「身体性の回復-リアリティの喪失にどう対処すべきか?-」

1 中島岳志さんの「秋葉原事件―加藤智大の軌跡」を読んだ。「秋葉原通り魔事件」については記憶にある方も多いのではないだろうか。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/秋葉原通り魔事件
 中島さんの本によると、加藤は幼少期の頃からの母親からの教育やそれに基因するコミュニケーション能力の著しい欠如によって、次第にリアル(現実)を建前、ネットを本音が語れる場として生きるようになったそうである。
 リアルで満たされない承認欲求をネットで満たそうとし、それにも失敗してネットにも居場所をなくした彼が、それを満たすべく「秋葉原事件」に及んだ動機については共感は出来ないが、理解は出来なくもない。
 だが、なぜ通り魔で大量殺人を犯す必要があったのだろうか?加藤は公判で「トラックで(秋葉原の)歩行者天国に突っ込もうとした時に、通行人と目が合ったので、一瞬犯行をためらった」と言う。
 この発言を読んで、加藤にとっては大量殺人という事件を起こす意思はあっても、今目の前にいる顔を持った個人を殺す意思はなかったのではないかと思った。
分かりやすく言えば、殺人の対象が抽象的な不特定多数者であれば彼の良心は痛まなかったが、個別具体的な特定の誰かを殺す事には良心の呵責を覚えたという事である。

2 この加藤の抽象的な人間一般に対する態度と具体的な個人に対する態度の落差を見て、私は次の試合を思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=le69DBh7YwY

 この高山VSドン・フライの一戦が当時(主にプロレスファンの間で)熱狂的に盛り上がったのを記憶している。
 だが、冷静に考えれば、今のMMAでこういう試合はあり得ないだろう。MMAというリアル(=ベタ)の場でプロレス的なネタのやり取り(この試合がフェイクだという意味ではない)をしてどうするのだろうか。
 当時そういう意見に対しては、「空気が読めない」とか「野暮だ」と言われていた。果たしてそうだろうか?
 加藤の話を参考にすれば、高山VSドン・フライ戦に熱狂できる人々が「空気が読めて」「粋だ」とは私にはどうしても思えない。
 そういう人々は、「高山」ないし「ドン・フライ」という名で記号化された「プロレスラー」同士の戦いだから、プロレスとしてこの試合を見ていたのではないかと思う。逆に言うと、この試合を「プロレス」ではなく、「MMA」として見ていた人は「ありえない」と感じていたのだろう。
 少し想像力を働かせてみよう。もしこの試合の当事者が「高山」「ドン・フライ」という記号ではなく、自分の知り合い同士の喧嘩であったり、自分があのリングの上に立ったとしたら、同じように熱狂できるだろうか?
 「ブレイキングダウン」もそうだが、興行側が視聴者の想像力の欠如を利用して稼ぐのは仕方がないが、ああいうバイオレンスを楽しめるというのは、自分があの場に立つ危険がなく、抽象的な人間同士の戦いだからである。私から見ればああいうイベントは「人間闘鶏」と変わらないように見えるのだが、どうしてこうした想像力が欠けた人々が多くなってしまったのかを考えると、今の社会から身体性が失われてしまっている事がひとつの大きな要因だと思う。
 身体性を欠いたネタを消費するのではなく、ベタつまりリアルへの回帰が今の社会に必要だと思う。具体的には(同じような事を何度も書いているが)、やはり武術でもスポーツでもなんでもいい自分の身体を動かして、頭ではなく身体で考えるような機会を設ける必要があると思う。
 加藤はリアルを建前として身体性を喪失してしまったがゆえにネットにのめり込み、そこでも挫折して、「秋葉原事件」を起こす事で無意識に身体性を回復しようとしたのかもしれない。
 スポーツでも武術でも(農業でも釣りでも)いいから、リアルと触れ合って身体性を回復し、他者との繋がりを持つことが出来れば、加藤のような悲劇は生まれないと思う。

3 中島さんの本を読んでもう一つ思ったのが、昨今流行りの「親ガチャ」という言葉である。この言葉は一定程度真実を含んでいると思う。
 新自由主義・グローバリズムの拡大と共に、社会に(もう言葉としては古いが)「勝ち組」と「負け組」が発生し、両者の格差は拡大する一方である。
 この傾向と機を一にするようにして、「自己責任」なる言葉が日本でも広く使われるようになった。曰く「成功するには努力が必要だ。成功しないのはお前の努力が足りないからだ」と。
 しかし、「負け組」と言われる人々が生じたのは私には社会的要因によるものとしか思えない。サンデル教授の「実力も運のうち」(注1)を読めば、アメリカでは日本よりもっと格差の拡大による社会の分断が深刻で、「アメリカンドリーム」は昔のように実現可能な夢ではなく、今や白昼夢になりつつある事が分かる。
 例えば、「よい大学に入り、よい企業に入って、高い社会的地位と収入を得る」という一つの成功モデルを考えてみよう。「よい大学」に入るためには、「よい高校に(場合によっては「中学に」)」入る必要があるが、そのためには親の教育投資やサポートが不可欠である。
 そもそもそういう教育投資やサポートをする余力がある親を持てるかどうかは一種の「ガチャ」と言っても差し支えないと思う。
 難しいのは、そういうメリトクラシー(能力主義)の中で成功するためには、成功するために当人の努力も要求されるので、成功した本人は自ずと能力主義の信奉者になり易いという点である。
 彼は確かに自分の努力のかいあって社会的に成功した。成功した自分を否定するような「いや、それは貴方がたまたま親に恵まれたからだ」という他者からの非難に対して、「お前は努力が足りないから成功できないんだ」と反発する感情は良く分かる。
 だが、社会的に成功するために「どうやって、何を努力したらいいのか?」分からない人々に対して、「負け組」として自己責任を問うのは間違っている。そもそも競争に際して「勝ち組」と同じスタートラインに立っていなかったのだから、正しくは結果責任と言うべきだろう。
 「勝ち組」もちょっとしたはずみで「負け組」にいつ転じるか分からないのが今の世の中である。そうなった時に間違いを起こさないためにも、個々人が身体性を回復するための努力をする必要があるのではないだろうか。結果的にそれが評価の複線化をもたらし、「勝ち組」「負け組」という単純な2分法の社会から脱出するきっかけになるのではないかと私は考えている。

注1)https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014804/pc_detail/

 

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