短編小説『脳筋巡査飛鳥山』

新宿区蠣山町という土地は、江戸時代でいうと、高遠藩内藤家の下屋敷の東の外れにあたる。
蠣山町の立地は、高台である。
土地の伝説では、内藤家の膳で好まれた蠣の殻がこの場所に捨てられて積り、山になったと伝わる。
もしくは、内藤氏が来るずっと以前、鎌倉の頃から柿の木が生い茂る山だった、という異説も。
いずれにしろ、内藤新宿の宿場が開設されて後は、宿場の東側と江戸市中とを繋ぐ要所として、高台の上に木戸と番小屋とが置かれた。
現代に至り、ちょうどその番小屋があった跡地に、蠣山町交番が出来ている。
蠣山町は甲州街道沿いの傾斜地に一戸建て住宅が並び、昼間は落ち着いた雰囲気だが、新宿区が擁する都内随一の繁華街から、近い。
犯罪組織絡みの凶悪犯罪が飛び火してくることも、稀ではない。
そんな土地柄にあって、蠣山町交番に勤務する飛鳥山あすかやま巡査も、当然、気を抜いていた訳では無かった。

目の前で、先輩の大河内おおごうち巡査長が地面に膝を着き、そのまま地面に崩れた。

「先輩」

呼びかけようとしたが、声が出ない。
かばわなければ、と咄嗟に思った。
飛鳥山は、駆けた。
大河内を見下ろして、その男は、無表情だった。
こいつなのだ、と飛鳥山は息をのむ。
ポロシャツに短パン、ビーチサンダル。
バッグ類も、凶器になりそうな物も、何も携帯していない。
素手である。
飛鳥山は駆け込んで、倒れた先輩の体と男との間に身を割り込ませよう、とした。
男が視線を走らせた。
男の足元から、飛鳥山の顔面に何か飛んできた。
あっ、と思った瞬間、上半身が勝手にのけぞっていた。
顔面から頭部全体にかけて、感覚が消えた。
左足を背後に突っ張って、踏みとどまった。
右手を鼻にやる。
濡れていた。
手の平が真っ赤に染まる。
蹴られたのだ。
じわじわと、後から顔面全体に痛みが広がった。
鼻腔に不快感が広がり、鼻血が滴る。
手の甲で拭った。

「君、公務執行妨害だぞ」

自分で、場違いなことを言っている気がした。
蠣山町は坂に立つ住宅の間を入り組んだ路地があって、その所々に地面を平坦に開削して設けた児童公園が、いくつもある。
それらの公園は、昼間から坂と住宅の陰になって日当たりが悪い。
ことに夜間は、街灯はあっても、死角の多くて嫌な場所だ。
夜間、二人組で自転車巡回中、そんなひと気の無い公園のひとつにさしかかった。
物陰にたたずむ異相の男を、街灯が照らしていた。
麻薬取引等に関係している人物では、と大河内巡査長が見とがめたのが始まりだった。

男の視線が、飛鳥山を射た。
小柄で、飛鳥山からすると頭二つ分ほど小さい。
体格も細い。
柔道を好み、普段から鍛えている大柄な飛鳥山からすると、違和感があった。
こいつがあんなに、蹴れるわけがない、と思う。
お互いの背丈に差がある中、飛鳥山の顔面を、足の底で蹴り上げた。
その衝撃で、飛鳥山は後ろに吹っ飛ばされている。
先に先輩の大河内も、職務質問しようと歩み寄って、おそらく側頭部から同じような蹴りを食らったのだ。

「おまわりさん、強い人ね」

男が声を発した。
飛鳥山の思考が途切れた。
男の口角が上がっている。
双眸が輝いていた。
何なのだ、と飛鳥山は思う。
だが、釣り込まれて、つい彼も笑い返していた。

「おまわりさん、あなた、6人目」

男は笑い声をたてる。
こいつだ、と飛鳥山は思った。
緩みかけた表情が、引き締まった。
幕内力士、プロボクサー、暴力団員、警官、警官。
蠣山町周辺で、時期を別にして今まで5人、殺害されている。
いずれの被害者も、ここと同じような住宅地内の公園で見つかった。
死因は脳挫傷、別に全身、鞭で打たれたような打撲痕が無数にあり、また被害者たちは大柄で屈強な体格で共通していた。
同じ手口と見てよく、おそらくは目の前の男。

「君。無駄な抵抗は止めなさい」

呼びかけながら、これは相手に言い聞かせているのだ、と飛鳥山は自分に信じ込ませる。
これから自分がすることは、悪あがきなのか?
同僚も二人、やられている。
ここで自分までやられては、世界一の警察、警視庁の威信を保てない。

「いいです、おまわりさん、おいで」

男が手招きした。
享楽的な声色を投げかけてくる。
体格的にひとまわり以上大きい飛鳥山を相手にして、自分の優位を疑っていない。
わかった、と飛鳥山は飲みこんだ。
これでお互い、後には引けない。
警棒も拳銃も、こいつには使えない。
使ってしまっては、我が警視庁の敗北だ。
飛鳥山は、大きく息を吸い込む。
全身に活力が満ちた。
男に向かって踏み込んだ。
飛鳥山の右側頭部に、鞭がしなった。
衝撃。
体が反対側に、ぐらついた。
腰の力で無理やり上体を押し戻した。
両腕で頭部を守っていなければ、失神していたかもしれない。
こいつはどこからこんな、と、揺れる視界の中に小柄な相手の姿を定める。
鞭と思ったが、実感としては荒縄を高速で叩きつけられたような、の方が近い。
遅れて来る蹴りの痛みに耐えながら、そんな風に飛鳥山は思考で痛覚を紛らわせた。
左脇腹がえぐられた。
横から蹴り込むような膝蹴りだった。
腹横筋の、筋繊維と筋繊維の合間に、相手の膝蓋骨が割り込んでくるような痛みだ。
だが腹横筋の鍛え方には飛鳥山も自信がある。
内臓までは衝撃を届かせない。
相手を抱き込める位置に来ている。
両腕で掻い込むのだ。
男が鋭く息を吹き出すのがはっきり聞こえる。
飛鳥山の無防備な側頭部に、下から肘が叩きつけられる。
一発、二発、三発。
テンポよく、速い。
こめかみの表面、表皮が細かく切れた。
脳も小刻みに揺れた。
だが、それだけのものだ。
威力が殺されている。
飛鳥山は両腕で相手の痩躯を掻い込み、締め付けた。
相手が暴れる気配を見せたが、それはさせない。
相手の体の外側に踏ん張った両足で、膝を曲げて、重心を落とした。
小柄な相手の、さらに下へ。
位置を低くする。
飛鳥山の重心が、相手の重心の下に、潜り込んだ。
ぐっ、と男の喉が鳴った。
我知らず、飛鳥山は、口元に笑みを浮かべている。
嬉しかった。
男の体を地面から引き抜いた。
裏投げ。
柔道においては、そう呼ばれる。
これまで警察署内の乱取り稽古で、飛鳥山は相手を気遣って、使ったことがない。
技の受け手を後方に投げ飛ばす、危険な技なのだ。
飛鳥山は、人生で初めて、その技を解禁した。
配慮を止めた彼の手で、男の体は夜空に舞った。

傷害罪と公務執行妨害とで、男は逮捕された。
新宿署内の部署横断的な情報網が伝えるところ、男は昨今区内で勢力を伸ばす、ある国際犯罪組織の末端構成員だという見立てらしい。
いわゆる、ヒットマンが暴走した、というのが件の連続殺人事件の実際だったのだろう。
通常、進行中の捜査情報は交番勤務の巡査にまでは伝わらない。
しかし今回、被疑者逮捕の功労者として表彰された飛鳥山は、束の間の特別待遇を受けたのだった。

交番内で、飛鳥山は、感慨にふけっている。
警官2人を含む5人を殺害したあの男、日本の刑法で裁かれて、生きて刑務所から出ることはないだろう。
それはわかっているのだが、飛鳥山は、またあいつと会えないだろうか、と思った。

ああいう類の犯罪者は、みんな僕の方にまわしてもらえないだろうか。

そんな、不謹慎な願望を抱き始めている。
闘いが、心地よかったのだ。
業務中、男との命のやり取りを思い出しては、ほくそ笑む飛鳥山。
先輩の大河内巡査長が、気味悪そうに盗み見ていた。

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