娘とぬいぐるみ
畑のトウモロコシの様子を見に行くというと、娘が後を追ってきた。台風が過ぎた後に被害を確認するためだけの用事だったが、娘にとってはいつものように畑の中を走り回れる遊びと思ったのだろう。酷い嵐だったので、土が泥濘んで泥だらけになることを覚悟するように伝えると、長靴とぬいぐるみを手に取っていた。最近は肌見離さずこのぬいぐるみを持ち歩いている。生まれたときに妻がプレゼントした可愛らしい猫のものだ。
「ぬいぐるみが汚れるから置いていったら?」
「一緒に遊びたいから」
「遊びじゃなくて、トウモロコシが元気かどうか見に行くだけだよ」
「この子も見たいって」
娘の言葉に小さく溜息をついた。
「わかった。ちゃんとぬいぐるみを持っていてね」
雨具を被り娘と手を繋いで家を出た。雨はだいぶ弱まっていた。一時間もすれば、青空が戻って来るかもしれない。アスファルトから湯気が立ち込め、七月独特のにおいを漂わせていた。陽が射してくれば、夏の午後に相応しい暑さになるだろう。帰りは寄り道して、少しだけ公園で遊ぼうか。そんなことを考えながら歩いていた。
道端の朝顔が太陽を待つように静かに咲いていた。強風の中にも耐えながら、生き生きと鮮やかに花をつけているのが、印象的だった。
知り合いの家、──畑を貸してくれたN夫妻の家の前を通ると、娘を呼ぶ声が聞こえた。
「みいなちゃん、おでかけ?」
奥さんは笑顔で手を降っていた。障子を開け、掃除機をかけていた。
「もうすぐ四歳になるのね。本当におおきくなって」
娘は少し照れたように俯きながら指を四本出していた。
「これから畑に行くの」
ぬいぐるみを撫でながら小さく答えた。
「凄い台風でしたが、大丈夫でしたか?」
「ええ、うちは何ともなかったわ。畑のトウモロコシもきっと大丈夫よ。後でうちに寄っていってね。スイカ冷やしてあるのよ。みいなちゃんの好きな麦茶もあるから」
「すみません、いつも。ありがとうございます」
「ありがとうございます。ばいばい」
奥さんに手を振りながら、まだ恥ずかしいらしく、そそくさと歩き出していた。水溜りをわざと長靴で踏みつけながら、スイカ、と声に出して、楽しそうにしている。
もうすぐ四歳、──ほんとうに成長が早い。歩きだすのは少し遅かった。喋るのも遅れていた。しかし、今はそれを取り戻すように毎日を過ごしている。段々と妻に似てきている顔はとても微笑ましい。
畑が見えてきた。緑の茎が曲がることなく、しっかりと背筋を伸ばしているのが確認できる。どうやら台風にも負けず無事だったらしい。畑に入ると、土の柔らかさで足を取られそうになる。小さな畑とはいえ、雨水が引くのに数日は必要そうだ。水はけがあまり良くない畑だったが、作物は去年と同じく頑丈に育ってくれていた。
「雨、やんだみたいだよ」
娘に言われて空を見上げると、黒い雨雲は遠くに流れていた。
「ほんとうだ。蒸し暑くなりそうだね」
「雨の後だから虹がみえるかな」
ぬいぐるみに話しかけながら、娘はトウモロコシを食べさせてあげたいらしく、懸命に背を伸ばし、果実を取ろうとしている。緑の外皮に雨を滴らせている姿は、今年も変わらず、みずみずしい。Nさんの言う通り、畑には大きな被害はなかった。
「届かない」
まだ娘の背丈では果実まで手が届かず、背中が悔しそうに感じられた。
「来週、また来よう。その時に獲れるから」
「うん、来週になったら、背が届くようになる?」
可愛らしい願望を口にした娘の頭を撫でながら、また手を繋ぎ、畑を後にした。
「ママにね」
雨具のフードを外し、娘がこちらを見た。
「ママにトウモロコシ食べさせてあげたい。甘くて美味しいトウモロコシ。早く元気になってほしいから」
娘の言葉は、台風にも負けなかった道端の朝顔、畑のトウモロコシの凛とした姿を思い起こさせた。雨の後、太陽の陽射しを受けて、更に強く育つ植物の姿を。
「きっと大丈夫だよ。もうすぐママは退院できる」
長い闘病生活も必ず無事に終わる──。
「公園で遊んでから帰る?Nさんの家にお邪魔してスイカをごちそうになる?」
「少し公園で遊んで、その後スイカ食べたいな」
「そうだね。そうしよう」
すっきりと晴れた空はまだ秋の気配には遠く、どこまでも青く広がっていた。傍らの樹から蝉が鳴きだした。蝉もまた、陽射しを待ち焦がれていたようだ。
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