プロフェッショナルとは?

1 「プロフェッショナル」という言葉を聞いて皆さんはどういうイメージを抱かれるだろうか?「プロ野球」選手や「プロゴルフ」選手のように、一般人とは異なる特別な技量を持った人の事を「プロフェッショナル」と思っている方が多いのではないだろうか。つまり、「プロフェッショナル」=専門家という理解である。
 私も学生時代は「プロフェッショナル」という言葉についてそのように考えていた。だが、ある時博識な知人が、「ある労働の対価として収入を得ている人はその労働について『プロフェッショナル』であって、彼の労働について専門的な技量や知識を有している必要はない」と教えてくれた。
 平たく言えば、その活動の対価としてお金を貰っていれば、彼はその活動について「プロフェッショナル」だ、というのが元来の英語の「professional」の意味らしい。
 その意味では、私が柔術の試合に出てファイトマネーを貰えば「プロ柔術家」になるし、道場の会員に教える事で収入を得れば(レッスンプロと同じ意味で)「プロ柔術家」になる。
 その話を聞いて、英語の「professional」と日本語の「プロフェッショナル」の関係は、「vintage」と「ビンテージ」の関係に似てなくもないなと思った。
 日本語で「ビンテージ」と言うと、「ビンテージワイン」や「ビンテージジーンズ」のように「年代物」の意味で理解されているが、元来「vintage」はそのワインの生産された「ある特定の年」とか、車の「年式」くらいの意味で、その特定の年が昔である必要はない。今年作られたワインであれば、「2023年ビンテージのワイン」という事になる。
 ここまでの文章を読まれて、「コイツはスノッブで鼻持ちならない奴だ」と思われた方もいるかも知れない。
 私個人としては「プロフェッショナル」を「専門家」として、「ビンテージ」を「年代物」として理解する日本語は、カタカナ語として立派に社会に定着しているのでそれに一々目くじらを立てる必要はないと思っている。
 「プロフェッショナル」について、上述したように「お前の言葉遣いは間違っている」と指摘されて恥ずかしい思いを私はしたが、まあそれでひとつ賢くなったくらいに今は考えている。極論を言えば、所詮はトリビアであろう。

2 さて、本稿では「専門家」としての「プロフェッショナル」はどうあるべきか?というテーマについて少し考えてみたい。
 以前の話になるが、ある靴の販売店でブーツを買おうと試着した時の話である。上下のサイズどちらを選んだらいいか迷って店員に「どちらがいいですか?」と尋ねたところ、「サイズが大きい方が、足が大きく見えてカッコいいですよ」という返答だったので、耳を疑った。
 靴はまずもって歩くためのギアである。サイズが合わない靴を履き続けていれば、靴擦れ等歩行に困難を来すだけでなく、中長期的には膝を傷める原因になる。
 「カッコいい」から健康を害しても大きいサイズの靴で歩けと言うのは、ギアとしての靴の本質を理解していない。彼は「プロフェッショナル」として失格だと思ったので、その店にはそれ以降二度と行っていない。
 靴の販売業であれば、「足に合ったサイズの靴が欲しい」という客のニーズに応えられなければ、「プロフェッショナル」として失格だと思う。

 会員から月謝としてお金を取って武術を教えるというのも、「プロフェッショナル」の仕事である。「プロフェッショナル」として武術を教える場合、指導者に求められる姿勢には以下の諸要素があるだろう。
 まず、①「噓を教えない」という事である。これはある意味人間としての誠実さの表れで、他人にモノを「教える」行為に限った事ではないと思うが、実はこれが出来ない人が結構多い。
 BJJでは目に見える技術のバリエーションが異常に多く、その全てを一人のインストラクターが網羅することはほぼ不可能だろう。だから、「そのテクニックは知らない」と言われたとしても、私は「それも仕方がないよな」と思う。
 だが、古流を稽古していた頃の先達には「知らない」「分かっていない」という事が私にもハッキリ分かるのに、後輩に対して「嘘を教える」「誤魔化す」者がいた。「知らない」事を「知らない」というのは人間として誠実だと思うので、私などはそういう返答を受ければかえってその人を信用するのだが、「噓を教える」「誤魔化す」手合いはどうにも「知らない事は恥だ」と思っているらしい。
 古流の場合、乱取りやスパーリングがなく型稽古のみなので、こちらが受けを取った時に技が掛からなければ、相手がその技について「知らない」「分かっていない」事は一発で分かる。誤魔化しが効かないことくらい分かりそうなものだが、どうもそうではないらしい。
 次に、②相手のニーズに応えるという要請もある。まあ、他人にモノを「教えて」お金を取るのであれば、サービス業と同じように、情報を「教える」事と払われた月謝との間に対価関係が生じているように見えなくもない。
 実際、道場の経営は(基本的には)会員が払ってくれる月謝によって成り立っているのだから、会員のニーズに全く応えられない道場は、いずれ経営が行き詰まっていくだろう。
 さらに、③教える側がその対象に信念なり確信を持っている必要がある。抽象的な表現で分かりにくいかもしれないが、グレイシー柔術の根幹にある「セルフディフェンス」や「サバイブ」のような理念を道場主が持つべきだ、という事である。当然の事ながら、その理念は道場主の武術観に根差したものであるから、グレイシーの理念である必要は全くない。
 ②と③の関係は道場経営上悩ましいところだと思う。②会員のニーズに応えようと思っても、会員の数だけニーズがあるわけで、全ての会員のニーズに1回のクラスで応える事は実際には時間の制上困難だろう。また、BJJの場合、道場主があらゆるテクニックに精通しているわけでもないから、情報量の面からも限界がある。
 これは「学習塾」と「学校」の関係に似ている。「学習塾」であれば、テストや受験で結果を出すための指導をし、それに対して塾生はお金を払う。テストで点が取れなければ、あるいは、その「学習塾」の合格実績が低ければ、塾生はお金に見合ったサービスが得られていないとして、いつでも塾を止めてしまうだろう。
 「学校」は「学習塾」と違って、在学生がテストや受験で結果を出すため「だけ」に教育をしているのではない。私も学校では「期末テストで良い点を取る方法」を教えて貰った事がない。
 「学校」は理念的には、テストや受験で結果を出すための知識・情報を提供し、学生からそれに対して授業料を払うという、サービスとお金との対価関係が存在しない。
 武術の道場も③理念を伝える道場であれば、個別の会員のニーズに応えるべく日夜汲々とする必要は(理屈の上では)なくなる。
 前田光世に限らず、明治期に日本人の柔術家がブラジルやアメリカ、ヨーロッパに数多く渡ったが、その中でグレイシーが唯一ではないにしても、今日まで生き残ったのは、彼らが教える「セルフディフェンス」「サバイブ」という理念が時代を超えた訴求力を持っていたからだろうと思う。
 逆に言えば、グレイシー柔術がその時々の会員のニーズに応じる事に追われて、核となる理念を有していなかったなら、グレイシーと共に前田光世の名も今日に伝わわっていなかったかもしれない。
 「理念(理想)だけでは飯は食えない」という言葉は正しいと思うが、武術を教える側の方々には会員のニーズに応えるだけでなく、理念を持って教えて欲しい。おそらくそういう道場の方が10年、20年という単位で見れば生き残っていくのではないかと思う。今流行っている道場が10年後も同じ規模であり続けられるとは限らない。
 
 
 

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