『いじめ』と『キモい』の根源について

0.はじめに

これからの話は、私が体験した『いじめ』のようなものについて体験と推察をしていますが、いじめは悪口から暴力、恥辱まで様々です。僕は、犯罪に抵触するいじめは『犯罪』と認識しています。そのような、過度ないじめは『いじめ』という言葉でくくるべきでないと考えているからです。個人の一意見ですのでよろしくお願いします。

1.『キモい』と『いじめ』のメカニズム

「キモい」がいじめっ子と差別主義者の口グセになった「根深い原因」

https://gendai.media/articles/-/70639?page=1

これを見た時、久しぶりに吐き気がした。胸が苦しくなった。なぜなら、このような『いじめ』と思わしきプロセスは僕が小学校に受けたものと酷く似ていて、随分忘れていたそのことを思い出したからだ。
この記事曰く、人は『キモい』という感情を進化に従って備えた。そして、そういった『嫌悪感』『生理的に無理』『キモい』といった感情によって、自身の健康と生殖能力を守ってきた。そして現在、その感情の免疫ともいえる『キモい』が『行動免疫システム』、つまり『キモい』人が自分に近づいたら離れる、もしくは警告を発する心理的アラームとして機能しており、それが『いじめ』として顕在化しているということらしい。なので、僕らは『キモい』と思ったモノには、それこそ生理的に体がそれを拒否してそれに適った行動をするらしい。
僕はそのことについて確かに思い当たる節があった。僕は多分昔、鼻を穿って食べたりする癖があった。今は食べるどころか、鼻をほじるなんて少なくとも人前や人が周りにいる環境では絶対しないが、当時一回だけそれがクラスの女子生徒Aに見られて、それが広まってしまった。そして、それからというもの、『〇〇菌!!』『〇〇菌くっついた!』『触らないで!』『キモい!!』がクラスの女子生徒達に毎日言われ続けた。それは僕が小6の半年間続いた。

2.このメカニズムについて思うこと

僕はこのことで恨みがあって吐き気がしたという訳ではない。これは生理的にみれば人間として自然であることだし、このことによって僕は人前でみんなが言うような『キモい』ことはなるべくしないように、と心がけるきっかけに繋がった。
ただこれに僕が二つ思うことがあって、一つ目はこれが当たり前のことだと科学的に認めてしまうことだった。それは自分の感情にもどこかにあることを認めざるを得ない。僕は、人と話しててこいつとはそりが合わない、絶対に対立してしまうと思うと喋ることを避ける。なんなら、なるべく否定したいと思ってしまう。なので、僕もそれをしてしまう可能性があるかもしれないということが怖いのだ。(今のところ僕は一人の時間が多いし、同じく群れたりしないような親友が数人いるだけなので、今はその可能性は低いと思う)。
二つ目は、僕自身がデザインを学んでいる学生として、合理的なこのシステムに納得感を覚えたことだった。確かに疾病回避の目的としてこのような機能を人間が備えるのが極めて合理的であるし、綺麗なものが残り、汚いものは淘汰されるのはデザイン的な美しさとしてもいいとは思う。ただ、僕はどちらかというと外見的に美しくないが心が美しい友達が多かったので、そんな話してもいないのに見た目や動きで判断するのはいかがなものかと思ってしまう。
僕ら人類は『キモい』という感情を備えることで、自分や種を守ってきたのかもしれないが、その感情がまたらい病患者、えたひにんなどから僕のようないじめのようなものにいたるまで差別を繰り返してきたのも確かである。僕らはその『キモい』という感情をしっかりと理解して、時には押し込んだり、理性をもって行動することをなるべく齢の早い内から学ぶ必要がある。

3.最近話題となった『キモい』漫画

また最近、ネットで話題にあがっているものとして『出席番号15番、カワムロゲンキ』という漫画がある。これはいわゆる『キモい』人として描かれる主人公ゲンキが、優しいとされる女の子ユズのことを好きになり彼女にすることがきっかけでユズの精神状態が悪くなっていくという漫画である。この物語を先ほどの話と絡めて話すと『キモい』男の子ゲンキがいじめられているのを不憫に思う。優しくしたりゲンキからの要求をなるべく飲むユズだが、ユズの行きすぎた利他精神により、自分の気持ちを蔑ろにしてしまい自分が不幸に陥ってしまう。要はユズの自業自得話である。勿論、カワムロはユズの気持ちを考えず自分が優越感に浸るためにユズを利用するクズであるのは間違いないが、彼もまた社会に『キモい』認定され差別される人間の一人(その差別が真っ当かどうかなんてのはわからない)でもあるため、なんとも言えない。
ただ、この作品は僕が先ほど話したことのアンチテーゼともいう話で間違いないため、私はこの作品のメッセージは受け取りたくない。なぜなら、この作品で伝えたいことは間違いなく、『キモい』やつに優しくしたらつけ上がって優しくしたほうが不幸になるからやめた方がいいという『キモい』やつ排除システムを助長する話であるからだ。僕は、やはり人は見た目じゃないと信じたいし、実際そう思っている。なのに、キモい顔のキモい奴が関わった人を不幸にするなんて見てられない。酷い話だ。ただ、現実はそんなことばっかりでもある。だから、そうではないというメッセージを伝えていく必要があるのではないかと思っている。

4.最後に

僕は別にいじめを擁護も批判もしない。いじめる人間もいじめられる人間もそれ相応の人間だ。直すべきところを直して貰わないと誰かが被害を被る。(因みに妬みや嫉妬で起こるいじめは、いじめた側が100%悪い。恵まれたやつには鼻を明かしたい気持ちもわかるが、それはいじめて果たすもんじゃない)どっちも悪いとかじゃなくて起こってしまうこともあるといいたいのだ。ただ、みんなこの世界のどこかに居場所があることをわかってほしい。確かにユズみたいな優しい人もいるし、一人で困ったら自室や保健室に逃げればいい。僕の場合は、女の子達の目の前で泣いてしまったらピタッと止んでしまったので、恥を捨ててそんなこともやってみるのもありかも知れない。『キモい』なんて人の尺度によっても全然違うし、学校が全てでもない。みんなが気持ちいい人達と気持ちいい空間で過ごせれば、も叶わぬ願いながら思う。

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