知るということ。

昨今は様々な情報に溢れている。スーパー情報社会だ。誰もがなんらかの情報を得るために一喜一憂したり、自分の時間やお金を投資する。そして人生のステージが上がるほど、人は成熟していくほど、知識も理解できることも増えていく。じゃあ、なぜそんなにみんな知りたがるのか。そんなに知識や情報を求めるのか。私利私欲のためか。生きてく上で研究したいものでもあるのか。
 『ただ幸せに生きたい』じゃあ、あんまり色んなことを知らずに死んでいった方が楽かもしれない。疑問は疑問を生み、堂々巡りを繰り返したり、行ったり来たりをしながら眠れない苦しい夜なんて過ごしたくない。知りたくない真実を知ってしまったときには傷ついたり、恨んだり、なぜか自分のせいでもないのに自分のことが嫌になったりする。知らない方が良かったのかも知れない。理解したくなんてなかったかもしれない。でも例えばそんな無垢な子供の恋心のようなものだけで生きてしまえば自分は満足かもしれないが、大切な誰かを傷つけるかもしれない。
 それは僕の生来の感性によく似ている。僕は、昔から色んなことを知ることが好きだった。それは今も同じで、そのおかげで色んなことが知りたい癖に友達はそんなにいない。会話も長かったり、短かったり、身勝手だ。母親には何でも質問して苦労をかけてきた。僕は知らなきゃよかったとは思いたくないが、色んなことを知ろうとする感性は早くにポキっと折っておいた方が良かったんじゃないかと思う。その方が行動にも移しやすいし、面倒くさく、迷惑をかける人間にならない。心も腐心したりせず、健康だ。どうなのだろう。なんだか、どっちにも寄りたくない。最終的にはバランスよく生きたいなという言葉上の"逃げ道"を心の中に用意しているのが私の悪いところだ。でも、それでいいのかもしれない。それでいいんだ。知ってもいつでも忘れられるような人間になりたい。何でも知ってるのに、何も知らないように動けるような、木にも葦にもなれる人間になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?