死の前に

「……希死念慮が強いと?」
「どうですかね。自分でも判りませんが、死を望んでいるというより、死ななければならない、そんな考えがあります」
 僕は自分の頭が通り抜けるほどの輪を作った縄をクローゼットのパイプに掛け、白い壁紙の継ぎ目を凝視する。頭の中の聖職者と会話を始めていた。
「それは、あなたの罪の意識のために?」
「多分そうでしょう。勿論罪のあるものは僕だけじゃない」
「私もそう思います。なにも悪いのはあなただけではないでしょう。そのことはだいぶ以前にもお伝えしましたが」
「最期になって罪を告白したところで、何にもならない。だから僕は何も遺さないつもりです」
「何も遺さない覚悟は大いに結構ですが、ではなぜ私を呼んだのですか?」
「罪の告白こそ出来ないが、しかし最期ぐらいは誰かと話をしてみたかったんですよ」
 僕がここまで話すと彼は消える。消えたあとにはいつか診てもらっていた医者に会う。診察室はいつも殺風景である。が、薬品の匂いに混ざり、どこか安心させる臭気もある。
「大体にして、僕は随分と嫌われ者でした。死んだところで少しも誰も興味は持たないでしょう」
「私は医師である以上、話に耳を傾けなければならない義務を持っている。しかし、それは相手が"私の"患者である場合に限る。あなたの身体には何の異常も認められない。ごく健康体だ。心理的な疾患については、何度も言うように、然るべき医師にかかりなさい」
 僕は居たたまれなく、目を閉じ医者を忽ち消してしまうと、或る作家に会う。蔵書はまた前回ここへ来たときよりも増えている。茶色の革張りのイスの音にはいつも緊張感を感じる。インクの香りには学生時代の、──人並みの夢を見ていた頃の僕自身が溶け込むようである。
「先生、あなたの作品は僕の人生にも」
 作家は何も答えず厳しい顔のままペンを止めない。
「僕はあなたの愛読者で」
「君には用はないのだ。私は生憎とばかり忙しい。その上忙しい中にも幸せを感じている。家族もいる、僅かなりとも収入もある。それともなにか、君の人生が私の作品に相応しい題材を持っているとでも?第一、君の人生の経験なんぞ、──」
 この作家は芸術の中にも、地に足のついた生活を持っている。生活の中から芸術は生まれないとも、かつて書いている。
 僕は気が変わり、作家にこういう僕のあらゆる罪を伝える。
「君は私にそれを伝え、少しは赦されるとでも思ったのか。君は他人と違って実りある不道徳を学んだと言いたいのか?莫迦だなあ、君は今、私の愛読者ではないとはっきり私に伝えたも同然だ。私は君のなんでもない。これ以上話すこともない」
 こうして頭の中の会話は消える。準備は整っている。あとは機会さえあれば善い。誰かが強く僕の背中を押してくれれば。
 掛けた縄がいつまでも首の前に揺れている。


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