感覚と理合

1 古流を稽古していた頃に、先師から「(型)柔術は合気習得のためにある」「皮膚感覚を磨くことをしなければ、型を何万遍稽古しても合気習得は不可能だ」と繰り返し言われた。
 古流柔術の「型」は、その理合を徹頭徹尾ロジックで説明することが出来る。これに対して、「合気」については、「相手の神経系に働きかけて、その意識無意識を操作して技を掛ける技法」という定義を与えることは出来ても、個々の「合気」技についてロジックで説明するのはほとんど不可能である。先師を始め、「合気」が掛かる人の手を取って技を掛けて貰い、その際に自分で感じた皮膚感覚を頼りに、自分の身体を通してその感覚を再現できるようにならなければならない。
 
 「合気」の技法の具体例として、誰でも出来る実験を紹介する。まず、パートナーと組んで、相手に自分の腕を力を抜いて掴んで貰う。そして、相手に腕を掴まれたら、掴まれた腕に力を入れてみる。そうすると、相手は無意識に力を入れて握り返そうとするはずである。逆に、相手が力を込めて自分の腕を握っている時に(自分も腕に力を入れているものとする)、自分の腕の力を抜くと(「抜き」は呼吸法をやっていないと難しいかもしれない)相手の握る力が反射的に弱まるはずである。

 感覚を頼りに地味で迂遠な稽古を続けてようやくいくばくかの「合気」技を掛けられるようになったとしても、その技の理合をシンプルな言葉でロジカルに説明できないので、門外漢の人々からは「あれはフェイクだ」と言われたり、漫画の中で過剰にファンタジックな装飾がなされて取り上げられるのも致し方がないと思っていた。

2 私がBJJを始めて、最初の2年くらいはスパーリングで先達にひたすらボコボコにされて何度も怪我をしたと以前も書いたが、当時「自分はこのままでいいのか?」と思って、先達と自分との差について考えた時に「彼ら(=先達)は色々なテクニックを知っているが、自分はテクニックを全く知らない」という事に気付き、教則を入手してテクニックの打ち込みを始めた。
 テクニックと言っても、彼らと私の間にある(柔道を始めとする)コンタクトスポーツの経験の有無や年齢やフィジカルの圧倒的な差を考えると、「サブミッション」を覚えても使う機会がないと思って、ディフェンスやエスケープの技術をいくつか仕込んでスパーに臨んだが、全く通用しない。「通用しない」と言うより、正しくは「使うチャンスが訪れない」「どのタイミングでそれを使っていいかが分からない」のである。
 昔「ストリートファイター2」という格闘ゲームを家庭用ゲーム機でプレイした事があるが、今思い返すと私は「スト2」の必殺技よろしくコマンドを入力すれば自動的に技が発動するように、BJJのテクニックを打ち込みすれば、相手のサイズやフィジカルを問わず、任意のタイミングで覚えたテクニックを使ってディフェンス・エスケープ出来ると勘違いしていた。
 実際、ウチの道場に通っている会員の中にも私と同じように・・・彼らは「スト2」をプレイした事はないだろうが・・・スパーの中で自分が置かれた状況を考えずに、無理やり相手を自分が使おうとするテクニックにはめ込もうという発想を持っている人がいる。

2 少なくとも組み技において、技というものは相手があって始めて成立する。どんな技も相手を崩し(あるいは相手が自分から動いて崩れた隙に)、まさにそのタイミングを捉えて、正しく技を掛けなければ、技は掛からない。
 これを先述した古流の話に引き付けて述べると、相手を崩す(あるいは、相手が崩れる)、そのタイミングを逃さずに、という技の前段部分は自分の感覚で捉えなければならない。それは他人がロジックで教えられない部分である。これに対して、正しい理合で技を掛けるという後段部分は、ロジックで説明できるので、他人が教えることの可能なパートである。逆に言うと、技は他人から習う事の出来る部分と自分の感覚を磨いて自分で会得しなければならない部分から成り立っていることに気付いたのは私も最近である。
 YOUTUBEでテクニックを覚えようとする人は多いが、彼らは技の後段部分、つまり、ロジカルに説明出来る部分だけを覚える事は出来るが、それをスパーリングや試合の中で実践しようとする際に、技の前段部分、つまり自分の感覚を磨くことの必要性に気付いていなければ(必ずしも感覚を研ぎ澄ます事の重要性に自覚的である必要はなく、文字通り「センスがある」人は、崩しやタイミングについて、感覚的に分かっている人もいる)、いつまで経ってもYOUTUBEで見た技が「使えない」と言って、テクニックからテクニックへと渡り歩いていくのだろう(そうした現象を指して「テクニック病」と呼ぶ人もいる)。
 技は言語化・可視化できる「理合」と言語化が困難で不可視な「感覚」の二つで成り立っているという点に気付いた時に私は「テクニック病」から脱することが出来たように思う。
 誤解のないように付言しておくと、技の後段部分にあたる「崩し(崩れ)」や「タイミング」は、個別のテクニックに対応して技の数だけ無数に存在するのではなく、「崩し」や「タイミング」は全ての技に共通した感覚だと私は考えている。
 事例二つで帰納法が成立するのだから、技は理合と感覚から成り立っているという仮説は、他の武術においても共通するのではないだろうか。古流とBJJにおける技の仕組みの共通性に気付いてから、私は「古流柔術」と「ブラジリアン柔術」という区別を止めて、自分は「柔術」を稽古していると言えるようになった。
 目に見えるロジカルな部分だけでなく、目に見えない感覚的な部分にも目を向けて稽古する価値はある。

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