ニュー・ノーマル

1 先日コロナワクチンの5回目の接種を済ませてきた。
 当日予約した病院に赴くと、待合室にいるのは私の親と同世代かそれより少し年下の人ばかりで、私と同じ40代の人は誰もいなかった。
 ワクチン接種は義務ではないし、行動制限も解除されて久しいから、私と同世代の人がいない待合室を見ていると、「コロナ禍も今やすっかり昔の話になってしまったなぁ」と思う。
 接種自体は滞りなく終わり、翌日も過去4回の接種とは異なり、発熱もなく、多少の関節痛と倦怠感があるだけで、「二日も稽古を休むのは勿体ない!」等と思って、その晩稽古に行ったのがいけなかった(のかどうか、医学的な因果関係は不明である)。
 ムービングや基本ドリルをこなして、スパーを軽く3本こなしただけだったが、翌日は気分が悪い。他にこれと言った原因が見当たらないので、ワクチンの副反応が残っている状態で動いたのが良くなかったのかもしれない。
 幸いそれから2日大人しくしていたら、体調は元に戻ったから「ワクチンなんか打たなければ良かった」とは思わないが、今後新型コロナウィルスを巡る状況が劇的に悪化しない限り、6回目の接種をする事はないだろう。

2 わずか2、3年前の話であるにも関わらず、コロナ禍の日々は今振り返っても異常な出来事の連続だった。異常事態が日常という極限状態にあった(しかも、終わりは見えていなかった)せいか、色々と「人間」という存在について考えさせられる機会が多かった。

 例えば、私の郷里は(岩手県ほどではなかったが)コロナの感染者が長いこと0だったせいか、県内初の感染者が出たときは、感染者の氏名住所等の個人情報がネットに晒され、その親族の方は自責の念から自殺したという話を聞いている。
 感染症、特に空気感染する新型コロナウィルスの場合、遅かれ早かれ日本全国どこでも感染者が出るのは少し考えれば誰でも予測出来そうなものだし、誰が感染したところでそれに罪はないだろう。
 仮に、その感染者に感染リスクを高めるような行動があり、責められるべき点があったとしても、その責めは当の本人が負うべきであって、彼(ないし彼女)とは全くの別人格であるその親族が自殺してまで償うべき罪を負っているわけでは全くない。
 親が殺人者だからといって、子がその殺人の罪を償うべきという事にはならないのと同じ理屈である。

 また、私はコロナ禍においてもずっと柔術の稽古を続けていたのだが、道場に見知らぬオジサンがやってきて、「何だ子供もいるのか・・・」と言って舌打ちして帰って行ったのを覚えている。
 「自粛警察」の一味だと思うのだが、彼は「営業自粛」をしていなかったウチの道場だけでなく、飲食店等も見回って一々舌打ちしていたのかもしれない。
 「自粛警察」を以って自らの職責(ボランティアだが)と任じて、夜回りをかかさなかった人々を見ていると、「そんなにコロナに感染したくないと思っているのなら、クラスターになりそうな所に重点的に立ち寄って、自分の身体を感染の高リスクに晒すのは、その思考と行動が矛盾していないか?」と言いたくもなったのだが、小心者の私は彼らに対して何も言わずに口をつぐんでいた。
(「道場に子供がいれば稽古してもお咎めなし」という彼の考え方も私には理解不能である。「子供がコロナに罹患したらどうする!」と言って怒り出すならまだ納得がいくが・・・)

 国からも「行動制限」は出されていたが、その違反に対して(飲食店等を除き)制裁は無きに等しく、最終的にその遵守は各人の主体性に委ねられていたように記憶している。
 だが、当時の日本では「行動制限に違反した者は社会的にリンチされる」という「行動制限違反罪」とでも呼ぶべき規範が、法律の外で成立していたように思う。
 国や地方公共団体といった公的な存在ではなく、私人の集合である社会が主体となって自然発生的に「行動制限違反罪」を制定し、その執行のために(先にも触れたような)「ネットパトロール」や「自粛警察」が登場したことを以って、「日本人は同調圧力が非常に強い」「空気による支配」等々の言説が当時の各種媒体にも登場していた。

3 さて、そうした「同調圧力」や「空気による支配」の元ネタとなったのが山本七平の『「空気」の研究』だと最近知ったので、接種後の副反応(?)で稽古に行けない時間を利用してこれを読んでみた。
 日本人のメンタリティについて、山本が説明している所は面白い(=今後も山本の『「空気」の研究』を翻案した言説は繰り返し出てくるだろう)と思ったので、そのポイントとなる箇所を備忘のためにここでも紹介しておこう。

「以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断力の基準」である、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明する事ができないから「空気」と呼ばれているのだから。したがってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。」(山本七平『「空気」の研究』文春文庫23頁より引用)

 コロナ禍の「行動制限」は、山本が「空気が(反対を)許さない」例として挙げた戦艦大和の沖縄特攻や日米開戦の決断(これらはいずれもデータに基づく論理的判断からは、誤りという解になる)等と異なり、当時の医学的知見に照らせばおそらくそれなりに合理的だったはずである。
 ただ、この「行動制限」という規範の順守を各人の主体的な判断に委ねた点が不味かったと思う。
 個人の行動の自由の確保とコロナの感染拡大防止の調和を図ろうとした結果が「行動制限」というなんとも中途半端な落とし所となったわけであるが、違反事項もこれに対応する罰則も定められなかった結果として、行政ではなくコロナ禍で鬱屈した私人達の集合体からなる社会が「行動制限違反罪」で「空気を読まない」人々を取り締まろうとする事態が各地で続発する結果となってしまったのだろう。

 こうした「空気」を活用した支配ないし統治というのが可能なのは日本だけなのかもしれない。コロナの発生源とされた国では、長らく「ゼロコロナ政策」が採用されていたが、それに反発する人民達のデモが相次ぐと、いつの間にか「ゼロコロナ政策」は放棄され、国中に感染者が蔓延しても今日ではその報道すらなされていない。
 アメリカの一部都市やフランスのように「ロックダウン」が採用された国でも、感染症対策として「ロックダウン」という手法が十分な効果を上げたのかはよく分からない。

 もし仮に日本が本当に「空気に支配」された社会であるならば、国家としてはある施策を行うに当たって、(コロナ過での「行動制限」のように)その施策に反対する事を許さない「空気」を醸成し、その遂行を社会による私的執行に委ねることで、統治目標を非常に安上がりに達成する事が出来るだろうと思った。
 ただし、そうした「空気による支配」が成り立つための不可欠の要件は、国民が論理的判断がまともに行えないような極限状態にあることである。今コロナ禍が昔日のモノとなって、人々が正常な論理的判断が行えるような日が再来したことを素直に喜ぶべきかもしれない。

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