライターを探しているようだ。
「こうもいえる。私が彼に話をすれば、あなた方に、これ以上の死者は出ない」
 ポケットを漁る手を止め、灰色のスーツとランドローズが見つめ合う。ライターは見つからなかったらしい。火の着いていない煙草を咥えたまま、灰色のスーツがいった。
「通してやれ」
 命じられた二人が素早く門に移動し、それを押し開く。錆びた金属の擦れ合う耳障りな音が鳴った。
 足を踏み入れると、墓園の中は闇に包まれていた。雑踏が遠い。ランドローズは力強い足取りで墓園の中央まで進み、龍たちもそれに続いた。
 立ち止まったランドローズが声を発する。
「ヒガ!私だ!ランドローズだ!出てこい!」
 しばし待ったが、応答はない。風が吹き、龍たちの頬を撫でる。
「では、いい直そう、ヒガ」
 言葉を切ったランドローズが息を吸い、さらにいい放った。
「アル!私だ!わかるだろう!?ミックだ!ミック・マーベルだ!」
 龍の隣に立つセツコが息を呑む気配がある。様子を窺うと、セツコは眼を大きく見開いていた。
 何かが動いた。濃い闇から、男が姿を現す。
 薄汚い服に身を包み、柳刃包丁を手にした、ヒガだった。墓石の影から音もなく現れ、青い眼から異様な光を放っている。そして口を開き、呟いた。「ミ、ミック・・・」
 ごく小さな動作だったが、ランドローズが両手を軽く広げ、告げた。
「アル。私たちは丸腰だ。刃物を捨てろ。危害を加えようというわけではない」
 ヒガに動きはない。眼に宿る光にも、変化はなかった。
「全てを話そう、アル」
 両手を閉じ、ランドローズは語り始めた。
「アル。お前をベトナムの戦地へ送ったのは、私の父だ。お前を、お前の母親から買ったんだよ。私を戦地へと送りたくないがために」
 二人の視線が交錯していた。じっと睨み合っている。
「父は、戦争がいかに過酷で惨いものか、太平洋戦争でよく知っていた。それ故に、息子である私を戦争になどいかせたくなかったんだ」
 また風が吹き、どこからか葉の擦れる音が遠く聞こえた。
「お前は私の名を与えられ、ベトナムに送られた。ミック・マーベルとして、な。だが、母親を憎むべきではない。お前の母親も、生きるのに必死だったんだよ」
 鋭い光を放つヒガの眼に、柔らかな色が現れたように見える。だが、ヒガは出刃包丁を捨てるでもなく、ただそこに立ち、ランドローズの告白を聞いているだけだ。
「お前がこの街に現れたときのことは憶えているよ、アル。あれはダイナーだった。お前は私に気づかなかったようだが、私はその店の若い料理番だった。父親が死んだのは、その数年前だ。死に際、お前を買って私の身代わりとして戦地へ送ったといい残したよ」
 ヒガが一度眼を閉じ、また開いた。口を結び、何も言葉を発する様子はない。
「心苦しかったさ。あれほど仲の良かったお前が、自分の身代わりとして戦地で死ぬのだからな。そして、アル、お前は死なず、東京の、この六本木に現れた。眼を疑ったよ。だが、間違いなくお前だった。お前はすぐに店をクビになったが、私は心苦しかった。お前が生きていることが、ずっと心苦しかった。私も店を転々としたが、他人のふりをしつつ、お前に食事を与え始めたのは、罪滅ぼしのつもりだった。お前が死ぬまで、それを続けるつもりだった。心苦しいのは、今も変わらない」
 語り終えたランドローズが、息を吐いた。ヒガの眼からも、鋭い光が消えてゆく。
 そして、ヒガが口を開いた。
「し、し、知っていた。全て知っていたよ、いたよ、ミック」
 体に動きはない。口だけが動いていた。
「ミ、ミック。気づいていた、いた、よ。あの店、店で厨房に、厨房にいたお前に、気づいてた」
 ヒガの言葉に、ランドローズも眼を見開いている。
「ミック、お、お前の親父に、いわ、いわれたよ。ベトナムで死んでこい、って。お前は俺が買った、だから、死んでこい、って」
 ランドローズがヒガの方へと一歩を踏み出したが、それ以上歩み寄ることができずにいる。ぎこちない動きだった。
「く、悔いているんだ。い、い、い、生き残った、生き残ったことを。オズボーンは、オレを庇ってし、死んだ。で、で、でも、あの時、オレが死ぬべき、べきだった、だった」
 ランドローズの眼から、涙が零れ出ている。嗚咽混じりに、ランドローズが訊いた。
「アル、何が望みだ」
 微かに、ヒガの表情が綻ぶ。微笑んでいるのだった。
「ま、待っていたんだ、ずっと。こうして、こうしてお前が、全てを打ち明けてくれる、くれるの、を」
 ヒガが微笑みを湛えたまま、涙を流している。そしてその手から、包丁が石畳へと落ちた。
 それが合図だったかのように、闇の中で大きな動きがあった。ジュラルミンの盾を構えた大勢の警官―特殊部隊だろうか―が四方八方から一瞬でヒガへと突き進み、確保、という声が幾度も聞こえた。硬質な物同士がぶつかり、擦れる音が続く。いつの間にか、部隊が墓園へと踏み入り、密かにヒガを取り囲んでいたようだった。
 突然、強い光が周囲から浴びせられた。眼が眩む。瞳孔が縮むのを待つ間もなく龍が周囲を見渡すと、霞む視界の中、すり鉢状の墓園を囲む塀の随所に投光器が設置され、それらが現場を煌々と照らしていた。
 手錠を架せられたのか、両腕を背にまわされたヒガが大勢の制服警官に引きずられてゆく。墓園の正門が解放され、警官たちが野次馬を整理していた。赤色灯を点滅させたパトカーが路地へと滑り込んでくる。後部座席のドアが開かれ、確保された被疑者を収めるべく警官がヒガを連行していた。
 セツコが走り出した。連行されるヒガへと駆け寄ってゆく。龍もその後ろ姿を追った。
「ヒガさん!」
 セツコがヒガを呼ぶ。両脇を固める警官と共にヒガが足を止め、首をこちらへと捻った。顔の半分が赤色灯に赤く照らされていた。
「ヒガさん、わたしはオズボーンの娘よ。ブラッド・オズボーンの娘」
 ヒガが眼を見開き、セツコを凝視している。
「父はあなたを助けて死んだけれど、ヒガさん、私はあなたを憎んでも怨んでもいないわ。あなたが生きていてくれて、私は嬉しい。あなたは生き延びたことを悔いているようだけれど、私はあなたが生きてきてくれて嬉しいわ。戦場から生きて帰ってきてくれて、ありがとう。そして生きていてくれて、本当に、本当にありがとう」
 ヒガの眼が、柔和な色を帯びた。そして一度、頷いて見せる。
 両脇を固める警官に促され、ヒガがパトカーの後部座席へと押し込まれた。ドアが閉じられ、パトカーがサイレンを鳴らしつつ、そろそろと走り出す。野次馬を警官が整理し、道を空けた。
 走り去るパトカーをセツコが見送っている。龍は声をかけた。
「これで全てがわかりましたね、セツコさん」
 ええ、とセツコが答えた。
「でも・・・」
 龍はセツコが言葉を続けるのを待った。
「警察や検察は、戸籍もないあの人を、どう裁くのかしらね」
 呟くような口調だった。語尾は消え入りそうだ。
「でも、これでよかったんじゃないですか、セツコさん」
 セツコが振り向き、視線が合った。
「警察じゃなくてやくざに捕まりでもしたら、どんな裁き方をされるかわからない。これでよかったと思いますよ」
 龍の言葉に、セツコが頷き、微笑んだ。傍らには、幸子の姿もある。
 捕り物劇が終わったことを知った群衆が散り散りとなり、散会してゆく。人の流れに乗り、龍は二人を連れ、路地を歩き出した。

56

 ありとあらゆる方向からすり鉢状の墓園が投光器で照らされ、群衆がその様を俯瞰している。武藤は車を動かせずにいた。周囲を野次馬に取り囲まれ、野次馬たちの視線はこちらではなく、墓園へと向けられている。一度アクセルを吹かし、クラクションを鳴らしたが、連中の注意がこちらに向くことはない。ギアをパーキングに入れ、武藤はサイドブレーキのボタンを押した。
 墓園の正門が開かれる。警察の特殊部隊だろう、青を通り越し、黒に近い色をした服に身を包んだ男たちが一気に雪崩れ出てきた。通常の制服を着た警官たちは笛を吹き、警棒を振り、野次馬を整理すべく奮闘している。滑り込んできたパトカーの後部ドアが開き、両脇を固められた男が連行されていた。
 教会の講堂で話し込み、そして姿を消した、あの浮浪者だ。その背後に、一人の老女が駆け寄った。何か言葉を発している。浮浪者は振り返ったまま耳を傾けているようだ。そして一度頷くと、両脇を固める警官に連れられ、パトカーの後部座席へと押し込まれていった。
「いました、武藤さん」
 しばらく無言だった大壺が、低くいう。逮捕された浮浪者に駆け寄った老女に、二人の影が追いついた。
「あれです、武藤さん。二人の男女。あの片割れですよ。なんでここに・・・」
 路地で大勢の人間が蠢き、その奥へと武藤は眼を凝らした。
「ほら、あの婆さんの後ろにいるジーンズの・・・」
 青年の顔が、パトカーの放つ赤色灯の光に照らされている。顔の造形は、さきほど大壺から渡された資料のそれと一致していた。香村龍。あの青年だ。
 武藤が逡巡していると、痺れを切らしたらしい大壺が助手席のドアを開いた。今にも飛び出し、あの青年に襲いかからんばかりの勢いだ。
「大壺さん、待ってください」
 焦りの滲み出た表情で大壺がこちらを見る。
「落ち着いてください。今はそのときでない。少なくとも、今は」
 辺りは警官だらけだ。いずれにせよ、ここで荒っぽい真似はできない。「しかし、武藤さん」
 人の姿が徐々に減り、車の周囲に空間が生まれた。
「乗ってください、大壺さん」
 渋々、といった様子で大壺が助手席へと収まり、ドアを閉める。武藤はギアを入れ、車を路肩へと寄せた。
「見失っちゃいますよ、武藤さん」
 大壺が血走った眼を剥いている。武藤はエンジンを切り、いきましょう、と大壺に声をかけた。
 何をどうするべきか、わからない。何を選び、何を捨てるのか。
 どうするのが正解なのか。
 路地の先、外苑東通りへと抜ける道の途中に、青年の背が見える。警官たちが慌しく動き回り、封鎖が解除されようとしていた。
 車を降り、武藤がそちらへと足を向け、歩き出すと、後方に大壺がついてくる。その足音が、重い。一歩一歩を踏みつけるような、固く強い意思を伴い、その足音は武藤の耳へと届く。

57

 普段は午前四時まで開けているが、その夜はほとんど客が現れず、藤木は女子大生のアルバイトを早々に帰していた。店の名は『彩』という。大学を出たあと調理の専門学校を卒業し、数年はいくつかのレストラン渡り歩き、働いた。接客や料理、金の勘定は一通り覚えたつもりだが、人に使われるのが嫌になり、修行不足であることは自覚していたものの、被雇用者であり続けることに耐えられず、借金をして出した店だった。売りは創作料理と、四つもの大型セラーに収められた多種多様なワインやシャンパンだ。売上は決して芳しくはなく、借金も残っている。酒場の主人から、やがては青年実業家へ、といったプランを空想しつつ店を出したが、発生する純益は藤木一人がどうにか暮らし、借金を細々と返してゆく程度でしかなく、それが何年も続いていた。ほぼ自転車操業といってもいい。
 店は六本木四丁目に立つ細いビルの二階に入居している。窓からは外苑東通りを見渡せたが、開店し数時間が経ち、陽が暮れてからも人の姿はまばらだった。街には奇妙な緊張感があり、藤木は暇を持て余した。携帯でニュースをチェックすると、速報という文字がある。先日青山墓地で起きた殺人の容疑者と思われる男が、六本木墓園に逃げ込んだらしい。六本木墓園といえば、ここから六本木通りを挟んだ三丁目の辺りだ。人の姿が少ないのにも合点がいく。街をゆく人間の多くが野次馬となり、そちらへと集まっているのだろう。
 階段を昇る足音が聞こえた。ビルは四階建てだが、エレベーターは着いていない。他のテナントも飲食店だが、足音の主がこの二階で足を止めるかはわからない。もしこの店へと入ってきたなら、今夜は早仕舞いだと告げ、その客を帰してしまおうか、とも考えていた。
 階段を昇る足音が止まった。『彩』の出入り口だ。携帯をポケットに収め、藤木はカウンター越しに店の入り口に眼をやった。
「ヒマそうだなあ」
 堀だった。でっぷりとした体を揺らしつつ、店内へと踏み入ってくる。藤木は佇まいを直し、堀を出迎えた。
「いらっしゃいませ。珍しいですね、マサちゃん」
 カウンターのスツールに腰かけ、堀が店内を見渡す。スツールの軸が、堀の体重に軽く悲鳴をあげた。蒸留酒のボトルが並べられた棚の上に据え付けた小さな黒板を見つけた堀が、チョークで記されたお勧めメニューに視線を注いでいる。
「しばらく病院食になるからさ、何か美味い物でも食おうと思ってさ」
 黒板に眼をやったまま、堀がいう。
「入院するんですか?マサちゃん」
「うん」
 肯定した堀が腕を背に回し、二度叩いた。
「肝臓、取り換えるんだよ」
 グラスにミネラルウォーターを注ぎ、藤木はそれを堀の前に置いた。堀はグラスを摑み、一口含む。
「取り換える、って・・・」
 水を飲み下した堀が答える。
「うん。見つかったんだよ、ドナーが。済めば、また酒を飲めるようになるからさ」
「探していたんですか、ドナーを」
 今時、臓器の移植など珍しくはない。だが、臓器を壊してはいるものの、生命の危機に瀕しているわけではないこの肥満男に、移植のチャンスがそう簡単に巡ってくるとは思えなかった。
「探してたっていうか、譲ってくれたんだよ、肝臓を。普通の臓器バンクとか移植ネットワークとかじゃないよ。金持ちだけを相手にしてる別の臓器バンクでさ。元は大昔にユダヤ系の資本家たちが科学者とか医者とかと組んで設立したらしいんだけどね」
 やっぱり寿司にしようかな、と堀が呟く。
「入院はいつからなの?マサちゃん」
 黒板に視線を送ったまま、堀が答える。
「あと何時間かで迎えが来るよ。臓器を確保できそうなんだってさ」
 臓器移植を控えた者の口調ではない。まるでワクチンの注射でも打ちにいくようないい方だった。
「肝臓とか、その、臓器とかって、そんな簡単に手に入るの?」
 藤木が訊くと、堀はグラスを干し、カウンターの上で滑らせた。
「金さえあれば、ね。先進国にはだいたい支部を置いててさ、日本もその一つなんだよ。オレが登録したのは出所してからなんだけど、それまで二十年くらい誰か別の、イギリスかどこかのレコード会社を経営してた人かな、その人のためにずっとドナーとして保護されてた奴が日本にいるんだって。でも、登録してたその人が自殺しちゃったらしくてさ。そこにちょうどオレが金出してフナックに登録したから、そのドナーは引き続き監視されて保護が続いてたみたいだよ」
入院前に摂る最後の食事として、堀は『彩』の料理ではなく、ここへ来てから寿司を選んだようだ。水だけ飲み、このまま寿司屋へと足を運ぶのだろう。藤木はカウンターの上を滑らせられた空のグラスに、また水を注いだ。
「フナック、ですか」
 再び差し出されたグラスを摑み、堀がさらに水を含む。
「そう。オレってさ、テレビとかネットとかで、ほら、意地の悪いただの成金みたいにいわれてるけどさ、エイズとか癌とか、難病治療の研究にめちゃくちゃ出資してるじゃん?その関係で教えてもらったんだよ、そのフナックっていう臓器バンク」
 にわかには信じ難い話ではあった。だが、この大金持ちの口から語られると、その話には現実味が伴ってくる。
「わりいな藤木くん、やっぱ寿司にするわ」
 言葉だけの詫びを入れ、堀がスツールから立ち上がる。こちらに背を向け、板張りの床を軋ませつつ、店の出入り口へと歩いていった。
「退院したらまたこの辺りで飲み歩くからさ、ワイン持ってきてくれよな、藤木くん」
 堀の姿が消え、階段を降りる足音が遠ざかる。
 夜というには早い時間だ。まだ宵の口にもなっていない。
 六本木の街は、少なくとも六本木交差点より赤坂側は、閑散としている。

58

 なあ、と背後から声をかけられた。
「香村くん、香村龍くんだろう」
 龍が振り返ると、散りゆく群衆の中に、男が二人立っていた。一人はジーンズに黒いツイードというラフな格好だが、もう一人はスーツだ。龍に倣い、セツコと幸子も振り返る。
「その二人は連れか」
声をかけてきたのは前者だった。スーツの男は歳嵩に見える。五十かそこらだろう。押し黙っているが、鋭い眼をこちらに向けていた。
「何?あなたたち?」
 セツコが訊く。口調に、警戒心が現れている。
「神父と、あとはサラリーマンみたいなものです」
 年長者であるセツコを意識してか、ツイードの男が敬語で答えた。周囲からは雑踏とサイレン、警官の吹く警笛の音が混然一体となり、聞こえていた。
「話があるんだ、香村くん。連れの二人も一緒でかまわない。そこらでコーヒーでも飲まないか」
 生唾が湧き、龍はそれを飲み下した。途端、口の中が急激に渇いてゆく。ツイードの男からは、堅気とは異なる空気が放たれている。神父を自称しているが、そうは思えない。
「コーヒー代は私が出そう。何を註文しても構いませんから」
 ようやくスーツが口を開く。口調は丁寧だったが、眼の険は消える気配がなかった。
 警戒心を解かぬまま、セツコがさらに訊く。
「お話って、何かしら?わたしたちは、あなた方に用なんてないわ」
「やくざに狙われなかったか、香村くん」
 ツイードの台詞に、拒む言葉を発したばかりのセツコが眼を見開いていた。幸子は怯えの色を隠せていない。
「お前さん、今も追われているぞ。これからも、追われる。話をしないか。そうでなければ、解決には至らないと考えてるんだよ」
 視界の端に、スターバックスのテラスが見えた。龍の視線を追ったらしいスーツの中年が頷く。ツイードとは対照的に、スーツからは剣呑な気配が感じられない。眼は鋭いが、さほどの迫力はなく、ツイードのいうように、本当にサラリーマンであるようだ。
「聞こうかしらね、龍くん」
 セツコの言葉に龍は頷き、スターバックスへと歩き始めた。背後に、男二人と女二人のついてくる気配がある。
 テラス席へと案内され、ツイードが幸子にいった。
「何か四人分、適当に持ってきてくれ。おれは水でいい」
 スーツの中年が紙幣を取り出し、幸子に手渡した。幸子は無言のまま席を立ち、註文カウンターへと向かう。
 幸子の背を見送ったセツコが二人の男へと向き直り、訊いた。
「同じ質問にはなってしまうけれど、もう一度訊くわ。あなた方は何者?」
 神父を自称する男が答える。
「武藤といいます。武藤恭二。近くに教会があるんですが、そこの神父です。こちらは大壺さん。先ほどはサラリーマンといいましたが、厳密には臓器移植コーディネーターでおられます」
 眼に険を浮かべたまま、大壺と紹介されたスーツの中年が会釈を寄越す。幸子が人数分のカップを乗せたトレーを手に戻ってきた。武藤が続ける。「香村くん、単刀直入にいうぞ。お前さん、やくざに狙われている。やくざが狙っているのはお前さんの肝臓だ」
 心臓が大きく脈動した。背を冷たい汗が伝う。狙われていたのはセツコでも幸子でもなく、自分だったのだ。
 置かれたカップに手をつけるでもなく、沈痛な面持ちで大壺が口を開く。「依頼したのは私です。娘が白血病でね。香村くん、私は君の肝臓が欲しい」
 セツコが発言した。
「なぜ?なぜ龍くんの肝臓を狙うの?娘さんが白血病であることと、龍くんが狙われることと、どう関係があるの?」
 息をつき、大壺が続ける。
「ご存じではないでしょうが、『フナック』という組織があります。臓器移植ネットワークです。私が属している一般の臓器バンクとは別です。ごく一部の富豪しか顧客にはなれない、しかし世界的な規模を持つ臓器移植ネットワークがあるんです」
 また唾が湧き出てきた。それを飲み下すと、また口の中がカラカラに渇く。話しているのは大壺だけだ。他は誰も口を開かず、聞き入っている。「娘はもう、余命いくばくもない。そこへ『フナック』から依頼を受けました。香村くん、君の肝臓をオーダーした者がいるんだよ。『フナック』はこの時のために、君を長く保護下に置いて、監視していた。君は生かされていたんだ。ドナーとして、ね」
 もう唾が出てこない。口も喉も渇き切っている。
 自分は生かされていた。それも、知りもしない誰かに臓器を提供するために。
 両親が死に、自分だけが助かった。先日の火事でも、傷ひとつ負わずに済んだ。それもこれも、全てがこの時のためだったのか。
「娘には時間がない。すぐにでも骨髄移植が必要なんだよ。『フナック』が擁しているのは臓器ネットワークだけではない。骨髄に関しても、世界的なネットワークを展開している。私は『フナック』の担当者から取引を持ち掛けられた。君の肝臓を手に入れれば、娘のために骨髄のドナーを探す、と」
 誰も飲み物に手をつけない。途中から席へと戻った幸子も、話の内容を察したようだ。
「暴力団に依頼したのも私だよ。私の力だけではどうにもできない。そして暴力団は君を狙った。妨害したのが、さっき逮捕されたホームレスだ。ニュースで知っているだろうが、あのホームレスはやくざを三人も死なせている。やくざは報復を優先したんだろうね。だが、それはもう叶わない。あのホームレスは警察に捕まった。この先、暴力団は残された仕事に取り掛かる。君を捕らえて、私は君の身柄を『フナック』へと引き渡す」
 私はそのつもりだ、といい足し、大壺が口を閉ざす。その語気には、固い決意が伴っていた。
「なぜ、その話をぼくに」
 龍が訊くと、武藤が息を吐き、呟いた。神父を名乗るこの男は、堅気ではない。醸す空気が、それを示している。しかし、暴力団員ではないのも明らかだ。常識人、といった印象をこちらに与えている。
「おれも、どうしていいかわからないんだよ」
 閉ざしていた口を、セツコが開いた。
「武藤さん、あなたは神父だといっているけど、そうは思えないわ」
 龍と同じく、セツコも武藤からただならぬ気配を感じ取ったようだ。
「元は暴力団にいました。足を洗ったつもりですが、こちらの大壺さんが仕事を依頼した組織の上部組織に籍を置いていたんです。そして、仕事の話が降りてきた。私は・・・」
 眼を伏せ、武藤がいう。
「どちらかを死なせ、どちらかを生かさねばならないんです」
 大壺がこちらを見つめていた。『フナック』という組織云々はさておき、この男は間違いなくこちらの命を狙っている。肝臓を奪う気でいる。身柄を捕らえられれば、助からない。
 獲物を狩る獣にも似た気配を、大壺はその全身から放っていた。

59

 武藤が何を考えているのか、まるでわからない。野次馬や警官、やくざたちが去り、いつもの雑踏を取り戻しつつある夜の六本木、青年と二人の女が去ってゆくのを見届け、大壺は武藤の隣で外苑東通りの歩道に立ち尽くした。
 追うか、という考えが脳裏を過る。青年はどこへ向かい、どこで夜を明かすのか。尾行け、どこか人気の消えたところで、力ずくにでもその身を拘束する。青年は抵抗するはずだ。まだ若く、体力もある。二人の女は邪魔になどならない。問題は、青年をいかに捕らえるかだ。
 隣に立つ武藤からも、逡巡の気配を感じ取った。苦悩し、迷っている。二人の女と共に消えてゆく青年を追うでもなく、ただ静かに佇んでいるのが、その証と思えた。
「武藤さん、どうするんです」
 詰め寄るような口調で、大壺は訊いた。武藤は微かな唸り声を漏らし、黙っている。
 何が腕利きの元やくざだ。阿南というあの男の買い被りなのだろうか。元は筋者だったようだが、今では神職などという形にまとまっている。苦悩するのは理解できるが、武藤は阿南から仕事を受けたのだ。完遂する義務というのがあるだろう。
 憤怒にも似た感情を押し殺していると、スーツのポケットで携帯が鳴った。知らない番号が液晶に表示されている。回線を繋ぎ、耳に当てた。
「大壺さんですね?」
 ええ、と答えた。男の声だった。
「手術の準備が整いました。そちらはどうです?大壺さん」
 フナックだ。ミニッツの声ではない。
「もう少し、もう少しなんです。眼と鼻の先にいる。間もなくドナーを拘束するつもりです。そちらは引き続き準備を―」
「大壺さん、今六本木におられますね」
 見張られているのか。ならば、少しでも力を貸せ。
「ええ。力を貸してください」
 大壺は懇願した。もう少し、あと少しで青年を捕らえられる。娘を救える。
「それは大壺さん、あなたがドナーを確保してからの話です」
 フナックの者らしい男が冷徹にいい放つ。
「私は一人で動いていますし、あなたの監視役でしかない。いずれにせよ、あと一歩のところまできているのですね」
 そうです、と大壺は肯定した。
「では、後援部隊を送ります。黒のBMW。あなたに与えられた車ですね。あなたが向かう先のどこかで、すみやかに部隊を合流させましょう」
 回線が切れ、大壺の視界から青年と女二人の姿が、完全に消えた。
「武藤さん、フナックからでした」
 僅かに、武藤が首をこちらへと捻る。声は耳に届いているようだ。
「オペの準備が整った、と」
 大壺はいったが、武藤は何も言葉を発さない。僅かに捻った首を元の位置へと戻し、何事かを考え込んでいる様子だ。
 焦れた大壺が発声しようと息を吸ったとき、ようやく武藤が口を開いた。
「私は一旦、教会へ戻ります。少し考えなければ」
 力ない口調だった。今さら何をいうのか。こちらは一分一秒を争っているというのに。
 武藤が続ける。
「阿南さんはいっていましたね。投宿先はすぐに割れる、と」
 もう付き合ってなどいられない。この男にとっては熟考を要する問題なのだろうが、こちらには時間が、時間がないのだ。
「キーをください、武藤さん」
 怒りを抑え、大壺は求めた。武藤がポケットから取り出したキーを、大壺は奪うように握った。もう、自分で追うしかない。
 三人の後ろ姿は、六本木交差点の方向へと消えた。地下鉄にしろ、タクシーにしろ、あの青年が何かに乗り込むまでに、その姿を再び捉えなければ。
 人ごみをかき分け、大壺は外苑東通りの歩道を駆けた。眼を凝らす。遠く、青年と女二人の背が見える。六本木交差点までは、まだいくらかの距離があった。
 路地へと駆け戻り、BMWのエンジンに火を入れる。封鎖の解かれた路地から外苑東通りへと車を出し、六本木交差点へとノーズを向ける。青年たちがタクシーに乗ったなら、それを尾行け、もし地下鉄への階段を降りていったなら、この車を乗り捨てる。
 捕り物劇を終えた六本木の街は、再び人と車が増え、まだ宵の口だというのに、辺りは酔客で埋め尽くされていた。六本木交差点の一つ手前で信号が赤に変わり、前をゆく数台のタクシーが律儀に停止した。ゆく手を阻まれ、大壺はステアリングを殴りつけた。横断歩道を、男、女、若者、中年、黒人、白人、多種多様な人種が呑気な足取りでいき交う。
 着信音。携帯を取り出した。前方に視線を巡らせ、青年たちを探しつつ回線を繋ぐ。
「大壺さんですか」
 低く、不気味な圧力を伴う男の声がした。阿南だ。
「ええ」
 それらしき三人組の姿が遠く見える。信号の先、タクシーの後部座席のドアが開き、若い女から順に乗り込むところだ。
「連中の宿が割れたそうですよ。大壺さんの耳にも入れようと思いまして。これからうちの者たちも向かいます」
 二子新地という地名と、ホテルの名を阿南が告げた。三人を乗せたタクシーが発進し、そのテールが小さくなる。
「こちらもすぐに向かいます」
 切るようにいい、大壺は回線を切った。ギアをパーキングに入れ、車を捨てる。信号が変わるのを待つのも惜しい。歩道を駆けた。六本木交差点。タクシーは渋谷方面へと消えていった。路肩に寄せ、客を待っている空車のタクシーに近づき、大壺は身振りで運転手を急かした。後部座席のドアがゆっくりと開く。大壺はそこへ滑り込み、地名とホテルの名を早口でまくし立てた。

60

 ホテルへと向かうタクシーの車内、誰も口を開かない。セツコも幸子も、沈痛な面持ちで口を閉ざしている。龍は、自分が長い間、臓器提供者として生かされていた事実に茫然自失となったが、次第に恐怖感が増し、今はそれが脳裏を支配していた。重い沈黙が車内を満たし、一時間弱でタクシーはホテルの敷地へと到着した。
 様々な事情はあるのだろうが、死ぬのは御免だ。冗談じゃない。なぜ自分が、知りもしない誰かのために命を落とさねばならないのか。間違っている。絶対に、それは間違っている。あってはならないことだ。
 三人はロビーのソファに腰かけ、息をついた。そして、セツコが明るくいった。
「あなたたち、わたしの国に来ない?」
 唐突な提案に、龍と幸子は顔を見合わせ、互いの視線を交わらせた。セツコが続ける。
「龍くん、あなた、帰るところなんてないんでしょ?幸子ちゃん、あなたもよ」
 セツコのいう通りではあった。帰る場所はなく、ゆく宛もない。幸子とて同じだろう。だが、幸子は躊躇う気配を見せ、呟く。
「でも、あたし、もう世界中に顔を知られてると思う」
 いい終えた幸子が眼を閉じ、俯いた。そうだ。幸子の出演したAV映像はインターネットで配信されている。やがてプロテクトは破られ、誰もが無料で鑑賞できるようになるだろう。時が経てば、製造販売元は充分な利益を得たと判断し、正規という形で無料配信を始める。幸子の性交は、時を経るごとに人の眼に晒されるのだ。
 セツコが微笑み、いった。
「フロリダの田舎よ。うちの半径十キロ以内には人家もないわ。とにかくこの国を出て、アメリカへいらっしゃい。未来のことは、そのあとで考えてもいいんじゃないかしら」
 悪戯な笑みを浮かべ、セツコが忠告する。
「でも、うちは農場よ。馬がいるの。手伝ってもらうつもりだから、動物の臭いが体に染みつくのは覚悟しておいて、ね」
 幸子の表情に、綻びが見える。だが、一瞬だった。何かを懸念している。「セツコさん、でもあたし、パスポートが」
ないわけではないだろう。いつか、インドネシアかどこかの島で撮影された幸子のグラビアを見たことがある。ただ、パスポートのある自宅には、もう帰れないのだ。
「どうにでもなるわ。住民票を移してから発行してもらえばいいもの。龍くんもそうよ。どうにかなる。大丈夫よ。でも、幸子ちゃん、一つ約束して頂戴」
 顔を上げた幸子が小首を傾げる。
「時間が経ったら、一度この国に戻って、ご両親にちゃんとお話するの。必ず、会いにいくのよ」
 幸子が笑みを見せ、力強く頷く。セツコが龍に視線を向け、表情を引き締めた。
「龍くん、あなたは自分のために生きるべきよ。臓器移植にお金が関わるなんておかしいわ。それは善意によって行われるべきだと思うの。少なくとも今は龍くん、あなたはあなたのために生きなさい」
 セツコの眼に、強い光が宿っている。そして、いい重ねた。
「フナックのやり方や、その顧客がお金を払って、人の命を奪ってまで余命を伸ばすなんて、間違ってる。私は、少なくとも私の眼の届く範囲では、そんなことはさせない。それは、私が許さないわ」
 龍は頷き、拳を握りしめた。
「話はまとまったわね。長居は無用よ。動きましょう。奴らが追ってくるわ。ほら・・・」
 フロアの外へと視線を走らせたセツコが、その眼を凝らしている。龍がその視線を追うと、建物の外にちらほらと人影が見えた。龍は思わず立ち上がり、外の様子を観察した。
 闇の中、ホテルの敷地内に点々と、男たちが配置に着いている。奴らだ。それに続き、二台の黒いリンカーンが敷地内へと乗り入れ、ヘッドライトが眼を射った。レンタルしたアクアは地下二階の駐車場だ。
「いきましょう」
 龍はいい、ソファから立ち上がった。先頭を切り、エレベーターへと向かう。箱の扉が開き、三人で乗り込んだ。キーはジーンズのポケットだ。
 箱が下降してゆく。
 連中は、こちらが車で強行突破を試みるのを読んでいる。重量級の車が二台。こちらはコンパクトカーだ。勝ち目はない。突破できるはずがない。
 どうするべきか、どうすればこの窮地を脱せるのか。
 答えが出ないまま、箱は地下二階へと到着し、扉が開いた。

61

 照明を灯さず、講堂の中央を歩き、立てかけられた十字架の前で武藤は立ち止まった。時折、通りを走る車の走行音が聞こえる。夜の街から放たれる明かりが窓から射し、聖母の像を照らしていた。
 元は喫茶店として使われていた空間だ。母の亡きあと、武藤が教会へと改装し、今では静謐な空気が漂う。壁に飾られた絵の中で、聖人たちが自分を見つめていた。
 主よ、私は―。
「神父、武藤神父」
 祐樹の呼ぶ声がする。振り返ると、祐樹が暗い講堂へと入ってくるところだった。
「どうしたんです、明かりも点けずに」
 無理に笑みを作って見せ、いや、と武藤は答えた。
「お電話です、武藤神父に」
 踵を返し、居住部へと足を向ける。どちらさんだ、と訊いたが、祐樹の歯切れが悪い。
 黒電話の置かれた廊下まで歩き、受話器を取った。
「武藤です」
「割れたぞ、武藤」
 武藤が名乗り終えぬうちに、言葉が重ねられた。
 阿南だった。
「二子新地駅近くのホテルだ。どうする、武藤。もう現地にはうちの者が向かってる。放っておけば、あの若いのは囚われて、肝臓を引きずり出されて、それで死ぬ。お前が動かないまま事が運んでも、それをお前の手柄だと俺は認めない」
 張り詰めた緊張を伴う口調だ。曖昧な回答は許さない。阿南の口調には、そんなニュアンスがあった。
「迫っているつもりですか、阿南さん」
 訊くと、阿南の声に伴っていた緊張が、やや緩んだように感じた。
「俺はどちらでも構わん。あの大壺とかいう男の望み通りに事が運べば、うちに金が入る。そうでなきゃ、武藤。お前を引き戻すために動き続けるまでさ」
 台詞の後半には、威しにも似た感触がある。
「どちらを選んでもいい、という意味ですね」
「それは武藤、お前が解釈するんだな」
 畳みかけるように、阿南が語る。
「武藤、お前はけじめというのをつけていない。しゃぶに溺れて、使い物にならなくなって、挙句に捕まって、何年か務めて、それきりだ。足を洗ったつもりでいるだろうが、それは違う。前にもいったな。お前が背負っているのは十字架じゃない。背に刻まれた、その刺青なんだよ」
 昔からそうだった。阿南という男は。狡猾、打算的。言語野が発達しているのか、豊かな語彙を持ち、それらを駆使することで相手に迫り、その裏で、自分は何がどうなろうと損をしない場所を確保する。
 言語による脅迫を達成したつもりなのだろう、回線は一方的に切られた。ツーツーというビジートーンが、耳の中で虚ろに響く。
 鉄塊のように受話器が重い。それを置き、武藤は台所へと足を向けた。母の残した数種類の包丁と、まな板があったはずだ。
 氷で予め冷やす、という考えは浮かばず、酒もとうの昔にやめてしまっている。痛みを和らげようとは思わない。無視しようとも、ごまかそうとも思わない。
 痛みを伴わなければ、意味がない。

62

 タクシーが目的地へと近づき、大壺の視界に入ってきたのは、二台の車とその影だった。黒いピックアップトラックが連なり、大壺の乗るタクシーがさらに接近すると、二台の周囲で配置に着く男たちの姿も認められた。
 タクシーが停止する。まだいくらか距離を残していたが、異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、運転手は車を停め、振り向いた。表情に浮かぶ慄きを隠そうともせず、運賃を告げる。
「お釣りはいいです」
 言葉と共に紙幣を渡し、タクシーを降りた。二台の黒いリンカーンピックアップが低いアイドル音を轟かせ、周囲の男たちはホテルの一点に視線を据えている。
 視線を追った。ホテルの地下へと伸びるトンネルが口を開き、青白い照明が零れ出ていた。
 近い。すぐそこにいる。あの青年が、すぐに現れる。そして、すぐに済む。フナックの部隊は付近にいるだろうか。いるはずだ。
 携帯を取り出した。一報を入れたい。もう、あの青年を捕らえたも同然だ。すぐにでも動いてほしい。そして、すぐにでも娘のドナーを探してほしい。
 不意に、握っていた携帯が着信音を発した。液晶に眼をやる。
 妻だ。反射的に液晶をタップし、回線を繋いでいた。
「あなた・・・今どこ・・・?」
 妻の声がする。奇妙なほどに低いトーンが、起きている悲劇的な何かを物語っているように思えた。
「・・・もう、もうだめなの。すぐ病院にきて・・・」
 諦念の滲む悲痛な声が、大壺にそう懇願していた。
「あなたも、あなたも看取ってあげて。もう、瑞樹が・・・」
 間に合わなかった。
 もう、手遅れなのだ。何もかもが、手遅れだった。
 焦点の合わなくなった視界の中、トンネルの奥から小型車が姿を見せる。タイヤの軋む音が、トンネルの中で反響していた。アクセルを床まで踏み込んでいるのか、小型車は悲鳴のようなエンジン音を響かせつつ、猛烈な勢いで加速し、地下から昇ってくる。
 男たちが身構え、二台のリンカーンがアクセルを吹かし、身震いした。小型車はさらに加速し、トンネルを脱する。強行突破する気なのだろう。
 怒りと哀しみの入り混ざる声を妻が絞り出し、大壺を責めた。
「こんなときにあなたは・・・どこにいるの!?何をしてるの!?」
 携帯を投げ捨て、大壺は駆けた。男の一人がこちらに気づき、それが他の男たちにも伝播した。視線が集まる。大壺は、駆け続けた。
「やめてくれ!」
 そう叫んだつもりだった。上手く発音できたかはわからない。さらに叫んだ。
「もういい!やめてくれ!」
 絶叫しつつ、男たちとリンカーンに駆け寄る。
 異変を察知したらしい男たち数人に取り押さえられ、大壺は四肢の自由を奪われたが、それでも叫び続けた。仕事を依頼したのは大壺だが、実働部隊であるこの男たちにとって、大壺は闖入者に過ぎない。
「やめてくれ!もういいんだ!」
 残りの男たちと小型車の距離が急速に縮まる。小型車が僅かにノーズの向きを変え、加速し続けた。道を塞ぐべく運転手がステアリングを切ったのか、リンカーンの前輪に舵角がつき、その巨体が動き始める。大壺は渾身の力で男たちの手を振りほどき、動き始めたリンカーンのノーズへと、全身でぶつかっていった。
 これ以上、もうこれ以上、罪を重ねられない。
 動きを止めたリンカーンの鼻先を、小型車が二人の男を跳ね飛ばしつつ一瞬で駆け抜け、遠ざかってゆく。
 そのテールランプが次第に小さくなり、やがて見えなくなった。

63

 高速を降りると、潮の香りが車内でも感じられ、車が進むにつれて、それが濃さを増す。一般道に乗り、運転席の武藤が僅かにサイドガラスを降ろした。風が流入し、ステアリングを握る左手に巻かれた包帯の端が、ひらひらと靡く。
 湾岸線を走り、大黒JCTに差しかかる辺りで、龍は着替えさせられていた。紺色の作業服だ。荷役業者の名だろうか、背にはカタカナで社名が記され、安全靴と白いヘルメットまで渡された。脱いだジーンズと上着をバッグに収めつつ、ベイブリッジから朝の東京湾を眺め、ホルダーに置かれた缶コーヒーを飲んだ龍が一息ついたところで、武藤は車速を落とし、黒いBMWのノーズを本牧ふ頭という名の出口へと向けた。料金所を過ぎ、ETCの車載器が何か喋ったのを除けば、車内は無言だった。
 以前、夜の六本木で話し込んだとき、この男の手には包帯など巻かれていなかった。何があったのか、どうしたのか、好奇心が湧き、訊こうとも思いはしたが、口には出さずにいた。かつて暴力団に籍を置いていた、と武藤は語っていたのを思い出す。訊かない方がよさそうだ、と考えたが、指を切り落としたのは間違いない。素人の眼にも、それは明らかだ。
 倉庫街を走り抜け、フロントガラスの先に岸壁と、大型の貨物船が見えてくる。さらに進むと、これより先、関係者以外立入禁止という看板があり、背の低い柵が現れた。武藤がブレーキを踏んだようだ。車は柵の数メートル手前で停止し、武藤の右手がシフトノブへと伸びる。ギアをパーキングに入れ、パーキングブレーキのボタンを、その手から生えた指が押し込む。
 貨物船が接岸している岸壁に、港湾労働者たちが並んでいるのが見えた。皆が同じ色の作業着に身を包み、龍はそれが先ほど着替えさせられた物と同一であることに気づき、何かが腑に落ちる思いだ。
「ハオランという中国人が声をかけてくる」
 運転席のドアを開きつつ、武藤が口を開く。龍はバッグを手に、助手席から降りた。
「あの船だ。昨日の夜に上海から来て、もう荷の積み下ろしは終わってる。これを持って乗れ。誰も咎めやしない」
 ルーフ越しに武藤が紙袋を渡してくる。察しはついた。旅券や身分証の類が入っているのだろう。自分は香村龍という名を、捨てることになる。潮の香りに、何か機械油のような臭いも混ざっていた。独特の臭気を伴う海風が頬を撫でる。
「その中国人、日本語が話せるそうだ。食い物も寝床も確保してくれる。途中で酷い時化にでも遭わない限り、二週間と少しで西海岸に着く」
 指のことを訊かなかったのは、恐れという感情からではない。あの夜、龍はこの神父を自称する男から堅気と呼ばれる人種ではない空気を感じ取ったが、今はどうだろうか。この男から、あの筋者めいた剣呑な空気が、まるで感じられない。
「これで、いいんですか、武藤さん」
 龍は訊いた。空の便で先に発った二人とは、向こうの港で落ち合う手筈になっている。武藤の左手に巻かれた包帯が痛々しく、龍はそれを直視できずにいた。表情を窺うと、武藤は微かな笑みを浮かべている。
「かまわんさ」
 捨て台詞のような口調ではあったが、その声には温かみがあった。
 落とした指は、一本ではない。小指の先だけではなく、包帯は手首に達するほどの位置にまで固く巻かれていた。落とした指は、二本。薬指まで落としている。
 一本は自身のためとも考えられたが、もう一本は、なぜ。もしかして、この男は、この旅券の類を用意するために、指を。歪な想像が膨らむ。邪推、というやつだろうか。
「おれは過去を背負ってる。降ろせない。背負って生きてゆくしかない。だがな、お前さんは違う」
 ルーフに肘をかけ、遠い眼を貨物船に向けた武藤が呟く。
 この男は一体なぜ、そうしてまでこちらを国外へ逃がそうというのか。この男は一体、何をどれだけ背負っているのだろうか。
「生きていけよ。諦めるな。もし犠牲になるなら、その対象は自分で見つけろ。人から押し付けられたなら、突っぱねろ」
 並んでいた港湾労働者たちが散会し、そのうち何人かはドアに社名がプリントされた銀色のバンに乗り込み、走り去る。残った者はそれぞれの持ち場に着くのか、それぞれが岸壁の上を移動していた。
「見送る、なんて真似はせんからな」
 礼の言葉を発する隙を龍に与えず、武藤はBMWの運転席に収まり、ドアが閉じられた。
 ひと言だけでも、礼を述べたい。龍は背を屈め、車内を覗き込んだ。武藤はもう、こちらを見ていない。ギアがドライブに入ったらしく、車が動き始めた。
 ガラス越しに、ステアリングを回す武藤の左手が見える。白い包帯の色が、映えた。車はテールをこちらへと向け、遠ざかってゆく。

64

 衝立の向こうで扉が開き、何者かが椅子に掛けた。告解か、人生相談か、何かを話しに訪れた相手が何者であるのか、武藤は気配で察した。重い空気が、狭い告解室を満たす。
 相手が誰なのか、わかってはいたが、いつもの通り、武藤は訊いた。
「どうされました、今日は」
 衝立に空けられた無数の小さな穴から、深い吐息が聞こえる。溜息ではない。深呼吸に近かった。話をするために、息を整えている。急かすでもなく、促すでもない。いつもの通り、武藤は相手の発言を待った。
「武藤さん」
 男の声がする。呼吸が整い、話す気になったようだ。
「あなたを責めたり、咎めたり、そんな気はないんです」
 さらに一度、男が深く息を吸う。
「ただ、報告をしたくて・・・」
 気になってはいた。予想はついていたが、確信を持つまでには至っていない。
 指詰めの事実をどこかで聞いたのか、あれ以来、阿南からのコンタクトは消え、ただ静かに時間だけが経っていた。
「娘は、死にました。間に合わなかった。仮にあの青年から臓器を奪っても、間に合いはしなかった」
 言葉が浮かんでこない。何をいえばいいのかわからない。慰めの言葉か、それとも、謝罪か。重い沈黙が、告解室に降りた。
「悪足掻きをしたんです、私は・・・。娘が助からないことなど、本当はわかっていた。そんな気がしています」
 語尾は、嗚咽混じりだ。声を押し殺し、泣いている。
「納骨は、済ませましたか」
 武藤が訊くと、衝立の向こうで強く頷く気配があった。
「田舎が甲府でして、葬儀のあと、妻と向かいました。墓もその土地にありますから」
 嗚咽が止まらない。泣いているのは、娘を亡くした哀しみからなのか、それとも、自身のいう悪足掻きを悔いているのか。
 武藤は息を吸い、口を開いた。
「娘さんのことは、残念です。私としては、無念ですし、申し訳ない気持ちもあります。忸怩たる思いすら、抱いていますよ」
 衝立の向こうで、かぶりを振る気配がある。
「いいんです、武藤さん。あれで、よかったのだと思います」
 あれでよかった、と男が囁くように繰り返す。己にいい聞かせるように何度も繰り返し、さらに言葉を繋ぐ。
「誰かの命を奪ってまで何かを守ろうなど・・・。感情論です、武藤さん。倫理的ではありませんし、倫理を侵すことに他ならないと、今では思っています」
 混ざっていた嗚咽が消え、その声音には明確さがあった。
「こうして、ようやく告解できます」
「告解、ですか」
 武藤の問いに、男が答える。
「ええ。罪の告白です。懺悔、ですよ。あなたはもう、ご存じでしょうけど」
 男の声に、当惑にも似た色がある
 呼吸を置き、武藤はいった。諭すような口調を心掛け、静かに声を発する。
「あなたは、何の罪も犯していませんよ。告解も、懺悔も、あなたには必要ない」
 時間が止まったかのような錯覚を覚えるほど、無音の空白が生まれた。こちらが何をいっているのか、理解できない。そんな思いが、衝立越しに伝わってくる。
「あなたは、誰も死なせていないんです。悪足掻き、とあなたはいいますが、それは事実ながら、結果として、あなたは誰も死なせていない。娘さんを救うことはできなかった。ですが、あなたは娘さんを救いたいがために、誰を死なせたわけでもないのですよ」
 語り終えると、男が再び嗚咽を漏らし始める。言葉が救いとなったかどうかは、わからなかった。それでも、武藤はいい重ねた。
「もう一度いいます。あなたは、誰も死なせていないんです」
 沈黙のあと、やがて男が声を挙げ、泣いた。号泣していた。何が男を泣かせているのか、やはり武藤には判然としない。娘の死か、自身の醜い悪足掻きか、それとも、その両方か。
 誰かから何かを奪ってでも、自身の何かを守りたい、何かを得たい。その欲求は、理解できるつもりだ。それが例え、過ちだとしても。
 男の泣く声が、告解室の外へも響いた。
 泣き続け、男が泣き止むまで、武藤はただ佇んでいた。

65

 龍に与えられた居室にハオランが姿を現し、もうすぐ着く、という意味のことをいった。日本語が喋れると聞いてはいたが、実際は日常会話をどうにか交わせるといった程度でしかなく、クルー用の食堂の使い方を教える際も、イントネーションの狂ったカタコトの日本語にありとあらゆるジェスチャーを加え、といった具合だった。
 十六日前の朝に乗船し、居室を与えられた。ハオランを含む下っ端クルーの使う居住区には八つの部屋があり、それぞれに二段ベッドが四つ据え付けられ、もし与えらる面積がベッド一つ分であれば窮屈な思いをするのは避けられないと龍は考えたが、実際に与えられたのは居室が一つまるごとだった。訊くと、ハオランは懸命にカタコトの日本語を駆使し、身振り手振りを交えながら説明した。この船はかなり古く、昔は多くの船員を要していたが、時代が進み、改装を繰り返す過程でコンピュータを導入し、運行システムが電子化された結果として乗り込むクルーの数が極端に減り、居室だけが余っているのだという。
 先に金を受け取っているはずのハオランは、龍を居室に案内した際、もう少しよこせ、と金を求めた。予め口座から降ろし、米ドルに換えた紙幣をいくらか渡すと、ハオランが破顔し、龍への態度も柔らかなそれとなった。
 サンフランシスコ港、という名を出し、到着が近いことを告げたハオランの歳は、還暦を過ぎた辺りと見える。頭は禿げあがり、潮焼けというのか、顔は赤らんでいた。
 居室を出た龍は階段をいくつも昇り、甲板へと這い出した。鼻が慣れてしまったのか、潮の香りはさほど感じない。機械油の臭いも同様だ。船底から響くエンジンの振動も、二週間以上それに晒されれば気にならなくなる。
 霧が立ち込め、甲板からは何も見えなかった。視界が利くのは半径一メートルほどでしかない。濃い霧だった。船はエンジンの回転を低く維持し、着実に前進しているようだが、ゴールデンゲートブリッジも、アルカトラズ島も、龍の眼には映らない。
 やがて、白い闇が明けた。視界が徐々に広がってゆく。船はすでに横滑りのような動きを始め、舳先では幾人かのクルーが忙しく立ち働いている。接岸するのだ。エンジンの振動が束の間やみ、また低く轟き出した、スクリューを逆回転させているらしく、船体は不思議な動きを見せている。
 視線を上げた。
 陸だ。コンクリートで覆われた岸壁の先に広大な敷地があり、数えきれないほどの輸送コンテナが整然と並べられている。壮観だった。とんでもなく広い敷地に、とんでもない数のコンテナが積み上げられ、拡がっている。夕方だった。霧が晴れ、夕陽が景色を緋色に染めていた。
 背後に気配を感じ、振り返ると、ハオランが笑みを見せ、立っていた。スタンバイ、という言葉のみで、龍に身支度の指示を出す。
 居室に戻り、バッグを肩にかけた。再び現れたハオランに案内され、通路を歩く。エンジンの振動が次第に細やかなそれとなり、ひときわ大きく船体が震え、やがて止まった。
 まだ仕事が残っているらしいハオランと握手を交わし、タラップを降り、龍は初めて海外の地を踏んだ。様々な色に塗装された輸送コンテナが遥か彼方まで立ち並び、岸壁ではヘルメットをかぶった黒人たちが機械で巻き取った舫にホースを向け、水を浴びせていた。
 広大なコンテナ置き場を循環するバスが近づき、停止した。港湾労働者向けに運行しているらしい。エアの抜ける音と共に、扉が開く。龍はそれに乗り込み、地図を開いた。この港には埠頭が百近くもあり、自分が降り立ったのが地図上でどの辺りなのかを把握しておきたい。
 市街地に近いと思われるバス停で降りたが、タクシーが走っていない。建物が多く見える方角へと歩き続けると、ようやく街といえるエリアに出た。セツコからは、ヘイズバレーという地区にあるレストランで待つ、といわれている。流しのタクシーは走っていないのか、どこまで歩いても見つからない。
 視界に入ったハンバーガーショップで、タクシーを呼ぶようスタッフに求めた。龍のつたない英語を理解したらしい肥った中年女のスタッフは電話をかけ、それから十分も経たぬうちに、黄色い車体の側面に数字の羅列が記されたイエローキャブが店の前に現れた。
 肥った女スタッフに礼をいい、タクシーに乗り込む。ヘイズバレー、ズーニー・カフェ、とセツコの指定したエリアと店の名を告げ、龍は全身の力を抜いた。疲労が体を満たしている。タクシーが走り出した。初めての海外に対する期待と好奇心、そしてこの先、どう生きてゆくかといった不安、様々な思いが交錯する。
 どれくらいの時間が経っただろうか、浅い眠りについていた龍は運転手に起こされた。車窓越しに周囲を見回す。夕暮れの市街地を、多種多様な人種がいき交っているのが見えた。
 金を払い、作法がわからないままチップを渡し、タクシーを降りる。眼の前に行列が形成され、店の入り口にまで続いていた。Zuni―Cafeという店名の掲げられたビルだ。
「龍くん!」
 雑踏の中から、そんな声が聞こえた。人ごみの中に視線を走らせ、龍は眼を凝らす。
「龍くん!こっちよ!」
 明確な日本語が近づいてくる。視線を巡らせると、二人の女が路地を横切り、距離が縮まるにつれ、その姿が鮮明さを増す。セツコと幸子だった。
「長旅ご苦労さまだったわね」
 セツコとハグを交わす。満面の笑みだった。そしてセツコがつけ加える。
「でも、この先も長いわよ」
 当然といえばそうだが、幸子にはそんな習慣がないらしく、ハグを求めてこない。だが、笑顔でこちらを見つめ、表情には安堵の色が表れていた。
 セツコがスマートフォンを操作し、タクシーを手配したようだ。イエローキャブはすぐに姿を見せ、セツコがドアを開き、三人で乗り込む。
 後方へと流れてゆく街並みに、龍は眼を奪われた。セツコと合流し、道に迷う心配は消え、風景を観察する心的な余裕が生まれていた。異国の地。遠い島国からやってきた一人の東洋人でしかない自分。タクシーはいくつかの交差点を曲がり、街の郊外と思われる辺りで止まると、三人を降ろした。バスターミナルらしい。
「先に食事を摂っておく?」
 セツコが訊く。空腹は感じていなかった。ハイウェイバスのチケットは、すでに取ってあるという。フロリダからこのサンフランシスコへ、二人は空路で来たというが、セツコはなぜ復路としてバスを選んだのだろうか。陽が落ちかけていた。
 バスの中は空席が目立ち、最後部の座席を三人で確保するのも容易だった。出発時刻が訪れ、バスが発車する。速度がつき、バスが進むにつれ、高架だったハイウェイが下降し、平坦な大地の先へと伸びていた。
 フロリダへの直行便はない。都市から都市へとハイウェイバスを乗り継ぎ、アメリカ大陸をほぼ横断する形となる。
 小刻みに揺れるバスの振動に身を任せていると、肩に感触があった。見ると、眼を閉じた幸子が龍の肩に頭を寄せ、寝息を立てていた。視線を移すと、こちらの様子を見たセツコが微笑み、ぽつりといった。
「のんびりいきましょ」
 笑みを浮かべたまま、セツコが車窓の外へ眼を移す。セツコの視線を追った。バスはすでに街を離れ、ただひたすらに大地が広がり、地平線にまでハイウェイが伸びている。その地平線に、陽が落ちてゆくところだった。
 払拭できずにいた不安は、すでにない。どこまでも、どこへでもいける。そんな気がした。のんびり、どこまでも。セツコがハイウェイバスを選んだ理由が、理解できた。
 世界は広く、未来は遠い。

66

 店のある四階でエレベーターが停止し、扉が開く。ほの暗い店内が、萌奈の視界に入った。いらっしゃいませ、という男の声がする。南青山、午後九時前。声は店主のそれだ。『M』という名のBARだった。過去に訪れたことはない。背後でエレベーターの扉が閉まり、萌奈は店内へと歩いた。
 指定された時刻にはまだ間があり、萌奈は早く到着したつもりだったが、田端はすでにカウンターで何かを飲んでいた。他に客の姿はない。田端の背が近づき、店主が視線で席を勧めてくる。独りで営っている店らしい。スタッフらしき者の姿もなく、BGMも流れていなかった。
「おう、早かったなぁ」
 萌奈がスツールに掛けると、田端が半身を向け、いった。まだ早い時間だ。週末ではなかったが、他に客がいないのはなぜなのか。ただ単に流行っていないだけなのか、それとも、萌奈を口説くため、田端が借り切ったのか。店主は顎に黒い髭を生やした怪しげな四十男だった。共謀でもされれば、飲み物に何か眠剤でも入れられかねない、などと、ネガティブな想像が膨らんでゆく。ビルの外に出れば、狭い通りを一本隔てた辺りにラブホテルがある。乱暴で、汚く、姑息で、それこそ眠剤を飲ませるといった鬼畜のようなことは流石にしないだろうが、田端がこの夜この店に、萌奈を抱くために来ていることは確かなことのように思えた。
「なんか飲みや、萌奈ちゃん」
 田端がカウンターの上で握っているのは、ビールの注がれたグラスだった。少し視線を巡らせたが、メニューらしき物はない。カウンターの内側で店主が動き、寄ってくる。註文を取る気だ。
 干されるのは恐ろしい。だが、体を差し出してまで得るべき仕事とは、一体どんな仕事だろう。嫌われ、それが周囲に伝わり、あらゆる関係者から邪険に扱われ、仕事は減るだろうか。好意を寄せているのでもない有力者に抱かれてまで、この仕事を続けたいという気持ちが、自分にあるだろうか。
 この世界から、去りたくはない。踏ん張りどころだった。誰かに抱かれることもある、と忠告を受けた上で、この仕事を続けている。
 自宅のマンションを出たときは、きっぱりと断る気でいた。嫌です、と、毅然といってのけるつもりだったのだ。ところがどうだ、乗り込んだタクシーが店のあるビルへと近づくにつれ、固めたはずの決意が揺らぎ、今はもう、流れに身を任せる形でこのままホテルに連れ込まれそうなほど気が滅入っている。いっそ、その方が楽かも知れない。いわれるがままシャワーを浴び、ベッドの上で眼を閉じ、事が終わるのを黙って待てば、それでいいという気さえしてくる。
「萌奈ちゃん」
 田端が呼ぶ。声には明瞭さがあった。以前と違い、酔っている風ではない。振り向き、萌奈は田端と視線を合わせた。田端は眼を細めているのでもなく、鼻の下を伸ばしているのでもなかった。
「返事、聞くわ」
 関西弁で田端が促してくる。自宅でのシミュレーションが甦ってきた。試されている、という気がしてくる、断ろう。きっぱりと、断固として拒否しよう。そんな気持ちが、ようやく戻ってきた。
「田端さん、あたしを抱きたい、ですか」
 訊くと、田端は眼を逸らし、黙った。肯定も否定もしない。今だ。田端が言葉を発する前に、考えの全てを伝えてしまおう。
「考えましたけど、あたし、やっぱりイヤです」
 勢いに任せ、萌奈はいった
「それに、そんな風にして女の子とするの、卑怯です」
 取り出した財布から紙幣を一枚抜き、カウンターに置いた。チャージのつもりだった。
「女の人としたいんだったら、一人の男として、ちゃんと口説いてください。持ってる力を利用して女の子としようなんて、間違ってます」
 席を立ち、萌奈は思い出した。
「あと、これ、お返ししておきますね」
 チャージの隣に、受け取っていた名刺を置いた。財布を収め、歩き出す。そして、いい残した。
「それに、あたし、おじさんって嫌いじゃないですよ」
 アフターフォローというのではないが、含みを残すいい方をしたつもりだ。悪い気はしないだろう。歩を進める。
「ちょっと待ちや」
 田端の声に、背筋が凍る。足が止まっていた。
 何をいわれるのか。威しでもするのだろうか。息を吸い、再び歩き出そうとした。
「待ていうとるがな」
 尖った口調ではない。むしろ、その声は柔らかな響きを伴い、つい今しがた凍りついた萌奈の背を氷解させた。自然に、足が止まる。
「これ、持っていき。女に金なんて出されへん。ワシが呼び出したんやから」
 カウンターの上で、紙幣がいき先を失っていた。それを田端が摑み、差し出してくる。萌奈は腕を伸ばし、手が微かに震えたが、恐るおそるながらも、受け取った。
「萌奈ちゃん、キミ、いい女になるで」
 言葉を切り、もういきや、と田端がいう。その言葉に従い、萌奈は歩き、エレベーターの下降ボタンを押した。箱は移動していなかったらしく、すぐに扉が開き、萌奈は乗り込んだ。
 田端がこちらに視線を向け、また腕を伸ばす。そして、サムズアップして見せた。
 扉が閉まるよりも早く、萌奈の口から安堵の息が漏れる。田端の表情は穏やかだ。暗がりの中でも、それがわかる。
 やがて扉が閉まり、田端の姿が萌奈の視界から、消えた。



                              (了)



                   四百字詰原稿用紙換算四五五枚










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